小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京都交響楽団×アラン・ギルバート(3/27)

2022-03-28 08:25:07 | クラシック音楽
来日できなかったインバルの「代役」を振った先週のプロムナードコンサートに続き、予定されていたブルックナー7番を2日間指揮した都響の首席客演指揮者アラン・ギルバート。2日目のサントリーホールでのコンサートを聴いた。コンサートマスターは矢部達哉さん。
日本初演となるソルヴァルドスドッティル『メタコスモス』(2017)は、14分ほどの曲。オーケストラ全体にディストーションがかかっているような印象の曲で、弦楽器からは日本の声明(しょうみょう)のような、西洋音楽の合唱ではみられない微妙なバラつきのある「声」の重なりを感じた。異様なほどの音の密度がホールに充填し、呪術的な気配が立ち込めた。管楽器の単一の響きもマンモスの産声(?)のように不気味で、フルートは石笛を連想させ、音楽全体が基音ではなく倍音のみの「影」から出来ているような印象。打楽器がワイルドに鳴り出す件は、神社太鼓なのではないかと思った。邪なるものを祓っているような、逆に降ろしているような、両方の意味が感じられた。作曲家の覚え書きには直接記されていないが、東洋的な器楽演奏にインスパイアされている部分が多いと思われた。

前半の短い曲のあとに20分の休憩があり、後半はブルックナー『交響曲第7番(ノヴァーク版)』が演奏された。ギルバートは指揮棒なし。譜面台も譜面もなく、宇宙遊泳するようにブルックナーを歌い始めた。指揮をしているというより、歌っているような感じなのだ。第1楽章の冒頭では、これはオーソドックスなブルックナーなのかなと一瞬思った。奇異なところがなく、大きなものに抱かれているような安心感がある。おおらかで透明感があり、弦の合奏は前半とは対を成すような流麗な「詠唱」だった。どのようなリハーサルだったのだろう。指揮者が安心してオケに「心を読ませている」ような様子を想像した。
 大柄なギルバートがオケから温かい音を引き出す姿を見て、人が無心に何かを表現しているとき、顕在意識ではコントロールできない「素」が顕れるものだなと考えた。曖昧模糊とした言葉になるかも知れないが、その人が負った「魂」が見えるような気がする。指揮者がうっかり引き出してしまう音楽の邪悪さというものもあるが、ギルバートはイマジネーションを極限まで拡げても、どこまでも透明感があって善良なのだ。人は何によって善良となるか。先祖の魂によってだ。おかしなことを言っていると思われても構わない。人間はある意味受け身の存在で、膨大な先祖の魂が玉突きになって、今の自分が存在している。世俗を生きていくときに嘘をつくのも嘘がつけないのも、その行いは先祖の魂が支配している。

ブルックナーは信心深く、世事に疎いところがある人物だった。女性にもてなかった逸話も有名で、愛に傷ついていたマーラーや、愛に関しては放埓だったチャイコフスキーのことを考えながらブルックナーの7番の交響曲を聴くと、現実の女性を必要としない、根源的な女性性が既に作曲家の中に存在しているように思われる。平和さや慈愛、優しさが感じられ、それは太陽のような無条件の愛なのだ。子供が太陽の絵を描くと微笑のような目鼻をつけることが多いが、子供は直観的だから嘘を描かない。古来から人間が太陽に感じてきた「ありがたさ」で、それは一種の宗教感覚に通じると思う。
ブルックナーが背負ってきた宗教的な魂の蓄積は、彼が「今、生きて輝く」瞬間に、歌となって結実した。都響とギルバートの演奏を聴いて、ブルックナーの交響曲は歌の集積だと思った。宗教的な魂をもつ人間にとって、音楽は食べ物と同じくらい重要で、ベネディクト派の僧たちに「負担を減らすため」宗教曲を歌わせる日課を省かせたところ、みるみるうちに全員が元気をなくしていったという記録がある。オペラ歌手、声楽家の中にも宗教的な魂の履歴を持った人々がいて、その人たちがコロナ禍で歌えなくなっていることの苦しさは、命の危機に匹敵すると思う。

ギルバートのマーラーは素晴らしい。都響とも過去に名演を残したが、マーラーとはある種のフィーリング、情感を共有していて、相性がいい。ブルックナーはそれよりも宿命的な相性で、ギルバートはブルックナーの完全なる対岸にいて、鏡のように精緻に「魂のすべて」を読み取ることが出来る。譜面を読んだときに、下手にこねくり回したり深読みしたり曲解したりせず、ありのままの作曲家の精神を引き出せる相性だと思う。指揮者にも膨大な先祖がいて、その時代にそれぞれの振る舞いをして生き残ってきた。ギルバートが「今生きて、輝く」瞬間に、ブルックナーとの出会いがあったのは、ふたつの魂にとって宿命であった。

ブルックナー7番の特に1楽章と2楽章から感じられるのは、マントラ詠唱や六方拝のような習慣化された反復で、素朴であると同時に執拗な日々の行いだ。ブルックナーはキリスト者だったが、魂が覚えているのは無数の宗教で、仏教やユダヤ教やイスラム教、原始太陽崇拝も履歴としてあった。妄想といえばそうだが、音楽とはそもそも目に見えないもの、五感を超えた感覚を喚起するものではないか。客席にいる自分は、都響とギルバートが「今生きて輝いている」ことの意味が、理屈や恐れに満ちた現実だけでは消化しきれないのだった。

3楽章のスケルツォのはじまりは何度聞いても回教徒のトランスダンスを思い出す。その後に出現する雄大な光景には、巨大な太陽の光彩が感じられる。ブルックナーもまた、今生きている自分の魂がどちらの方向に玉突きされているか、不安を抱えていた。4楽章の重々しいユニゾンは、グレゴリオ聖歌を彷彿させる。カソックを着た修道士たちが唸るように合唱している。19世紀という「モダン」を生きていたブルックナーはそこに、自分の現世のリアリティを重ねてシンフォニーの曼陀羅を完成した。指揮者は、この曲のすべてをわかっている。こんこんと湧きだしてくる自然な歌には、崇高さしか感じられなかった。

先週のプロムナードコンサートでは、(恐らく)手書きのノートの譜面が置かれていて、バルトークもコダーイも、指揮者によって緻密に研究されていた痕跡があった。あちらは急な代役だったから、責任感も強かったと思う。2つのコンサートでは、ギルバートが都響に感じている故郷のような安息感、ハイレベルな友情が共通して伝わってきた。19日にはトロンボーンの小田桐寛之さん(1986年入団)が退団され、この日はチェロ奏者の松岡陽平さんとヴィオラ奏者の南山華央倫さんが退団という、立て続けのさよならコンサートだったが、全員にプレゼントを渡していたギルバートの姿も心に残った。都響の「日常」を支えていたプレイヤーを送り出す姿に、指揮者が長年オーケストラと日常をともにしていた印象さえ抱いたのである。












シュツットガルト・バレエ団の輝けるスターたち(3/19)

2022-03-21 11:58:13 | バレエ
予定されていたシュツットガルト・バレエ団のカンパニーでの来日がコロナ禍で中止となり、若手ソリストを中心としたメンバーによるガラ公演が行われた。招聘元は逆境に強く、ベジャール・バレエの来日を三度目の正直で実現したことにも感動したが、「全員がダメなら少人数で」とシュツットガルト・バレエの精鋭を集めた公演を実現したことにも驚かされた。この混沌とした時代にあって、守りに徹するのもひとつの在り方だが、なんとしてでも志を貫く逆境力には、日本の侍の精神を感じてしまう。去年の世界バレエフェスティバルも最初は賛否両論だったが、結果は大成功だった。

コロナ禍の上に、2月末にウクライナで戦争が起こってしまった。バレエダンサーは世界中に友達がいるので、精神的にこれはきつい。ロシアでボリショイからスミルノワが退団したというニュースが伝わってきたが、ロシアのダンサーはもはや西や東の感覚なく何十年もやってきたはずなのだ。時代が逆行し、銃をとって戦ったダンサーの訃報まで伝わってきた。舞台芸術はコロナ、紛争と何重もの困難と向き合っている。

最初の演目が、とてもソ連っぽい「春の水」というバレエだったので、これは鮮烈なメッセージだと思った。ボリショイ黄金期の名教師で振付家のメッセレルが振り付けた短いパ・ド・ドゥで、ラフマニノフの音楽に合わせてエリサ・バデネスとマルティ・フェルナンデス・パイシャが軽やかに踊った。バデネスが舞台に登場しただけで春が訪れたようで、ますます美しくなるバレリーナのオーラに見とれるばかりだった。

続く「ソロ」(ハンス・フォン・マーネン振付)は若い3人の男性ダンサー、ヘンリック・エリクソン、アレッサンドロ・ジャクイント、マッテオ・ミッチーニがバッハのヴァイオリンのためのパルティータに乗せて遊戯的な動きを見せ、一人が舞台上手に入ると次のダンサーが素早く下手から登場する。最初二人のダンサーが踊っているのかと錯覚したが、途中から3人であることが分かり、面白くめまぐるしい振付に笑いがこみあげた。

マクミランの「コンチェルト」を踊ったアグネス・スーとクリーメンス・フルーリッヒのペアは初めて見たが、アグネス・スーはプリンシパル。荘厳な美しさのあるダンサーで、ショスタコーヴィチのピアノ・コンチェルトに合わせてクラシックの基本のポーズを完璧に見せていく。この振付は無表情で踊るべきなのだろう。張り詰めた美しさがあった。マクミランはこういうバレエも作っていたのだ。オレンジ色の男女のコスチューム、太陽を思わせるオレンジ色の丸い照明も印象的だった。

唯一チュチュを着て現れた若手のマッケンジー・ブラウンはプリンシパルのデヴィッド・ムーアと『眠れる森の美女』のグラン・パ・ド・ドゥを踊ったが、初々しさと可愛さが全身から溢れていて好感度が高かった。見るからに緊張気味なのだが、日頃から充実したレッスンを重ねていることが伝わってくる。未知数のバレリーナで、クラシックの規律の中に温かみも感じさせ、理想のオーロラだと思わせた。性格的な魅力が凄い。2019年のローザンヌで1位とコンテンポラリー賞、観客賞を受賞している。同じ若手のガブリエル・フィゲレドと最終日に同じ演目を踊るはずだったが、フィゲレドの来日が叶わなかったためこのペアは今回観ることが出来ない。この日は先輩のデヴィッド・ムーアまで初々しい感じで、「クラシック・バレエって本当にいいですね~」と、映画解説者の水野晴郎さんのように解説したくなった。

第二部は濃厚なパ・ド・ドゥが続いた。エリサ・バデネスとデヴィッド・ムーアの『椿姫』の第2幕のパ・ド・ドゥでは、ピアニストの菊池洋子さんのショパンのソナタ3番ラルゴ楽章の演奏も素晴らしく、バデネスが完全にバレリーナとして充実期に入っていることを感じさせた。オペラ座のドロテ・ジルベールも、可愛い娘役が似合っていた時代から、突然妖艶な花を咲かせた瞬間があったが、同じものを感じる。無敵のシュツットガルト・ダンサーとしての完成形を見た。
コンテンポラリー「やすらぎの地」は、前半にも踊った準ソリストのアレッサンドロ・ジャクイントによる振付で、彼自身とヘンリック・エリクソンが踊った。前半はノイズ・ミュージックで、後半からメロディアスなギター・ポップになるのだが、思春期的な心の疼きを感じさせるダンスで、男性ダンサー二人の絡みがスリリングなほどだった。この日が世界初演の新作だったが、ジャクイントは既に7つの作品を発表している。シュツットガルトはこうした貴重な才能をもつダンサーを何人も輩出しており、カンパニーの土壌の豊かさをつくづく感じさせる。

クランコ作品は『オネーギン』の第1幕のパ・ド・ドゥで、本来ならカンパニーの公演で見られるはずだった。プリンシパルのロシア・アレマンとマルティ・フェルナンデス・パイシャが魅力的なペアだった。タチヤーナが恋文をしたためながら幻影のオネーギンと踊る場面は、何度見ても胸が高鳴る。オネーギンが鏡の世界からふらっと現れる感じは、ニジンスキーが踊る「バラの精」に似ていると気づいた。

フォーサイスの「ブレイク・ワークス1」より「プット・ザット・アウェイ・アンド・トーク・トゥ・ミー」は、クレジットをよく見ていなかったので良く出来たコンテンポラリーだと感心していたのだが、成程のフォーサイス作品だった。アグネス・スーとマッケンジー・ブラウンとマッテオ・ミッチーニの3人が優れた技術とユーモアで、難解で楽観的なダンスを披露し、特に女性ダンサー二人のシンクロする動きが、それぞれ別のメッセージを放っているのが良かった。「フォーサイスもこじれる前はいい作品を作っていたんだな」と思ったら、2016年初演で結構最近の作品だった。
マクミランの奇抜な傑作「うたかたの恋」では、いよいよフリーデマン・フォーゲルが登場。盛大な拍手が巻き起こった。このバレエは昔ロイヤル・バレエで見て、マクミランのある種の猟奇性みたいなものに震撼したのだが、それほど「病んだ」バレエを今こそ観たいという気分だった。ルドルフ公の自己矛盾、精神の痛みが凄まじい表現で、それを篭絡する若き恋人マリーを演じるバデネスの演技がさらに憑依的。言葉で多くを語るのがためらわれるほどの世界だった。昨年行った来日のためのリモート・インタビューで「ルドルフを踊り終わった後は、楽屋で崩れ落ちてしまう」とフリーデマンは語っていたが、生まれつき毒や病をもたない健全な魂にとって、きついバレエなのかも知れない。マクミランは鬼か悪魔か…しかし、シュツットガルトでどうしても全幕を観てみたいと渇望してしまった。

二度目の休憩の後、いよいよフリーデマンがメロディを踊る『ボレロ』。東京バレエ団との共演で、今まで見たことのない驚きのボレロだった。
ギエムや首藤康之さん、ニコラ・ル・リッシュや上野水香さん、柄本弾さんや、BBLの昔の海外公演ではあまりうまくないダンサーが踊るのも見てきた。最新では、ベジャール・バレエのプリンシパル、ジュアン・ファヴローが見事だった。多くの踊り手は生前のベジャールに指導を受け、振付家からダンスのエッセンスを受け継いでいる。
フリーデマンのボレロは、まずシュツットガルト・ダンサーの肉体ということを考えさせられた。皆、どんな技術的・演劇的なニーズにも応えられるよう鍛えられており、柔軟で美しい。前半のコンテンポラリーでも、シュツットガルト・バレエの充実した日常が男性ダンサーのボディを作っているという印象を得た。それはヒューマニスティックで明るいもので、ロイヤルバレエともボリショイとも異なる。

ボレロの細かい動きを、音楽と完璧にあわせて表現するフリーデマンのメロディは、途中で獣か火の龍に「変身」してしまうドンとは異なり、最後まで人間的だっだ。ジュリアン・ファヴローもそうした「削り取った」シンプルなボレロを踊るが、彼にはベジャールとのストーリーがあり、その意味で隠れた重みがある。男性と女性では振付が異なる部分があるという。フリーデマンは何となく中性的で、音楽の昂揚とともにどんどん少年に戻っていく。身体への負荷が大きくなるにつれて、元気いっぱいになっていく。
「これがフリーデマンのすっぴんの魂なのか!」と、何だか笑いが止まらなかった。なんと明るくて正義感に溢れ、真実を疑わない勇敢な魂なのか。
病に憑りつかれたルドルフを踊った後に、ボロボロになってしまう正直さ、ボレロで太陽のように輝いてしまう率直さ。ダンサーは魂を隠せないのだ。
シュツットガルト・バレエは色々なことを教えてくれる。戦争が起こったとき、島国にいるのと国境が陸続きなのでは危機感も違うと思うが、国の地形や歴史は芸術や人間性にも潜在的に影響を与えていると感じた。「人間とは大変なものだよね」というとき、中央ヨーロッパの人々は受け止め方が、すごい。そこには手が届かないほどの崇高な楽観と、ユーモアがあるのだ。自分がバレエや音楽を通して認識したいのは、そうした遠い国の人々の卓越した精神性なのだと思った。フリーデマンの太陽のボレロは、すべての答えだった。






新国立劇場『椿姫』(3/16)

2022-03-20 14:51:16 | オペラ
新国立劇場で『椿姫』の3回目の公演を鑑賞。ロシアのウクライナ侵攻が続く中、3月16日は朝から不穏なニュースが報道されていた。とうとうキエフで爆撃が起こり、キエフ市民に外出禁止令が出された。連日ハリコフの惨状も映像で流され、2月にはじまったこの戦争が長期化するのではないかという不安が立ち込めていた。日本で流されるニュースのすべてを信じていいものか分からないこともあるし、誰に対して憤ったらいいのかかも分からない。分かるのは、ウクライナから他国への移民の数が爆発的に増え、子供たちや高齢者や妊婦までが危険に晒されているということ。核の脅威がチラつかされているということ。どちらも21世紀のこととは思えない。

劇場と現実はどれほど関係があるのか。先日の新国の記者向けのシーズン発表会でもデリケートな対話が行われた。レパートリー作品である『椿姫』の2022年の初日は3月11日で、指揮者のアンドリー・ユルケヴィチが来日したのは2月後半。一週間の待期期間中に戦争が起こった。ユルケヴィチはウクライナ出身で、爆撃を受けたリビウにも家があるという。待期期間中はほぼ外界との接触がないため、指揮者は孤独の中でこの一連の出来事を受け止めていた。

そうした場合、指揮者は待期期間中に帰国してもよいのかどうか、前例がないので分からない。ユルケヴィチは帰国せず、日本でオペラを上演するという選択をした。初日はどんな雰囲気だったのだろう? 16日の公演は、幕が開いた瞬間「お葬式のようだ」と思った。演出そのものがヴィオレッタのモデルになったデュプレシの追悼のような形で始まるのだが、その次のヴィオレッタの館での全員の宴が、ひどく沈んだ雰囲気だった。

ソリストも合唱もオーケストラも言葉にならない不安を抱えている。反射的に「Darkest Hour」という単語が浮かんだ。1940年を舞台にしたゲイリー・オールドマン主演のチャーチルの伝記映画の原題だが、防空壕の中で役者たちがあれやこれやの芝居をするチャーチル映画の背景と、現代が急につながったような感覚だった。若きテノール、マッテオ・デソーレもたくさんの迷いを抱えてアルフレートを演じていて、「乾杯の歌」の歌唱にも思い切りがなく、日本人の脇役の歌手たちも腹に力が入っていない。「無理もないのだ」と思った。ロシアやウクライナに友達がいる人もいるだろう。こんなときに「プロだからちゃんとやれ」なんて言えない。

ヴィオレッタ役の中村恵理さんはこの公演で座長的な役を引き受けていたように見えた。一幕ラストの長く粘り強いヴィオレッタのアリアは「みんな負けるな! この公演を成功させるのだ」という歌に聴こえた。音程もディクションも演技もパーフェクトで、いくつもの境地を乗り越えてきた世界的な日本人歌手の精神が伝わってきた。長丁場のアリアの前まで、指揮者とオーケストラ(東響)も探りながらの合奏だったが、あのシーンで何かが変わった。

ブサール演出では一幕と二幕の間に休憩はなく、照明が落された中で舞台の転換が行われる。耐えかねたような声が舞台の奥から男性の聴こえた。あのとき「No War!」と悲し気な声を上げたのはテノールだと思う。ロシアのテレビの生放送でプラカードを上げた女性のニュースも報道された後で、「あっ」と思った。あの声について、誰とも話していないが、「No More War!」の叫びだったに違いないと認識している。
 二幕ではテノールが蘇った。一幕のソプラノの熱唱がカンフル剤になってか、デソーレは持って生まれた美声を揮い、強靭な高音が圧倒的だった。もともと素晴らしい歌手なのだろう。そしてとても優しい心を持っている。
 ジェルモンのゲジム・ミシュケタは82年生まれの若い歌手だが、貫禄のある姿で、中村恵理さんとは共演経験も多いという。ジェルモンは正義をふりかざしてヴィオレッタを説得し、息子の心を改めようとするが、その演技に既に罪悪感のようなものが感じられた。「力で組み伏せようとしてすまない」という心情を込めた歌で、こんな辛そうな表情のジェルモンは初めて見た。「プロヴァンスの海と陸」が、別の意味の曲に聴こえた。

休憩の後、二幕二場のフローラの夜会の場面から後半がはじまった。後半は前半ほど暗い雰囲気はなく、やっと『椿姫』を観ているという感覚が湧いてきた。新国立劇場合唱団も生気のある歌を聴かせ、オーケストラにも安定感が出てきている。デソーレは正義感の塊のような直情的な声を出し、まったくの演技であったとしても胸を打つものだった。コロナ演出で歌手同士の距離が悩ましい箇所もあったが、歌の説得力がカバーしていた。

三幕のヴィオレッタのいまわの際の演技は鬼気迫るものがあった。色々な歌手がこの場面を歌うのを聴いてきたが、中村さんはこの役から究極のものを引き出し、オペラの奥深い存在意義を見せてくれた。歌手というのは究極的に、こういう時代の、こういう状況のために存在している。芸術は生命そのものであり、道徳性そのもので、オペラは「人間とは本来素晴らしいものだ」ということを何度でも思い出させてくれるアートだ。悪魔崇拝や暴力は、オペラには要らない。シンプルに物語を追うだけの上演でも感動的だったと思うが、この日の音楽には何重もの意味があった。

カーテンコールでは、普段は口数もあまり多くなく物静かだというマエストロが、穏やかな笑顔で歓声に応えていた。胸元からウクライナカラーのポケットチーフが少しだけ見えた。劇場は世界と繋がっている。これほど「世界全体」と近い場所はないのではないか。このチームで既に4回の公演を終えているが、3月21日の千秋楽公演ではさらに素晴らしいものが生まれるような気がする。







読響×マキシム・パスカル(3/12)

2022-03-13 09:45:05 | クラシック音楽
無事来日したマキシム・パスカルと読響との芸劇マチネ。多彩なフランス音楽で組まれたプログラムに、指揮者の本領発揮の意欲がうかがえる。マキシム・パスカルほど見ていて面白い指揮者はいないと思うが、これまでの来日公演では圧倒的にオペラのピットの中で振ることが多く、2020年12月の東京芸術劇場開館30周年記念公演に続いて、貴重な「舞台でのマキシム・パスカル」を見る機会となった。コンサートマスターは小森谷巧さん。

ベルリオーズ『ファウストの劫罰』からの「妖精の踊り」「鬼火のメヌエット」「ハンガリー行進曲」は、1曲目の「妖精の踊り」から優雅な3拍子に合わせてのマキシムの「踊り」が見られた。手足が長く9頭身なので、パリ・オペラ座のダンサーに混じっていてもおかしくない感じ。いつものようにネクタイが少し右側に曲がっている。指揮棒はなしで、手首と身体全体をゆらゆらさせてオーケストラから大きな呼吸感を引き出す。管楽器の音が大きめで、独特のプロポーションの音楽。先日のヤマカズに続いて読響は絶好調で、指揮者の絵作りに積極的に関わり合っていく。ベルリオーズのものものしく古風な一面が面白く表されていた。

ショーソン「詩曲」ではヴァイオリン・ソロの前橋汀子さんが鮮やかな朱色のドレスで登場し、クリスタルの水槽の中で泳ぐ幻の赤い魚のような美しさだった。先ほどまで指揮者に釘付けだったが、この曲では前橋さんをずっと見つめてしまった。興味深いのは、世代の違うソリストと指揮者は、音楽を征服するやり方も全く違っていて、それでも絶妙に対話が成立していることだった。ソリストの放つひとつひとつの音の凝縮感と粘着感は、次のラヴェル「ツィガーヌ」の前半の独奏でも圧巻。ラヴェルにはどこか常軌を逸したところがあり、常識的なスケールでは到達できない「超-常識」がある。前橋さんの妖艶な「毒」と、パスカルの奇想天外が組み合って、過剰なほど魅力的な仕上がりになっていた。

後半のルベル(1666-1747)『バレエ音楽《四大元素》』はこのブログラムで一番楽しみにしていた曲で、一気に心は18世紀に連れ去られた。チェンバロのきらきらした音が、ベルサイユ宮殿の華美なインテリアや貴族たちの装束やカツラを連想させる。弦楽器の痙攣的なボウイングも見事だが、ファゴットが神業としか思えない装飾的フレーズを放ったときは心臓が止まりそうになった。「踊る王」であったルイ14世も、この曲で踊ることがあっただろうか。ところどころスペイン王宮ふうの典雅な憂いが感じられ、様々な工夫を凝らした当時の舞踊の舞台のことを想像した。屋外で上演されることもあっただろうか。一曲目「カオス」の不協和音は現代音楽的な鋭さも暗示している。マキシム・パスカルは巨大テルミンを演奏するような指揮で、「素手でオケの呼吸をつくる」動きは最初から一貫している。これは古楽指揮のある種のスタンダードなのかも知れない。

ラヴェルの『ダフニスとクロエ』第2組曲は巨大な絵を見るようだった。「夜明け」の宇宙が始まるような微粒子の飛び交う世界、すべての色彩が絵の中にあり、火・風・水・土の4大エレメンツが躍動している感覚が神秘的だった。2017年のパリオペラ座バレエの来日公演で初めてマキシム・パスカルを知ったのが「ダフニスとクロエ」だったが、ミルピエの振付のことはほとんど忘れていて、覚えているのはただただ驚きだった若い指揮者のことだった。読響の平和で温かい音は、ラヴェルのバレエ音楽をさらに宇宙的で果てしないスケールのものにしており、マキシムの身振りも曲の進行とともに大きく膨張していった。「パントマイム」は指揮者が踊るダンスのことだったのか…と思っていたら、次の曲ではさらに動きは突風のようになり、指揮者は宇宙をまといはじめた。

シャガール『ダフニスとクロエ バッカス神の物語と神殿』

ダフニスとクロエは、どれだけ古い話だったか…月が天空に現れる前の、すべての大陸が陸続きになっていた時代の話のように感じられる。今報道されている戦争が、本当のところどういう戦いで誰の利益になるのかはてんで分からない。『ダフニスとクロエ』は丸ごと平和の音楽で、モラルを越えてつながっている「命」の表現に思えた。
 ラスト近くは狂気の音楽で、踊っているのは指揮者だけではなかった。みんな楽器を持っているので物理的には踊っていないが、別の位相から見ると激しく踊っているのだ。この感覚をなんと描写したらいいか…演奏していたが、踊っていた。なるほど。まさに「全員の踊り」!
13日も公演が行われる。

Ⓒ篠山紀信