小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京二期会 プッチーニ『エドガール』(セミ・ステージ形式)

2022-04-25 01:08:44 | オペラ
プッチーニのオペラ『エドガール』(セミ・ステージ形式)をオーチャードホールで観る。二期会と指揮者のアンドレア・バッティストーニは、ヴェルディ『ナブッコ』以来共演を重ねているが、ヴェルディはバッティストーニと東フィル、プッチーニはルスティオーニと都響、という暗黙のローテーション(?)が、前回の『蝶々夫人』から変わってきていて、ヴェルディ担当(!)だったバッティストーニも、プッチーニを続けて振っている。2012年頃、バッティストーニに「本当はどっちの作曲家が好きなの?」と聞いたことがあり「プッチーニは昔から大好きで、ヴェルディは学びながら好きになってきている」という返事だった。今回の『エドガール』は指揮する姿から、心底プッチーニが好きなのだと実感した。

2008年にプッチーニのメモリアルイヤー(生誕150周年)を記念してリリースされたBOXでも、『エドガール』は音源だけではよく分からないところが多かった。出世作『マノン・レスコー』の4年前、30歳のときに完成している。フォンターナの台本はミュッセの詩劇をもとにしたもので、あらすじを読んでもわかりづらい。プッチーニは何度も改訂を繰り返し、3幕版が決定稿となったが、2008年にはトリノ王立歌劇場で初演4幕版がホセ・クーラ主演で初めて上演されている。イタリアでも上演機会が少ないので、日本ではバッティストーニとの縁がなければ聴くチャンスがなかったかも知れない。

始まってすぐ、先日の春祭のモランディ指揮・読響で聴いたばかりの『トゥーランドット』を思い出した。二つの作品の間には36年の開きがあるが、合唱とオーケストラの響きには既に『トゥーランドット』のすべての要素があり、音楽的には劣ったところがなかった。もしかしたら、プッチーニは遺作で先祖帰りをしたのかも知れない。『エドガール』は14世紀のフランドルが舞台で、既に異国の物語に素材を得ようとするプッチーニの姿勢が反映されている。ドニゼッティ=ヴェルディの流れを汲もうとする視点は一切なく、むしろ音楽の流れはビゼーを強く思い出させた。妖艶なメゾ・ソプラノが活躍するところなど、『カルメン』を意識しているのではないか。聖歌を思わせる荘厳な合唱から、突然エキゾティックなメゾの歌が始まる強烈さからも、『カルメン』を思い出さずにはいられなかった。『エドガール』の完成は1888年で、『カルメン』の初演が1875年。

誘惑に弱く、情動的に不安定な主人公エドガールを福井敬さんが演じた。酔いどれの役として登場するが、福井さんの誠実なオーラは隠しようもなく、それが表面的ではないエドガールの「魂」を表しているように感じられた。エドガールの清楚な恋人フィデーリアを髙橋絵理さんが演じ、プッチーニのライバルだったレオンカヴァッロの『道化師』で高橋さんが素晴らしいネッダを歌ったときから、10年が経っていることに気づき、光陰矢の如しと思った。どこまでも澄み切った美声で、全身から清らかな光を放っている。プッチーニは生涯、フィデーリアのような女性を理想としていたのではないか。一方で、実生活では清楚な小間使いの娘を自殺に追い込んだエルヴィーラを妻にしている。『エドガール』では、ムーア人の娘・ティグラーナが妖艶な悪女として登場し、中島郁子さんが圧倒的な歌唱と演技で魅了してきた。とても強い女性の役で、ティグラーナの音楽には平和を乱すような性格が感じられた。

東フィルはバッティストーニの歌心とプッチーニへの愛を汲み取り、粘り強くハイセンスな熱演を繰り広げた。エドガールは愛の矛先がコロコロ変わり、兵役に出て戦死したかと思うと実は生きていたりして、台本から一つらなりのドラマを感じようとするのは難しいところが多かったが、未完成なドラマの内側で、作曲家のマグマのようなパッションは猛威を揮っていた。バッティストーニも作曲家だから、プッチーニのフラストレーションがよくわかるのだ。『エドガール』の初演は、スカラ座で三回で打ち切りになった。以後プッチーニが台本のクオリティにこだわり、結果的に極端な寡作になってしまったのはこのオペラが原因だと推測する。『マノン・レスコー』はすべてがうまくいった。台本が良かったからだ(それでも極端な場面転換は多い)。

二期会合唱団とTOKYO FM合唱団が素晴らしかった。プッチーニは合唱に多くを語らせ、彼の家系が18世紀から続く宗教音楽家の一族であることを思い出させた。オルガンも効果的に使われ、見事なミサ曲に聴こえるくだりが多くあった。連綿と続く家系のDNAの突然変異として、ただ一人のオペラ作曲家となったプッチーニには、血族の宿命のままに宗教音楽の作曲家になる道もあったのだ。イタリアのカトリック権力に対する疑念は、『エドガール』での少年合唱団と同じ装束の合唱隊が登場する『トスカ』ではっきりと描かれている。

福井さんをはじめ歌手たちには、もしかしたらこの先上演機会がないかも知れない『エドガール』という作品への責任感もあったかも知れない。ティグラーナを愛するフランク役の清水勇麿さん、フィデーリアの父グァルティエーロ役の北川辰彦さんも真摯な歌唱と演技で舞台を特別なものにしていた。バッティストーニは貴重な「大使」であり、東フィルは見事な友情で応えた。物語のカタルシスは、リニアな時間軸の先にあるものではなく、あらゆる瞬間に、唐突に何度も訪れた。

演出面では、少年合唱がエドガールの(空の)棺にウクライナ国旗色の旗を掲げる場面があり、その「祈り」の部分はスライド映像とともに現在の世界の異様な状況を反映していた。歌手たちが演技をする空間には余裕があり、オーケストラはだいぶ後ろに引っ込んでいたように見えた。段差がなくオケは後方に退いているので、音響のバランスを取るのに試行錯誤したのではないか。
プッチーニに駄作なし…と強く思う。コンチェルタンテ形式での上演は冒険的な試みであり、貴重な時間を経験した。作曲家の宗教的な魂が、オペラという「毒」に飛び込んでいく、変身の瞬間の奇跡が詰め込まれていた。


1幕の冒頭の歌詞に現れる「アーモンドの木」








































東京交響楽団×リオネル・ブランギエ(4/23)

2022-04-24 23:02:54 | クラシック音楽
東響とリオネル・ブランギエの3年ぶりの共演。オペラシティが宝石の輝きに満たされた土曜日のマチネ公演だった。コンサートマスターはグレブ・ニキティンさん。
サロネン作曲『ヘリックス』(2005)は9分ほどの曲で、サロネン自身がかつて振った自作曲よりも、サロネン作品の魅力を実感できた。恐らく作曲年代によっても微妙に作風が変わるが、ロサンゼルス・フィルでサロネンのアシスタントを務めていたブランギエは、作曲家自身によるこの曲の実演にも立ち会ってきて、作曲家の意図することを熟知している。管楽器が和風の音色を奏で、多彩な打楽器群が暗号めいたサウンドを鳴らす現代曲を、ブランギエは自らの視点で美しく構成し、長めの指揮棒がオーケストラから引き出す響きには、音同士のオーガニックなつながりがあった。ヘリックスとは「螺旋」の意味だが、宇宙的・天体的なスケール感も感じられる。サロネンは「ジェミニ」(双子座)という曲も書いているが、その中の「カストル」と「ポルックス」は双子座の「双子の」星である。サロネン自身が指揮した宇宙的な演奏の記憶も蘇った。自作自演が絶対的な名演とは限らない。『ヘリックス』からはホルストやラヴェルの破片も聴こえ、全体としては精緻にカットされたダイヤモンドのような残像が浮き彫りになった。

2曲目のラヴェル『ピアノ協奏曲 ト長調』では、リーズ・ドゥ・ラ・サールが白いジャケットと黒いシガーパンツというスタイリッシュな衣装で登場。豪華な光る素材で、地味な雰囲気ではない。10年くらい前に取材したときは、ロックTシャツを着ていて、反抗期中の育ちのいいお嬢様といった感じだったが、あれからさらにストイックに芸術性を磨いてきた。エレーヌ・グリモーにも感じる、正面から岩を砕いていくような生真面目なタッチで、一音も胡麻化さず真剣に弾き切る。もっと音数が少なく感じられる演奏もあるが、ピアニストがスコアを厳密に捉えているためか、膨大な音が雨あられと降ってきた。
東響はこの上なく雅やかな演奏を聴かせ、コーラングレの郷愁的な旋律が導く2楽章のアダージョ・アッサイではプレイヤー全員が神の国の住人に見えた。オーケストラの中の人々が地上とは別世界の聖なる人々に感じられ、このような境地に連れて行くブランギエの指揮には、力量とか技術とかといった言葉よりも「魔法」がふさわしいように思えた。指揮をする後ろ姿が、最近見たどんな指揮者よりも美しかった。コミカルな3楽章のプレストでは、ファゴットのぶくぶくいう音が面白く、短いコンチェルトながらソリストにもオケにもハイカロリーな熱量を要求する曲だなと再認識した。ブランギエはコンチェルトも相当うまい。

2016年にオール・ラヴェルの4枚組のCDを聴いたのがブランギエを初めて知る機会だったが、2022年4月現在まだ35歳。南仏のニース出身ということが関係しているのか、芸術の中の地中海性をDNAレベルで受け継いでいる人だと音楽を聴いていて思う。とても古い文明の、始原の純粋さを感じさせる質感があるのだ。ギリシア音楽や地中海の伝統音楽には、日時計や象形文字を連想させる単調さがあるが、ブランギエはその感覚も直観的に把握している。積みあがっているものの基礎が、日本人にはない感じだ。

後半のラヴェル『高雅で感傷的なワルツ』は、どっしりと遅いリズムで始まった。その優雅さと、音全体が含む面白さに眩暈がした。ユーモラスで古めかしく、タイトルの通り大袈裟な感傷をわざと着込んでいる。何層のもの諧謔と、命の無邪気さと、呆れかえるような楽観があった。香るようで、おしゃれな音楽でもあり、東響の典雅な響きが有難かった。

ストラヴィンスキー『火の鳥』(1919年版)は、バレエ・リュスの初演を思わせるパリ風味のカラフルなサウンドで、最後の曲で信じられないほど幻惑的な世界が立ち現れた。幻想的だがグロテスクさや凶暴さはない。打楽器も鳴らし過ぎず、勢いに余って進むような乱暴な箇所はひとつもなかった。指揮者が「指揮をする」ということの理念が、ブランギエの中には厳密にあるのだと思う。瞬間瞬間にオーケストラを触発しつつ、支配とは別の形で全体の絵を鮮やかに現出させる。理知的でデリケートであり、厳密なサイエンスが息づいているが、堅苦しさは皆無なのだ。
ホルンの火の鳥が舞い降りるまでの、弦の超弱音のトレモロが神秘的だった。指揮者はこのオーケストラを心から信頼している。素晴らしいケミカルが生起したコンサートで、出会うべくして出会った指揮者とオケの引力を祝福せずにはいられなかった。オペラシティの音響はこのプログラムにとって理想的なキャンバスで、ありきたりな言い方だが「ホールが楽器となる」ことの素晴らしさに感動した。最初から最後まで、宝石箱のような空間だったのだ。


ⒸN.Ikegami


東京・春・音楽祭 『トゥーランドット』(4/15)

2022-04-17 11:29:40 | オペラ
3/18の感動的なムーティ指揮・東京春祭オーケストラによるオープニングから約1か月、終盤に入ったハルサイでまた凄い名演を聴いた。ピエール・ジョルジョ・モランディ指揮によるプッチーニ『トゥーランドット』(演奏会形式)は、2022年の音楽祭のハイライトのひとつで、読響と東京オペラシンガーズの実力を鮮やかに聴かせる奇跡的な上演となった。
冒頭の合唱から、ブッチーニが遺作で描こうとした巨大なオペラのパノラマスコープが突然現れ、残酷なトゥーランドット姫のもとで求婚者を処刑する首切り人たちのクレイジーな狂気が溢れ出した。オーケストラも異常なほどの恐怖を掻き立て、打楽器群の衝撃が凄まじい。指揮者はある意味、この冒頭場面をジャーナリスティックに表現していると思った。ある異常な統治下においては、凶器を持った者たちはこのようにおかしな狂騒状態に入ってしまう。もちろん、演奏家たちは譜面通りのことをやっている。設定はおとぎ話の世界だが、オペラはこのように聴く側の心に衝撃を与えてくる。現実と演劇の境界は薄い。

カラフのステファノ・ラ・コッラの声は英雄的で、大変な努力をともなって出すタイプの声ではなく、こういう凄い声は天性のものに違いないと咄嗟に思った。カラフやラダメスを歌うために生まれてきた人で、実際2015年にはシャイー指揮のカラフ役でスカラデビューを飾っている。現代にはこういう貴重な歌手がいるのだ…と驚きながら聴いた。ティムール役のシム・インスンも温かみのある声で、全員が譜面なしで演技していた。リューのセレーネ・ゼネッティの清純で繊細な「お聞きください、王子様」は、アドレナリンが充溢していた空気を一瞬で変え、太陽の光で反射する宝石のように輝いた。多くの聴衆は3幕でのリューの最期を知っているので胸を打たれたのではないかと思う。原作にはない役で、プッチーニ家の小間使いドーリア・マンフレーディがモデルという説がある。プッチーニの妻エルヴィーラが不倫を疑い、ドーリアを中傷したため彼女は自殺を図り、解剖の結果「処女であった」というエピソードは有名だ。プッチーニはドーリアの遺族に多額の慰謝料を支払った。

なかなか登場しないトゥーランドットは、2幕でようやく現れる。ブルーのアイシャドウで凄味を出したリカルダ・メルベートが、尋常でない「この宮殿で…」を歌った。先祖のロウ・リン姫の悲劇を語り、異国の男どもに辱められた姫の屈辱を怨念を込めて歌いつづるのだが、指先まで爬虫類のようにわななわなさせて怒りの高音を出すメルベートは、悪霊そのものを表現していた。トゥーランドットは凄い役なのだ…と改めて思った。千年前の先祖の怨念が乗り移っている存在なので、この世のものではない(彼女自身もそう歌う)。恐ろしいトゥーランドットから、愛情深いメルベートが透けて見えた。先日新国で観た『ばらの騎士』の、前回の上演では元帥夫人を演じていた歌手だ。トゥーランドットの「異形さ」が強力であればあるほど、カラフの勇敢さとリューの可憐さが引き立つ。そして当然のように、氷の姫君の心境は某国の暴君を連想させた。

コミカルな宦官のピン・パン・ポンは、萩原潤さん(ピン)、児玉和弘さん(パン)、糸賀修平さん(ポン)が歌った。それぞれカラフルな違う色の蝶ネクタイをつけて、息の合った演技を見せてくれた。バリトンがテノールより高い音域を歌ったり面白い工夫が凝らされていて、彼らが故郷を懐かしむ歌はどこかもの悲しさも漂う。毎回ピン・パン・ポンの「トゥーランドットなど裸になればただの肉」という歌詞には痛く共鳴する。原作では4人の道化的な存在をプッチーニは3人にしたが、音楽的にも正解だった。

ピエール・ジョルジョ・モランディはプッチーニのスペシャリストだが、過去に来日したことはあっただろうか? 親しい名前に感じられたのは、この指揮者の録音を聴いていたからだと思う。スカラ座で10年間オーボエ奏者として活動し、その間にムーティやパターネのアシスタント指揮者になったという。スカラ座のピットの「中の人」として、色々なスター歌手や色々な指揮を迎え、劇場で起こる様々なトラブルや困難も経験してきたと思う。指揮をする背中から、苦労を厭わず働いてきた人なのだろうなと想像した。音楽はドラマティックで、読響からは底力のあるサウンドが次々と溢れ出したが、『トゥーランドット』特有のグロテスクな不協和音や、現代音楽に踏み込んだ解釈は強調されなかった。グロテスクな音を強調した『トゥーランドット』を聴いた後では、しばらく鬱が続くという経験を過去にしたが、指揮者はどのようにでも物語を作ることが出来る。モランディの「節度」が有難かった。

3幕の緊張感も素晴らしい。『リューの死』までを書いたプッチーニは、癌で亡くなる直前まで創造力は衰えていなかったのだ。『マノン・レスコー』から綺羅星のごとくはじまるヒット作の、さまざまな名旋律の破片が聴こえたが、さらに新しい冒険に踏み出しているプッチーニの若々しさが遺作には漲っていて、60代の早すぎる死がなければ、どんなオペラを書いていたのか惜しく感じられた。「リューの死」以降のアルファーノによる補筆部分は、勢いで聴いてしまうこともあるが、モランディは正直すぎるのか、補筆部分はやや通俗的で薄い音楽に聴こえないこともなかった。ベリオによる補筆版はあまりに「不思議すぎ」なので、物語としてのカタルシスを感じるにはこちらを選ぶしかない。ラストでは、メルベートが一瞬のうちに悪霊を取り払い、可愛い姫になっていたのにびっくりした。

ムーティ、ヤノフスキ、モランディと名指揮者の演奏を聴き、見事なキャスティングの歌手たちを堪能した18年目の音楽祭はいつも以上に有難かった。コロナや戦争で来日できなかった演奏家もいて、全体をコーディネートしている音楽祭側の苦労は想像を絶する。ハルサイが行われるのは一年のうち1か月だが、運営は365日続いていて、春に咲く桜の花のように普段は「見えない」のだ。感極まる公演を多く聴いた今年、東京・春・音楽祭が行われることの幸福を噛み締め、感謝の念を新たにした。音楽祭の「親心」に甘えて、幸せの上塗りを満喫するばかりの自分だった。

名指揮者モランディと読響による『トゥーランドット』は4/17にも上演される。
読響によるプッチーニ・シリーズは来年以降も予定されている。





東京・春・音楽祭 東京都交響楽団×アレクサンダー・ソディ(4/10)

2022-04-11 15:45:00 | クラシック音楽
突然の初夏の陽気となった週末、1か月に渡る催しの後半に入った東京・春・音楽祭の マーラー『交響曲第3番』を東京文化会館大ホールで聴いた。都響を指揮するのは、英国出身の1982年生まれの指揮者、アレクサンダー・ソディ。音楽祭の記者発表のときに配布された全出演者のプロフィールが掲載された冊子を前もって読まないまま出かけたので、初めて聴く指揮者については驚くことばかりだった。コンサートマスターは山本友重さん。

 ステージの端から端まで楽器で埋め尽くされ、下手には二台のハープ。フル編成のオケが待つ中、アレクサンダー・ソディは若々しい雰囲気で登場し、指揮台にひょいと上って長大な1楽章を振り始めた。個人的にマーラーの交響曲は3の倍数番が大変気に入っていて(!)、ノイマイヤーのバレエにもなった3番には格別の愛着を抱いている。第1楽章は、始まった瞬間唐突にストラヴィンスキーを思い出した。マラ3と春の祭典の初演には17年の年月の開きがあるが、「夏が行進してくる」と作曲中のマーラーが標題をつけた1楽章には、『春の祭典』に似た獰猛な自然界の摂理や、大地の蠕動が感じられた。
ストラヴィンスキーは春祭の導入部で「おどおどと下手に演奏するように」と管楽器奏者に指示したという。ソディがマラ3で都響から引き出した音にも、意図的なほつれが感じられた。ノイズ交じりのような「粗く削った」音が重なり、フレージングは独特の含意を感じさせ、それらはひどく聴き手の無意識を搔き乱すのだった。マーラーの神経質な性格が顕著に表れた楽章なのだが、ソディは晴れたり雹が降ったり雷の後に虹が出たりする分裂症的な音楽を、我が心に起こったことのように引き受け、マーラーを翻弄した巨大な霊感を読み取っていた。子供が見るこわい夢のような世界で、作曲家は何かに「襲われて」、音楽の特異な美を抽出していたと思う。

1楽章では既に、指揮者がホールのアコースティックの特性を生かした率直な響きをあらゆる箇所で引き出していたことが分かった。リハーサルには1週間かけられたという。ゲスト指揮者と初対面のオケにとって贅沢な時間だが、その中で指揮者は自分の理想を驚くほどの水準でオーケストラが叶えてくれることを知り、貪欲にイメージを拡大し、ホールでの最終リハーサルでさらに面白いアイデアが浮かんだのではないかと想像した。どの楽器も、少しずつ音のキャラクターを歪め、エキセントリックな響きを出している。魚拓を取るようにはっきりと指揮者の意図を映し出す文化会館のドライな音響が有難かった。

2楽章の「テンポ・ディ・メヌエット」には、マーラーの中の乙女心のようなものを毎回感じる。オーボエの朗らかな旋律に託されているのは、純粋で女性的なるものへの憧れではないか。「野の花々が私に語ること」という標題が付けられていた章を振るとき、ソディの指揮棒は信じがたいほど柔らかく、棒の先にひらめく蝶がついているように見えた。「指揮をする棒」がこんなに優し気に感じられたことはない。シルフィードたちの舞いや、アールヌーヴォーの図案化された花々が連想された。

それぞれの世代がもつ「当たり前」の感性には注意深くならなければならないし、音楽という共通言語を持っていても、ほんの僅か年齢が違うだけで、色々なことのデリカシーが異なっていることがある。39歳のアレクサンダー・ソディを迎え入れ、指揮者の本質的な美質に共鳴して真剣な音楽を作り上げた都響に感心した。ソディの美質とは、完全に現実の呪縛から解き放たれた「別次元」のパノラマスコープを作る想像力だと思う。指揮者なら誰でも持っているようで、現実の「穴」がしょっちゅう透けて見える音楽もある。「迷いなく」新しい次元を作すためには、空想というレベルを超えた強い念動力が必要なのだ。指揮棒のふんわり感と真逆の、オケ全体を一瞬で遠くまで引き連れていく腕力(?)に驚かされた。

3楽章は、そのまま「ばらの騎士」の三重唱が始まってしまうのではないかと思われるホルンの美しい演奏に陶然となった。4楽章では、ニーチェのテキストを歌う清水華澄さんのソロに聴き入る。数年前、清水さんに取材したとき「声楽家はオーケストラのプレイヤーほど真剣に音楽に取り組んでいないのではないか」という問題意識を語ってくれたが、実際清水さんは何年間も途轍もない孤独感を感じながら自分の表現を磨いてきた。ご自身が歌わないときも、オーケストラの音の渦の中で深い瞑想を行っている様子が伺えた。ニーチェの一節一節を、オケに感謝を捧げながら歌っている姿を目に焼き付けた。
5楽章では東京オペラシンガーズと東京少年少女合唱隊が輝く歌声を聴かせた。4楽章では苦痛に勝つ永遠の快楽が讃えられ、5楽章では十戒を破った者が信仰によって救済される。6楽章の永遠に通じる神秘的なオーケストラのサウンドからは、「愛が私に語るもの」という、マーラーが破棄してしまった標題がどうしても思い出されてしまう。愛とは太陽意識のようなもので、創造の根幹をなす熱のことではないかと最後の楽章を聴きながら思った。この世界で起こりつつある悲劇や矛盾のことは、なぜか連想しなかった。首尾一貫した、完全に音楽的な次元の表現の中では、現実のしかじかのことは、介入しようもなかった。それぞれの聴き手によって、印象はさまざまだろうと思う。

マーラーの3番が「とても長い」ということをすっかり忘れていた。少しも長くはなかったし、違う時間軸の出来事のようにも感じられ、指揮者が連れ去ってくれた世界の濃密さに浸っていた。都響のマーラーは歴代の音楽監督や客演指揮者たちの歴史的名演によって証明済みだが、今回若手指揮者との出会いを作ってくれた音楽祭には心から感謝したいと思う。

※後日改めてアレクサンダー・ソディ(Alexander Soddy)のプロフィールを確認。
オックスフォード生まれ。故郷マグダレン・カレッジで合唱団員として活動し、合唱指揮とピアノを学んだ後、王立音楽院とケンブリッジ大学に進み、2004年にロンドンのナショナル・オペラ・スタジオでコレペティトゥール兼指揮者として従事。2010年から2012年までハンブルク国立歌劇場でカペルマイスターとして活動し、2013-2016年にクラーゲンフルト市立劇場の首席指揮者を務めた後、2016/2017年シーズンからマンハイム国立劇場の音楽総監督を務めている。