小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

エサ=ペッカ・サロネン指揮 フィルハーモニア管弦楽団

2017-05-22 09:23:59 | クラシック音楽
サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団の来日コンサートを聴いた(5/18東京オペラシティコンサートホール、5/20東京芸術劇場、5/21横浜みなとみらいホール)。
コントラバス奏者の背中がステージの壁にくっつきそうなほど、オペラシティが狭く感じられたマーラー「悲劇的」の夜から、サロネンはなぜ特別な指揮者なのだろうか考えていた。
ストラヴィンスキー/マーラー、メンデルスゾーン/R・シュトラウス、そして最後のオール・ベートーヴェン・プログラムを聴き、最後に鮮烈に思うものがあった。
サロネンは作曲家であり、作曲家の個別の構造を読むことに卓越していることと、その特徴を意図的に強調し、デフォルメぎりぎりのラインで初めて現れるその作曲家の危険な魅力を音響化していることだった。

マーラー交響曲第6番では、冒頭から凄まじい音量にまず驚いた。恐怖感を感じるまでに大きく、金管は恐竜がいなないているようで、オペラシティの天井と四方の壁がズンズンと迫ってくるような、閉所恐怖症的な感覚を感じた。
以前父親が話してくれた、叔父の幽霊の話を思い出した。若くして戦士した叔父の「ザッ、ザッ、ザッ」という軍隊での歩行の音が、一階で寝ているといつも二階から聴こえたという。
マーラーの音楽に同じ足音を聴いた。音楽の被害妄想的な威圧感と恐怖感は、三楽章の信じがたい美しさによって一瞬覆るが、映像で見るバーンスタインはあそこで曲と完全に一体化して法悦の涙を流していた。サロネンはマーラーを対象化しつつ、しかしやはり独自の一体化を行っていたように思う。

マーラーの神経症的な感覚と、サロネンのあまりに鋭敏な音楽作りは似すぎていた。
音楽をあのようにとらえることには痛みと苦痛を感じているはずだ。サロネンは子供時代、音楽に魅了されながらも「果てしなく恐ろしいものだ」と感じ、頭から離れない恐怖心を克服するために音楽家になったのではないだろうか。
三楽章のアンダンテ・モデラートでは、木管とヴァイオリンがともに出す、初めて聴くような音色があり、それは天国へと向かう汽笛のような鋭い音で、地上で聴くにはあまりに異質な響きに感じられた。
四楽章では、ギロチンの刃のようなハープが何かを切り裂いていた。ぎょっとするような音で、優雅に思えるあの楽器からあんな鈍重な音が出ることに驚いた。マーラーがこの世界に対して感じていた憧れと恐怖を、サロネンは拡大し純化し、そこからマーラーの本質である「悲観」というキーワードが鮮やかに浮かび上がった。

最終日のベートーヴェンは、同じように激しく壮大なサウンドでありながら、正反対の気質が聴こえた。
一曲目の序曲「命名祝日」は、マーラーの日に蘇演されたストラヴィンスキーの「葬送の歌」と対をなしているようで、曲想はベートーヴェンの明快さと英雄的なものへの憧憬が凝縮されていた。
サロネンの指揮姿は、どの曲でも…いってみればとてもスポーティでスタイリッシュなのだが、指揮者の身体の延長線であるオーケストラは、同じ熱量で楽器と格闘するため、見た目にも音楽的にも「圧巻」といえる光景が繰り広げられる。
フィルハーモニア管のコントラバス奏者は、世界一勤勉なコントラバスだと思う。あれを「暇な楽器」と言った人間は懺悔するべきだ。交響曲第7番では、サロネンの動きも容赦なければ、オケのレスポンスも殺人的で、ツアー最終日とは思えない熱気だった。第4楽章のアレグロ・コン・ブリオでは、楽員全員の意識がもう別世界にぶっ飛んでいるようで、こちらまでサイケデリックな気分になってくる。音楽は一糸乱れず、明快で、厳しい規律を守りながらも情動的な起伏を描き出していく。
そのとき、無邪気なまでに純粋化されたベートーヴェンの本質が、巨大な肖像画の顔のように立ち現れた。
苦役のように見える合奏の刻苦勉励から、笑いが聴こえてきたような気がしたのだ。これは哄笑で、ユーモアで、巨大な「楽観」の音楽ではないか…。

ベートーヴェン『ピアノ協奏曲第3番』では、神懸ったリサイタルを聴かせたばかりのチョ・ソンジンが登場し、冒頭から成熟した音を聴かせた。サロネンとフィルハーモニア管との共演を楽しみにしていたという若きソンジンが見せた、作曲家と指揮者に対するリスペクトは本気で、「深く思索し、注意深く演奏することでしか報いられない」という絶体絶命の覚悟がその姿から見えた。若くて可愛らしいピアニストが、背中を丸めて苦吟するように演奏する姿は、半ば異様にも感じられた。
フィルハーモニア管の音は、楽想の変化に富み、一瞬で色彩を変えてしまう…その特質を知り尽くしたピアニストは、自分の方からも「突然の音色の変化」のきっかけを作り、それがまたオケの表情をダイレクトに変えていく。
ベートーヴェンは突然怒り出したり喚きだしたりする人間だったのだろう。音楽の成り行きがそのようにできている。それでいて、完璧な構造美と貴族性もあり、矛盾した要素がひとつになっているのだ。
しかしながら、人間というのはそのような矛盾したもので、矛盾したものを表現するためには、何より自分自身を顧みることが一番の収穫になるのではないか。
サロネンとソンジンのアイコンタクトが本当に凄かった。鉄壁のテクニックを持つ者にしかできない感情表現があり、ベートーヴェン的な「突然穴を穿つ」瞬間があり、ソンジンが新鮮な音を出すたびに「君はそうなのか」と目を大きくして答えるサロネンがいた。オケはどんどん変化していき、ピアニストのエネルギーと融和して、爆発的な緊張感とともにラストへと向かった。真剣に対等であることの喜悦・・・ベートーヴェンの「友愛」のキーワードがここで浮かんだ。

マーラーを貫いていた「悲観」とベートーヴェンを死から救った「楽観」については、古今の知識人たちの書いたものや演奏で知ってはいたが、サロネンが浮き彫りにした二つの特徴はあまりに鮮烈で明快だった。
水のようなマーラーの悲観、火のようなベートーヴェンの楽観、その中間に演奏されたR・シュトラウスの『ドン・ファン』『ツァラトゥストラはかく語りき』は、風のような「謎」であり「魔法」であり「好奇心」なのである。
『ツァラトゥストラ…』では、三人の中で唯一オペラをたくさん書いた作曲家であったR・シュトラウスの、マーラーともベートーヴェンとも違う女性観も感じられた。ツァラトゥストラの音響の中に、『アラベッラ』や『ばらの騎士』や『影のない女』の気配を聴いた。
指揮者はなんという魔法使いなのか…ラストでフルート二本が鳴らした、暗示に富んだ鋭い音はその曲の中で初めて鳴る音で、問いかけるように終わった音楽の余韻に、作曲家のなぞなぞが見えた気がした。
サロネンは今後、より作曲活動にフォーカスしていくという話もあるが、指揮者としては迷いなく「熱い」境地に達している。その真摯な音楽には詐欺もからくりもない。恐ろしく潔癖で勇敢で、タフな精神があり、真剣で地味な日常が芸術家のカリスマ性を作り上げている。
音楽の本質は、ロマンティックで激情的なものだと確信させてくれる一連のコンサートだった。


チョ・ソンジン ピアノ・リサイタル

2017-05-20 09:30:18 | クラシック音楽
来日ツアー中のチョ・ソンジンの東京芸術劇場でのリサイタルを聴いた(5/17)。
前半はドビュッシーの『子供の領分』と『ベルガマスク組曲』。
ステージに現れたソンジンはいつものように上品で、集中力を高める表情をしたのち「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」を弾き始めた。
ドビュッシーがクレメンティを練習する子供の苦心惨憺をパロディにした右手の忙しい曲で、
左手の優しい単音と右手のつむじ風のようなパッセージが溶け合って、渦巻きのような音楽がピアノから立ち上った。ソンジンのピアノを聴くたびに不思議な印象を得るのだが、それは時折ピアニストが鍵盤を「打って」いるのではなく
テルミンか何かのように不思議な触覚で音を「引き出して」いるように見えることで、ピアノという楽器から想像以上の滑らかさや曲線的な表情が醸し出されるのだ。
のっそりとしたバス音から始まる「ジャンボーの子守歌」では、音階の魔術師であるドビュッシーの、単調に見えて複雑怪奇な世界を背後にもつ曲の魔性が明らかにされた。
優しい子守歌のモティーフが、催眠術をかけられたように全音階の階段を深く下っていく。その先に「眠りの世界」があるのだろうか。
眠りから覚めた小さな子供が泣きだすのは、黄泉の国から帰ってきた恐怖からなのかも知れない。
ソンジンの思慮深い音は、色々なことを想像させた。

「人形のセレナード」と「雪は踊る」で、ピアニストの霊感は最大限に高まり、あどけない楽想から広大無辺の意識の海が広がっていった。
ふと、自分が子供の頃毎日この曲を聴き、夢中になって練習をしていたことを思い出した。
EMIから出ていたサンソン・フランソワのアナログ盤と13歳のときに出会い、そこに収録されていた『子供の領分』と『ベルガマスク組曲』に魅了されたのだった。
その頃、「どの作曲家が一番きれいな曲を書くか」という序列を作るのが私の遊びで、13歳の自分にとってモーツァルトよりシューベルトが上で、シューベルトよりショパンが上位であったが、
突然現れたドビュッシーは、そのピラミッドの階級の遥か彼方に置かれた。これはいったい何なのだろうと、寝ても覚めてもドビュッシーのピアノ曲のことが頭から離れなかった。
「小さな羊飼い」は初心者でも弾ける曲で、これを放課後の音楽室に忍び込んで弾いたことを思い出した。家にはアップライトしかなかったので、グランド・ピアノでどういう音が鳴るのか試してみたかったのだ。
ソンジンの演奏を聴きながら、秋の夕暮れの音楽室を思い出し、古い時間が一瞬で蘇り自分のすべてになったことに驚いた。

『ベルガマスク組曲』も洗練された演奏だったが、「メヌエット」がこんな奇想天外な曲であったことに初めて気づかされた。
あの出だしの寄木細工のようなフレーズは、子供の頃から「どうしてああいうふうなメロディになるのか」不思議に思っていたが、ソンジンは平然と音符を支配し、いつの間にかシェヘラザードの踊りのように官能的に高まっていくエキゾティックな楽想を聴かせた。ひとしきりエロティックな昂揚を見せたあと、あの冷酷なグリッサンドで曲は終わるのだが、美女の半裸のダンスを見せられて「これでおしまいですよ」とカーテンがおろされた心地になってしまった。
「月の光」は人を狂わせる月光が降り注ぎ、チョ・ソンジンはどこかポリーニに似ていると思った。精緻で正確な演奏の中に「危ない」感覚を忍び込ませ、聴き手を夢中にさせる。
「パスピエ」のあとの『喜びの島』は花火のような鮮やかなヴィジョンが炸裂し、前半が終了。会場の熱気がものすごかった。

後半のショパン『バラード』全4曲は、ピアニストが誰でもこう弾けたらと羨むような演奏で、イマジネーションが求めるものを技術がすべて実現し、そこには微塵の妥協も感じられなかった。
Op.23の第1番はあらゆる演奏家に「不測の事態」が起こる難解な曲だが、ミスタッチの幽霊もソンジンの前では形無しで、あらゆるカオスを飲み込んで燦然と輝くピアノの贅沢な美が実現された。
さらに度肝を抜かれたのはOp.52の第4番で、あんな理路整然とした、同時に獰猛でもあるコーダを聴いたのは初めてだった。
あの最後の四つの和音は、棺に打ち付けられる釘のようだと毎回思うが、最後の和音でソンジンは椅子から腰を完全に浮かせて、全体重を鍵盤に乗せていたのだ。何も恐れるものはないドラマティックなエンディングで、それを支えているものの強さに感動した。

アンコールはいつものように完全な「第三部」で、モーツァルトのピアノソナタ第12番2楽章、リスト「マゼッパ」、「ラ・カンパネラ」等がきらびやかに演奏された。
それらを聴いて、まったくバラバラのことをしているのではなく、ピアニストの世界観が様式の異なるすべての楽曲に一つの統一感を与えている印象を得た。内観というか内省というか、「内側からの光」を感じる解釈で、自分自身の中にある静寂やインスピレーションと恐ろしく真剣に向き合っている。
ドビュッシーはトライアドとそれに続く全音階を「発見」したが、人類の記憶の古層にある音の感覚を「発掘」したのであり、新規の発明というよりも、考古学的な作業であったと思う。チョ・ソンジンのアプローチにも、そうした「時を超えた」無限への考察が感じられた。
情緒的にも感覚的にも大いに揺さぶられ、ピアノという楽器の魔性、それを扱うピアニストの果てしない可能性にただひれ伏した夜だった。






山田和樹マーラー・ツィクルス 交響曲第7番『夜の歌』

2017-05-15 04:57:19 | クラシック音楽
三年目を迎えた山田和樹×日本フィルハーモニー交響楽団のマーラー・ツィクルス。
交響曲第7番『夜の歌』のコンサートが5/14に行われた。この巨大で奇々怪々なシンフォニーをどう演奏するのか、今年1月に山田さんに取材したときには「本を読んでもまことによくわからない」と笑って答えられていたが、蓋を開けたらとんでもない名演だった。
「自分に一番近い作曲家はモーツァルト。マーラーはよくわからない」と、虚勢を張らずに爽やかに答える方なのだが、音楽ですべてを証明してみせたのは見事というよりほかない。
「マーラーの曲はすべて自分が書いたように思える」と語ったバーンスタインに比肩する演奏だ…と個人的に思った。

2015年にスタートしたマーラー・ツィクルスは1番「巨人」からずっと追い続けてきたが、この日の7番で指揮者としての山田さんが「化けた」感じがした。
作品が負っているものの巨大さを果敢に受け止め、それは真に西洋的な苦悩であると同時に日本人が表現するのに相応しいものだと思わせた。
外側から見たマーラーと、内側から感じるマーラーの両方がダイナミックにせめぎ合っていた。
厳密な対象化とともに、深い内観がある指揮で、まっすぐ曲の本質を掴んでいる。
山田さんには複雑怪奇な迷路を不思議な透視力で突き進んでいくような明晰さがあり、そこには「等号でつなぐ」という作業がある。
普通の発想では予想もできないような世界をイコールで結んでしまうのである。
第一回目から、マーラーの交響曲と武満徹作品を並列して演奏してきたこともそのひとつで
西洋と東洋、巨人と小さきもの、哲学と詩を等しいものとして並べ、鮮やかな円環を浮き彫りにする。

7番の完成度が卓越していたことの理由のひとつに、2016年に山田さん自身のプロデュースで行われた柴田南雄生誕100周年記念コンサートがあったと思う。
あの演奏会で、柔和に見える山田和樹の本質的な勇敢さとプライドをみた。
日本人がどのように思考し、作品という結晶を遺したかを証明するコンサートで、日本フィルとの絆が更にあそこで深化した。
未来に記憶されるべき柴田作品の価値を尊敬しての企画だったと思うが、真逆にも思える方向(東洋)から音楽を掘り下げることによって、次のマーラーが恐ろしく深遠な表現になった。
どのような道筋を通って頂上に登り詰めるかは本当に人それぞれで、自分の道は自分で作ると決め、迷わずに進んでいく山田さんのやり方には毎度驚かされる。

マーラーをどのような作曲家として認識するのか、その手がかりを与えてくれる解釈で
作曲家の個性や人生という特異性が、西洋の哲学、芸術、宗教と深く結びついていることも音楽からは伝わってきた。
西洋的思考が目指す均整、永遠性、英雄性、真善美とは、その対極にある人間の不完全さの象徴である…と直観した。
マーラーの悪酔いしてしまいそうな「行ったり来たり」の楽想は、西洋的な均衡世界の否定であると同時に肯定でもあり、まさに存在とは、思考とは「一言では言えない」ものなのであった。
完全を目指す人文学的な営為のすべては「どうしようもなく不完全である」人間存在の証明でもあった。
リッカルド・シャイーがゲヴァントハウス管を振ったときの7番も思い出された。すべてのパートにレンズの焦点が合った、理性的なベートーヴェンのようなマラ7で、西洋的「永遠性」のアイロニカルな表現だったと思う。

闇は光に等しく、絶望は希望に、悲観は楽観に等しく、それらはお互いがあることで完全な存在になる。
マーラーの人生に起こった不幸や精神過敏的な性格のエピソードは広く知られるところで
幼い娘を失い、妻アルマとの亀裂が進む時期に書かれた7番には、作曲家の個別の事情も影響している。
9番の萌芽的なモティーフもあり、この作品を書いているときのマーラーは首の皮一枚で現世とつながっていたようにも思える。
マーラーがそのような境涯の中で、「生きるべきか、死ぬべきか」というぎりぎりの心境を作品化したのが7番であった。
それが、膿のような、堕落すれすれの、不条理の塊のような、それでいてロマン派最高の音楽になったのは、人類というものがたった一人で進化するものではなく、つねに集団として進化するものだからで
21世紀にインターネットが普及したように、19世紀末には死(無意識)と芸術に対する思考が進化したのだ。マーラーはそこで、世間を劇場にして才能を揮うしかなかった。

鳥獣たちのコーラスのような第2楽章、闇に包まれる第3楽章に続く、第4楽章「夜曲」の美しさは格別であった。黄金色の天国の光が溢れ出し、ギターとマンドリンの優雅な歌はマドリガルのように感じられた。
それはまさに、前半で演奏された武満の「夢の時」に等しい世界だったのだ。
惑星同士が衝突するような激しさで始まった第5楽章で、「この先も生きるしかない」と決意したマーラーのありったけの勇気を受け取った。遺書を破り捨てた後の覚悟のような圧倒的な強靭さを感じた。
「日本人の繊細さ」を強みにしてきた印象もあった山田さんが、こんな岩を砕くようなサウンドを鳴らすことに驚き、山田和樹の「等号の魔術」がここでも働いていることを直観した。西洋の死角をつくことができる日本人の視点こそが、西洋自身も気づかなかった本質を見ることができるのだ。

終演後に訪れた楽屋では、いつものように大勢の山田さんのファンの方々がごった返していて、縁日か何かのお祭りのようで、その景色がいつもにもまして天国に見えた。
マーラーの苦悩が、優しい日本の音楽ファンの微笑みに囲まれていた。
「そうか、やはり存在はイコールなのか…」と微笑むしかなかったのである。