小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

新国立劇場『エウゲニ・オネーギン』(1/24)

2024-01-31 01:18:22 | オペラ
新国立劇場で上演中の『エウゲニ・オネーギン』の初日を鑑賞。最近の新国の客層は若い女性や学生のカップルが多く、この日もいつものオペラファンとは違う雰囲気の人々で客席が埋まっていた。ドミトリー・べルトマンの演出はコロナ前の2019年が初演だから、5年ぶりの再演となり、時の経つ速さに驚く。明快な演出で、つねに舞台の中央に設置される円柱風(実際は円柱ではない)の4本(三幕では8本)の柱が印象的。冒頭の女性たちの重唱は、田舎の安穏とした暮らしが、もはや倦怠を超えて憂鬱の域に達していることを、ノスタルジックな旋律で表していく。タチヤーナをロシアのベテランソプラノ、エカテリーナ・シウリーナが演じ、妹オリガを同じくロシア出身のアンナ・ゴリャチョーワが演じ、姉妹の母ラーリナを郷家暁子さん、乳母のフィリッピエヴナを橋爪ゆかさんが演じた。

まだかなり若く見える指揮者、ヴァレンティン・ウリューピンが東響から神妙で重層的なサウンドを引き出していて、チャイコフスキーの書く旋律はなぜここまで憂いに満ちて美しいのか感傷に浸った。機微を感じさせる合奏で、デリケートな色彩感があり、確かにロシアの情景が見えてくるようだった。

オネーギンは長身でハンサムなバリトン、ユーリ・ユルチュクが登場の場面から素敵で、この役に理想的な雰囲気をまとっていた。厭世的でプライドが高くすべてに退屈している若者で、タチヤーナとはお互いに似たもの同士の気配を感じる。タチヤーナはすぐにふられてしまうのだが、出会いの場面では相思相愛に見えるし、オネーギンも積極的にタチヤーナと二人の時間を作ろうとする。これではタチヤーナも「脈アリ」と思っても仕方がない。
新国初登場のゲスト歌手たちは粒ぞろいで、レンスキー役のテノール、ヴィクトル・アンティペンコが存在感のある美声で聴衆をあっと言わせた。フランスオペラの重い役…ウェルテルやファウストやホフマンを歌っても素晴らしいはず。オリガ役はこの演出では衣装とヘアメイクが気の毒(!)だが、アンナ・ゴリャチョーワが深いメゾの声で(思いのほか深い声質)姉との性格の違いを表現した。

タチヤーナがオネーギンに手紙を書く場面は、心臓が破けそうだった。何度見ても崩れ落ちそうになるシーンで、原作では恋文というより「同志宣言」のような勇ましい内容だったと思うが、オペラでは恋する女性の告白そのもので、初恋でありながら、同時に性的にも激しい衝動が生まれていることを吐露している。精神的な愛が官能的な愛に直結していることを、内気な文学少女のタチヤーナはオネーギンとの出会いで一気に理解してしまう。

オネーギンの理路整然とした拒絶は残酷で、ユルチュクはこの場面が一番魅力的だった。
チャイコフスキーのオペラは見事に鏡像的で、3幕でオネーギンの手紙を破棄する人妻タチヤーナもそうだが、その間にレンスキーの死があり、そこが折り目になって最初と最後が鏡合わせになる。オネーギンとの決闘で儚く散るレンスキーは、タチヤーナの身代わりであるように思えて仕方なかった。同じ挑発と裏切りに対して、女は泣くだけだが男は殺し合いを申し出る。死を意識したレンスキーの絶唱は真のハイライトで、テノールのアンティペンコが魂を尽くした熱唱を聴かせた。

オネーギンの話は有閑階級の戯言、という解釈もある。プーシキンの原作は読みづらく、いつも途中で挫折するが、確かに差し迫った貧困や戦争といったものからは隔絶された上流社会のあれこれが描かれている。
タチヤーナの傷つきやすさに、年をとってますます同情する自分が可笑しかった。断崖絶壁に立たされて、「この想いは妄想だろうか、現実となるだろうか」と祈る。生と死の境目を彷徨って書いた手紙を馬鹿にされ、玉突き事故のように事態は極端に悪い方へ転がっていく。
思うのは、タチヤーナの恋はただの恋ではなく、生まれて初めて出会った分身への愛であり、生きていることの証を相手から得たいという渇望だったということで、甚だこの世的ではない。オネーギンとタチヤーナは磁石のマイナス同士で、似すぎているのだ。

三幕で少ししか歌わないグレーミン公爵は「歌い得」としか言いようがないいい役で、バスのアレクサンドル・ツィムバリュクがロシアの地熱を思わせる低音で若妻タチヤーナへの愛を歌って大喝采を得た。
今更なぜオネーギンが人妻になったタチヤーナを追いかけるのか、特に女性はこの心理を由々しく不可解に思うことが多い。他人のものになって悔しいから。過ぎ去った青春の象徴だから。クランコ振付のバレエ『オネーギン』を見たときも、毎回色々なことを考える。
チャイコフスキーは男の心も女の心も持っていたと思うが、オネーギンの男の心がここで露になる。「同じ女が見違える姿になった」ことが、性的な好奇心を刺激したのだ。タチヤーナの拒絶の理由についても、いくつもの解釈がある。オネーギンの残酷さ、移り気に対する報復である以上に、この一連の出来事の中に一人の人間の死があったことが重要だと思った。
レンスキーの愚直さはタチヤーナの愚直さであり、レンスキーはタチヤーナの身代わりとなって死んだ。
それでもラストシーンで心が裂けそうになるのは、この男女の愛が同類の魂との因縁で、タイミングの悪さによって成就せず、何かが来世に持ち越されているからだ。

タチヤーナ役のシウリーナの声はどこまでも透明で純粋で、声楽的に体裁をまうまく保とうなんてしなくても、ドラマに身を委ねれば素晴らしい歌になることを証明していた。道化的なトリケを歌った升島唯博さんは美声で演技も素晴らしく、本来ヒロイン役が似合う郷家暁子さんは若い男に目がない母親役をコミカルに演じ、橋爪ゆかさんも老け役のフィリッピエヴナを温かく演じた。稽古場はどのような雰囲気だったのだろう。この難しい時代に、ロシア出身の歌手(シウリーナ、アンティペンコ、ゴリャチョーワ)とウクライナ出身の歌手(ユルチュク、ツィムバリュク)が同じ舞台に立っていた。日本の劇場でそれが実現することが、何より平和の証だった。


Ⓒterashi masahiko








イーヴォ・ポゴレリッチ(1/27)

2024-01-30 14:00:00 | クラシック音楽
サントリーホールに開演20分前に到着。ホールでは(いつものように?)毛糸の帽子を被ったポゴレリッチが薄明りの中でピアノを鳴らしていた。これは何のメロディか。ホテルのラウンジで流れるムーディな曲にも聴こえるし、もしかしたら有名な作曲家の曲なのかも知れないが、ひたすらくつろいだ感じで耳に心地よい。足を怪我したのか、腰が悪いのか、杖を脇に置いている。歩くのには不便はないが、椅子から立ち上がるときに必要らしい。開演10分前くらいに袖に引っ込んだが、あのようにして「今日のホールの気配」を感じながら指慣らしをしていたのだろう。

開演時間を10分くらい過ぎてピアニスト登場。ショパンの「前奏曲 嬰ハ短調 Op,45」から何かを思い出すように訥々と音楽を奏で始める。ロシア芸術のある概念に、失われたときをともに生きる(ペレシバーニエ)というものがあるが、この演奏もピアニストと何かを再び生きているような気持ちにさせるものだった。ピアニシモが砂金のように美しく、どの音も注意深い響き。強い音は雷神の登場のように衝撃的に胸に届く。ポゴレリッチはOp.28の『24の前奏曲』も若い時代にレコーディングしているが、ショパンを嫌う(!)ピアニストもいる中で、ポゴレリッチは作曲家の想像世界の揺り篭に揺らされているように快適そうだ。Op.45の前奏曲では、短い曲の中でいくもの層の次元が見え、ショパンの見ていた特異なファンタジーを追体験するようだった。ステージは暗め、客席はいつもより明るめで、お互いの世界の断絶がほとんどない。楽譜の扱い方もいつものポゴレリチ流で、物神崇拝のかけらもない無造作が、それに見慣れた聴衆のくすくす笑いを呼んでいた。

シューマン『交響的練習曲』Op.13(遺作付き)は壮麗で巨大な音楽だった。
これ以上ないほど暗鬱に始まり、そこに続く5曲の遺作、第12番フィナーレまでの変奏が圧倒されるような音圧で展開されていく。ペダルの使い方が特徴的で、短く刈り込まれた響きが、譜面に欠かれた音譜を焼き印のように「見せた」感じがした。シューマンにおいては「対話」ということが重要なのだと再認識する。動機と動機、右手と左手、ピアニストと聴衆。「大胆さ」と認識されていたポゴレリッチの解釈が、実はとても細やかな「譜面との対話」から生まれていると気づく。

ポゴレリッチの独創性については色々なふうに言われてきたが、奇々怪々なだけであったら毎回2000人の客席が満員になるはずがない。ヨーロッパでは30年前からどのホールも満員だ。日本は優等生文化の国だから、一部での理解が遅かったのかも知れない。プログラムに掲載されている過去の来日記録がありがたい。ショパンコンクールの翌年の81年が初来日。日比谷公会堂で二日間やっている。私が初めてライヴで聴いたのはかなり遅く2005年。最後のラフマニノフが終わったのが物凄く遅い時間で、トータルで3時間以上かかった。サントリーだけの来日の年も多い。ポゴレリッチの本質、正体について「本当のこと」を言い当てるのは難しい。ここ数年の演奏を聴いて強く思うのは、つねに聴衆とともにあるピアニストで、聴衆と演奏家はふたつでひとつのものである、ということを誰よりも深く教えてくれる。斜めのものをすぐに真っすぐにしようとする感性にとっては簡単には分かりづらいが、もう少しことの本質に踏み込んでいけば、演奏されていることのすべてが「愛」を源泉にしていることに気づく。

後半のシベリウス「悲しきワルツ」は、最初何が始まっているのかわからなかった。この上なく孤独で、死後の世界を浮遊しているような左手に、右手のシンプルな音が優しく訪れて、この曲がワルツであり、調性音楽であったことを急激に思い出させる。氷点下から一気に温かい温度になり、色彩がもたらされ…愛が生まれる瞬間のようだった。ほうぼうを旅してきた両手はひとしきり愛の逢瀬をしたあと、再び暗闇の中に消えていく。凄い「未練」のようなものが余韻に残った。

シューベルト『楽興の時』はなぜこの曲を選んでくれたのか、とにかく聴けることが嬉しかった。自分自身が10 代の頃グルダの録音を何度も繰り返して聴き、全部の曲を練習した。何の偶然か、聴き手である自分とポゴレリッチの解釈が一致しているところが大きく、まるで「失われた時」を追想するような、幼少期の記憶の面影を掘り起こすような演奏だった。
第1曲は寂しい冬の夕暮れに、遠くで鳴っている踏切の音が聴こえる。そういうセンティメンタルな聴き方はどうかと思われるかも知れないが、子供時代の言いようもない寂しさが思い起こされた。第2曲はルイ・マルの感傷的な映画にも出てくる曲で、ユダヤ人少年が主人公の前で見事に弾く場面がある。静寂が背後にある曲で、一種異様な転調が何度もなされるが、ポゴレリッチは容赦ない断絶感でその転調を表現していた。
第4曲は別の曲のようで、メランコリックな旋律線が点描画のように解体され、新しい絵が構成されていた。モザイクのだまし絵のイメージ。その中にシューベルトの不思議な魂が感じられた。第6曲は指にも心にも優しい曲で、楽想の裏側に何かが潜んでいると感じさせる。個人的に愛しか感じられない曲で、一音一音が有難く、陳腐さのかけらもないピアニストの再現能力に驚かされた。「クレメンティのソナタは日本の蛍茶碗の美しさ」と以前語ってくれたポゴレリッチ、シューベルトは優しい冬の光の表現だった。

杖の件もあり、立ったり座ったりは難儀だったのだろう。そのままアンコールのショパンの夜想曲Op.62-2が演奏された。終わり際に、オペラの「椿姫」のラストシーンのような音が鳴る。死にかけていたヒロインが「蘇った…私は生きる!」と高らかに歌って息絶える場面によく似ている強い音があるのだ。もちろん、そう感じるのもポゴレリッチの演奏を聴いたときだけ。
赤ん坊の頃から、人間は他人の愛を必要とし、食べ物や水が与えられても愛情を与えられないと死に至る。ポゴレリッチの演奏に反応するのは、いわく言い難い愛のバイブレーションがそこにあるからで、千の理屈にも勝る癒しが存在する。ピアニストと聴衆は本来ひとつのものである、という確かな認識に到達した、不思議な温かさに溢れた時間だった。