小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

マウリツィオ・ポリーニ ピアノ・リサイタル(10/18)

2018-10-19 12:44:59 | クラシック音楽
サントリーホールでの10/18のポリーニ・リサイタル。発表されていたシェーンベルク&ベートーヴェン・プロからショパン&ドビュッシー・プロに曲目が変更になり、前半はショパンのノクターンとマズルカと子守歌、後半がドビュッシーの前奏曲集第1巻が演奏された。腕の疲労が回復せず、10/11のリサイタルも10/21に延期となっていたので、何よりピアニストのコンディションを案じながら会場へ向かった。
やや前かがみになってゆっくり歩きながらピアノに向かうポリーニは、元気いっぱいという雰囲気ではないが、数年前より足取りが確かになっている。
ノクターン7番(op.27-1)からポリーニ持ち込みのスタインウェイが幽玄な音を放射しはじめた。複数の声が聴こえるような不思議な響きで、ホールのアコースティックと完璧に調和したミステリアスな余韻がある。悲しげな横顔のポリーニはピアノを聴くことでますます沈鬱な世界へ潜っていくようだった。六連音符の左手の伴奏が、底なしの湖を幻視させ、20万人の死体が埋もれているというロシアのバイカル湖のことを思い出した。ロシア革命を逃れて湖を渡った20万の民が行き倒れて凍死し、春の兆しとともに一人、二人と音を立てて水の中に沈んでいったという。そんな怪しい湖を連想させた。ポリーニのスタインウェイのふたが鈍くステージの壁面に反射し、より湖っぽい雰囲気を醸し出していたと思う。
続くノクターン8番(op.27-2)の目覚ましさは譬えようもない。歌曲のような主題が次々と美しく変奏されて蠱惑的なシルフィードたちのように空気の中に現れるが、やはりここでも湖とか沼のような場所を感じた。水が淀んだまま、時間の流れをせき止めている。何も解決されないが、つかの間の癒しのような美的瞬間だけが幾度も訪れる。アファナシエフがショパンのあるノクターンについて「水たまりのような地獄」と記していたのを思い出した。
続く作品56の3つのマズルカは、幻想マズルカであり葬送マズルカであり、夜想マズルカの趣をなしていた。地上の人間たちの営みを、別の世界から観察しているような「舞曲」で、面影と色彩が水のように移ろっていく、詩的で厭世的な音楽だった。

ポリーニほどショパンを素晴らしく演奏をするピアニストはいない。偉大なのはバッハ、ベートーヴェン、ブラームスと決まっていて、シューマンの音楽には生きる希望があるがショパンはただの装飾品だ、と一蹴するピアニストもいる。確かにショパンには希望がない。同時代人のメンデルスゾーンはショパンと同じように天才として生きて夭折したが、メンデルスゾーンの曲を聴いていると、天からの祝福としてこの世に遣わされ、わずかの時間地上で働き、また故郷である天国へ戻っていった人のような印象を受ける。モーツァルトやシューベルトにも同じものを感じる。ショパンは生きているときもあの世でも、救いのない世界に存在しているのではないか…光は夜空の星のようにちらついているが、基本的には孤独な夜の世界の住人だと思う。ポリーニのショパンは、贅沢品でも空疎な装飾でもない、壮絶なまでの孤独を伝えてくる。「頑張って生きていてよかった」というような大団円の人生には、直線的な時間のストーリーがあるが、ショパンの音楽はそうした物語的な時間から外れたところにいて「この世に存在するということは、いいことであるとも悪いことであるとも言えない」と語っているようだ。
ポリーニの苦渋の表情からは、ショパンの永遠に癒されない魂と同じ質のものを感じる。
宝石のような16番のノクターンのあと、前半の最後は愛らしい「子守歌」だったが、ポリーニのピアノの魔術性をはっきりと感じる演奏で、赤ん坊のまどろみというよりも、この世とあの世の境目で、再び生れ落ちようか黄泉の世界にとどまろうか、神に翻弄されている魂が右手の半音階の中で転がっているという印象。
それでも音楽は魅惑そのもので、ポリーニ・ピアノの響きは優しさと温かさに満ち、聴衆はえもいわれぬ幸福感に包まれた。

ポリーニは18歳で完成されたピアニストだった。10代でショパン・コンクールに優勝し、コンクールの名声を高めたが「我々の誰よりも見事に弾ける」と審査員から賞賛されたにも関わらず、8年間沈黙する。18歳のポリーニには泉のごとく溢れ出るような才能があったが、若いピアニストが才能だけで弾いていけない、という抑止力や節度のようなものが当時のクラシックの世界にはあったのかもしれない。40年後、同じく18歳で優勝したユンディ・リがポリーニと正反対に派手な演奏活動を始めたことを思うと、ポリーニの8年間は正解だった。若きポリーニは、ただ輝いていることを許されず「いぶし銀」にならなければならず、「才能だけで弾かない」という負荷をかけられてキャリアをスタートさせた。
そんなことを考えて休憩時間にぼんやりしていたら、ユニバーサル・レーベルの藤井さんと話す機会があり、ポリーニがありとあらゆる楽譜の版を知り尽くし、その手の質問をすると何時間でも語れる人であることを知った。ポリーニ自身が音楽学者で、無数にある演奏表現の可能性の中から、究極の解釈を選び取り=あるいは構築して、鍵盤に向かう人なのだ。そこにかけられる時間というのも膨大なもののはずだ。ポリーニの痛みに耐えているような顔は、時間というクロノス神にとらわれている者の苦痛の表情なのかも知れない。


後半のドビュッシー『前奏曲集第1巻』は、ポリーニの二つの時間が縦糸と横糸となって織り合わさった素晴らしい世界だった。
まず、和声の革命児であったドビュッシーのありとあらゆる過激な音の組み合わせが、忍耐強い打鍵とペダルの研究からすみずみまで吟味され、ピアノの響きとホールの特性まで配慮された科学的な準備の時間があった。
そこに、18歳の頃からポリーニがふんだんに持っていた「直観」が閃光的な縦糸の時間となって織りてくる。即興精神に溢れ、遊び心に輝いた「ひらめき」で、本人も永遠にとらえられないすばしこい動きの妖精のような何かだ。煌めく金糸や銀糸がツイードのような表面を創り上げていく。
ドビュッシーは「とだえたセレナード」からそれまでの演奏がさらに次元が急上昇していく感触があった。この夜のポリーニはとても冴えていたと思う。「沈める寺」では、大胆なほど強烈なアクセントがいくつも垂直に振ってきて、幻想的でありながらも危険なほどワイルドで予測不可能な世界が繰り広げられた。「パックの踊り」「ミンストレル」と一息に弾き切って、尋常ではない空気が聴衆を包み込んだ。
ポリーニは見事なヴィルトゥオーゾであり続け、そのピアニズムが衰えるどころか、過激に進化し続けていることが証明されたのだ。アンコールの「花火」が終わると、一階席はほぼ総立ちになった。ピアニストが聴衆の前で演奏するとはどういうことなのか、ホールにいなければ理解できないことが痛いほどに実感された。

70年代の完璧無比なショパンのエチュードの録音は今でもポリーニ伝説を不朽のものにしているが、ポリーニは昔録音した同じレパートリーを再び、修正を入れずに録音し続けている。「ポリーニ? 昔は完璧だったが」と語る人が数えきれないほど存在することを知って、彼は何かを証明しようとしているのだ。それは「時間」の正体ではないか? 変化するものと変化しないもの、重ねてきたものと「今ここなしかないもの」をごっそりと聴かせてくれたリサイタルで、ポリーニという芸術家への信頼がいよいよ高まった。一人の人間が長い期間をかけて見せ続けてくれる「生き様」のようなものにも感動したが、どの音楽家よりもピアニストが見せてくれる姿は迫力がある。ピアニストが最も苛烈な煉獄を生きているように思えるからだ。