小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

藤原歌劇団『ラ・ボエーム』(1/30)

2021-01-31 23:23:03 | オペラ
藤原歌劇団『ラ・ボエーム』初日を鑑賞。東京文化会館でオペラ公演が行われるのは2020年2月の二期会『椿姫』以来だという。ミミ伊藤晴さん。ロドルフォ笛田博昭さん、ムゼッタ オクサーナ・ステパニュックさん、マルチェッロ須藤慎吾さん、ショナール森口賢二さん、コッリーネ伊藤貴之さん。鈴木恵里奈さん指揮・東京フィル。

岩田達宗さん演出のボエームは2014年に観ており、そのときは稽古見学もさせていただいた。役作りに関して妥協のない稽古で、特に心に残っていたのは、この時代の「貧困」の意味が男と女では違っていて、ボエームに登場する青年たちはまだ人生の重みを理解しておらず、一方女性は既に身に沁みて生きることの過酷さを実感している…という岩田さんの言葉だった。
今回はコロナ感染対策を踏まえての演出で、フェイスシールドの使用やカフェモミュスの場面での合唱の少なさ(児童合唱は事前に録音し、舞台には登場せず)、重唱でのディスタンスなどさまざまな変更が行われていたが、肝となる「男女の落差」というテーマは根強くオペラを貫いていた。

冒頭からはじまる屋根裏部屋の喧々諤々は歌手たちにとっても大変な場面で、めまぐるしくテンポを変えるオケとともに、ジェットコースターのような声楽のパスワークが行われる。歌詞もところどころ奇々怪々で「パセリを食わされた死んだオウム」の字幕を見て、毎回歌詞を忘れている自分に気づいた。プッチーニは『ファルスタッフ』の見事なアンサンブルを自分のオペラでも再現したかったのかも知れない。詩人、画家、音楽家、哲学者の卵たちの元気なやりとりは楽しく、まるで5人目の若者のように…指揮者の鈴木恵理奈さんがピットで飛び跳ねているのが見えた。プッチーニはオペラ指揮の中で最も難しい…というピーター・ゲルブの言葉を再び思い出す。東フィルはこのオペラをよく知っているというのも心強いが、指揮者も大変な度胸がいるだろう。来日不可能となった指揮者の代役だったが、新鮮な音楽に触れることが出来た。

ロドルフォ笛田さんとマルチェッロ須藤さんというのは、つくづく藤原のドリーム・コンビだと思った。血気盛んな若者を演じる二人の掛け合いは情熱的で、見逃してしまいそうなほど細かく作り込んでいる須藤さんのお芝居には唸らされた。「冷たい手を…」では、笛田さんのハイCを楽しみに待ち構えている聴衆の「圧」のようなものを肌で感じたが、短いアリアなのに、この音に至るまでにプッチーニはテノールに地獄の13階段を上らせる…笛田さんは勇敢で、高音も見事だった。
ロドルフォはもっと夢想的な部分があってもいいかな…とも思ったが、雄々しいテノールのアリアと「私の名はミミ」とのコントラストは美しかった。男の歌のあとの女の歌であることが強調された。ミミの伊藤晴さんは、2014年の公演ではムゼッタだったが…完璧なミミだった。受け身で慎ましく可憐。「あっ、鍵をなくした」と戻ってくるミミの一声は、台本としてかなり「ケモノっぽい」(!)と思うのだが、まったく嫌味がなかった。

ミミとは何者か…「食事はたいてい一人でとります。教会にはあまり行きませんが、お祈りはしています」という歌詞は、現代から見るとあまりに可哀想でみじめだ。ロシアの7つ星ホテルで、両手のほとんどの指に大きなダイヤをはめていたマリア・グレギーナにインタビューしたとき「この人にミミは歌えないな」と思ったのを思い出す。実際グレギーナはトゥーランドットを歌うが、ミミは歌わない。現代のソプラノ歌手にとってミミを演じるというのはどういうことなのか、改めて考えた。この役はファンタジーなのか、時代遅れの悲劇のヒロインなのか。

伊藤晴さんのミミの発声は清らかで、どこか聖母を彷彿させ、ロドルフォの突き上げてくるパッションを受け止める海のような大地のようなおおらかさが感じられた。ミミは演じすぎてもいけない。それでも3幕のアンフェール門のシーンでは、泣き崩れるミミの姿に胸がつぶれた。4幕では毎回客席で誰かがすすり泣いているのが聴こえるが…オケが「風前の灯」のような悲しい音を出すから泣けるというのもあるが…プッチーニはこのオペラに「弱い性」の宿命的な悲劇を見ていた。

ミミは小さな世界で生きていて「これだけのものしか持っていない」という貧しさを隠さず表す。まったく男女同権時代にふさわしくない、ちっぽけでみじめな存在だ。パスカルの「パンセ」の、有名な「人間は考える葦である」という言葉を思い出した。デカルトは「すべては論理だ」と主張したが、パスカルは人間はか弱い葦であり、幾何学的知性だけでは不完全で、繊細さなしでは哲学は築けないと反論した。男性の強さ=論理だけでは世界は見えないのだ。英雄でもない、平凡で貧しいミミは、祈りと刺繍の日々の中でひっそりと尊厳を保つ「考える葦」であった。

新国の「トスカ」を見たばかりということもあって、わが脳内ジュークボックスはテノールの「冷たい手を…」「妙なる調和」「見たこともない美女」(マノン・レスコー)がループしていた。似たような歌で、初対面の女性に対して愛を語っていたり、教会でお祈りをする知らない美女に対して憧れを抱く歌だったりして、いずれも相手のことをよく見ていない。恋は盲目、の歌で、お互いをよく知ったからといって素敵なアリアが出て来るわけではない。女の方もそうした男の妄想なしでは生きていけないし、愛の夢をみることも出来ない。

最高のラブストーリーとは誤解の産物で、そこに生産性はない。儚い美があるだけだ。『蝶々夫人』のストーリーを悪くいう人があまりに多いので、あの話が大好きな私は毎回困ってしまうのだ。プッチーニが手を変え品を変え語る恋愛論は、あまりに見事で、そこに人間の鋭い本質が描かれていることを認識する。指揮者の鈴木さんは大物で、「女性の前ではつい暴走してしまう」男性心理も生き生きと描き出していた。オペラは指揮も演出も、両方の性を分かっていないと出来ない。ピットに若い女性指揮者が入ると、マエストラを軽視する伝統があるオケもあると聞いたことがあるが、東フィルはそんなことはしないのだろう。有難いサウンドだった。

『ラ・ボエーム』は確かに哲学的なオペラで、ラスト近くで哲学者のコッリーネが歌う「古ぼけた外套よ」は、そのことを強く印象づける。バスの伊藤貴之さんが、姿形も19世紀の人物のようで凄い迫力だった。ここだけプッチーニはヴェルディのような書き方をしているようにも思う。コッネーネ唯一のソロで、厳粛な気持ちになった聴衆は大きな喝采を送らずにはいられなくなるのだ。
ムゼッタのオクサーナ・ステパニュックさんはコメディエンヌ的な軽妙さでヒロインと正反対のモダンな女性を演じ「ムゼッタのワルツ」も楽しく聴かせた。声量よりもニュアンスと音程の正しさで聴かせ、3幕のマルチェッロとの痴話げんかも良かった。あの男女の罵り合いも充分に哲学的で、プッチーニほど男女のことをよく知っている作曲家もいるだろうか…と思ってしまう。
フェイスシールドは一幕のミミとロドルフォの出会いのシーンでは外され、ラストでは装着されていたが、万難を排しての上演には感謝しかなかった。しつこいようだが、この世界になくてはならないオペラは「トスカ、ボエーム、蝶々さん」だと改めて認識した(!)公演だった。





新国『トスカ』(1/23)

2021-01-25 01:30:41 | オペラ
新国『トスカ』の初日を鑑賞。アントネッロ・マダウ=リアツの古典的な演出はこの劇場で何度か観ているが、プログラムに2000年のプロダクションとあるので初演から21年目となる。コロナ対策で演出に変更があったとのことだが、トスカとカヴァラドッシの距離は不自然ではなく、客席からはドラマに充分に沿った絡みをしていたように見えた。トスカはこの役がデビューだった(2013年)イタリア人キアーラ・イゾットン。カヴァラドッシはスター歌手フランチェスコ・メーリ、スカルピアはウルグアイ出身のバリトン歌手ダリオ・ソラーリ。指揮はダニエーレ・カッレガーリ。オーケストラは東響。

印象的だったのは、冒頭の3つの音が、爆音ではなく非常に示唆に富んだ「それほど大きくない音」だったことで、圧政者スカルピアを象徴する恐怖音なので、大くの指揮者は序章の刻印として暴力的な音を出す(譜面ではfff)。ダニエーレ・カッレガーリは含蓄に富んだ、心理的に怖い響きを東響から引き出し、その後もオペラの先入観を覆すような「繊細で一歩引いた」音楽を奏でた。弦の響きが特に美しく、トスカとカヴァラドッシがいちゃつく場面(!)では愛の陶酔そのものの夢心地のサウンドとなった。『トスカ』は改めて人間関係が重要なオペラなのだ。

フランチェスコ・メーリは気品あるオーラで、登場してすぐ『妙なる調和』を見事に歌い切り、客席から長い喝采が巻き起こった。勢いがあり、正確で華があるアリアに満足。カヴァラドッシは強い声だが、がなり立てないのが良かった。堂守の志村文彦さんは、新国でこの役をやられるのは何度目だろう。ますます磨き込まれていて、ぶつぶつ言いながら筆を洗うシーンも、腰を痛そうにして歩く仕草もリアルで素晴らしかった。

イゾットンの「マーリオ!マーリオ!」の声がとても深く、ほとんどコントラルトのように聴こえたので一瞬驚いた。正真正銘のソプラノで高音も伸びるが、声に独特の憂いがあって、違う声種にも聴こえる。ネトレプコはベルカントからスタートして徐々に重い役に成長していったが、イゾットンは若いうちから既に声に重みがあるのだ。メーリの明るい声とのコントラストが最初のうち不思議だったが、ドラマティックで演技力もあり、どの場面も迫力満点だった。30代前半くらいだろうか? 若いトスカはいいものだと率直に思った。

スカルピアのダリオ・ソラーリは上品な紳士の風情で、「テ・デウム」もそれほどどす黒くなかった。音程をしっかり守って、輪郭を保ちつつ正確に歌うタイプなので、悪代官も嫌らしさが少な目なのだ。ヴェルディやベルカントのレパートリーがメインとプロフィールに記されているが、必要以上に威嚇しないスカルピアというのもある意味深読みできる「怖さ」がある。
 
それでも二幕では、スカルピアもほどほどに腹黒さを増す。一幕の一瞬で空気が転換していくオーケストレーションも見事だが(トスカ去る→カヴァラドッシとアンジェロッティの会話→アンジェロッティ逃走と堂守の再登場→児童合唱のくだりは手品のよう)、二幕は聴いていて全身が息苦しくなるほど圧倒される。あまりにリッチなスコアなので、それを聴いていることが快感なのかストレスなのかも判別しがたくなるのだ。拷問もレイプ未遂も殺人もファルネーゼ宮の「密室」で起こり、そうした美術が作られるが…オーケストラもつねに「密室」をサウンドで作り上げる。四方八方からの圧が凄いので、最終的に誰かが血を流さなければならないのは、物理的な帰結にも思える。五線譜でここまでの演劇を書き上げたプッチーニは、間違いなく規格外れの天才だった。

メーリの「勝利だ!」の熱唱、イゾットンの「歌に生き愛に生き」には完全に魅了されたが、二幕で大変なのはスカルピアとトスカの「真剣勝負」で、芝居的にも集中力を求められる正念場だと思う。イゾットンの初々しい、少しの嘘もない表情に胸打たれた。自由と誇りと愛する男を傷つけられたトスカが、スカルピアの心臓を一刺しする瞬間に、これほど共感したことはない。

古典的演出が素晴らしいのは、それぞれの幕がひけたときに「さっき死んだのは嘘ですよ」と登場人物が飄々と出てくることで、個人的にそこが大好きだ。血で息が詰まってもがき苦しんだスカルピアは、喝采のときポケットから何かを出して客席にアピールしたかったようだが、うまくいかなかったみたいでニコニコして袖に引っ込んだ(何を見せたかったのだろう)。

歌手の熱演にも増して、この再演では指揮者のプッチーニ解釈に感銘を受けた。カッレガーリはミラノ出身で、スカラ座管弦楽団に12年いたというが、オペラと音楽全般に対して非常に柔軟で広範な知識を持っている音楽家だと感じた。ヴェリズモ然としたところが少ないのは、恐らく歌手の声質に合わせているのだろう。「濃いドラマ」を聴かせようとすると掻き消えてしまうような、レース編みのような見事なオーケストレーションを詳しく聴かせてくれる。初日だが、東響は素晴らしい演奏をした。三幕の入りのとき、指揮者への喝采がそれほど大きくなかったのが気がかり。「濃い口」のドラマを求めてきた人は、もしかしたら予想外だったかも知れないが…オペラに対して内なる理念を秘めた、卓越した指揮者だと思う。

3幕では、予想外のシーンで涙した。好きなオペラは「トスカ・ボエーム・蝶々さん」と言って憚らない自分だが、『トスカ』は泣くオペラではない…しかしこの演出では、カヴァラドッシを救いに来たトスカが「あなたはお芝居で処刑されるの!」と言った瞬間に、本人は自分の死を理解している。大きな声では言わないが、メーリの姿を見ていればそれは明白だった。死を覚悟したカヴァラドッシが、お喋りなトスカに「ずっと喋っていてくれ…」と語るくだりは、絶望的な孤独感とともにある、最後の愛情表現に心臓が止まりそうになる。処刑されたカヴァラドッシを確認しようとするトスカに「お姫様、さあご覧ください」とばかりにお辞儀をするスポレッタの今尾滋さんが、最後まで気を抜かない見事な演技だった。
『トスカ』は1/25、1/28、1/31、2/3にも上演される。

















都響×インバル ベートーヴェン・プロ(1/19)

2021-01-20 16:12:39 | クラシック音楽
都響スペシャル、マエストロ・インバルとのベートーヴェン・プロ。東京芸術劇場でのマチネ公演で、久しぶりに芸劇の一階席で聴いた(後方)。何の符牒か、年末から続けて旧約・新約聖書と関わり合いのあるオペラやオラトリオを聴いていたせいで、インバルがエルサレム出身の指揮者であるということを強く思い出していた。BCJの『メサイア』『エリアス』、二期会の『サムソンとデリラ』…それらと、この1月の都響の二つのプログラムは、自分の中ではひとつのストーリーとなっている。
『エリアス』は、英名でエライジャ、東方教会系でイリヤとなる(『エリアス』のプログラムより)が、一番響きが似ているのは「エリアフ」ではないかと思った。「インバル」は芸名だが、エリアフは本名のはずで、もしかしたら「預言者」という意の男子の名なのでは…ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の3つの聖地であるエルサレムに生まれ育ったインバルは、親戚縁者にも宗教関係者が多く、自身も宗教的な環境で教育を受けた(『カディッシュ』上演時のインタビュー記事に詳しい)。

ベートーヴェンの『田園』は、自然な音楽だった。インバルは悠々とした姿で、オーケストラに全面的な信頼を置き、ところどころ激しい身振りも加えながら振っていた。一人ひとりのプレイヤーが真剣に「指揮者の意図のひとつも漏らさずに表現しよう」と取り組んでいた様子がうかがえる。インバルは地上の時間を超えたようなところにいる人だが、「高齢で足腰や耳が衰えているのでは」などという「誤解」が少しでもあってはならない…とオケが水をも漏らさぬ真剣さで演奏している。奇矯なところはなく、優美な広がりを持ち、全パートが隅々まで正確に鳴らしていた。インバルからつねにエキセントリックな「綺想」を聴こうとしていた時期もあったが、そういう心を見透かすかのように、表面的には「ノーマル」なベートーヴェンだった。

「瞑想的なベートーヴェン」だと思った。すべてがインバルの呼吸の中にあり、一人の人間の広大な意識の中に包まれていた。先日のブルックナー3番《ワーグナー》でもそのような感触を得たが、音楽そのものは勿論異なる。異なるが、どちらも時を超えた内的な結晶を保っている。時間とともに流れ出す「偶発的な多彩さ」を作っているのはオーケストラだ。宇宙創成からただ一瞬たりとも同じでない「今このとき」をインバルはどう創造したいのか…コンサートマスター矢部氏をはじめとする都響メンバーは高度な形で具現化していた。

インバルの指揮する姿が、改めて「美しい」と思えた「田園」でもあった。遠い場所にいる管楽器奏者にチャーミングに注意を促し、楽想が変化するくだりでは、地の神様を鎮めるような抑止的な動きをする。「私はすべての時間を愛していた」と、シルヴィ・ギエムは引退時のインタビューで語ったが、インバルもそのように時間を愛している。楽譜は石のように不動で、実演の音楽という時間芸術は無数の不確実性を孕むが、この日の都響の演奏は音楽の核にある「不動のもの」に触れていたと思う。

音楽の評論をやりたいと、それらしきことを始めてから久しいが、偉大な演奏からは毎回こちらの立場の「不確定さ」を思い知らされる。音楽の方は、不動で確信的なのに、自分は曖昧で現象的なことばかり追跡しようとしている。相手とは精神の大きさが違うのであって、こちらはまるで小さい。何かをかすめ取ろうとする泥棒のように思えることがある。
 
後半の7番は、苦悩する世界を前に、音楽が巨大な楽観を示していた。指揮者の矢崎彦太郎さんの著作『指揮者かたぎ』で、エルサレムの街角で迷彩服を着て自動小銃を持っていた兵士が、昨日一緒に演奏していたオーケストラのクラリネット奏者だったことが書かれている件があるが、エルサレムとはそのような場所であり、インバルはそうした複雑な都市で育った。敵対する軍に脅かされ「相手に信頼を置く」ということが、最もハードである環境で、宗教や神について内省を行っていた芸術家なのだ。人間がやがて行き着く場所を、人間の立場で、神のように考えた。(こう思うことがインバルを「神格化」しているのとは別だ、と認識する)

都響のインバルに対する尊敬と感謝の念は、オケの個性としてあるノーブルな気品を高め、時間とともに崇高さを増し、尋常ならざる空気の振動を創り出していた。「そのとき」に感じた感情はやがて揮発する…と今までニヒリスティックになっていた自分がいたが、もうそういう無意味な場所からは去らなければならない。ベートーヴェンは現実を描いたのではなく、今ここにはまだない、この先に訪れるべき黄金の夜明けを記したのだと実感した。

(東京都交響楽団のホームページより画像転載)

トーマス・アデスの音楽(1/15)

2021-01-19 10:39:11 | クラシック音楽
オペラシティの「コンポ―ジアム2020」の一日目「トーマス・アデスの音楽」。指揮者として登壇する予定だった作曲家本人が来日できず、沼尻竜典氏に変更となり、ソリストもリーラ・ジョセフォウィッツから成田達輝氏に変更された。オーケストラは東京フィル。
コロナの時代となり、「死」を身近に感じる生活をしているせいか、生きている間に聞く音楽は「腑に落ちる」ものだけでいい、と思うようになった。現代音楽で腑に落ちるのは、究極的にはメシアンと武満くらい。メシアンには「情」があり、武満さんには「綺麗さ・可愛さ」があるから。どんどん原始人化する耳が聴いたトーマス・アデスの音楽は、意外にも大きな魅力に溢れたものだった。

演奏されたのは『アサイラop.17』(1997) 『ヴァイオリン協奏曲(同心軌道)op.23』(2005) 日本初演となる『ポラリス(北極星)op.29』(2010)。この3つのオーケストラ&協奏曲を聴いた印象は、アデスは年々聴衆との接点ということを強く考えているのではないかということだった。

現代音楽では曲目解説が力づよい解釈の味方になる。評論家のポール・グリフィスの解説(訳・向井大策氏)は知的かつ詩的で、文系の人間にもすっと入り込むような表現だ。『アサイラ』について「…はじめ水中深くテューバを聴いているようだが、やがて作品全体から流れ着いた漂流物が陰気な波の上を浮き沈みしはじめる」という文は、茫洋と聴いているこちらに何某かのゲシュタルトを想像してよいという許可を与えてくれる。沼尻さんの指揮は素晴らしかったと思う。東フィルはここのところどの演奏会でも最高のサウンドを聴かせるが、アデスの曲も大変ゴージャスで豊かなイマジネーションを喚起させてくれた。勝手な想像だが、このサウンドスケープから1947年のロンドンの偶景というものをイメージした。1947年というのは、単にデヴィッド・ボウイが生まれた年で、まだ配給制が残っていた貧しい時代で、ロンドンの教会の鐘の音、煤にまみれた建物の色などが音のふしぶしから連想された。「アサイラ」はグリフィスによると精神病棟やクラブのダンス・フロアの寓意でもあるらしいから、フーコーの『監獄の誕生』等を引用をしたほうがいいのかも知れない。

休憩をはさんで『ヴァイオリン協奏曲《同心軌道》』が演奏された。ジョゼフォウィッツが弾くはずだった恐らく難解極まるソロ・パートを、成田達輝さんが楽し気に軽やかに弾いた。成田さんが弾くと、晦渋さが消え、この曲の魂にあるあっけらかんとした朗らかさのようなものが浮き彫りになるのだ。むしろ「癒し」のようなものさえ感じられる。後でアデスの指揮による演奏をチェックしたが、こちらの方が重々しく深刻な印象。
各楽章には「輪」「軌道」「回転」というタイトルが付けられ、それが天体の軌道をイメージさせた。英国には占星学学会の本部があり、妖精学や魔女研究の発達があり、アデスが学んだケンブリッジ大学には占星学の講座もある。アデスがグリフィスが語るように「参照先の幅広さと完璧性」をもつ作家なら、多くの体系をインスピレーションの源としているはずで、天文学や占星学もそこには含まれていると思う。二楽章「軌道」はコルンゴルトのコンチェルトを思い出した。旋律は似ていないが、どちらも星空を想起させる。

日本初演の『ポラリス《北極星》』では、その印象が決定的になった。バルコニーに並んだ12人の金管奏者は、ヤナーチェクの『シンフォニエッタ』の金管パートを思い出させ、中世の戦隊の号令のような逞しい音を出す。それにからみつくように、ステージの上のピアノとオーケストラは無数の星を擬音化したようなカレイドスコープ的な音を奏でる。「北極星とその他の天体」を、やけにシンプルに思い出させるのだ。それがキッチュではなく、神秘的で審美的に聴こえるのが作曲家の天才たる所以なのだろう。ラストに向かって金管は王者のように存在感を増し、ペンタトニックやホールトーンスケールの切れ端が宙を飛ぶ中、我が国の「君が代」めいたアンセムが揺曳した。

アサイラ、同心軌道、北極星…と作曲家の時系列での進展を聴くことのできた演奏会だったが、音楽の印象として「どんどんわかりやすくなってきいてる」のだった。わかりやすさの定義とは何かと問われれば、「腑に落ちる」の一言に尽きる。聴いていて楽しく、満足できる。命の危機を感じる時代に「ヒーリング」として感受することが出来た。
こうした現代音楽の演奏会で、オケが「やらされている感」丸出しだったら幻滅してしまうが…時折そうした糞真面目で艶のない秀才的な演奏を聴かされることもあるが…東フィルはそうではない。贅沢な音楽であり、豊かな霊感に溢れていた。こういうことをあっさりとやってのけるのは、彼らが特別なオーケストラだからだと思う。沼尻さんの指揮はハイセンスで、途方もない世界へと聴衆を連れていってくれた。マエストロへの拍手は止まらず、私も骨折した指を庇いながらしばらく手を叩き続けた。






都響×インバル(1/13)

2021-01-14 16:32:39 | クラシック音楽
都響&インバル「都響スペシャル」二日目。ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』より「前奏曲と愛の死」、後半はブルックナー『交響曲第3番《ワーグナー》』(ノヴァーク1873初稿版)が演奏された。コンサートマスターは矢部達哉さん。サントリーホール。
マエストロ・インバルは足取りも若々しく、指揮台に立つ後ろ姿も精悍。背筋がしっかりとしていて、スマートな両脚は指揮台にまっすぐ吸い付いている。『トリスタンとイゾルデ』前奏曲の懶惰な音の洪水に埋もれながら、この危機的な世界の中で大編成のオーケストラを聴く嬉しさを噛み締めていた。欧州の殆どの劇場やコンサートホールもクローズされている中、都響とインバルがいるサントリーホールが世界の中心に思えた。

「新しい日常」が訪れて、むしろ今までの方が異常な世界だったと感じられる。2000年代はテロと自然災害と病原菌の時代となったが、何より異常なのは延々と続いてきた我々の「文明生活」だったと気づいた。生きるためにひたすら働き、モノを買わされ、老後の蓄えをし、暮らしに怯えながらちびちびと暮らしてきた。
しかしオーケストラは、ご飯とご飯の合間に見るサーカスのようなものではない。何かここには特別な価値があるから、ファンはコンサートにやってくる。演奏会はむしろ、さまざまな「文明的生活様式」が終わっても、人が人である証として残り続けるかも知れない。

聴き手はクラシックに「価値」を求める。聴いたばかりの音楽について「力のある言説」を競う。そのやり取りは、しばしば道徳性や大人の節度を超えるほど逸脱したものになり、ある特定の団体…都響のコンサートではさらに熾烈になることにずっと動揺してきた。必ずしもオーケストラはそれを望んではいない(と思う)。しかし「高度なアンサンブル力をもつ都響を愛するファン」の誇りの高さは並大抵ではなく、そこに何か意見でもすれば殺人事件も起こりかねない。

そんなことを考えながら、トリスタン…の循環コードがもたらす陶酔感と、涅槃にいるかと錯覚させるような合奏の美しさに心を奪われていた。この美の本質にあるものは何だろう。退廃的というより天上的で、天と地、神と人が近かった太古の時代を思わせる。ワーグナーの才能についてなど殆ど考えなかった。インバルがここに何を込めたのか、何を思い、何をオケに語らせたいのか…すべて「インバルの音楽」として聴いた。

前半の18分間のワーグナーの後の休憩時に「インバルは…どこまでいっても謎だ」思った。このマエストロについて何かを知ったと思うと、とらえていたのは影で、次の瞬間には実体が消えてしまう。ダイソンのドライヤーのように、中は真空なのかも知れない。
指揮者とは手旗信号のテクニックで達者な「千人の交響曲」を振る人ではなく、音楽の前で哲学的立場をとる人のことだ。文明を深く識る人…インバルの卓越性は疑いようもない。
どんな思い付きの賛辞もインバルの前では無力になってしまうのだ。ソクラテスは真の知識=エピステーメーを求め、対話する相手の盲点をつき、ドクサを暴き、対する自分は無知の人だと言った。手品師のような技だが、何かの覆いをはぎ取ることには成功したわけだ。
インバルも覆いをはぎ取る。ステレオタイプや惰性の壁紙を剥がし、覆いの向こうにあったトリスタンをオケから引き出す。
それにしてもオケはなぜいつもインバルの前では順風満帆なのか。ぴーんと帆を張った「インバル号」が、向かい風で沈没しかけたことはなかったのだろうか…大昔、若い頃にはそんなこともあったかも知れない。今のインバルには追い風しかない。

ブルックナー交響曲第3番『ワーグナー』でも、前半とまったく同じことを考えていた。作曲家のことなどどうでもよかった(ましてや稿も)。全身で浴びているのはインバルの音楽で、インバルが「今このとき」生きた音楽を、その瞬間ごとに鮮やかに現出せしめているということが重要で、ブルックナーの素晴らしいスコアは媒介なのであった。指揮者が媒介であれという人もいるが、そうでない演奏のほうが面白いとも思う。

ブルックナーの多くのシンフォニーから感じる、修道院の朝のような辛気臭さはなかった。インバルと都響のブルックナーは無敵の「強さ」を感じさせ、都響はインバルが求める「高貴なる精神が選ばれた闘い」に参戦している兵士のようだった。世俗的なものと断ち切られた世界であると同時に、人間的でもあった。インバルは音楽の中の「情」を否定しない。「美」も否定しない。どちらかというと「美」はだだ洩れるほどふんだんに音楽から溢れている。

「すべては虚妄であるが、それでも命と愛は尊いものであり、この世界にニヒリストは生きられない」と思った。世界は何かの終焉に向かっているようで、生まれ変わろうとしているようにも見える。再びゼロから始めるにしても、壊れやすい価値に依存していてはダメだ。インバルの知性は、歴史の中でいかなる哲学も宗教も国家不完全であることを見抜いてきたと思う。そうした卓越性が音楽から感じられる。都響はそれを深く理解しているので、その日そのときに起こったいかなる指揮者の即興にもついていけるのだ。
61分間のシンフォニーは素晴らしすぎて、飽きているわけではないけれど、どこで中断されても未練はなかった。インバルの時間論、音楽論は完璧で、どの瞬間も惜しみなく豊かだった。服飾史家の中野香織先生風に言うなら、インバルには「グラマーがある」のだ。

音楽は巨大なのに、聴いている自分は何かこぢんまりとしてしまっている。もしかしたらこのマエストロは「フェイク」なのかも知れない。バーンスタインは泣きながら指揮をしたし、ビシュコフは怒りながらチャイコフスキーを擁護した。インバルはいつでもひょうひょうとしている。しかし、バーンスタインのほうがフェイクだったのかも知れない。もしかしたら指揮台の上では相当な芝居を打っていたのかも…。インバルの濃密で禅的なブルックナーは、目を瞑って聞いていると、バーンスタインが滂沱の涙とともに振っているようにも聴こえるのだ。
インバルと都響は大きな帆を自慢気になびかせ、風を味方につけて勇敢に進んでいた。センティメンタルな気持ちとは別の、呆気にとられるような指揮者の哲学を見せつけられた。それはほとんど、魔術のようでもあったのだ。