小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

アンナ・ネトレプコ&ユシフ・エイヴァゾフIN CONCERT JAPAN2017 

2017-09-29 11:46:07 | クラシック音楽
2016年3月の久々の来日から1年半ぶりに再び日本にやってきたネトレプコ&エイヴァゾフ夫妻のオペラシティでのコンサート(9/28)。今回はバリトンのエルチン・アジゾフも加わって、ソプラノ、テノール、バリトンのトリオ・コンサートとなった。指揮はミハイロフスキー劇場の音楽監督ミハイル・タタルニコフ、オーケストラは前回の来日コンサートと同じく東京フィルハーモニー交響楽団が舞台に乗った。
『ナブッコ』序曲の後、ステージに登場したネトレプコがかなり明るい金髪なのに驚く。ネトレプコといえば南ロシア美人独特の黒髪に黒い瞳で、長らく黒髪のイメージが強かったが、ここ最近は色を変えている。ライトの下で見るとほとんどプラチナブロンドに近い金色。
「ネトレプコは自分の変声期を楽しんでいる」と言っていたのはロシアで彼女とよくリサイタルをするテノールのディミトリー・コルチャックだったが、過去の自分に執着しないネトレプコの性格はこうした外見の変化にも表れていた。
プログラムを見ても、ワーグナーこそないがベルカントものは影をひそめ、重めのヴェルディやプッチーニなどのヴェリズモものが増えている。決して後ろを振り向かない彼女の生き方は、ユシフというパートナーを得てからますます揺るぎないものになっているように思える。

一曲目のヴェルディ『マクベス』の「勝利の日に~来たれ、急いで」から圧巻だった。真っ赤なドレスを纏った女王を前に、観客が完全に彼女にひれ伏したように感じられた。高音は鋭く潔く研ぎ澄まされ、豊かな発声はオーケストラと溶け合い、すべてのフレーズに演劇的な抑揚が漲り、不安定と言われていた中音域にも充実した響きがあった…しかしもっと重要なのは、声量とか発声とかディクションとかを細切れに語るよりも大事な、本質的で電撃的な何かだった。「ひとりの人間の中に渦巻いている巨大なドラマ」に驚き、一瞬のうちに自らの放つ電光でホール全体を痺れされてしまう魔術に降伏した。オペラシティが狭く感じられるほど、歌手のパワーは強力だった。これは録音や録画では体験しようもない。最初からすごい掴みで、コンサートの時間と空間を支配してみせた。

当初のプログラムから曲順と曲目が一部変更となり、前半はヴェルディのみで構成されていた。
ユシフ・エイヴァゾフは妻と入れ替わりにステージに登場し、オケ後方のバルコニー席にもにこやかに挨拶をする。
このユシフ、写真では野暮ったく(!)見えることもあるが、ステージでは足も長く顔立ちも綺麗でなかなかの美男子、『ルイザ・ミラー』からの「穏やかな夜には」は堂々たる歌唱で、金管のように豊かに吹き出すテノールの黄金の美声に我を忘れるほどだった。ネトレプコと芸術的に、本気で高め合っているのだろう。去年のコンサートより大胆で確固とした自信に溢れ、長尺のアリアにも余裕があった。『椿姫』前奏曲のあとには、バリトンのアジゾフと『ドン・カルロ』のロドリーゴとの二重唱『われらの胸に友情を』を熱唱。二人ともアゼルバイジャン出身だが、体格よく声量も豊かで、指揮者もロシア系ということもあって「ロシアの祭り」の趣も感じられた。
ネトレプコのアイーダ『勝ちて帰れ』、アジゾフの『オテロ』のイヤーゴのハイライト、ネトレプコ&エイヴァゾフの『仮面舞踏会』のデュエットと、充実の歌唱が続き、前半が終了。

思えば12年前、サントリーホールでネトレプコのピアノ伴奏によるリサイタルを聴き、「もう一度聴かねば!」と当日券を買ってオペラシティで同じプログラムを聴いたのだった。何度も繰り返し書いているようだが、たった一万円でネトレプコのリサイタルを聴けた時代があったのだ。当時からもう、彼女はオペラとかクラシックというカテゴリーを越えたカリスマだった。「人の声を聴く」ということが、こんな経験なのだとは全く知らなかったのだ。驚き、魅了されて、茫然として、なんだかわけのわからない涙が出てくる…。
ネトレプコは、殆どオペラや声楽を知らなかった私を導いてくれた人で、翌年(2006)には幸運にもMETで彼女を取材することが出来た。ナントのラ・フォル・ジュルネのプレスツアーから直接NYに飛ぶため、ユニバーサルクラシックスの谷内環さんが「世界一周フライト」のチケットをとってくださったことは忘れられない。

後半は驚くようなことが起こった。一階客席でアジゾフが『トゥーランドット』の「北京の人々よ…」を歌い始め、それに続いてオケ側のバルコニー席に、銀色のスパンコールのゴージャスな衣装とターバンをつけたネトレプコが現れた。P席のお客さんはびっくりしたことだろう。トゥーランドットが初めて口を開くときの歌「この宮殿の中で…」をネトレプコが歌ってくれるのは夢のようだった。私はこの歌が大好きで(ただでさえトゥーランドットは嫌われ者なので、そういう人はあまりいないと思うが…)自分自身の古い魂とつながったような心地になるのだ。
「自分は神に仕える高貴な女であり、千年前の先祖ロウ・リン姫とチャネリングをしており、彼女が蛮族の男から受けた辱めを忘れることができない。ゆえに、私に求婚する異国の王子たちを斬首するのだ」という歌で、男など信用しない、私には先祖の姫と神様がついている…という魂の叫びが歌われているのだ。そんな高みにいる姫に、タタールの王子カラフが求婚する。さわりの部分だけだが、ユシフがカラフを歌った。
「ああ! そうなのか!!」と手を叩きたくなった。ネトレプコは現実でもカラフ王子を見つけたのだ。誰かとともに生きることが困難なほど高い地位に登り詰めたスターが、ようやく安心できる勇敢で誠実な夫を見つけた。もしかしたら、ネトレプコもそんなストーリーを見せたかったのかも知れない。
それにしても、このトゥーランドットの歌は大変難しく、高音を外さずに歌うには強力なメンタルが必要なのだ。トゥーランドット歌手はここから謎かけのシーンまでが大変で、そこだけでギャラをもらっているようなもの。それをリサイタルでやってくれるネトレプコは、なんという太っ腹なのか…危険なことが好きなのかも知れない。

ユシフは後半も大活躍で、彼も超難しいアリアを歌う。ジョルダーノ『アンドレア・シェニエ』からの「ある日、青空を眺めて」は肝をつぶしかけた…テノールの夢であるようなこの曲を、丁寧に一息で歌い切り、歌い終えた後は少し涙ぐんでいるように見えた。オーケストラも本当に良い。
そういえばネトレプコは自分の声を「ブレスが大きいのが欠点だけど、オーケストラを突き抜けていく大きな声」とあるインタビューで分析していたが、ネトレプコが歌い出すときはオーケストラも思い切大きな音を出す。それが歌手の望みなのだ。「私はオーケストラの音が大好きなの!」と言っているようにも見えた。
舞台にいる歌手にとっては、カオスの中にいるような状態だろう。音の大きな渦を恐怖と感じるか愛と感じるか…東京フィルはふんだんな愛と尊敬を注ぎ、ユシフもネトレプコもアジゾフも、幸福の絶頂の表情だった。
ミハイロフスキーのシェフのタタルニコフは背中だけ見るととても緊張していて、休符のときも指揮棒がぷるぷる震えていたが(気のせいだろうか)、百戦錬磨のオーケストラが支えていた。コンマスの貢献には感謝しかない。

『メリー・ウィドウ』にはバリトンがやはり必要なので、ここではネトレプコとアジゾフがカップルとなって大人っぽいデュオを披露した。最初ウィーンで人気が出たネトレプコは、こういうオペレッタを歌うときに素晴らしくチャーミングなサービス精神を見せる。ワルツを踊る作法も優雅で「そういえばネトレプコは最初ミュージカル歌手志望だったのだ」と思い出す。後半の衣装は白と赤のトップスにふんわりとしたピンク色のスカートがつながったロングドレスで、それを着ると金髪のネトレプコは夢の国のお姫様のように見えるのだった。

最後の曲はヴェルディ『イル・トロヴァトーレ』の「静かな夜に…嫉妬と愛と屈辱の炎が」で三人の歌手が熱唱。ネトレプコの声がやはり以前より力強く、より豊饒さを増しているのを感じる。変化していくことは楽しく、喜ばしい…そこには「過去にしがみつかない」というプライドがある。スターは愛され、尊敬されるが、ナイフの上の人生で、たった一度の失敗で凋落していくのに充分なのだ。
常に新しくいること、決して後ろを振り向かないこと、苦痛や不安が押し寄せてきても「人生は祝祭だ」と思うこと…ネトレプコからはまた、抱えきれないほどのメッセージをもらった。
気づくと、終演は9時30分をゆうに過ぎていた。スケールもパワーもとても「大きな」コンサートだった。
東京公演は同じオペラシティでもう一回(10/3)行われる。


バイエルン国立歌劇場『タンホイザー』

2017-09-22 13:49:23 | オペラ
バイエルン国立歌劇場の6年ぶりの来日公演は『タンホイザー』で幕を開けた。総勢400名以上の歌手、オーケストラ団員、スタッフを伴っての大規模な引っ越し公演で、初日のNHKホールのエントランスにはドイツ国旗の赤・黄色・黒の幕が威風堂々とたなびいていた。前回の来日公演は震災直後の混沌とした時期に行われ、NHKホールでの『ローエングリン』では降板したヨナス・カウフマンの代わりにヨハン・ボータがタイトルロールを歌った。そのボータももはやこの世にはない。
記者会見では、ニコラウス・バッハラー総裁が2011年当時を思い出し「日本の人々が冷静で、音楽に集中しているのを見て、音楽の力の大きさを思った」という言葉を述べた。
ドイツの歌劇場と日本との特別な友情と揺るぎない信頼がベースとなっている、という意味の公演でもあったのだろう。ホールを彩ったドイツ国旗の色が眩しかった。

この来日公演では「初登場」がたくさんあった。最も注目されていたのはバイエルン国立歌劇場の音楽総監督で、次期ベルリンフィルのシェフとなるキリル・ペトレンコで、自らをほとんど語らずインタビューも受けない神秘のヴェールを被ったマエストロの「初来日」であった。記者会見でのペトレンコは始終微笑みを絶やさず、質問にも気前よく答え、至極まっとうな人であったが、同時に「どこにもいないが、どこにでもいる」魔術師のような存在感も放っていた。
『タンホイザー』は序曲からただならないオーケストラの響きで、ロングヘアの美しいアマゾネス風(騎馬族でないワルキューレ?)の美女たちがずらりと並び、その幻影のようなシルエットと音楽がぴったりと寄り添っていた。美女たちが髪の毛をさらりとほどくシーンでは、弦のさざめきが髪の毛のような絹の悲鳴をあらわした。ノセダと同じく、ペトレンコも演出の視覚的な要素に限りなく近づくタイプのオペラ指揮者で、総合芸術としてのオペラの可能性を限界まで引き上げて行こうとするタイプなのだ。
指揮をするペトレンコの左手は催眠術のようで、柔らかくフェミニンな音をオケから引き出し、音は伸縮自在で宇宙のかなたまで引き延ばされたかと思うと、宝石箱に収まるくらいに縮まったり、驚きの瞬間が無数に訪れた。
「そうか…ワーグナーはこんなに美しい音楽だったのか」と呆気にとられた。

クラウス・フローリアン・フォークトもタンホイザーはこのプロダクションが初役となる。
日本では『ローエングリン』歌手として何度も招聘されているが、タンホイザーはどうなるのか注目が集まった。ホルン奏者からスター歌手に転向した珍しいキャリアのテノールだが、少年のようなリリックで透明な声はこの役によくはまっていた。演劇的な先入観さえ覆すステージ・プレゼンスがある。「フォークトは何を歌ってもフォークトだが、同時にローエングリンそのものであり、タンホイザーそのものである」と感じられた。
ヴェーヌス役のメッゾ、エレーナ・パンクラトヴァは巨大な肉襦袢を着て、グロテスクな肉欲の女神を演じていたが、目を瞑って聴くと声は天上的な清冽さに溢れていて、フォークトの少年のような声と溶け合うと、同じ声がからまりあっているような印象を受ける。
ヴェーヌスとは胎内であり、タンホイザーは生まれることを拒む胎児なのではないか…と思った。エロスの化身であるヴィーナスが病的な姿をしていることに対しては、色々な解釈をしてしまう。美醜の判断もつかなくなるほど、タンホイザーは完全な安息の中にいて、それは臨月の母親の胎の中であった…という暗示にも思えた。
フォークトの音程は僅かな不安定さもあったが、フォークトがそこにいることが無防備なタンホイザーの善良さや無辜の魂の表現であった。あの清澄な声を聴いていると、彼を甘やかしたくなり、危なっかしさから守ってあげたくなる。「楽器的な歌手」ともいえるが、あの声質はそれだけでも貴重だ。

驚くべきはペトレンコの音色に対する鋭い感性で、歌手の声にぴたりと合う、これ以上ないほど相応しいサウンドをその都度オケから引き出す。フォークトのあどけない声と木管のシルク毛布のような滑らかな音は見事に溶け合っていたし、ゲルネの哲学者のような深い声には地鳴りのような低弦の渋いアンサンブル…といったように、声とオケが一体化して初めて浮き彫りになる次元を作り出していた。譜面からさらに掘り下げた楽器のキャラクターを発見しているのだ。オケには細かく細かくアドバイスを重ねているのだろう。実際、リハーサルはかなりハードらしいが、オーケストラは皆ペトレンコを信頼し、彼についていっているという。

偶然なのだが、メインキャストのダッシュ、ゲルネ、フォークトのリートのリサイタルをすべて聴いたことがあって、ダッシュはトッパンホール、ゲルネは紀尾井ホール、フォークトは東京文化の小ホールで素晴らしい公演を過去に行っていた。それぞれの歌曲の表現は面白いほど個性が異なっていたが、オペラのステージで一堂に会すると実に面白いコントラストが立ち現れる。ダッシュはドイツリートを歌うときも、どこかイタリアオペラのヒロインのような激しさがあって、信仰心と良心の塊である『タンホイザー』エリーサベトはどこか直情的なトスカにも似ていた(声楽的にではなく、演劇的にという意味で)。
ワーグナーの世界を包み込むような深みと癒しを感じたのは、ヴォルフラムのゲルネだった。リート的な表現であり、同時に演劇的にも的確であるという目からウロコのアプローチで、この役柄においては役(パート)を演じるより、楽譜とリブレットの本質を理解し、ワーグナーの思想に触れることなのかも知れないと思った。「夕星の歌」では声そのものが宇宙の慈愛のようで、不安や無念が癒されていくのを感じた…このときのオーケストラは星空そのもので、音が見えるということの奇跡に改めて震えた。

休憩を二回挟んで5時間弱という公演だったが、これほど呆気なく終わってしまったワーグナーもない。退屈する音がひとつもなく、すべてのシーンが触発的で、歌手とオケの作り出すオペラの次元が途轍もなく刺激的だった。ペトレンコが創造するオーケストラの美は、退屈な美ではなくつねに「驚き」と「革新」をともなった美であり、新しいバランスとアイデアに貫かれているが、荒々しいマッチョさが皆無の平和でなだらかなサウンドでもあった。恐ろしいほど、すべてが俯瞰で見えているのだろう。
歌手の声に対しても、何層もの次元から考察をしていて、それぞれのアリアが物語の時間の流れの中で一番ひらめきに溢れた瞬間になる準備をしている。ヴェーヌスにも多層性を感じた。ヴェーヌスが魔女でも怪物でもなく、男が去っていく悲しみに割れそうになっているか弱い心であるということを感じたのは、これが初めてだった。それはオケが作り出した「演出」でもあったのだ。

映像とダンサーをスタイリッシュに使ったロメオ・カステルッチの演出はミステリアスで、理性的に考えてひとつずつ納得するというより、イメージの集積によって肌に沁み込んでいく質感があり、決して悪趣味でも退屈でもなかった。カステルッチは演劇畑の人だが、日本でも色々な上演を行っているという。ワーグナーの尽きせぬ懊悩…女性への巨大な憧れと罪悪感…と本気で向き合っていたと思う。二体の人形が次々とすり替えられ、最後に「骨」となって朽ちていく描写は、西洋的なメメントモリが感じられた。また、クレジットには記されていないが、東京バレエ団のダンサーが献身的にこのオペラを支えていたのも誇らしい(ヴェーヌスの近くにいた動く脂肪の塊もダンサーたちの貢献である)。
重要な役目を果たした合唱のクオリティも高く、全部で何人いたのか数えきれなかったが、70人は乗っていたのではないだろうか? 舞台を埋め尽くしている「気配」が濃厚で、そこにはオペラに関わる人々の本気が漲っていた。
新鮮な「初めて」の詰まった『タンホイザー』、あるホールの方との会話で気づいたのだが、最も重要なのは、5月に完成したばかりのこのプロダクションを今東京で観られることだろう。
これを上演する、と招聘元が決めたとき、このプロダクションは現実には存在していなかったのだ。どんな(とんでもない前衛的な?)ものが出来上がるか分からないが、相手の才能と誠意を信頼して上演する…そこには月並みならぬ勇気と誇りを感じずにはいられないのだ。

バイロイトで人気急上昇のゲオルク・ツェッペンフェルトの領主ヘルマン、フォークトの息子さんカレ君が演じた黙役の小さな羊飼いも、有難い演技だった。個性的な演出ゆえにミュンヘンでの初演では評価も割れたというこの『タンホイザー』、日本初演は熱狂的な喝采によって迎えられた。無数の勇気と才能がひとつの空間に集中したときの奇跡を経験した稀有の公演だった。
バイエルン国立歌劇場『タンホイザー』は9/25,9/28にもNHKホールで上演される。





東京バレエ団 20世紀の傑作バレエ

2017-09-13 04:29:40 | バレエ
9/8から9/10まで上野の東京文化会館で行われた東京バレエ団の『20世紀の傑作バレエ』の最終日を観た。キリアン『小さな死』プティ『アルルの女』ベジャール『春の祭典』のトリプル・ビルで、『春の祭典』以外は東京バレエ団初演。初日の一週間前に目黒のスタジオで2演目のリハーサルを見学したが、キリアン作品にもプティ作品も海外からの指導者が招かれていて、白熱の追い込みが行われていた。

キリアンの『小さな死』は、モーツァルトの有名な二曲のピアノ協奏曲の緩徐楽章に合わせて、6人の男性ダンサーと6人の女性ダンサーによって踊られる約20分の作品。冒頭部分で男性たちが剣を足元で円を描くように回す動作が魅惑的だ。夜の闇を思い出させる大きな黒い布がひるがえると、女性ダンサーたちがいつのまにか魔法のように舞台に表れている。至近距離で見た男女の踊りは高度な動きの連続で、シンプルな音楽に乗せて次々と複雑で新しいシルエットを作り出していく。大変な集中力を要する振付で、呼吸が少しでもズレると大怪我しかねない。男性ダンサーの何人かは背中や足に痛々しいテーピングをしていた。
コレオグラファーの思想のためにこんなにも命懸けで取り組まなければならないダンサーは何という職業なのだろうと改めて思った。
長くキリアンのネザーランド・ダンス・シアターで踊ってきたエルケ・シェパースが、何よりもダンサーの安全を第一に考え、全員が献身的にこの振付に取り組んでいることに感謝しながら指導を行っており、低いポジションでのリフトが不完全になっても「大丈夫、ありがとう」と声をかけていた。踊り手であったシェパースには、この作品の難しさがよくわかっているのだ。

その『小さな死』が、本番の照明のもとでは、静謐でファンタジックでひたすら美しいダンスになっていた。6組の男女のパ・ド・ドゥは、フランドル派の絵画に出てくる中世の夫婦のようで、夫と妻が夜の中で行ういたわり合いの儀式が演じられていた。夫は妻を医者のように点検し、お腹をぽんぽんと叩き、夫の手の中で妻は小さな蝶のようにぱたぱたと羽根をはばたかせる。エロティックな暗示が素早くあらわれては去り、慎ましやかな日常の中で保たれている人間の営みが、詩のような優しさで暗示される。稽古であれほど苛酷に見えた振付のすべてが、静寂と永遠の中に溶け込んでいくように見え、キリアンの天才に驚愕せずにはいられなかった。途中で現れる黒いドレスのトルソーは、キリアンによると「手足を切断された」ボディだというが、可動式のトルソーとともに踊る女性ダンサーは少しばかりユーモラスで、トルソーだけが舞台に漂う場面も印象的だった。
メインのカップルの柄本弾さんと川島麻実子さんは、中日にはアルルの女の主役も踊っている。『小さな死』では閃光が飛び散るような、キリアンの魔法を見せてくれた。
この作品を舞台で完成させた12人のダンサー全員が、美のための勇敢な戦士だと思った。

『アルルの女』は生前のプティが理想のバレリーナとして高く評価していた上野水香さんと、プティの主要作品を踊りこんできたロベルト・ボッレがカップルを踊った。プティから直接指導も受けた二人は、このシリアスなバレエの本質を深く理解しており、稽古場でも素晴らしい相性だった。ボッレは明るい性格で、洞察的で、溢れ出るような優しさをもつ人物で、一度一緒に仕事をした人は共演者から裏方まで全員が彼を大好きになってしまうのだろうと想像できた。水香さんもとても心の大きな方で、二人が踊っているとその姿の向こうに無限の世界が広がっていく。「役を演じる」ということは果てしないことなのだ。その可能性をどれほどのものとして測るのかは、踊り手の采配に任されている。
 ビゼーの音楽にはすべてが書き込まれていて、舞台には登場しない「アルルの女」に魅了される善良なフレデリと婚約者のヴィヴェットの葛藤が、次から次へと展開していく音楽的モティーフとともに演じられていく。プティ作品の中でも大変深刻な作品だが、ビゼーに関しては他の振付家が手を出せないほどの強い愛着を見せていて、劇的な表現も卓越している。衝撃的だったのは、フレデリが十字架に張り付けられたような姿勢となり、ヴィヴェットとともに受難者の如く対象的にリフトされる場面で、あれは全幕版でしか見られない貴重なものだった。フレデリはそこにいない幻影の女に魂を抜かれ、胎児のように丸まってすべてを放棄しようとする。その演技にも胸を撃ち抜かれた。ボッレは王子役より魅力的で、内面的な表現を求められる作品に強みを発揮していくダンサーになっていくように思われた。しかし跳躍の力強さはキープされており、肌も大理石のようで40代には見えないのだ。「一日8時間練習し、飲酒は一切しない」ライフスタイルだという。芸術の女神に愛されている人にはこういう生き方が出来る。ギリシア彫刻に譬えられる肉体美も健在だった。

このトリプル・ビルは凄いプログラミングで、貫いているテーマは「愛」と「官能」なのだが、振付家はダンサーの美しい身体を素材にして、人間の限界と「愚かさ」について語りつくしている。限界と愚かさを描くことによって、美が立ち現れるなんて想像もできない。ダンスだけがそれを可能にするのだろう。
肉体は人間の限界そのもので、ここに精神が閉じ込められていることがすべての悲劇の源泉なのだが、同時に身体こそがすべての可能性であり歓喜の源泉なのだった。
美しいこととは「愚かではないこと」だと思っていたが、振付家は愚かさに対して寛大であるだけでなく、愚かさそのものを愛する…。人間の条件を慈しむ巨大な愛が、振付家の知性なのだった。

ベジャールの『春の祭典』では、さらに原始的な男女の官能が描かれる。ベジャールは20世紀を生きた現代人としての責任を負っていた人で、ピエール・アンリからミキス・テオドラキスまで20世紀に書かれた音楽に真摯な共感を抱いており、創作からは迷いのない姿勢がうかがえる。バレエ・リュスのために書かれた『春の祭典』は、前衛の時代を生きたストラヴィンスキーが「何をもって音楽をサバイヴさせるか」を大胆に提示した作品で、ここで作曲家は死にかけた知性に対して「生きよ!」とカンフル剤を突きさしている。
調性音楽が時代遅れとなり、無調や12音音階がモダンの主流をなしていた時代に、ストラヴィンスキーはシェーンベルクのような「英雄的な音楽の自殺」を選ばず、古代の音楽とリズムに救済を求め、骨太な音楽を書いた。ストラヴィンスキー自身が、フィジカルなものを信頼していた人で、作曲の作業が挫けないに特別な体操をして身体を鍛えていたのだ。
つまりベジャールは、そうしたストラヴィンスキーの衝動こそがダンスであり、人間の未来だと認識した。高度に知的な音楽と振付の結婚がベジャール版『春の祭典』なのだ。
個人的に、このバレエを初めて見たのも東京バレエ団だった。生贄はギエムとイレールで、イレールの美しさにショックを受けてしばらくぼうっとしていたのを思い出す。
現在の東京バレエ団は群舞のレベルがますます上がっている印象を受けた。特に前半の男性群舞のワイルドな存在感は、新鮮な気迫だった。あの春祭の男性ダンサーたちは、女性から見て「怖い」と思えるほど獰猛でなければならないのだと思う。原始人のようでありながら、ストラヴィンスキーの奇々怪々なリズムに合わせて正確に踊る。ベジャールの自伝では、エリートであるパリ・オペラ座のダンサーたちでさえ四苦八苦して、袖で「1.2.3・・・」と拍をカウントしていたという。
生贄役の岸本秀雄さんは身体能力が高く、ベジャール特有の蛙のようなジャンプ(!)も美しく、何より強靭な「男の群れ」の中で脆弱性をあらわしてしまう受難の雄というデリケートな存在を絶妙に演じていた。
女性の生贄役は渡辺理恵さんが踊った。渡辺さんを舞台で観るのは久しぶりなような気がする。シルフィードから生贄まで観られるのが東京バレエ団の凄いところだが、巫女的で宇宙的な霊感と結びつき、最後は群れを巨大な熱狂へと駆り立てる役を見事に演じた。
女たちが青白い光の元に表れるあの場面は、いつも海底の生き物を思い出す。エイリアンのようでもあり、ベジャールのイマジネーションの豊かさには驚くばかりだ。
その天才に対して、『春の祭典』の初演では大ブーイングが起こった。ベジャールは血相を変えながら「これが私のやりたいことなのだ」と語ったという。
強烈な「遺伝子」は何代ものダンサーによって無数の再演を繰り返し、生き続けていく。世紀が変わって全く色褪せることがない名作だった。