サントリーホールで読響「三大交響曲」を聴く(8/19)。指揮は角田鋼亮さん。コンサートマスターは長原幸太さん。18時30分開演。
シューベルト『交響曲第7番』《未完成》は始まりから荘重で悲劇的な響きが心に突き刺さった。良質の経糸横糸が折り合ったツイードのような渋いサウンドで、奥に秘められた神秘を感じる。音楽は派手ではないが、炎のように悲痛な激情が奥で炸裂していて、シューベルトがたった一人で見ていた世界の終末の景色が思い浮かぶようであった。
読響のアンサンブルはいよいよ洗練されていて、壁際ぎりぎりまで横長に配置された(ディスタンスを保つためか)弦パートからは深い呼吸感が感じられた。指揮者はこうした呼吸を作る人で、息の長いうねりのあるフレーズは、弦楽器奏者にも肺活量が求められることを伝えてきた。木管の繊細な合奏は薄いカーテンの重なりから出来た城を思わせる。「未完成」が一幕と二幕から出来た楽劇のように感じられ、二楽章は黄泉の世界に辿り着いた魂のダンスを見ている心地がした。
「未完成」は、何か尋常でない「予兆」のもとに書かれた曲なのではないか。人類は眠っているが、作曲家だけが覚醒している。生きていたシューベルトは、夜どのような眠りを経験していたのかを想像した。2楽章のアンダンテは葬送音楽のようでもある。「私はこの世のものでないような気がする」というシューベルトの言葉を思い出した。作曲家は直観に導かれて曲を作る。「もうすでにこの世界は終わっているのではないか」…優美な音楽から、暗示とも予言ともつかない言葉を受け取った。
ベートーヴェン『交響曲第5番』《運命》は、先日のサマーミューザで東響と秋山和慶先生が究極の名演を聞かせてくれたが、読響と角田さんは全く違う世界を作り上げた。秋山先生のベートーヴェンも信じがたいほど高貴で、生音のひとつひとつが雄弁で吟味されており、ゴールには眩しい勝利が見えた。戦後の混乱期から、日本の経済が回復していくのを見てきた秋山先生が「この逆境はあっという間に乗り越えられる」と音楽で伝えているように思えた。2020年に演奏された記念碑的なベートーヴェンだった。
1980年生まれの角田さんの指揮は、それに比肩するひとつの確固とした視点を見せた。この世代の指揮者が、既に成熟した思想家として指揮台に立てるということに驚く。未知のものに対するベートーヴェンの好奇心が、地上的な障害物を砕いて、開かないはずの鉄の扉を次々と粉砕していく。実のところ、これはありえないような展開の連続の交響曲なのだ。角田さんは、管楽器パートに記された微かな違和感を際立て、音楽の調和を歪ませている要素を浮き彫りにする。
ベートーヴェンはモーツァルトがいなかったら、「フィデリオ」だけでなくもっと沢山のオペラを書きたかったはずだ。ワーグナーはベートーヴェンのような交響曲を書けないと絶望して楽劇を書いたが、逆に考えるとベートーヴェンの交響曲がジークフリート的でパルジファル的なのだ。ひとつの閃光のような内観が、木に突き刺さった抜けないはずの剣を引っこ抜いたり、火に囲まれた岩山へ向かって行ったりする。ベートーヴェンは性急で、贅肉のような脇役を書けなかった。『運命』は主人公だけがいる、たったひとりの楽劇なのだ。
指揮棒なしでこの曲を振った角田さんに、読響は最大の敬意を示し、指揮者が求める世界の中に入り込んで、微妙なニュアンスを弱音で表した。
「運命」もまた終焉と終末の音楽に聴こえたのは奇妙なことだった。ベートーヴェンは弁証法的な作曲家だと言われる。人類の好奇心や欲望がこの先、「弁証法的に」積み重なっていったら、当然世界は終わる。少なくとも、あるエントロピーの上限で、全く違う世界が新しく立ち現れる。その先も見たい、という好奇心が作曲家にはある。『運命』は果てしない冒険心と、身体があることへの恐怖など微塵もない、純粋な勇敢さの音楽だった。
指揮棒を使って指揮された後半のドヴォルザーク『交響曲第9番』《新世界から》は、鮮やかだった。前半の二曲と正反対の性格をもつ、ノスタルジックで牧歌的な曲で、作曲家の精神は神と信仰の枠内で調和している、善良なシンフォニーで、「三大交響曲」の中で、これだけ異質だった。3楽章のトライアングルも何もかもが可愛らしい。作曲家と楽曲がもつ本質をこれだけ明らかに出来ることに驚愕した。一人の聴衆としてこういう認識は、有名な指揮者が振ったからといって起こるものでもない。若く謙虚な指揮者から、天才的な霊感を受け取り、この特異な時代に「名曲」がますます鋭利な啓示を与えてくれることに胸打たれた。