小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

プラシド・ドミンゴ プレミアム・コンサート・イン・ジャパン2020

2020-01-29 10:03:54 | クラシック音楽

「これが最後の来日かも知れない」と噂されていたドミンゴのコンサート。直前になっても日本に到着としたというニュースが見つからず、本当にコンサートが行われるのかと心配していたが、無事当日を迎えた。1/28の会場となった国際フォーラム ホールAの一階席は予想以上に埋まっている。ほぼ時間通りにスタート。

指揮はドミンゴが長年信頼を寄せているユージン・コーン。オケは東フィル。グノーの『ファウスト』のワルツに続いて、微笑みを湛えた表情でドミンゴが登場。少し背中が曲がっているが体格はよく、トマの『ハムレット』から「酒は悲しみを忘れさせてくれる」を歌った。フォーラムAなのでPAが入るが、ドミンゴの声には衰えはないと感じた。ステージの左右にふたつマイク・スタンドが設置されていて、往来しながら歌う姿が彼らしかった。本人の身に大変なことが起こった後なので余計なことを色々考えてしまったが、あくまでドミンゴはプロフェッショナルだ。言葉で言い訳せず、歌ですべてを証明する…というのは人生の中で幾度もやってきたことなのだろう。舞台に立つすべての歌手がそのように生きているのだ…ということも考えた。

ルネ・フレミングが降板したため、代役の形で日本に来たソプラノのサイオア・エルナンデスが、目覚ましい声で『アンドレア・シェニエ』の「亡くなった母を」を歌った。ドミンゴと同じスペイン人で、女優のブレイク・ライブリーに少し似た金髪の歌手だが、高音から中低音域まですべての音が伸びやかで輝かしく、ワンフレーズで一気にドラマを描き切る天才的な呼吸感があった。最初の一曲で聴衆を虜にした。続いてドミンゴが同じくシェニエから「祖国の敵」を歌い、オーケストラ「一日だけの王様」(ヴェルディ)序曲をはさんで、『ナブッコ』『イル・トロヴァトーレ』からの二重唱を歌った。歌も芝居も火花散る趣で、マイクを通して聴いていることの不満など、途中からどうでもよくなってしまった。

ドミンゴはバリトン・パートを歌っていても、声のキャラクターは昔のままで若々しかった。つい先頃の誕生日で79歳になったが、声を保つために日頃から節制しているのだろう。これまでのキャリアも、月並みならぬ勉強家・努力家としてのストイックな生き方が築いてきたもので、それゆえにオペラ界のスーパースターとなった。その人物が、キャリアの終盤になって経験した天変地異のような出来事は、我々の想像を超えたものだ。ロサンゼルス・オペラの監督の地位を失い、METで歌うはずだった『蝶々夫人』のシャープレス(これが「ロール・デビュー」になる予定だった)も降板した。それらの事柄を考えずに、今回の来日公演を聴くことは不可能だったし、字幕に現れるトマやヴェルディの歌詞は、まるで歌手の心境を表しているようにも感じられた。

後半のレハールのオペレッタからのハイライトは、ドミンゴのエンターテイナーとしての洗練された「軽さ」を楽しませてくれるもので、『メリー・ウィドウ』の二重唱では、二人ともハンナとダニーロになり切って客席から笑いを引き出していた。エルナンデスは、恐らくルネの代役ということで急遽オペレッタの準備をしたのではないだろうか? ドイツ語の歌詞は少し緊張して歌っていたようにも見えた。それをカヴァーするかのように、思い切りラストでハイリスクな高音を出してみせたり、尋常でない精神力で客席を沸かせる。ドミンゴは、エルナンデスとかなり密着して(!)歌っていたが、ダンディで粋だった。

レハールの後はサルスエラのハイライト・メドレー。スペイン人歌手二人が歌う「本場もの」は格別で、今にも踊り出しそうなグルーヴが脈打っていた。『ラ・マルチェネーラ』も『バラの花束の女』も『カーネーション』も『港の酒場女』も、ストーリーは知らなくても断片だけで面白い物語が想像できた。オーケストラも独特なのだが、東フィルはハイセンスに応戦(?)しており、リズム感も抜群。色彩感があって、時折ラヴェルの『ボレロ』や『スペイン狂詩曲』を感じさせる響きが快かった。

前半55分、後半50分のあと、「ベサメムーチョ」や「ムゼッタのワルツ」など盛りだくさんのアンコールがあり、終演は21時45分。最後の「ふるさと」のためだけに、華やかな和装姿の森麻季さんが登場し、ドミンゴと歌うという予想外のおまけもついた。ルネ・フレミング降板のため、チケット差額を返金するブースが設置されていたが、この内容ならむしろ得をしたといっていいだろう。前半も後半もエルナンデスの活躍めざましく、ドミンゴも生き生きしていた。エルナンデスは9月のスカラ座来日公演で『トスカ』を歌う。今までにないタイプのスーパー・ディーバで、既に大物の風格とカリスマ性を備えている。ドミンゴも、これが最後の来日になるとは思えないほど好調だった。大きすぎる逆境を、歌手として進歩するための糧にしたのだ。「人間は矛盾だらけだが、それでもひたすら愛せよ」と語ったマザー・テレサの言葉が頭をよぎった。


読響×下野竜也 ペスト流行時の酒宴 

2020-01-19 14:31:29 | クラシック音楽

今年の読響は何だかすごい。1/9のエリアス・グランディ指揮『ボレロ』からオーケストラとしての途轍もない魔力と「全く普通ではない」狂気ばしったアンサンブルを聴かせてくれたが、久々の下野さんとの共演(1/15)では腰が抜けた。私のボキャブラリーもいよいよ幼児化が進む。言葉では追いつけない、圧倒的なオーケストラの凱歌を耳に焼き付けられた。日本に生きていてこんなコンサートが聴けるのは、当たり前のようで当たり前でない。コンサートマスターは日下紗矢子さん。

自分にとって現代音楽の演奏会には2種類ある。教養のために半分義務的に聴く演奏会と、心から驚き感動する内容のある演奏会だ。下野さんが過去に読響とやってきた様々な(作曲家名もなじみのない)現代曲や、日生劇場でやったライマンの現代オペラは、濃密で特別な引力があり、聴いたあとも長い感動の余韻が続いた。一言で言うなら「悪魔的な魅力」があり、無調でアヴァンギャルドな音楽が20世紀以降に書かれる必然を具体的に理解させてくれた。1/15のプログラムはショスタコーヴィチ『エレジー』ジョン・アダムズ『サクソフォン協奏曲』、後半はともに日本初演のフェルドマン『On Time and the Instrumental Factor』グバイドゥーリナ『ペスト流行時の酒宴』。幽玄な雰囲気のショスタコーヴィチは5分の短い曲で、前半のメインは上野耕平さんがソロを演奏したジョン・アダムズの『サクソフォン協奏曲』だった。楽器の特性を批評的に利用した曲なのか、そうでないのかわからないが、声楽のアクートのようにオクターヴで移動する旋律が特徴的で、リズムはめまぐるしく変化する。いくつものリズムがパッチワークのようにつぎはぎされ、超絶技巧的なソロとそれについていくオーケストラの呼吸感が凄い。ジョン・アダムズの曲はかなり好みなのだが、ずいぶん強引な作曲家だとも思う。「出オチ」漫才のようなモティーフに拷問をかけ、麺棒のようなもので伸ばし、29分の「曲」にしてしまう。上野耕平さんは奇々怪々な曲を楽しげに演奏し、本物の天才とはこういう人を言うのだと実感した。あの曲を苦行のようにやられたらたまらない。上野さんのマネージャーさんは長年の知り合いだが、なぜ彼女が上野さんの才能にあれだけぞっこんなのかわかった。客席の隣には下野さんのマネージャーさんもいて、この曲のリハーサルが大変だったことを教えてくださった。本番では当たり前のようにさらりと演奏されたが、オケと、ソリストと、指揮者の底なしの実力あっての名演だった。

それにしても下野さんが絶好調すぎる。何か、ブチ切れているような凄さだ。プログラム自体がまったくこの世的ではないし、あの優し気な風貌な下野さんの内側に潜む「悪魔」の存在を感じずにはいられない。このタイミングで、何か「爆発」するきっかけがあったのだろうか?  何かが始まりそうで何も始まらず、ひたすら線香のような香りが立ち込めるフェルドマンの不思議な曲の後、グバイドゥーリナの地獄の窯のような曲が始まった。タイトルからしてイマジネーションをそそられるが、冒頭から聴いてはいけないものを聴いているような独特の「匂い」が感じられた。解説によるとプーシキンの戯曲に霊感を得て書かれた曲だというが、原作は知らない。衒学的な現代音楽からはかけ離れた、表現主義的で原始的な世界で、トランスミュージックなような質感もある。脳をおかしい位相に連れて行くような弦であり管であり打でありその他もろもろであった。現代音楽にもおかしな曲はたくさんあるが、一番気に食わないのは優等生的な現代音楽だ。官僚的な現代音楽こそ、この世で一番いらないものだと思う。R・シュトラウスは『カプリッチョ』で「われわれの時代の音楽は死んだ」と音楽家に歌わせたが、音楽が死んだ時代に音楽を書かねばならない、という「枷」を負っているのが現代の作曲家なのだろう。

グバイドゥーリナの音楽は「それがどうした」と言っているようだった。音楽する魂の強靭さが並々と溢れ、目がつぶれそうなほどの膨大な打楽器群の必殺技、不吉で逃げ出したくなるような電子音のリズム、真綿で首を絞めてくる弦楽器の合奏がサントリーホールを真っ黒にした。死の音楽であることは明白だが、精神面での「逆境」ということも感じられた。作曲家として生きることの逆境、一人の人間として生き延びることの困難さが、一秒ごとの濃密な音に込められているようで、「復讐」というキーワードも浮かんだ。あらゆる偉大な作曲家たちが描いていた「死」のさらに向こう側に届くために、孤独に命を燃やしているグバイドゥーリナの情念が水飴の津波のように全身を包み込んできた。ひどく一体化を求めてくる音楽なのだ。演奏している側は理性的にやらなければならないが、我々が想像している以上の境地にいることは確かだ。

 吉松隆さんにインタビューしたとき、作曲家が遺す五線譜というのは永遠で、未来永劫演奏してもらえるという凄い代物だ、というお話を聞いたことがあった。ベートーヴェンも自分の曲も、五線譜に託された永遠性という意味においては同じだと。グバイドゥーリナも、その「ポータブルな永遠」に賭けていると直感で思った。この演奏会に関しては、「すごい」と語っている人もいれば、なぜか理解不可能な揶揄でもって否定している人もいたが、作曲家にしてみると「どんな言葉でも、感想がないよりいい」という覚悟なのではないか。感情的に、霊性的に「何か」を感じないのは不自然な音楽だった。スコアがどのようになっているのかは想像できないし、客席であんぐり口をあけて聴いているしかなかったが、まさにアートを身体で受け止めた時間だった。下野=カンブルラン時代に読響は、世界でも物凄いオーケストラになっていたのだ。しばらく封印されていた引き出しが開いたような感じもあり、下野さんの粋な選曲には本当に頭が下がった。オケの主体性も神だ。すさまじい曲のどれひとつとして「やらされている感じ」がなかった。こういう態度にこそ崇高さを感じる。ただ一夜の演奏会だったが、こういうコンサートは忘れ難い。世界に自慢したい読響だった。

 

 

 


東京フィルハーモニー交響楽団 令和元年特別『第九』演奏会(12/19)

2020-01-04 00:17:10 | クラシック音楽

もう年が明けてしまったが、年末に聴いたいくつかのメジャー・オーケストラの第九を振り返ってみて、チョン・ミョンフン指揮の東京フィルの公演には特別な感動と歴史的意義があった。クラシックの演奏会が社会全体や歴史、哲学、人文学や他の全てのアートと関連しているという確信がさらに深まり、この認識(音楽は音楽として閉じられ、孤立しているのではない)を諦めてはいけないと思った。指揮者とオーケストラとの関係が、演奏のクオリティを決定的にすると再確認したコンサートでもあった。

2019年の東フィルの第九は「令和元年特別『第九』演奏会」というタイトルで、第九のほかにエルガー 戴冠式頌歌より第6曲『希望と栄光の国』がプログラミングされていたが、第九の前ではなく後に演奏された。新国立劇場合唱団は第1楽章からスタンバイしており、そこに可愛い赤いエプロンのようなコスチュームを着た児童合唱団(多摩ファミリーシンガーズ)も加わっている。コンサートマスターは三浦章宏さん。

 一楽章の冒頭から、弦に濃密なメッセージがあった。ベートーヴェンのシンフォニーには空気中に放散した胞子が地上に引き寄せられ、勢いよく発芽し、繁茂していくイメージがあるが、第九の冒頭で振ってきた「はじまりの種」には一粒一粒に素晴らしい栄養が蓄えられており、弓の細かな揺らぎの中に膨大な情報量があった。ボウイングにのっぺりとしたところが全くなく、無数のコイル状の断片が回転しているような絵が浮かんだ。「第九はベートーヴェンによる『天地創造』なのだ」と直感する。ヴェルディのグランド・オペラのように壮麗で、ミョンフン氏のイタリアでのオペラマスターとしてのキャリアも思い出されたが、同時に国籍に関係なくニュートラルな大きさをもつ音楽でもあり、楽員全員が渾身の力でマエストロの言いたいことを表現しようとしているのがわかった。こういう関係性は、確実に音楽に現れるし、感動にもつながる。

第二楽章は、2019年に聴いた在京オケの第九に共通していたことだが…どの団体もおおむね速かった。「2楽章をベートーヴェンのメトロノーム指定でやると演奏時間は60分を切る」とある指揮者の方が教えてくださったが、「トレンド」という言葉で流したくないほど、皆真剣に限界まで挑戦していたように見えた。東フィルの木管は素晴らしく、最高のクラフト芸を聴かせた。雷鳴のような打楽器も爽やかだった。この楽章にはとてつもなく爆発的なユーモアが秘められていると思う。悲嘆や苦痛を通り越した哄笑のセンスが、反抗心をともなって警鐘のように響き渡る。チベット高地に生きる人々が、高山病にかかりながら歌とダンスを楽しんでいるようなハイテンションを感じる。毎年当たり前のように聴いている曲なのに、改めてクレイジーで奇矯な音楽だと思った。音楽はどんな冷笑主義も受け付けず、揺るぎない楽観をキープしたまま木星のように巨大化していく。

3楽章はゆったりとした歌に溢れ、宇宙遊泳をしているようなミョンフン氏の後ろ姿がとても若々しく見えた。巨匠でありながら、巨匠の座に胡坐をかかず「ブレない自分」の精神で音楽をやっている人なのだと思った。今までにも演奏会形式オペラやシンフォニーで東フィルとたくさんの名演を聴かせてくれたが、この第九は格別で、そこにさまざまな「友愛」の意味を感じた。ミョンフン氏は嘘偽りのない「平和と友愛の人」だ。何年か前のソウル・フィルとの来日公演のときに、アンコールで「コリア、チャイナ、ジャパン」「私たちは皆友人」とアナウンスした。「皆友人」だったか「アジアはひとつ」だったか、正確な言葉は覚えていないが、尖閣諸島問題や竹島問題などでアジア情勢が緊迫していた時期で、マエストロのメッセージが深く心に響いた。聴衆の中には(少数だと思いたいが)「音楽さえ聴ければいい」と思っている人もいる。マエストロは自分の理念をまっすぐ伝える。つねに背筋を伸ばして音楽をやっていないと言えない言葉だと思った。

4楽章は頭が一瞬真っ白になった。マエストロがこの曲から掬い取ったメッセージと人類愛(この場合、まさに隣人愛なのだが)がベートーヴェンの意志と完璧に合致していたからだ。「新天皇即位」を迎えた他国へのリスペクト、友人へのはなむけの言葉として、この第九は演奏されていた。言葉にするとまるで陳腐だが…音楽がこのような形で他者への尊重を表現できることに度肝を抜かれた。「そういえば、声楽ソリストたちはいつ入ってくるのかな」と思っていたところに、オーケストラが「歓喜の歌」を奏で始めたまさにその瞬間に、神々が新しい城に入城するようにソプラノの吉田珠代さん、アルトの中島郁子さん、テノールの清水徹太郎さん、バリトンの上江隼人さんがステージにのぼった。こういう演出は初めて見るが、アイデアを発案した人には感謝したい。歴史的な美しい典礼のようで、この瞬間に、輝かしい光に包まれるような感慨に打たれた。

 クラシックは、現実の分断や対立の上の次元で新しい「国家」の概念を作る…チョン・ミョンフンの第九は、隣国の元号が変わり、新天皇が即位したことに対する祝福で、まさに「好機を得て」この曲が奏でられた。「同じ誇らしきアジアの友」であり、家族のように歩んできた日本のオーケストラと演奏した。もちろん、国境線で分割された「国家」は楽観的なものではない。私はなぜか急に「飛鳥時代」ということを思い出した。テストのときに必死で覚えた「百済」「高句麗」という国名だ。命がけで海をわたった遣使たちが隣の国の文字や思想や絵画や建築のアイデアを分かち合った。天平文化の豊かさは、アジアのユニティ感覚の賜物だ。第九のソリストが古代の神や女神に見えた。上江隼人さんのダイナミックな声が、海を二つに割る奇跡の魔法のように響き渡ったのは、最高の瞬間だった。

「理想は綺麗ごとでしょ…でも現実は」というのが普通の感覚だが、地上の重力から急に脱出して「人間はもっと豊かになる!」「未来はもっと素晴らしいものになる!」と叫んでもいいと思う。ベートーヴェンは持病のカタログで、片頭痛で癇癪持ちで難聴で、遺書まで書いたが生きることを選び、汚部屋から何度も逃げ出して引越しを繰り返した。「自分は完璧からは程遠い。しかしながら進化した素晴らしい人間を思い描くことは出来る。私にもその片鱗があるからだ」というのが、ベートーヴェンの音楽だ。彼は理想の素晴らしさを発明した。近代以降の人間の崇高さを発明したという点で、極端な言い方に聴こえるかも知れないが、仏陀やキリストに比肩することを精神史に残した人物だと思う。

「こんなに感動してしまって…この感想を人が聴いたら誇大妄想だと思うだろう」と感動を押し殺そうとしているうちに、エルガーが始まった。初めて聴く曲だと思っていたが、有名な「威風堂々」に歌詞がついたものだった。オーケストラも合唱も昂揚感に溢れ、第九の後にこのエルガーを聞けるのは幸せの上塗り以外の何物でもなかった。心の美しさ、公平な価値観を表現にすることには、実は大きなリスクがともなう。「そんなはずはないだろう」と疑われたり、ひどい場合は迫害されたり、殺されたりする。チョン・ミョンフンは、そうした歴史上の偉大な受難者のことも、深い次元で理解しているのだ。第九の後のエルガーで、マエストロの心がどういうものなのか分かりすぎて、ただただ涙するしかなかった。

オカルトでもなんでもなく「魂」は存在する。チャイコフスキーやマーラーが宿命的に与えられた「悲観」の魂を命がけで音楽の中でまっとうしたように、ベートーヴェンも生まれつきの「楽観」の魂を第九に結晶化させた。病気の人、大切な人を失った人、引きこもりの子をもつお母さん、いじめられる子供、無実の罪で牢につながれた人、薬物に侵された人のために、絶体絶命のカンフル剤として第九はある。オペラシティが「不死鳥」の名のフェニーチェ歌劇場のように感じられたこの夜、聴衆だけでなくオーケストラ全員にもスペシャルな感動が響き渡ったのではないかと思う。年末年始も多忙なオーケストラだが、この特別な第九のことは楽員さんたちにも忘れて欲しくない。お節介にも、客席にいた聴衆の一人としてそう思わずにはいられなかったのだ。