小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京・春・音楽祭『トスカ』(演奏会形式)

2023-04-16 11:43:01 | オペラ
東京・春・音楽祭2023の豪華なオペラ・シリーズ、ムーティ『仮面舞踏会』、ヤノフスキ『ニュルンベルクのマイスタージンガー』に続いて、バス・バリトンの大スター、ブリン・ターフェルが登場する『トスカ』が上演された。指揮はフレデリック・シャスラン。オーケストラは読響。

『仮面舞踏会』では春祭オーケストラ、『マイスタージンガー』ではN響、ブリン・ターフェルのソロコンサートでは東響、『ドイツ・レクイエム』では都響と、今年も在京オーケストラのオールスター合戦が繰り広げられたが、ラストの読響も流石だった。『トスカ』のもう一人の主役はオーケストラだと思う。プッチーニのオーケストレーションは水に溶かした絵具のように舞台に登場する人間の心理を映し出し、二つの色や三つの色が溶け合って、次々と新しい色彩を浮かび上がらせる。ピットではなく、舞台上で『トスカ』のオケが始まる音を聴けたことが、今更ながら衝撃的だった。脱獄したアンジェロッティの狼狽が長閑な堂守の登場へと続いていく。オケは登場人物の影であり、オーラなのだ。

アンジェロッティ甲斐栄次郎さんの素晴らしい声、堂守の志村文彦さんのベテランの歌唱に初っ端から恍惚とした。志村さんの堂守は世界一だと思う。演奏会形式なのが勿体ないほど、お芝居もしたくてうずうずしているのではないかと思われた。堂守は演出によっては過度に喜劇的に描かれることもあるが、声楽的にはシリアスで、本当にうまくなくては納得できない。プッチーニは堂守を重要な役として描いていて、オーケストラの緩急を作るときのインスピレーションにしている。個人的にもこの役が大好きだ。

カヴァラドッシは急遽代役として歌うことになったイタリア出身のテノール、イヴァン・マグリ。色男風のプロフィール写真とずいぶん違うルックスで、イブ・サンローランのような大きな眼鏡をかけている。経歴ではカラフ、ラダメス、カヴァラドッシは得意役のはずなのだが、『トスカ』はしばらく歌っていなかったのか彼だけ譜面台つきだった。声は大変立派で「妙なる調和」では大喝采が巻き起こった。

トスカのクラッシミア・ストヤノヴァは流石の大貫禄で、カヴァラドッシは恐縮しながら相手をしていたようにも見えたが、ディーバはお構いなしのマイペースでヒロインを演じていく。
「いよいよ」のスカルピア登場では、客席も大いに湧いた。先日のコンサートでも絶好調だったブリン・ターフェルが、空間を埋め尽くすような存在感で悪役の演技をする。バス・バリトンはこんな役も出来るんだぞ、いいだろう、と言わんばかりで嬉々としていたのが最高だった。『テ・デウム』では合唱も増え、ブリンの素晴らしい声が悪徳の栄えを朗々と歌い上げて、プッチーニの名作オペラを祝福した。ブリンの百面相も見ごたえがあった。

『トスカ』は確かにひどい話だが、この内容でなければ作れなかった音楽で、演劇と音楽の融合としてのある種の究極の姿だと思う。2幕のシャルネーゼ宮での拷問場面は、何度聞いても凄い緊張感で、ソプラノは何度も叫ばなければならない。それを望んでいるのは相手役のバス・バリトンで、女と男の決死のバトルが繰り広げられる。スカルピアは最初は余裕の表情だが、トスカがパニックに陥っていく姿に興奮して、どんどん「ただの男」になっていく。「お前はとうとう俺のもの!」というときのピーヒョロロという管楽器は、ワーグナーのパロディかなとも思うが、あれは発情した男性が(心理的に)パンツ一枚になったときの表現で、その丸腰の一瞬の隙をついて、トスカはナイフで刺す。
 殺人シーンは暗示的で、実際に二人の歌手がからむことはなかったが、ベテラン歌手たちによるハイライトはハイカロリーで豪華だった。

三幕冒頭の牧童は制服姿の少女が歌ったが、真剣に準備してきたのだろう。クレジットに個人名はないが、この牧童役に感謝したい。確実にこなすために大人の歌手が歌うことが多いが、若い人の純真な声で歌ってこその表現というものがある。
カヴァラドッシのマグリは結局最後まで譜面をともなっていたが、美声で声量もあり、もっと聴いてみたいと思わせてくれた。サンローラン風の眼鏡をとるとまた違った印象で、メイクと衣装つきだとさらに本物らしくなるはずだ。

指揮者のシャスランはよく知らない人だったが、「ピアニストで作家」でもあるそうで、とても興味をひかれる。ドラマ作りが秀逸で、歌手を引き立てる音楽作りをする。轟音の場面も音が混濁せず、読響のデラックスで知的なサウンドが冴えていた。劇場での経験が豊富な指揮者なのだろう。演奏会形式では、毎回指揮者の背中にも目がついているのだろうと思ってしまうが『トスカ』でも達人の芸に恐縮した。

三幕には登場しないスカルピアだが、この上演ではスカルピアが主役だった。音楽もある意味、そのように書かれているのかも知れない。ブリン・ターフェルは数日前のコンサートでもイヤーゴやメフィストフェレやメッキメッサーなどの悪役をたくさん歌ったが、「闇」というものがオペラでは必須で、物語を動かす支点となっていることを熟知している。ブリン・ターフェルが全幕もののオペラで来日する機会がまたあることを願うが、今年の春祭は奇跡のキャスティングで、後々にまで記憶に残る上演となった。
16日にも公演が行われる。