台風一過の晴天となった日曜日、池袋の東京芸術劇場で読響のマチネ公演を聴いた。連日の不安定な天候のせいか体調が悪く、コンサートをキャンセルしようかと迷ったが、読響を聴いて運気を上げたいと思い遅刻ぎりぎりに着いた。指揮は初共演のルドヴィク・モルロー。コンサートマスターは日下紗矢子さん。
その日の明け方まで、ミュンヘン・フィルの短い原稿を書くためにチェリビダッケ指揮のブルックナーをずっと聴いていた。崇高でシリアスで、身が細るような名演で、こんなクラシックを聴いていると間違いなく厭世的な気分になるのは分かっていた。巨匠が誘う特別な音楽は、自分を信じられないほど驕慢にし、男性的な気分にさせた。
そんな音楽の後に聴いたガーシュウィンの「キューバ序曲」は全身の関節が脱臼するような音楽だった。陽気でユーモラスで、ダンサブルな躍動感に溢れている。ステージ後方にずらりと並ぶ読響のブラス・セクションがかっこよく、いつぞやミシェル・ルグランのバレエ音楽を演奏するためにハンブルク・バレエ団のステージに乗った北ドイツ放送響のブラス軍団を思い出した。
モルローは見るからに陽気な雰囲気の指揮者で、大編成で乗った読響を痛快にドライヴさせていく。享楽精神を装ったガーシュウィンのアグレッシヴな知性を感じる曲だった。
続く『ラプソディ・イン・ブルー』では小曽根真さんが登場。スリリングで冒険的なソロだった。冒頭のおどけたクラリネットとピアノは、仲良しの叔父と甥のような「冗談関係」で、ピアノもオケを挑発するように意外なフレージングを次々と放っていく。
小曽根さんに以前インタビューしたとき、クラシックのコンサートで協奏曲を弾くようになってもジャズ・ピアニストであることには変わりない、ということを話していただいた。そういう定義の上でソリストを務めるせいか、小曽根さんとオーケストラは毎回真剣な闘いの場となる。ガーシュウィンの場合は特に、どちらがアウェイでどちらがホームか…という問答がソリストとオケの間で展開される。
この「闘い」には余裕があり、ユーモアがあり、優雅さがある。毎回の演奏会をル―ティンにしない、何かが生まれる場にしたい、というのは小曽根さんのジャズ精神だろう。同時に、素晴らしく高貴な騎士道精神も感じる。相手を尊重した上で、ピアニストとしての見事な剣さばきを披露する。
モルローはこうしたピアニストからの挑戦をたのもしく受け止めていて、ぎりぎりのバランスでパスを返さないピアニストを引き立てながら、オケを鼓舞していた。後半の長いソロでは、小曽根さんのピアノからストラヴィンスキーとシェーンベルクの「二人のS」の断片が聴こえてきた。シェーンベルクのロサンゼルスでの亡命先の家はガーシュウィン家の隣りで、二人はテニスをしたりお互いのポートレイトを描きあったりしていたのだ。20世紀のアヴァンギャルドとシンクロして、ガーシュウィンは存在していた。
長めのラプソディ…のあとピアノのふたを一旦閉じた小曽根さんは、そのあと再びふたを開けて首席コントラバスの石川滋さんとブルージーなアンコール曲『バグス・グルーヴ』を演奏した。ジャズ奏者とは、野生のカンが特別に発達した人なのかも知れないと「以心伝心」の二人のキャッチボールを聴いていたが、クラシックでも室内楽好きのピアニストは、こうしたぞくぞくする共鳴が好きでやっているのかも知れない。石川さんのダブルベースが渋いいい音を出していた。
プロの見せる「闘い」は面白い。スポーツも、ただ点数を稼ぐのはつまらない。どんなふうに勝つか、いかに面白く誇り高く勝つかを見せてほしいと思う。存在の切っ先の鋭さを見せるには、やはり「闘い」という土俵は必要なのだ。そこを諦めない覚悟とか、面白味といったものを前半の演奏から受け取った。
後半はドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』から始まった。首席フルート奏者のフリスト・ドブリノヴさんが風のように軽やかな演奏を聴かせ、陶然とした気分になった。東フィルとヴィオッティに続き、一週間に二度も牧神を聴けるのは幸福なことだ。読響では日下さんのヴァイオリン・ソロが格別に美しく、打楽器セクションも神妙でしめやかな音を聴かせてくれた。続くエネスコの『ルーマニア狂詩曲』も熱演で、ラヴェルとドビュッシーの箸休め的なインターミッションと思いきや、とても熱い演奏となった。ヴィオラ・ソロがぞくぞくするいい音だった。
とりとめもないことだが、後半の3曲には、強烈に「夏」という季節を感じた。穏やかな春と秋に比べて、夏には何かコントロールが効かなくなるような恐ろしさが隠れている。狂奔する神秘的なエネルギーが脈打っている脅威的な季節が夏なのだ。音楽を聴きながらこの7月に列島を襲った水害や酷暑のことを思い出し、発狂した自然界の獰猛さの前では無力である人間の小ささを感じた。
ラヴェルの『ダフニスとクロエ』第2組曲は時間・空間のゲージの取り方が大きく、ラヴェルが遊ぼうとした神話時間のイマジネーションにはアンモラル的な感覚さえ感じられた。モルローはフランス人らしく、ラヴェルの官能性とファンタジーを色彩豊かに描き出していく。
夏は果物や野菜を膨張させる…雨と陽光は水分と甘さを蓄え、自らの成熟に耐えられなくなったスイカは傷口を開けるように爆発して赤い中身を見せる。端正な演奏から、コントロール不可能な夏の奔流が聴こえてきた。それは善でも悪でもなく、ただ人間のスケールを超えた「自然」なのだ。自然の狂気を捉え、巨大な絵画のような豊饒な音のタペストリーを完成したラヴェルは天才だった。
人間の自意識を高揚させ、驕慢さを煽り立てる「魔力」がクラシックにはある。この日のプログラムはそうした顕在意識の裏をかく、潜在意識の巨大さを思わせるものだった。謙虚で透明な読響のサウンドにますます愛着が湧いたコンサート。
その日の明け方まで、ミュンヘン・フィルの短い原稿を書くためにチェリビダッケ指揮のブルックナーをずっと聴いていた。崇高でシリアスで、身が細るような名演で、こんなクラシックを聴いていると間違いなく厭世的な気分になるのは分かっていた。巨匠が誘う特別な音楽は、自分を信じられないほど驕慢にし、男性的な気分にさせた。
そんな音楽の後に聴いたガーシュウィンの「キューバ序曲」は全身の関節が脱臼するような音楽だった。陽気でユーモラスで、ダンサブルな躍動感に溢れている。ステージ後方にずらりと並ぶ読響のブラス・セクションがかっこよく、いつぞやミシェル・ルグランのバレエ音楽を演奏するためにハンブルク・バレエ団のステージに乗った北ドイツ放送響のブラス軍団を思い出した。
モルローは見るからに陽気な雰囲気の指揮者で、大編成で乗った読響を痛快にドライヴさせていく。享楽精神を装ったガーシュウィンのアグレッシヴな知性を感じる曲だった。
続く『ラプソディ・イン・ブルー』では小曽根真さんが登場。スリリングで冒険的なソロだった。冒頭のおどけたクラリネットとピアノは、仲良しの叔父と甥のような「冗談関係」で、ピアノもオケを挑発するように意外なフレージングを次々と放っていく。
小曽根さんに以前インタビューしたとき、クラシックのコンサートで協奏曲を弾くようになってもジャズ・ピアニストであることには変わりない、ということを話していただいた。そういう定義の上でソリストを務めるせいか、小曽根さんとオーケストラは毎回真剣な闘いの場となる。ガーシュウィンの場合は特に、どちらがアウェイでどちらがホームか…という問答がソリストとオケの間で展開される。
この「闘い」には余裕があり、ユーモアがあり、優雅さがある。毎回の演奏会をル―ティンにしない、何かが生まれる場にしたい、というのは小曽根さんのジャズ精神だろう。同時に、素晴らしく高貴な騎士道精神も感じる。相手を尊重した上で、ピアニストとしての見事な剣さばきを披露する。
モルローはこうしたピアニストからの挑戦をたのもしく受け止めていて、ぎりぎりのバランスでパスを返さないピアニストを引き立てながら、オケを鼓舞していた。後半の長いソロでは、小曽根さんのピアノからストラヴィンスキーとシェーンベルクの「二人のS」の断片が聴こえてきた。シェーンベルクのロサンゼルスでの亡命先の家はガーシュウィン家の隣りで、二人はテニスをしたりお互いのポートレイトを描きあったりしていたのだ。20世紀のアヴァンギャルドとシンクロして、ガーシュウィンは存在していた。
長めのラプソディ…のあとピアノのふたを一旦閉じた小曽根さんは、そのあと再びふたを開けて首席コントラバスの石川滋さんとブルージーなアンコール曲『バグス・グルーヴ』を演奏した。ジャズ奏者とは、野生のカンが特別に発達した人なのかも知れないと「以心伝心」の二人のキャッチボールを聴いていたが、クラシックでも室内楽好きのピアニストは、こうしたぞくぞくする共鳴が好きでやっているのかも知れない。石川さんのダブルベースが渋いいい音を出していた。
プロの見せる「闘い」は面白い。スポーツも、ただ点数を稼ぐのはつまらない。どんなふうに勝つか、いかに面白く誇り高く勝つかを見せてほしいと思う。存在の切っ先の鋭さを見せるには、やはり「闘い」という土俵は必要なのだ。そこを諦めない覚悟とか、面白味といったものを前半の演奏から受け取った。
後半はドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』から始まった。首席フルート奏者のフリスト・ドブリノヴさんが風のように軽やかな演奏を聴かせ、陶然とした気分になった。東フィルとヴィオッティに続き、一週間に二度も牧神を聴けるのは幸福なことだ。読響では日下さんのヴァイオリン・ソロが格別に美しく、打楽器セクションも神妙でしめやかな音を聴かせてくれた。続くエネスコの『ルーマニア狂詩曲』も熱演で、ラヴェルとドビュッシーの箸休め的なインターミッションと思いきや、とても熱い演奏となった。ヴィオラ・ソロがぞくぞくするいい音だった。
とりとめもないことだが、後半の3曲には、強烈に「夏」という季節を感じた。穏やかな春と秋に比べて、夏には何かコントロールが効かなくなるような恐ろしさが隠れている。狂奔する神秘的なエネルギーが脈打っている脅威的な季節が夏なのだ。音楽を聴きながらこの7月に列島を襲った水害や酷暑のことを思い出し、発狂した自然界の獰猛さの前では無力である人間の小ささを感じた。
ラヴェルの『ダフニスとクロエ』第2組曲は時間・空間のゲージの取り方が大きく、ラヴェルが遊ぼうとした神話時間のイマジネーションにはアンモラル的な感覚さえ感じられた。モルローはフランス人らしく、ラヴェルの官能性とファンタジーを色彩豊かに描き出していく。
夏は果物や野菜を膨張させる…雨と陽光は水分と甘さを蓄え、自らの成熟に耐えられなくなったスイカは傷口を開けるように爆発して赤い中身を見せる。端正な演奏から、コントロール不可能な夏の奔流が聴こえてきた。それは善でも悪でもなく、ただ人間のスケールを超えた「自然」なのだ。自然の狂気を捉え、巨大な絵画のような豊饒な音のタペストリーを完成したラヴェルは天才だった。
人間の自意識を高揚させ、驕慢さを煽り立てる「魔力」がクラシックにはある。この日のプログラムはそうした顕在意識の裏をかく、潜在意識の巨大さを思わせるものだった。謙虚で透明な読響のサウンドにますます愛着が湧いたコンサート。