都響とクシシュトフ・ペンデレツキの共演(6/25サントリーホール)。プログラムによるとペンデレツキが都響を振るのは3度目らしいが、個人的にこのマエストロ--作曲家としてのイメージが強いが--の指揮を聴くのは初めて。前半は指揮者作曲による『平和のための前奏曲』(2009)『ヴァイオリン協奏曲第2番《メタモルフォーゼン》』(1992-1995)が演奏されたが、5分ほどの『平和のための前奏曲』は「高齢に伴う体力的な問題から本番における全曲指揮が困難」であるとの指揮者からの申し出で、アシスタントの指揮者マチェイ・トヴォレク氏が振った。ペンデレツキは1933年生まれ。万難を排して演奏会に臨むための選択だったと思う。トヴォレクは温かい拍手で迎えられ、ファンファーレで始まる印象的な短い曲を指揮した。都響の精緻でデラックスな金管を楽しんだ。
音楽家には、音楽美を追求し「音楽という次元から逸脱しない」タイプと、音楽としての均衡が崩れてでも人間の本質的な不調和を音で表現するタイプがいるように思う。きっぱりと分かれているわけではなく、表層と深層はいつも海水のように交じり合っている。途轍もなく混沌とした世界を表しながら「ただの音楽ですから」と涼しい顔をしてみせる人もいる。20世紀前半にポーランドに生まれたペンデレツキは、音楽が人間性の根底にある不調和やグロテスクを表すことを是認し、リスクの高い方向転換を経てそこに入り込んでいった芸術家だと思う。『ヴァイオリン協奏曲第2番《メタモルフォーゼン》』は、庄司紗矢香さんのソロに作曲家の意図する世界が現れていた。白のブラウスとパンツでステージに現れた庄司さんは、ペンデレツキが曲に投影した「音楽美にのみ帰結しない過剰な人間の真実」を全身を使って表現した。上半身を支えるために下半身にものすごく負荷がかかっているのが、1階8列目から見て感じ取れた。ドレスを着ては弾けない曲なのだろう。ムターの録音では聞き取れなかった「残酷で切実な」パッセージも聴こえた。これは個人的な感覚かも知れないが…カデンツァ部分では、人間の最も脆い部分が、人間の最も残虐な部分にいたぶられ、悲鳴をあげ、もはや人間の姿をしていない鬼のような敵の前で、死後に出会う神を思うような心境を聴いた。それをペンデレツキはどのような精神で書いたのか。宗教性を侵害されるような、とてもナイーヴなパッセージで、二人の人物のグロテスクなダイアローグにも聴こえた。都響のサウンドは見事な伴奏だった。この、言葉ではおぞましくて語れないほどの人間の深層を、ペンデレツキは音楽で残したいと思ったのだ。
強烈に悲劇的な出来事について、起こってしまった惨事についてどう考えるか、というのは20世紀の芸術のひとつの命題であるのかも知れない。過去にないほど大量の戦没者や革命による死者を出した世紀であり、それを癒したり鎮魂したりすることは音楽のひとつの役割である。一番最悪なのは、記憶から消してしまうこと。「なかったこと」にしてしまうことだ。苦しみや痛みに対して目をそむけるより何倍も酷い。85歳のペンデレツキが日本でやりたいかったのは、つまりそういうことではなかっただろうか。「ここに苦しみがあります」という作品の「実存」を見せてくれた。
庄司紗矢香さんは2013年12月にインバルと都響でバルトークの『ヴァイオリン協奏曲第2番』を共演しているが、その後の取材でお目にかかったとき、バルトークの音楽言語を理解するためにマジャール語を勉強したこと、ハンガリーで民族舞踊を習ったことなどを淡々と語ってくださった。演奏家はそこまでやるのかと驚いたものだが、庄司さんの孤高の演奏は、そうした入念な準備と、「自分だけがわかっていればいい」という神聖な覚悟が支えているのだろう。実際、譜面にはどのように記されているのか想像もつかないような難しいフレーズが次々と現れ、そこに限りなく「すべてを引き受けた」表現力が投影される。ペンデレツキが認識した「人間性とは」という巨大な概念を、ソリストは知的で誠実な態度で、鏡のように映し出していた。
このような濃密な作曲家の告白を本人の指揮で聴いたあと、ベートーヴェンの7番はどんなふうになるのだろうかと想像がつかなかった。20世紀の「人間性の破綻」のあとのベートーヴェンは、人間がまだこれほどの退廃を経験していない頃の初心な精神を思わせる明るさと、爽やかな知性に溢れていた。ペンデレツキはつまり、未来にまたこのような精神を生きることが可能になる…という希望を託したのだと思う。都響の騎士精神、マエストロに対する誠意と、お互いの音を聴きあって鮮烈に高めあっていくアンサンブル能力の高さにも改めて驚いた。指揮者は右手をほとんど動かさず、動きも少ない。しかし、彼の「脳内」は前半の曲で都響に伝わっていた。ペンデレツキの存在が、沸き起こる音楽の源泉だった。
喝采に応じて再びステージに登場したペンデレツキは嬉しそうに両手を広げて客席に微笑みかけ、「あ、神みたいだな」と思った。白いリボンタイが似合っていて清潔感があり、スタイリッシュで優雅。いくつもの境地を乗り越えてきた男性の顔だった。もしかしたらこれが最後の来日になるのかも知れない。都響のベートーヴェンの尊い音が余韻として残る晩だった。