小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

都響×クシシュトフ・ペンデレツキ

2019-06-27 15:01:36 | クラシック音楽

都響とクシシュトフ・ペンデレツキの共演(6/25サントリーホール)。プログラムによるとペンデレツキが都響を振るのは3度目らしいが、個人的にこのマエストロ--作曲家としてのイメージが強いが--の指揮を聴くのは初めて。前半は指揮者作曲による『平和のための前奏曲』(2009)『ヴァイオリン協奏曲第2番《メタモルフォーゼン》』(1992-1995)が演奏されたが、5分ほどの『平和のための前奏曲』は「高齢に伴う体力的な問題から本番における全曲指揮が困難」であるとの指揮者からの申し出で、アシスタントの指揮者マチェイ・トヴォレク氏が振った。ペンデレツキは1933年生まれ。万難を排して演奏会に臨むための選択だったと思う。トヴォレクは温かい拍手で迎えられ、ファンファーレで始まる印象的な短い曲を指揮した。都響の精緻でデラックスな金管を楽しんだ。

音楽家には、音楽美を追求し「音楽という次元から逸脱しない」タイプと、音楽としての均衡が崩れてでも人間の本質的な不調和を音で表現するタイプがいるように思う。きっぱりと分かれているわけではなく、表層と深層はいつも海水のように交じり合っている。途轍もなく混沌とした世界を表しながら「ただの音楽ですから」と涼しい顔をしてみせる人もいる。20世紀前半にポーランドに生まれたペンデレツキは、音楽が人間性の根底にある不調和やグロテスクを表すことを是認し、リスクの高い方向転換を経てそこに入り込んでいった芸術家だと思う。『ヴァイオリン協奏曲第2番《メタモルフォーゼン》』は、庄司紗矢香さんのソロに作曲家の意図する世界が現れていた。白のブラウスとパンツでステージに現れた庄司さんは、ペンデレツキが曲に投影した「音楽美にのみ帰結しない過剰な人間の真実」を全身を使って表現した。上半身を支えるために下半身にものすごく負荷がかかっているのが、1階8列目から見て感じ取れた。ドレスを着ては弾けない曲なのだろう。ムターの録音では聞き取れなかった「残酷で切実な」パッセージも聴こえた。これは個人的な感覚かも知れないが…カデンツァ部分では、人間の最も脆い部分が、人間の最も残虐な部分にいたぶられ、悲鳴をあげ、もはや人間の姿をしていない鬼のような敵の前で、死後に出会う神を思うような心境を聴いた。それをペンデレツキはどのような精神で書いたのか。宗教性を侵害されるような、とてもナイーヴなパッセージで、二人の人物のグロテスクなダイアローグにも聴こえた。都響のサウンドは見事な伴奏だった。この、言葉ではおぞましくて語れないほどの人間の深層を、ペンデレツキは音楽で残したいと思ったのだ。

強烈に悲劇的な出来事について、起こってしまった惨事についてどう考えるか、というのは20世紀の芸術のひとつの命題であるのかも知れない。過去にないほど大量の戦没者や革命による死者を出した世紀であり、それを癒したり鎮魂したりすることは音楽のひとつの役割である。一番最悪なのは、記憶から消してしまうこと。「なかったこと」にしてしまうことだ。苦しみや痛みに対して目をそむけるより何倍も酷い。85歳のペンデレツキが日本でやりたいかったのは、つまりそういうことではなかっただろうか。「ここに苦しみがあります」という作品の「実存」を見せてくれた。

庄司紗矢香さんは2013年12月にインバルと都響でバルトークの『ヴァイオリン協奏曲第2番』を共演しているが、その後の取材でお目にかかったとき、バルトークの音楽言語を理解するためにマジャール語を勉強したこと、ハンガリーで民族舞踊を習ったことなどを淡々と語ってくださった。演奏家はそこまでやるのかと驚いたものだが、庄司さんの孤高の演奏は、そうした入念な準備と、「自分だけがわかっていればいい」という神聖な覚悟が支えているのだろう。実際、譜面にはどのように記されているのか想像もつかないような難しいフレーズが次々と現れ、そこに限りなく「すべてを引き受けた」表現力が投影される。ペンデレツキが認識した「人間性とは」という巨大な概念を、ソリストは知的で誠実な態度で、鏡のように映し出していた。

このような濃密な作曲家の告白を本人の指揮で聴いたあと、ベートーヴェンの7番はどんなふうになるのだろうかと想像がつかなかった。20世紀の「人間性の破綻」のあとのベートーヴェンは、人間がまだこれほどの退廃を経験していない頃の初心な精神を思わせる明るさと、爽やかな知性に溢れていた。ペンデレツキはつまり、未来にまたこのような精神を生きることが可能になる…という希望を託したのだと思う。都響の騎士精神、マエストロに対する誠意と、お互いの音を聴きあって鮮烈に高めあっていくアンサンブル能力の高さにも改めて驚いた。指揮者は右手をほとんど動かさず、動きも少ない。しかし、彼の「脳内」は前半の曲で都響に伝わっていた。ペンデレツキの存在が、沸き起こる音楽の源泉だった。

喝采に応じて再びステージに登場したペンデレツキは嬉しそうに両手を広げて客席に微笑みかけ、「あ、神みたいだな」と思った。白いリボンタイが似合っていて清潔感があり、スタイリッシュで優雅。いくつもの境地を乗り越えてきた男性の顔だった。もしかしたらこれが最後の来日になるのかも知れない。都響のベートーヴェンの尊い音が余韻として残る晩だった。

 

 

 

 


東京二期会『サロメ』(6/5)

2019-06-08 09:52:38 | オペラ

二期会『サロメ』(ハンブルク州立歌劇場との共同制作)の初日を観た。会場は上野の東京文化会館。今年は小ホールで人形劇俳優たいらじょうさんによる『Salome』を観ていたので、偶然上野で二回目のサロメ。この物語の洞察的な「愛」についての視点を二度見ることになった。演出はヴィリー・デッカー。セバスチャン・ヴァイグレ指揮読売日本交響楽団。

舞台を埋め尽くす無彩色の巨大な階段のセットに圧倒された。段数を数えてみようとしたが最後まで数えきれなかった(40段くらい?)。二期会は稽古場にも毎回同じセットを作るので、歌手たちはあの巨大階段を昇降しながら連日リハーサルをやっていたことになる。キャスト表に記載のない首切り人ナーマンを含めて舞台には約20名の歌手と演者が乗ったが、すべての動きが緻密に計算されていて、時々彫塑的にも見える悲劇的なシルエットが美しい。動きも大変だが、長時間静止したままの場面も多く、数分間微動だにしない歌手たちの姿に息を飲んだ。

「サロメを演出するには聖書から研究する必要がある」とは前述のたいらじょうさんの言葉だが、ヴィリー・デッカーの演出も大変練られたもので大きな衝撃性があった。古いが、同時にモダンな物語でもある。19世紀末にオスカー・ワイルドが書いた戯曲はスキャンダルとなった。演出家のジルベール・デフロが「『ルル』と並んで『サロメ』は20世紀の自立した女性のオペラ」と語っていたことを思い出した。サロメは愛されることを待っている女性ではない。自分の目で見たものを欲望し、自分の持てる力を行使して欲望を果たす女で、オペラのヒロインとしても革命的な存在なのだ。

ヴァイグレと読響のサウンドはピットから饒舌な言葉が溢れ出るような感触があり、華麗でダイナミックだった。R・シュトラウスはこのオペラで卓越したオーケストレーションを書き、その上で多くを演出家に委ねている。「これを演出しろ」と言われたら、どの演出家も最初当惑するのではないか? ト書きは決まっているとはいえ、あまりに多くの自由が与えられている。

ヴィリー・デッカーは、「極彩色の」と呼ばれるR・シュトラウスの音楽に無彩色のセットを配置し、絶世の若い美女サロメをつるつるのスキンヘッドにした。ヘロデ王がおびえる不吉な月のような姿である。それと同時に、俗性から切り離された修道女のようでもあり、赤ん坊のようでもある。無垢で異形のサロメだと感じた。森谷真理さんのサロメは絶品で、一体どのような準備をすればあのような歌唱が出来るのか想像もつかないが、演劇的にも「異形の姫」としての孤独感が圧倒的だった。ヨカナーンの描き方も独特だ。英雄的で微動だにしないヨカナーンも過去に見てきたが、デッカー演出ではヨカナーンは必死にサロメの求愛を拒絶し、自分自身が誘惑されないようにもがき苦しむ。大沼徹さんが見事に演じた。

前日のゲネプロでは田崎尚美さんのサロメと萩原潤さんのヨカナーンで既に結末を知っていた。ヘロデ王の「あの女を殺せ」の一言で、サロメは処刑されるのではなく剣で自死をはかる。『トゥーランドット』もラストで死ぬ演出があるが、それとは別の意味がある。森谷さんの歌と演技が、サロメの絶対的な孤独を伝えてきた。ヨカナーンの眩しい容姿を賛美し、拒絶されるたびに呪詛の言葉に変え、それを繰り返した後に「呪われたユダヤの娘!」と愛する男から突き飛ばされる。階段に倒れこむサロメと、そこから延々と続く無表情、サロメのパートの長い沈黙…それらが様々なことを伝えてきた。背後で喧々諤々とおこなわれるユダヤ人たちの宗教論議は、空疎なおしゃべりに見える。サロメには何も見えないし、聴こえない。突き飛ばされた瞬間に「この男を殺して、私も死ぬ」とサロメは決意した…デッカーはそう意図したのではないか。

サロメが拒絶された理由は「穢れた血」「淫乱なヘロディアスの娘」であるからであって、自分の出目を否定されたらもう何も出来ることはない。どんなに優しくしようと無駄なのだ。無関心に戻ることは出来ない。サロメは恋をし、官能的に火をつけられた。若者の官能は激しく、抑えるのがつらい。ヨカナーンもそういう演技だった。サロメの未来には絶望しかなく、残された手段は何もない。男は理念によって女を拒絶し、拒絶された女はそこで一度、概念的な死を経験する。なんという演出か。すべての歌詞が今まで聞いたこともないほど生き生きと暴れ出した。

 有名な「7つのヴェールの踊り」は踊りではなく、ヘロデ王を誘惑するサロメのさまざまな破滅的な動作によって描かれた。ここでサロメを演じる二人の歌手が、同じ振り付けながらほぼ別人に見える素晴らしい演技をした。森谷さんは森谷さんの、田崎さんは田崎さんの唯一無二のサロメだった。この場面では、以前から歌手がダンサーのような真似をする必要はないと思っていた。演出家は、過去の膨大な「なされてきたこと」を知らねばならず(それは偶然の剽窃を避けるためでもある)、デッカーは他者の中での自分自身を大胆な姿勢で示した。踊らず、ストリップショーもしないサロメは革新的だが、本質的なのだ。そういう試みは、演出家の「男と女をどう見るか」「権力をどう見るか」という素っ裸の心を表すだけに、危険も多い。そこまで本質を観たくない客もいるからだ。歌手や演奏家の熱意を帳消しにしてしまうリスクも負う。演出家とは、たった一人で何かを覆そうとしている存在なのだ。

ここまで観て、これほどのことをやるのだからお決まりの「ヨカナーンの生首」も出てこないかと思ったら、生首は出てきた。しかし、また驚くことが起こった。ヨカナーンが纏っていた黒っぽい厚地の長い上着を横にし(サロメはヨカナーンに拒絶されたあと、しばらくこの上着を着ている)、片手に生首を持つと、まるで胴体とつながった生きた男に見えるのだ。サロメはそこに歌いかける。本当は生きたまま愛したかったけれど、お前は私を見ようとしなかった…という歌詞がそこにはまった。サロメの飢渇感は、ヨカナーンの登場によって突然生まれ、相手からの拒絶によって残虐性に転じる。ヨカナーンはサロメを自己否定の危機にも追い込んだ。見慣れたオペラのストーリーが「本当のこと」から雪だるま式に逸脱した、奇妙な表面に見えたのは凄いことだった。心は深い次元で、別のことを訴えているのである。

ヘロディアス池田香織さん(Bキャストは清水華澄さん)も華やかな威厳を放ち、二期会のメッゾの世界レベルの実力を示した。前半で自決するナラボートも重要な役で、大槻孝志さん(Bキャスト西岡慎介さん)も演出家の意図を汲んだ真剣な役作りをされていた。カーテンコールには稽古から参加していたデッカー本人が現れたが、これほど多忙な人が長く準備に携わるのは珍しい。Bキャストの本番の演技も見届けていったと聞く。「あなたは愛をどう思う?」ということをヒリヒリと考えさせてくれるオペラ演出家という仕事について、しばし呆然としながら考えていた。8日と9日も公演が行われる。

 


新国立劇場『蝶々夫人』(6/1)

2019-06-02 20:41:30 | オペラ

新国『蝶々夫人』の初日を観る。蝶々さんは、海外でもこの役を多くのプロダクションで歌われている佐藤康子さん。ピンカートンは新国初登場のアメリカ出身のテノール、スティーヴン・コステロ氏、シャープレスにバリトンの須藤慎吾さん、スズキにメゾの山下牧子さん、ゴローにバリトン(!)の晴雅彦さん。指揮はイタリアの巨匠ドナート・レンツェッティ氏、オーケストラは東京フィルハーモニー交響楽団、合唱は新国立劇場合唱団。

 どこから語ったらいいのか…初日の初々しさが花の香りのようにはじけた上演だった。佐藤康子さんの蝶々さんは藤原歌劇団の公演でも観ている(上野の文化会館が改装中のときで、偶然にも新国での上演だった)。レンツェッティ氏の指揮は2018年のローマ歌劇場の『マノン・レスコー』で大きな衝撃を受けた。山下牧子さんのスズキは何度拝聴したか数えきれない。ゴローの晴雅彦さんは芸劇プロジェクトでも名人芸を聴かせていただいた。大好きな音楽家が勢揃いした上演で、大好きなプッチーニだった。こういう公演について書くには少しばかり自分を冷静にさせることが必要だ。

 公演の前にはレンツェッティ氏にもインタビューしていたが、『蝶々夫人』は去年聞いた『マノン・レスコー』とは全く別のアプローチだった。人生の真夏を謳歌する神々のような若者たちの眩しさが、若さを失った者を踏みつけていく残酷な美に溢れていた『マノン・レスコー』は、オーケストラのあらゆるパートが鮮烈で、カラフルな原色のパレットによって描かれていた。とりわけ打楽器が印象的だったのでそのことを尋ねると、レンツェッティ氏が13歳から18歳までスカラ座のパーカッションを担当していた事実などが分かった。しかし、蝶々さんでは打楽器は全く別の使われ方をしていた。叔父のボンゾが登場するシーンで打楽器は遠くから鳴っていて、鼓膜を驚かすような大きな音ではなかった。音楽は徐々に立体的に迫ってくる。同じプッチーニでも、指揮者は物語によって全く別のことをする。「この音はなぜこう鳴ったのか」ということをつねに考えさせられ、その後に見事に答えが返ってくる…「どうだ。凄いだろう」という音楽の奏で方がいかに恥知らずでオールドファッションか、吟味されたレンツェッティの指揮によって思い知らされた。

 佐藤康子さんの蝶々さんが素晴らしかった。真剣にこの役に取り組めば取り組むほど、底なしに純粋になっていくオペラの魔法が感じられた。登場から最後の瞬間まで、蝶々さんの若さ、可愛らしさが溢れだし、15歳の少女(ラストでは18歳)が目の前にいるようだった。プッチーニは蝶々さんが未来に抱く期待をオーケストラのホールトーンスケールで表現していて、ときめきが止まらない蝶々さんは歌いだしを決めるまでに「もっと…もっと幸せなのです」と転調を繰り返す。ヒロインがこのように歌いだすオペラの始まりを他に聴いたことがない。佐藤さんは完全に役と同化していて、「ブリュンヒルデが歌えなければ蝶々さんは歌えない」と語る外国人のドラマティック・ソプラノとは別次元だった、蝶々さんは日本人で、プッチーニが理想とした謙虚さと奥ゆかしさがあり、「どうだ、驚け!」といったこれ見よがしの華やかさとは違う、本質的な歌唱だった。

 栗山民也さんの演出は新国で何度も拝見しているが、今まで「転換もなく地味」と感じていたこのプロダクションが、作品の本質を見据えたものだということにも気づかされた。蝶々さんは日本人にとっても微妙な物語であり、そのことを意識しすぎるといとも簡単に逸脱的な演出になる。「怒っているのは演出家ひとりなのではないか?」と思えるものも観てきた。蝶々さんの物語の本質は「怒り」でも「差別」でもない。影を効果的に使ったヴィジュアル、心象風景のような階段、はためく米国国旗…控え目な暗示のすべてが、実はとても音楽を大切にしているものだと分かった。合唱の日本人女性たちの所作もしなやかで美しい。

 オーケストラの響きがこの「平和な」演出を引き立てていた。レンツェッティほどの巨匠なら、新演出の『蝶々夫人』でもいいのではないかと思ったが、マエストロがこの演出の美を肯定し、日本の奥ゆかしい心に尊敬の念を寄せていた。東フィルは何度もこのオペラを演奏しているはずだが、これほど含蓄に富んだ演奏を聴かせてくれたこともない。「イタリアのオケはppppを表現したくても、pがひとつ足りなくなる。東フィルはちゃんとそこを表現してくれる」とはマエストロの弁だが、「指揮者の心に添う」デリカシーがいかに爆発的なものを呼び起こすかオーケストラが教えてくれた。

ピンカートンのスティーヴン・コステロは誠実で真面目なテノールで、この役を「誠実」と形容するのは矛盾しているかも知れないが、ひとつひとつのシークエンスを大切に扱い、トランペットのように輝かしい高音を聴かせた。忙しい歌手だと思うが、日本の歌劇場がこれほど丁寧に準備を重ね、聴衆の心に報いるかを知ってくれたと思う。一幕のラストシーン、三幕でプッチーニがピンカートンのために書き足したアリアも劇的で良かった。

ところで、おかしなことを言うようだが、私はこのオペラでシャープレスが歌うすべてのパートが大好きで、影の主役は彼ではないかと思っている。プッチーニは「星条旗よ永遠なれ」と「君が代」の転回形をオペラで多用しており、その多くをシャープレスが歌う。須藤慎吾さんのシャープレスは大人の表現で、とても説得力があった。シャープレスの旋律は本当に在り難い…この役を歌う歌手はその価値を熟知しているとか確信した。

「このオペラをどう思うか」ということが、上演のクオリティを決定するのだとも思った。ピンカートンを過激に悪者扱いしたミキエレット演出には違和感がある。ピンカートンは凡庸な若い男で、残酷なマフィアでも性格異常者でもない。レンツェッティ氏は「日本でもイタリアでもよくある話だと思う」と語ってくれた。私もずっとそう思っていた。政治的な主張が強すぎると、ラブストーリーではなくなってしまう。ピンカートンも蝶々さんもスズキも「普通の人」なのだ。普通の人の人生に起こる奇妙な奇蹟、虹の瞬間について書いたのがプッチーニだった。虹はなぜ起こるのか、光学的に分析したからといって虹の美しさが消えるわけではない。素朴な命が、この地上にある限られた時間で命がけで輝こうとする瞬間を作曲家は描いた。そんな密やかなアイデアを、同時代の作曲家は持つことが出来なかったのかも知れない。そのせいで『蝶々夫人』の初演は失敗作とされた。

 暴力や戦闘精神が「いずれ卒業しなければならない人間の古い本性」だということは、何度語っても語りすぎることはない。音楽家には強さが必要だが…それが戦闘心やつまらないサバイバル精神につながっていたとしたら、音楽は延々と古臭くて陳腐で色合いを欠いた単色のものになる。レンツェッティの音楽を聴いて、この指揮者はとてつもなく孤独で勇敢な道を歩いてきた人なのではないかと思った。蝶々さんも、ピンカートンも、ゴローもヤマドリも、滑稽な存在ではなくひとつひとつの貴重な命で、戯画的に描かれている人物は一人もいなかった。

 奥深い真実に気づいてしまったとき、手慣れた自分のやり方ではうまくいかないように思えて、新しく生まれ変わったような表現になる…この日の佐藤康子さんの蝶々さんは、まさにそんな「今生まれたばかりの」ヒロインだった。レンツェッティも、このプロダクションと歌手、オーケストラのための一期一会の指揮をしていたと思う。指揮者の研ぎ澄まされた美意識は、時々ひやりとするほど本質的なもので、自分がいかに鈍感さを盾にこの世で生きていたかを思い知らされる。このオペラを初めて見る人のために、指揮者は完全に影に隠れる…ということもしていたと思う。何故そんな凄いことが出来るのか…。

カーテンコールでは小さな小さな蝶々さんの子供を抱きかかえていたレンツェッティ。初日の子役を演じた木村日鞠さんは2015年2月生まれだから、4歳になったばかり。原作に最も近い子供役だった。オペラは6/7、6/9にも上演が行われる。