小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

シュツットガルト・バレエ団『オネーギン』(11/2)

2024-11-04 07:44:28 | バレエ
6年ぶりにカンパニー全員が来日したシュツットガルト・バレエ団の『オネーギン』の初日を鑑賞。このカンパニーでの『オネーギン』のフルヴァージョンを初めて観たのは2005年11月で、当時26歳のフリーデマン・フォーゲルは繊細なレンスキー役だった。今やすっかり主役のオネーギンが似合う成熟したダンサーとなり、ヒロインの妹オリガのイメージが残るエリサ・バデネスもタチヤーナを素晴らしく踊るようになった。

キャリアの円熟期に入ったとはいえ、美しく若々しいフリーデマンの姿に登場シーンから拍手が起こる。本ばかり読んでいた内向的なタチヤーナは、都会的な青年貴族オネーギンに一瞬で恋に堕ちるが、娘に一瞥をくれるときのオネーギンの眼光の鋭さに震えた。獲物の心臓に矢を放つような目で、視線を向けられた方はすっかり自由を奪われてしまう。バデネスが少し前とは別人のような顔つきで、聖女のようでもありしっとりとした大人の女性のようでもあった。ユルゲン・ローゼの美しい美術(先日の東京バレエ団のクランコ版『ロミオとジュリエット』でも魅了された)は厳かな色彩感で、屋内の暗い雰囲気もロシア風。サンクトペテルブルクの古いホテルがあんなふうだった。

外向的でチャーミングな妹オリガをアメリカ人ダンサー、マッケンジー・ブラウンが踊り、オリガの婚約者レンスキーをブラジル出身のガブリエル・フィゲレドが踊った。22歳と24歳の若い二人で、マッケンジーは全身から明るい光を放ち、技術面でも大変なテクニシャン。Gフィゲレドは13歳でクランコ・バレエ学校の校長先生にスカウトされ、クランコ作品を踊るために育てられたような人。レンスキーはチャイコフスキーのオペラではテノールだが、バレエのレンスキーもトスティの真面目な歌曲を歌っているような規律正しい踊りで、基礎的なポーズを厳密に見せていくが、それがとても初々しい。クールで冷笑的なオネーギンとのコントラストが強調されていく。

タチヤーナが鏡の中から飛び出してくるオネーギンと「相思相愛の」パ・ド・ドゥを踊る場面は何度見ても心を奪われる。この場面の振付はどうやって思いついたのだろう。華やかでアクロバティックで、現実のものではないようだ。軽やかにリフトされる女性ダンサーは宙に舞い上がった後、夢のように地上に滑り降りて、再び無重力空間にいるように持ち上げられる。いかに振付家が天才的であったとしても、この日常から切り離された動きが現実的な意識から生まれたとは思えない。タチヤーナは眠りの中で幻想を見るが、クランコもまた眠りから霊感を得ていたのではないか。ベジャール(クランコと同い年)と同様クランコも不眠症で、常備薬だった睡眠薬のアレルギーで飛行機の中で亡くなった。覚醒しすぎて眠れない体質だったのだろうが、睡眠時に溢れ出す無意識や霊感からヒントを得ていたのかも知れない。

マクミランの「マノン」の土台にプッチーニのオペラ「マノン・レスコー」があったように、クランコの「オネーギン」もチャイコフスキーのオペラ「エフゲニー・オネーギン」を下敷きにして作られている。二つのバレエはオペラをそのまま使えなかったので、クランコはチャイコフスキーの小曲や様々な断片をパッチワークのように繋げてストーリーに沿うようにした。この手工芸的な技が、改めて凄いと思われた。タチヤーナの聖名祝日のパーティで使われる音楽は特に素晴らしく、貴族のうわべの遊びのような「サロン風ポルカ」に合わせて悪ふざけするオリガとオネーギンの踊りは、音楽の軽薄さも加わってレンスキーを苛立たせるのに十分なのだ。

オネーギンとの決闘前にレンスキーが踊るソロは、オペラの『わが青春の輝ける日々よ』を思い起こさせる。フィゲレドに取材したとき、オペラのアリアは聴いたことがないと語っていたが、死を意識した若者の孤独と絶望が無垢なオーラから感じられた。あのシーンは大変緊張するはずだ。決闘に勝ったオネーギンが顔を覆いながら崩れ落ちるシーンでは、フリーデマンの顔色も蒼白だった。毎回少しずつ演技が違っている。

ベテランダンサーであり振付家でもあるロマン・ノヴィツキーが演じたグレーミン公爵が格別の存在感だった。彼もオネーギン・ダンサーで、タフで繊細な悪役が堂に入っていたが、今のノヴィツキーがフリーデマンと並ぶと、シュツットガルト・バレエの宝物が輝いているように見える。若妻タチヤーナと踊るサンクトペテルブルクの夜会では、バスが歌う「恋は年齢を問わぬもの」が聴こえてくるようだった。外見と所作が、これ以上ないという理想的なグレーミンで、原作では傷痍軍人という設定だが、その傷跡まで衣裳の中に見えるようなたたずまいだった。

短い3幕でオネーギンとタチヤーナが再会する場面は、最後の物凄いハイライトで、このシーンのパ・ド・ドゥもアクロバティックの極致。それがすべて男女の情動を表している。バレエでしか表現できないエモーションで、チャイコフスキーの音楽も高揚する。机の前に座って無表情のままのタチヤーナは、かつて自分を拒絶し妹の婚約者をピストルで撃ったオネーギンを追い払おうと心の準備をしている。ところが、追われるように闇から現れた哀れなオネーギンが自分の隣にやってくると、こらえていたものが一気に爆発する。この男の哀れさはかつての自分の哀れさで、鏡で映したような手紙まで送りつけてきた。尊敬と哀れみという一見相容れない感情が入り混じると、狂気の恋になるのだ。
オネーギンは自分の分身であり、二人は元々ひとつの存在であった。情念に陥落する瞬間、髪の毛一本ほどの重さで理性の天秤が勝つ。オネーギンは泥棒のように走り去り、タチヤーナは一瞬追いかけて、舞台中央に戻ってくる。エリサは震えながら泣くラストだったが、あれはダンサーの自然な演技に任されているのだろうか。昔斎藤友桂理さんが演じたときは、涙ながらに「理性が勝った!」と片腕を上げる幕引きだった。

カンパニー全員のコンディションが素晴らしく、一幕で群舞の男女ペアが開脚でジャンプしながら舞台を縦横に横切っていく壮麗な場面は大きな見どころ。ヴォルフガング・ハインツ指揮東京シティ・フィルハーモニックもダイナミックで快活な演奏を聴かせた。初演は1965年でクランコ38歳の傑作。初演から59年後の上演も熱狂的なスタンディングオベーションが巻き起こった。


photo: Stuttgarter Ballett

モーリス・ベジャール・バレエ団『バレエ・フォー・ライフ』(9/21)

2024-09-22 00:31:36 | バレエ
3年ぶりのBBLの来日公演は、「新芸術監督」ジュリアン・ファヴローが主役のフレディを演じる『バレエ・フォー・ライフ』から始まった。ベジャール亡き後17年間にわたって芸術監督を務めてきたジル・ロマンとのリーダー交代劇はカンパニーもバレエ界全体をも驚かせたが(誰よりジュリアン自身も)、バカンスを終えて戻ってきたダンサー達は、新シーズン最初のツアー先となった日本で最高のパフォーマンスを繰り広げた。
このバレエは何回観たか数えきれない。ジュリアンがフレディが踊る姿を初めて観たのは22年前の2002年。眩しい金髪で均整の取れた美しい長身、時々女性のようにも見える妖艶さ、ライトの下で特別な光を放つ目の色など、美しいベジャールダンサーの中でも特に美しく、オーラまで完全に神々しかった。2002年の『ダンス・マガジン』では評論家の渡邊守章先生も彼の美しさを賛美していて、その文章が好きでバックナンバーを保存している。2004年にはジュリアンのフレディを求めてイタリアのトリノのレージョ劇場で三日間このバレエを観た。

2024年でダンサーとしてのキャリアを終え、監督の仕事に専念するジュリアンの「日本で最後のフレディ」はこれまでと同じように素晴らしく、あらゆるシーンが力強く微塵の衰えも感じさせなかった。「これがラストなのだ」と思うと感傷的にもなるが、正式に芸術監督となった彼の統率力も見られる大切な「始まり」の公演でもあり、ダンサー全員がそれぞれの演技を今までのように成功させないと監督の落ち度ということになる。
そうなると、すべてのダンスの細部が目に入って来る。今のカンパニーには魅力的なダンサーがたくさんいて、Bプロで『ボレロ』を踊る大橋真理さんが「ブライトン・ロック」「コジ・ファン・トゥッテ四重唱」「ゲット・ダウン×メイク・ラヴ」「テイク・マイ・ブレス・アウェイ」「ラヴ・オブ・マイ・ライフ」でドキドキするような目覚ましい姿を見せた。ベジャール・ダンサーが素晴らしいのは、「彼女(彼)はこういうダンサーなのだ」というはっきりとした個性を感じさせる点で、それが一番の魅力になる。インタビューしたエリザベット・ロスが「ベジャールはその人の日常の様子を観察して振りをつけるから、他のダンサーに振り付けられたものをみて『そういう姿も振付にしてしまうのね』とヒヤリとしたことがある」と語っていた。面白いのは、昔いたダンサーの面影を宿す新しいダンサーたちもいて、思わず血縁なのかと思ってしまうほどで、要は魂の形が似ている。BBLに集まってくる若者たちは確かに「引き寄せられてくる」のだと確信した。

ジル・ロマンが演じていた狂言回し(?)の役を、2022年にカンパニーに復帰したオスカー・シャコンが踊ったが、今回はさらに悪魔的なカリスマ性を増強し、ところどころジルを見ているような気がした。オスカー自身「BBLで再び踊れるようになったのは、モーリスの天の采配」と語って、それを許可したジル・ロマンに感謝していたが、役者としての技量も求められるこの特殊な役を高いクオリティで演じられるダンサーは少ない。「フリーメイソンのための葬送音楽」は今やオスカーのためのダンスだった。
前回の来日で「モーツァルトピアノ協奏曲第21番」を踊ったアントワーヌ・ル・モアルが今回も同じパートを踊り、小悪魔的な魅力を増していて、見たことのないような細かい即興も入れて楽しませてくれた。相手役のキャサリーン・ティエルヘルムはベテランの域にいるダンサーで、華やかさと安定感があり見ていて心が涼しくなる。アントワーヌは若き日のパトリック・デュポンを彷彿させ、今後が楽しみ。「シーサイド・ランデヴー」ではテクニシャンのソレーヌ・ビュレルが可愛い水着姿で陽気に踊り、日本人ダンサーの武岡昴之介さん(非常に目を引く美しいダンサー)も海辺の若者の一人を踊った。ソレーヌはベジャール・バレエに魅了され、カンパニーに入れるまで他で修業を積んできた信念の人で、Bプロの『コンセルト・アン・レ』でも美しいソロを踊る。

このバレエは好きなところがありすぎて、1時間50分があっという間に過ぎてしまう。かつて小林十市さんが踊った『ウィンターズ・テイル』を大貫真幹さんが踊り、何か目頭が熱くなった。12月のローザンヌ取材では30代のほとんどを怪我の痛みとももに踊り続けてきたと語ってくれた。ジュリアンとの「レディオ・ガ・ガ」を踊ったのは、東京バレエ団から移籍した岸本秀雄さんで、ベジャールがある時期の日本人ダンサーに求めていた永遠の少年性を見事に表していたのに感動した。ジュリアンと掛け合いで踊る姿は「火の鳥」を見ているようだった。

一人一人のダンサーを隅々まで見て、彼らの個性がどう発展していくかを想像している自分は、もしかしたら「ジュリアンと同じ視点で見ているのかな」とうぬぼれた気持ちになった。しかしそれはベジャールがダンサーを見ていたときの視点で、「私のところにいるダンサーたちはなんて素敵なんだ!」という思いで作ったのが「バレエ・フォー・ライフ」なのではないかと思いついた。夭折したジョルジュ・ドンとフレディ・マーキュリーとモーツァルトに捧げるバレエだが、同時にベジャールの目の前にいた輝かしいダンサーのために振り付けたのが、全員が過激なほど魅力的になるこの作品だと感じた。次々と新しい命がやってきて、ベジャールの精神を伝えようと励む姿は「わが子のように可愛い!」に違いなかった。ベジャールがダンサー全員を抱擁で迎える「ショー・マスト・ゴー・オン」は、今回特別演出でベジャールの生前の写真が舞台中央に置かれた。ちゃんと滑車がついていて、ダンサーと一緒に前に出られるようになっている。今日の公演ではジュリアンがかつてのベジャールの役割をやるのかも知れないと思うと、計り知れない気持ちになる。

ジュリアンは個人的に最も魅了されたダンサーで、ベジャールの巨大な哲学を翻訳してくれただけではなく、彼が同化している芸術の世界に届きたいという渇望感から、自分はバレエを始めオペラやオーケストラを取材するようになった。それ以前はポップスのライターで、芸能ライターや三面記事の追跡ライターのような仕事ばかりやっていた時期があり、その後も何かを成し遂げたわけではないが、芸術の多くを学ぼうとする方向へ変えてくれたのは、ジュリアンその人なのだった。
フレディは女装したりバナナの被り物を被ったり、大声で叫んだり笑ったり、よくも毎回あんなに思い切りやれるものだなと思うが、ジュリアンの代表作で、私が観たすべての上演で一ミリも手を抜かなかった。精神力の効果か、不調だった姿を見たこともない。「こんなに呆気なく終わってしまうのか」と呆然としたが、彼がどんなに素晴らしかったか知っている今のBBLのダンサーは、全員ますます急成長するのではないかと思う。カンパニーに長くとどまる人も増えるような気がする。
「ベジャールはあなたを尊敬していたと思う」と伝えたとき「振付でもよく意見を求められた。君はどうしたらいいと思う?と」ベジャールとジュリアンの対話はまだ続いているのだ。


(2023年12月17日 ローザンヌのBBLにて)


パリ・オペラ座バレエ団『マノン』(2/17夜公演)

2024-02-18 11:25:14 | バレエ
来日中のパリ・オペラ座バレエ団の『マノン』の2/17ソワレを鑑賞。マクミラン振付の『マノン』はパトリック・デュポン監督時代にオペラ座で初めて上演され、その公演にはマクミランも招聘されたが、振付家の死の二年前(1990年)のことだった。2022年には『マイヤーリング』もオペラ座のレパートリーになっており、オペラ座でのマクミラン再評価が高まっていると感じた。

幕が開くと、マノンの兄のレスコーがスポットライトを浴びて、いわくありげな表情でこちらを見つめている。最初に観客の目に入るのはマノンでもデ・グリューでもなくレスコーである。この人物の邪悪さと軽率さが物語のさまざまな悲劇を生むのだが、舞台を行き交う娼婦や物乞い、好色な金持ちたちも潜在的な不運を加速させる。ニコラス・ジョージアディスの装置は奥に幾重もの闇を感じさせる重層的な作りで、衣装は全員を見るのが大変なほど豪華で華麗。着飾った女性たちのドレスは18世紀後半の最も華やかなスタイルで、照明が当たっていないダンサーも見事な衣裳をまとっていた。娼婦たちにも階級があり、貧しい娼婦はそれに似合った格好をして快活に踊る。男たちもさまざまで、怪しい紳士、物乞い、スリ、ネズミ捕りが往来する。
その中で、一人だけ純粋で高貴な人間としてたたずんでいるのがデ・グリューで、えも言われぬ上品な姿勢で本を読んでいるエトワールのユーゴ・マルシャンが、「掃き溜めの鶴」ならぬ白鳥に見えた。主役のマノンは今やベテランの域に達したドロテ・ジルベール。可愛い脇役の小娘を演じていた頃から彼女が大好きだったが、16歳のマノン役も登場のシーンは初々しい。デ・グリューとマノンの視線はなかなか合わない。群衆の中で二人がお互いを意識するまで、マクミランはじりじりと観客をじらす。

プッチーニのオペラ『マノン・レスコー』なら、有名な「見たこともない美女」が流れてくるところだが、バレエ版ではマスネの曲が使われ、それもマスネのオペラ『マノン』ではなく、「あまり知られていないマスネの曲」で構成されている。物語はプッチーニ・オペラが参照されているが(ニコラス・ジョージアディスの提案だった)、著作権が切れていなかったのでプッチーニは使えない。クランコが『オネーギン』でチャイコフスキー・オペラを使いたいのに使えなかった苦労を、マクミランも経験したのだ。しかし、マスネの小曲群はバレエで素晴らしい効果を発揮し、特にハープ二台をピットに入れたこの公演でのオーケストラは素晴らしかった。東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団を指揮したピエール・デュムソーは天才的で、すべて暗譜で振っていたという。

ドロテ・ジルベールのマノンとユーゴ・マルシャンのデ・グリューは究極のカップルで、過去のガラ公演で『寝室のパ・ド・ドゥ』を観たときも感動したが、全幕で観るとハイライトのときよりも淡々としている。演技が大げさではなく、もっとハイセンスで秘めたものを感じさせるのだ。マノンに愛を告白する長いデ・グリューの最初のソロは、ダンサーにとって大変緊張するシーンだと思う。クラシック・バレエの技術の正確さが厳密に認められ、男性ダンサーに視線が一気に集中して、他に気を散らしてくれるものがない。ユーゴの白鳥のような優雅さと美しさに目を奪われた。自由で躍動的で、何物にもとらわれない。今活躍している男性ダンサーの中で一番美しいのではないかとさえ思った。

ドロテは踊りに潔さがあり、マノンのような若い役が似合うのも、彼女の中にやんちゃな少年性があるからだろう。一方ユーゴには、恥じらう乙女のような可憐さがある。と言っても本人には何のことか分からないだろうが、客席からステージを見ていると、物理的世界とは違うもうひとつの次元が見えてくることがある。マクミランはそこにこだわった。マノンとデ・グリューの引き合う心には神秘的な魔法が働いている。『寝室のパ・ド・ドゥ』はやはり名場面で、殊更大きな喝采が湧き起こった。

マノンが簡単に心変わりし、厚化粧の老ムッシューに身を売る場面も自然だった。ドロテは『オネーギン』のタチヤーナを演じたときも独特の解釈だったが、マノンもユニークで、自分自身は過剰な心理表現をせず、妹を売ろうとする兄の邪悪さや、毛皮や宝石の輝かしさにものを言わせる。マノンは社会的な犠牲者であり、「空っぽ」であればそれで完璧なのだ。ほとんど表情を変えずに、デ・グリューとの愛を放棄する成り行きは見事で、兄レスコーと老ムッシューと三人で踊るパ・ド・トロワは、マクミランのグロテスクな一面が溢れ出していた。

『マノン』のバレエの根底に流れているのは、ジョージアディスの美術に表れているような「貧困」であり、大多数の人間たちが抱いている貧困(やがて死に行きつく)への恐れである。マクミラン自身が、貧しい階層の出目であり、その上酷い舞台恐怖症だった。マノンは生存するために愛を捨て、その時代の大多数の人々が選ぶように金を選ぶ。そこに「仕方ない」という力学が働き、逃げたマノンを追いかけようとするデ・グリューの首根っこをつかまえたレスコーは、一幕の最後に「金がすべてだって、わかんないのか!」と純情な友人を恐喝する。
2幕の高級娼家でのシーンで、マノンが大勢の男性たちと戯れるようにアクロバティックな動きを見せる件は圧巻である。マノンは男たちの欲望に突き動かされ、欲望は金で満たそうとし、若くて美しい女は自分に無際限な富が流れ込んでくることがギャンブルのように愉快なのだ。少年が残酷な遊びに耽るように、マノンは玩具になった自分を楽しむ。

この高級娼家での乱痴気騒ぎ(?)はことのほか長く感じられた。マノンを目で追い、接近を試みようとするデ・グリューに完全に感情移入してしまったからだ。心で通じ合ったはずのマノンが「私はあなたが見えないのです」「私もここにいません」という態度で、男たちと悪ふざけをしている。自分自身が透明人間になってしまったかのようで、ちょっかいを出してくる娼婦たちもそのうち諦めて、側を離れていく。同じ空間にいながら、違う意識を生きていると相手はこちらを「見えていません」と言う。生きた心地がしないデ・グリューからずっと目が離せなかった。

高級娼婦たちを演じたオペラ座の女性ダンサーと、マダム役のアデライド・ブコーが艶やか。一人「ズボン役」の女性ダンサーがいたが、男装の娼婦という設定らしい。愛を思い出したマノンはデ・グリューの下宿に戻るが、束の間の逢瀬のあと、乱入してくる近衛兵たちと、老ムッシューに銃殺されるレスコーの描写が恐ろしかった。オペラではレスコーのこの場面はなかったように記憶している。

3幕は約25分と短いが、ここにマクミランのすべてが集約されている。生前は毀誉褒貶が激しかったマクミランだが、こういう世界を描いてしまったら、建前主義の良識派は当然激昂しただろう。マノンとデ・グリューの流刑地となったニューオーリンズで、娼婦たち(?)は髪を短く刈られ、僻地勤務の看守は好き放題な暴力を働く。ざんぎり頭の女たちの顔を一人一人確かめて、遊び相手を選ぶ兵士たちの様子は、毎回胸をかき乱される。昨今のデリカシーでは難しいのではないか、と思っていたマノンへの暴力シーンも、これを抜いたらマクミランではない、と言わんばかりにしっかりと演じられていた。
最下層の存在となり、文字通り男の玩具となったマノンが「モノ」のように看守と踊る振付は「これがバレエだなんて」と思うほど特異で、ここまで人間を深堀りしてしまったマクミランは、自分の才能で自分の首を絞めていた。極北の芸術家であり、異能の人であった、と再認識した。
奇異な植物(スパニッシュ・モスと呼ぶらしい)が縄のようにぶら下がるラスト近くでは、これまでの登場人物が幻影のように現れる。マクミランはバレエで、オペラを超えようとしていたのか。これほどの場面は、どんなオペラにもなかなか巻き起こらない。沼地のパ・ド・ドゥはリフトも高く、ダンサーの危険度も最高潮に達するが、オペラ座のペアは最後までパーフェクトで、ピットの音楽も神懸かり的に高まった。マクミランのミューズの一人であったアレッサンドラ・フェリが一度引退を決めたとき(2007年)フェアウェル公演のラストでこの沼地のパ・ド・ドゥを踊ったのを思い出した。ざんぎりヘアで紙吹雪を浴びる姿が再び脳裏に蘇った。

今回の来日公演はジョゼ・マルティネスの監督のもとで行われた「新体制」の公演だったが、ダンサーのキャスティングは適格で、前半の『白鳥の湖』では確実に何かが新しくなっているのだろうと思わせた(こちらの公演は観ていないが新鮮な人選)。前回のパリオペ来日公演はコロナ禍の規制と規制の間を縫って奇蹟的に実現したものだったが、オペラ座はつねに奇蹟を見せてくれる。ドロテとユーゴの黄金コンビの頂点をこの作品で観られた観客は、後々「奇蹟だった」と思い返すことになるかも知れない。





英国ロイヤル・バレエ団『ロミオとジュリエット』(6/29)

2023-06-30 10:20:09 | バレエ
4年ぶりの来日を果たした英国ロイヤル・バレエ団による『ロミオとジュリエット』6/29ソワレを鑑賞。
6/24~6/25に上演された『ロイヤル・セレブレーション』では、優雅で繊細な男性たち4人による『FOR FOUR』、華やかで強靭な女性たち4人による『プリマ』、巨匠アシュトンの英国絵画のような『田園の出来事』、バランシンの絢爛たる『ジュエルズ~ダイヤモンド』が熱狂的に迎えられたが、どこまでも美しくナイーヴな男性ダンサーと、華麗で強い女性ダンサーのコントラストが英国的に感じられ、伝統あるバレエ団の揺るがぬ格式に驚かされた。

『ロミオとジュリエット』は7組のプリンシパルによる7公演が全て完売。驚異的な人気公演となり、高額な転売チケットが流布するなどの悩ましい事態も起こっていたという。6/29のソワレも超満員。映画版にも出演したフランチェスカ・ヘイワードがジュリエットを、同年(2016年)にプリンシパルとなったアレクサンダー・キャンベルがロミオを演じた。

幕が開いた瞬間、ニコラス・ジョージアディスの伝説的な装置と暗いライティング、どこか血の匂いを感じさせる舞台の神妙な空気感に「これがロイヤルのロミジュリなのだ」と襟元を正したくなった。自分にとってバレエのロミジュリは、このマクミラン版が決定版で、92年のABTの来日公演でアレッサンドラ・フェリとフリオ・ボッカのペアを観て大きな衝撃を受けた(そのツアー中にマクミランが亡くなり、海外での追悼公演となった)。意外にも、最近多く観ていたのはクランコ版で、今回のマクミラン版が非常に新鮮に感じられた。現在のカンパニーの姿勢でもあるのか、語り口が上品で、あからさまな残酷さは控えられ、奥に秘められたものを感じさせる舞台だった。

ジョージアディスの美術と衣裳は圧巻で、戯画的なコスチュームをあてがわれることもある婚約者パリスやティボルトの装束も美麗。こうした細部は「ロミジュリ」マニアには深く突き刺さる。パリスのジュリエットへの愛は途中から一方的なものになるが、パリスにも深い苦痛があり、彼の育ちの良さや紳士的な振舞いがそれを暗示する(パリス役はニコル・エドモンド)。ティボルトを演じたベネット・ガートサイドは過去の来日公演でも重要な役を踊っていたが、円熟期(キャリアの終盤?)に入って、演劇性が先鋭化していて、物語の中心に入り込む威力を発していた。

フランチェスカ・ヘイワードのジュリエットは、「可愛らしい」少女を予想していたいたが、蓋を開けたらそんなものではなく、この人は驚異的な天才で、これはすごいロイヤルの宝だと思った。乳母とたわむれる登場シーンから、舞踏会でパリスとお披露目の踊りを踊るシーン、ロミオの出現とパ・ド・ドゥ、そこから再びパリスとの踊り…という短い時間の中で、みるみるうちに「女性」になっていく。この役なら当然だろう、とも思うが、実際に目の前で演じられると衝撃的以外の何物でもなかった。一人の人物を演じているというより、運命そのものを演じているようで、すべての動きに高度に抽象化された閃きがあった。

アレクサンダー・キャンベルは童顔で少年のようなダンサーで、若いロミオを微塵の虚飾もなく等身大に演じた。フランチェスカは当初本当の恋人であるセザール・コラレスとペアを組む予定だったが、コラレスの怪我により初めてキャンベルと踊ることになったという。このペアはユニークなケミカルを感じさせた。マクミラン版のバルコニーのシーンは、踊るダンサーによっては公然とした濡れ場(!)にも見えるのだが、この二人は妖精が空中で踊っているようで、背後からロミオにふわっと身をまかせるジュリエットは空気の精そのもの。人間の姿から蔓枝植物に変化していくギリシア神話の神のようでもあり、男女である以上にふたつの霊であり、絡み合うふたつのメロディだった。この場面をこんなふうに観たのは初めてだった。

マクミランは「うたかたの恋」や「マノン」でバレエ表現のモラルぎりぎりの表現をした人で、「ロミオとジュリエット」のバルコニーのシーンにも性愛のリアルな暗示を盛り込んでいる。と、そう思っていた。実際、そのように踊っても素晴らしいのだが(オシポワ、マリアネラの演技が楽しみ)、さらに若い世代であるダンサーは、思ってもみなかった新しい位相を見せてくれた。フランチェスカ・ヘイワードもマチネの主役ヤスミン・ナグディも1992年生まれで、マクミランが亡くなった年に生まれている。

広場での乱闘シーンでは、マキューシオ(ジェイムズ・ヘイ)を背後から刺し、ロミオと決闘するティボルトが圧巻だった。ティボルトだけが大人の男で、大人をからかうマキューシオは無礼な若僧、自分の親族の城にもぐりこんできたロミオも未熟者、という図式が浮き彫りになった。マキューシオを刺した剣についた血を指でなぞり、「これはなんだ?」と敵に差し出す仕草、逆上したロミオに「お前がそうなるのを待っていた」と年長者の余裕で構える。単純な悪役などではなかった。

ティボルト絶命の場面はキャラクターの見せ所だが、前後の流れも含めてガートサイドは素晴らしく、この夜キャピュレット公を演じたギャリー・エイヴィスも凄い演技をしたと思う。前日はマックレーのロミオとエイヴィスのティボルトという組み合わせだった。そういうことを考えると、全キャスト観なければ気が済まなくなってくる。

2023年のマクミラン版は、過去に上演されたある種の「くどさ」を抜き取り、どぎつい雰囲気を消しながらも、演劇のもっと怖くてミステリアスな位相を示していた。この夜もにこやかなケヴィン・オヘアが客席から舞台を見守っていたが、芸術監督の指針の正しさを尊敬したくなる。

プロコフィエフの音楽は狂気に近いほどドラマティックで、一日二回公演の疲労度を考えると東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の健闘には感謝しかない。ジュリエットの仮死状態からロミオの死、ジュリエットの本物の死に至るまでの追い込み方は、舞台もピットも鬼気迫るものがあった。
『ロミオとジュリエット』はバレエで演じられるのが一番強烈なのではないか。何種類かオペラがあり、原典はストレートプレイだが、言葉のない次元で最も痛切に突き刺さってくるものがある。自分の分身が「出現」してしまったとき、世界はすべて変わってしまい、理屈では通らない衝動ですべてが崩壊してしまう。なぜそうなるのか、実際のところ本人たちにしか分からない。あるときは悲劇的に描かれ、あるときは滑稽に描かれる。
英国ロイヤル・バレエ団の『ロミオとジュリエット』は東京で残り4回、大阪と姫路でも公演が行われる。



シュツットガルト・バレエ団の輝けるスターたち(3/19)

2022-03-21 11:58:13 | バレエ
予定されていたシュツットガルト・バレエ団のカンパニーでの来日がコロナ禍で中止となり、若手ソリストを中心としたメンバーによるガラ公演が行われた。招聘元は逆境に強く、ベジャール・バレエの来日を三度目の正直で実現したことにも感動したが、「全員がダメなら少人数で」とシュツットガルト・バレエの精鋭を集めた公演を実現したことにも驚かされた。この混沌とした時代にあって、守りに徹するのもひとつの在り方だが、なんとしてでも志を貫く逆境力には、日本の侍の精神を感じてしまう。去年の世界バレエフェスティバルも最初は賛否両論だったが、結果は大成功だった。

コロナ禍の上に、2月末にウクライナで戦争が起こってしまった。バレエダンサーは世界中に友達がいるので、精神的にこれはきつい。ロシアでボリショイからスミルノワが退団したというニュースが伝わってきたが、ロシアのダンサーはもはや西や東の感覚なく何十年もやってきたはずなのだ。時代が逆行し、銃をとって戦ったダンサーの訃報まで伝わってきた。舞台芸術はコロナ、紛争と何重もの困難と向き合っている。

最初の演目が、とてもソ連っぽい「春の水」というバレエだったので、これは鮮烈なメッセージだと思った。ボリショイ黄金期の名教師で振付家のメッセレルが振り付けた短いパ・ド・ドゥで、ラフマニノフの音楽に合わせてエリサ・バデネスとマルティ・フェルナンデス・パイシャが軽やかに踊った。バデネスが舞台に登場しただけで春が訪れたようで、ますます美しくなるバレリーナのオーラに見とれるばかりだった。

続く「ソロ」(ハンス・フォン・マーネン振付)は若い3人の男性ダンサー、ヘンリック・エリクソン、アレッサンドロ・ジャクイント、マッテオ・ミッチーニがバッハのヴァイオリンのためのパルティータに乗せて遊戯的な動きを見せ、一人が舞台上手に入ると次のダンサーが素早く下手から登場する。最初二人のダンサーが踊っているのかと錯覚したが、途中から3人であることが分かり、面白くめまぐるしい振付に笑いがこみあげた。

マクミランの「コンチェルト」を踊ったアグネス・スーとクリーメンス・フルーリッヒのペアは初めて見たが、アグネス・スーはプリンシパル。荘厳な美しさのあるダンサーで、ショスタコーヴィチのピアノ・コンチェルトに合わせてクラシックの基本のポーズを完璧に見せていく。この振付は無表情で踊るべきなのだろう。張り詰めた美しさがあった。マクミランはこういうバレエも作っていたのだ。オレンジ色の男女のコスチューム、太陽を思わせるオレンジ色の丸い照明も印象的だった。

唯一チュチュを着て現れた若手のマッケンジー・ブラウンはプリンシパルのデヴィッド・ムーアと『眠れる森の美女』のグラン・パ・ド・ドゥを踊ったが、初々しさと可愛さが全身から溢れていて好感度が高かった。見るからに緊張気味なのだが、日頃から充実したレッスンを重ねていることが伝わってくる。未知数のバレリーナで、クラシックの規律の中に温かみも感じさせ、理想のオーロラだと思わせた。性格的な魅力が凄い。2019年のローザンヌで1位とコンテンポラリー賞、観客賞を受賞している。同じ若手のガブリエル・フィゲレドと最終日に同じ演目を踊るはずだったが、フィゲレドの来日が叶わなかったためこのペアは今回観ることが出来ない。この日は先輩のデヴィッド・ムーアまで初々しい感じで、「クラシック・バレエって本当にいいですね~」と、映画解説者の水野晴郎さんのように解説したくなった。

第二部は濃厚なパ・ド・ドゥが続いた。エリサ・バデネスとデヴィッド・ムーアの『椿姫』の第2幕のパ・ド・ドゥでは、ピアニストの菊池洋子さんのショパンのソナタ3番ラルゴ楽章の演奏も素晴らしく、バデネスが完全にバレリーナとして充実期に入っていることを感じさせた。オペラ座のドロテ・ジルベールも、可愛い娘役が似合っていた時代から、突然妖艶な花を咲かせた瞬間があったが、同じものを感じる。無敵のシュツットガルト・ダンサーとしての完成形を見た。
コンテンポラリー「やすらぎの地」は、前半にも踊った準ソリストのアレッサンドロ・ジャクイントによる振付で、彼自身とヘンリック・エリクソンが踊った。前半はノイズ・ミュージックで、後半からメロディアスなギター・ポップになるのだが、思春期的な心の疼きを感じさせるダンスで、男性ダンサー二人の絡みがスリリングなほどだった。この日が世界初演の新作だったが、ジャクイントは既に7つの作品を発表している。シュツットガルトはこうした貴重な才能をもつダンサーを何人も輩出しており、カンパニーの土壌の豊かさをつくづく感じさせる。

クランコ作品は『オネーギン』の第1幕のパ・ド・ドゥで、本来ならカンパニーの公演で見られるはずだった。プリンシパルのロシア・アレマンとマルティ・フェルナンデス・パイシャが魅力的なペアだった。タチヤーナが恋文をしたためながら幻影のオネーギンと踊る場面は、何度見ても胸が高鳴る。オネーギンが鏡の世界からふらっと現れる感じは、ニジンスキーが踊る「バラの精」に似ていると気づいた。

フォーサイスの「ブレイク・ワークス1」より「プット・ザット・アウェイ・アンド・トーク・トゥ・ミー」は、クレジットをよく見ていなかったので良く出来たコンテンポラリーだと感心していたのだが、成程のフォーサイス作品だった。アグネス・スーとマッケンジー・ブラウンとマッテオ・ミッチーニの3人が優れた技術とユーモアで、難解で楽観的なダンスを披露し、特に女性ダンサー二人のシンクロする動きが、それぞれ別のメッセージを放っているのが良かった。「フォーサイスもこじれる前はいい作品を作っていたんだな」と思ったら、2016年初演で結構最近の作品だった。
マクミランの奇抜な傑作「うたかたの恋」では、いよいよフリーデマン・フォーゲルが登場。盛大な拍手が巻き起こった。このバレエは昔ロイヤル・バレエで見て、マクミランのある種の猟奇性みたいなものに震撼したのだが、それほど「病んだ」バレエを今こそ観たいという気分だった。ルドルフ公の自己矛盾、精神の痛みが凄まじい表現で、それを篭絡する若き恋人マリーを演じるバデネスの演技がさらに憑依的。言葉で多くを語るのがためらわれるほどの世界だった。昨年行った来日のためのリモート・インタビューで「ルドルフを踊り終わった後は、楽屋で崩れ落ちてしまう」とフリーデマンは語っていたが、生まれつき毒や病をもたない健全な魂にとって、きついバレエなのかも知れない。マクミランは鬼か悪魔か…しかし、シュツットガルトでどうしても全幕を観てみたいと渇望してしまった。

二度目の休憩の後、いよいよフリーデマンがメロディを踊る『ボレロ』。東京バレエ団との共演で、今まで見たことのない驚きのボレロだった。
ギエムや首藤康之さん、ニコラ・ル・リッシュや上野水香さん、柄本弾さんや、BBLの昔の海外公演ではあまりうまくないダンサーが踊るのも見てきた。最新では、ベジャール・バレエのプリンシパル、ジュアン・ファヴローが見事だった。多くの踊り手は生前のベジャールに指導を受け、振付家からダンスのエッセンスを受け継いでいる。
フリーデマンのボレロは、まずシュツットガルト・ダンサーの肉体ということを考えさせられた。皆、どんな技術的・演劇的なニーズにも応えられるよう鍛えられており、柔軟で美しい。前半のコンテンポラリーでも、シュツットガルト・バレエの充実した日常が男性ダンサーのボディを作っているという印象を得た。それはヒューマニスティックで明るいもので、ロイヤルバレエともボリショイとも異なる。

ボレロの細かい動きを、音楽と完璧にあわせて表現するフリーデマンのメロディは、途中で獣か火の龍に「変身」してしまうドンとは異なり、最後まで人間的だっだ。ジュリアン・ファヴローもそうした「削り取った」シンプルなボレロを踊るが、彼にはベジャールとのストーリーがあり、その意味で隠れた重みがある。男性と女性では振付が異なる部分があるという。フリーデマンは何となく中性的で、音楽の昂揚とともにどんどん少年に戻っていく。身体への負荷が大きくなるにつれて、元気いっぱいになっていく。
「これがフリーデマンのすっぴんの魂なのか!」と、何だか笑いが止まらなかった。なんと明るくて正義感に溢れ、真実を疑わない勇敢な魂なのか。
病に憑りつかれたルドルフを踊った後に、ボロボロになってしまう正直さ、ボレロで太陽のように輝いてしまう率直さ。ダンサーは魂を隠せないのだ。
シュツットガルト・バレエは色々なことを教えてくれる。戦争が起こったとき、島国にいるのと国境が陸続きなのでは危機感も違うと思うが、国の地形や歴史は芸術や人間性にも潜在的に影響を与えていると感じた。「人間とは大変なものだよね」というとき、中央ヨーロッパの人々は受け止め方が、すごい。そこには手が届かないほどの崇高な楽観と、ユーモアがあるのだ。自分がバレエや音楽を通して認識したいのは、そうした遠い国の人々の卓越した精神性なのだと思った。フリーデマンの太陽のボレロは、すべての答えだった。