すみだトリフォニーホールのゴルトベルク・シリーズは休憩なしで少し遅れて始まることが多いのでぎりぎりに着いたところ、リサイタルはオンタイムでスタートしており、前半にバッハ以外の作曲家の曲が用意されていたと知り慌てる。
バードの「ヒュー・アシュトンのグラウンド」は扉ごしに聴いたが、胸に響く清澄なタッチで、浜離宮で初めてこのピアニストの演奏を聴いたときの感動が蘇ってきた。
スウェーリンクの「我が青春は過ぎ去りし」からホールの中で聴くことができ、前半はジョン・ブルの「ウォルシンガム変奏曲」も含めてエリザベス朝の音楽が3つ続いた。
モダン・ピアノで聴く「ウォルシンガム…」は譬えようもない世界で、自由に溢れ出す音の連なりが無限の世界へと心を誘い、そのあまりの果てしなさに迷子になってしまいそうになった。
現代に生きていて、キット・アームストロングのようなピアニストの演奏を聴くことは不思議な体験だ。
そこでどうしても「魂」ということを考えてしまう。20代半ばの、まだ少年にも見えるピアニストがなぜ16世紀の曲を素晴らしく演奏するのか。シンプルに言うなら彼がこの時代の音楽が「好き」だからだろう。なぜ好きなのか? と言われたら、明晰なキット君は穏やかな表情でたくさん答えてくれると思うが、演奏を聴いている側は別のことも想像する。
前世の記憶が彼を、これらの作品に出合わせたのではないか…というと、またしても全く評論的ではないことになってしまうが、何物にも縛られない自在なピアニストの表現は、私の心をも自由にするのだ。
「好き」は「透き」で「数奇」なのだ、と語っていたのは松岡正剛さんだったが、好きなものに対して人が傾ける情熱には奇妙で不可解なものがある。「理屈ではないが惹かれる…」といったものに対して、人間の心は抗えない。ある土地が好きで何度も出かけてしまい、ついにはそこに住み着いてしまう人もいる。あらゆる好み、愛着には、理性だけでは説明のつかないミステリーがあり、それが生きることを豊かにしている。
キットが弾くエリザベス朝の音楽を聴いて、惹かれてやまないと同時に見ないようにしていたあることも心に迫ってきた。
それは「死」だ。死によってひとつの意識は完全に終わる…という考えが人間を刹那的にし、無責任にしているが、死とはもっと別のことではないか…16-17世紀の音楽が、今ここで生き生きと呼吸していることがそう思わせた。命は親から子へ鎖のように連鎖していくが、個別の命を全部ひっくるめた「人間性」というものが「在る」のではないか。
例えば、コンサートで素晴らしいマーラーの9番を聴いて、人々は自然にそのような「連続性」を直観で受け取ると思う。
しかし、それを必死で忘れようとする。あまりに大きすぎて曖昧模糊としていて、現実の役に立たないどころか有害である感覚とさえ思われているのかも知れない。それでも、人間はこれからもっといよいよ「死」のことを考えなければならないし、「魂」のことも考えなければならない。
キット・アームストロングの巨大な才能にアルフレッド・ブレンデルは賛辞を寄せているが、確かに彼はこの若さで「完成されている人」だと思った。ピアノ一台で、驚くようなことを次々と明らかにしてくれる。
リサイタルという場が、演奏家にとってこれほど親しく、安心感に満ちた場所になるということが嬉しかった。
後半の『ゴルトベルク変奏曲』は、意外なほど軽やかに遊ぶように始まった。アリアには刺繍のような装飾音がほどこされ、可愛らしささえ感じられた。研ぎ澄まされた技術で変奏は進み、あるときはジャズの即興のようにピアニストの気分によってテンポが揺れていく。四角四面に弾くのではなく、ある変奏は次の変奏と団子のようにくっついていたり、餅のように同化していたりする。ペダルは小粋で、思わず鼻歌が漏れそうで、「バッハ様様」な感じはどこにもないが、完璧に聖なる音楽で、ところどころ小鳥のさえずりが感じられた。聖書の中の聖人たちは小鳥や魚にも説教をする。キット・アームストロングも過去の人生でそのようなことをしていたのかも知れない。
第16変奏のOuvertureでは鮮やかな評帷子を着た音楽家が、小鳥の楽隊を連れてお辞儀をする姿が見えるようだった。
メランコリックな第22変奏ではチャイコフスキーの憂愁も見え、とてもゆっくりゆっくりと演奏された。
私が「天国への階段」と勝手に呼んでいる第27変奏では、無駄な昂揚もエクスタシーもなく、やがて回帰するアリアの冷静さが既に暗示されているように感じられた。
今までに聴いた「ゴルトベルクらしさ」から完全に自由な、産まれたての無垢なゴルトベルクだった。
すみだトリフォニーホールが、そういう奇跡のような素敵な演奏を引き出す器になっているのだろう。
いつぞやは、アコーディオンによるゴルトベルク変奏曲というのもここで聴いたのだ…もはや何が起こってもおかしくない。
ピアノ・リサイタルで聴衆があれほどまで好奇心旺盛に、ひとつひとつの音をスポンジのように吸い取っていた光景も初めて見た。気を散らす余計なノイズが最後まで起こらなかったのだ。哲学的であると同時にシンプルで、明晰かつ愛情深い演奏会で、たくさんの勇気をもらった。「ねばならない」という高圧的なものがひとつもない音楽で、芸術家をめぐる環境が予想以上に進化していることも伺えた。「その人らしさ」が全く傷つけられていない音楽は同時に、巨大な普遍性をももつ。
帰宅してテレビをつけたら、散骨についてのドキュメンタリー番組をやっていて、地方自治体でも処理しきれなくなった遺骨が工場で圧縮され、砂利石のように加工されている映像が映し出されていてショックを受けた。「人間」は炭素にすぎないのか…。
「存在」とは「愛」であり「誇り」であり、肉体の塵の儚さの裏側にはもうひとつの意味があるはず…と思わずにはいられなかった。