小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

ジョナサン・ノット指揮 スイス・ロマンド管弦楽団(4/9)

2019-04-12 01:40:15 | クラシック音楽
アジア・ツアー中のスイス・ロマンド管のサントリーホールでのコンサートを聴く(4/9)。指揮は2017年に音楽・芸術監督に就任したジョナサン・ノット。「ノットさんは東響でも聴けるから」と思った人が多かったのか、はたはまた別プロのマーラーのチケットを買った人が多数派だったのか、サントリーでのフランス(&ストラヴィンスキー)・プロには結構空席があった。しかし、クラシック愛好家はこの夜のスイス・ロマンド管こそ聴いておくべきではなかったかと思う。
コンサートに来た人の感想がしばしば全く正反対なものになるのは、感性の違いもあるが、聴いている場所がバラバラだからだ。私はこの日、一階席のセンターブロックの9列目で聴いた。奏者たちの息遣いや弓の軋み、指揮者の服の皺まで見える距離で聴けたのは有難かった。
とても真剣で、シリアスなオーケストラなのである。ゲヴァントハウス管とは違うが「真摯であれ」がモットーなのではないかと思うほど全員が集中して打ち込んでいる。ドビュッシー『遊戯』はニジンスキーのバレエで有名だが生演奏で聴くのは初めてで、これにどういう振付がなされたのか不可解なほど予測不可能なパッセージが続く。ノットはこの曲をオーケストラとレコーディングまでしているので、複雑なアンサンブルもすべての呼吸がぴったりだった。ドビュッシーやラヴェルのバレエ音楽をいかにも「官能的なフランス音楽」ふうに聴かされると、なぜか直観的に不道徳的な(!)感覚の放恣を感じて眉をひそめてしまうのだが、ノットとスイス・ロマンドの作り出すサウンドは清潔な透明感があって、硬質で軽やかで、何より上品だった。

珍しい曲が続き、ジャン=フレデリック・ヌーブルジェがソロを弾いたドビュッシー『ピアノと管弦楽のための幻想曲』はこのコンサートのハイライト的な内容だった。ドビュッシーの官能美を濃縮したような曲で、「名作大全」に収録されようなんて思わない作曲家の無垢な創造精神と(その他の作品は疑わしい)、ひと呼吸ごとに豊かさを倍加していく青天井な和声感が見事である。これは題名が暗示するように「ピアノ協奏曲」ではないのだろう。1986年生まれにしては老けるのが早い…と登場した瞬間に思ったヌーブルジェが、ソリストという立場とはまるで真逆の面白い演奏をした。ピアニッシモを極小のレベルに落とし、つねにオケの影に隠れようとする。オケを背景にして、不思議な抜き型のような存在感を表し、曲の特殊な性格を表しているようだった。ドビュッシー特有の虹のようなホールトーンスケールも、これ見よがしではなくまるで芥子粒のように小さく弾く。近くで見ると、ピアニッシモほどものすごい力が入っていて、ほとんど苦痛の表情を浮かべながら、カメレオンのようにオケに紛れる地味な音を出している…ここに厳粛な節度を感じた。物事は裏の意味を含んでいて、最高の官能美を顕すためには苦役を通らなければならないのかも知れない。スイス・ロマンド管のドビュッシーは大味で雑な色気とは無縁で、ドビュッシーであるからには「喜び」を通過しているはずなのだが、それが通俗的なものとは異なる形をとっている。真摯な奏者たちは、明らかに全身全霊で集中することを「苦役」だとは思っていないのだ。

ジョナサン・ノットの魅力もこの夜の音楽からは大いに感じた。「日本が好き。東京に降る雨も好き」と東響の任期延長会見で語った彼は、日本の軽やかで小さなものの美を理解している。和紙や竹細工の美しさを味わうことのできる彼は、西洋的な時間とは異なる時間も理解しているのだろう。スイス・ロマンドの「面影」は、コンサートが終わってからも灯篭のように漂っていた。ごつい塊ではない、繊細な「透け感」はノットが振る東響の音とも共通している。ノットはブルックナーを暗譜で振ってしまえるほどのエリート的な実力の持ち主だが、そうした超人的な知性をもつ芸術家が、なりゆきの異なる文化に見せる愛着はとても嬉しいものだ。創設100年を迎えたスイス・ロマンド管が、ノットを迎えたのは、オケの伝統につながる「微妙で厳密な美意識」を彼の方法に見たからなのではないか。オケは二つでも指揮者は一人。東響で見せてくれたノットの生きざまが、こちらのオーケストラにも息づいていた。

後半のストラヴィンスキー『3楽章の交響曲』では、クリアなサウンドの中に家族的で温かいオーケストラの味わいを感じた。管楽器の正確さに舌を巻く。この曲を他で多く聴いていないので比較はできないが、最高のクオリティの実演を聴いたという感慨。なぜか最後の曲はデュカスの『魔法使いの弟子』で、プログラムを見たときから不思議に思っていたが、これ見よがしな大団円ではないいたずらっぽい幕引きが、この粋なオーケストラには似合っていた。スイス・ロマンド管の首席客演指揮者は山田和樹さんだが、その場にいない山田さんを思い出す瞬間も頻繁にあった。なるほど、物事を裏から見透かす山田さんと彼らとは相性がいいはずだ。どんなに真剣なことをやっていても、「魔法のようでお洒落」になるのが山田さんで、そうした軽やかさは、実は呆気ないほどの正直さや自然体からくるものだ。
ノットはどの曲が終わった後も「いいでしょ!」といういたずらな微笑みを浮かべ、お気に入りの国でもうひとつの自分のホームを紹介することが楽しくてたまらない様子だった。石像化する何かとは別の、柔軟で豊かなクラシックを聴いた夜。アンコールにはリゲティの『ルーマニア協奏曲』第4楽章が演奏され、ヴィオラの女性の鬼気迫る表情に再び「真摯たれ…」という言葉が思い浮かんだ。




















インバル×都響 (3/31)

2019-04-02 12:33:25 | クラシック音楽
この3月は読響カンブルランと都響インバルを各3回都内の大ホールで聴ける有難い月だったが、3/17のブルックナーは都合で聴くことができなかったので、インバルは2回のみ。チェリストのガブリエル・リプキンがブロッホ『ヘブライ狂詩曲〈シェロモ〉』を演奏した上野の定期も良かったが、超満員となった芸劇でのベートーヴェン/チャイコフスキー・プロは、都響とインバルの相性の良さが最高の音楽として結実した忘れられないコンサートになった。ピアニストのサリーム・アシュカールがソロを弾いたベートーヴェン『ピアノ協奏曲第1番』は、ピアノが始まるまで長い導入部があるが、古典的で朗らかな旋律の中に都響の洗練されたワイルドネスがはじけていた。
「都響はベルリン・フィルのようだ」 イスラエル大使館での懇親パーティでのインバルの言葉を思い出す。

ハ長調という調にベートーヴェンが託したものを考えつつ、アシュカールの透明感のあるタッチに聞き入る。ベートーヴェンのこの曲は、他のピアノコンチェルトよりソリストを謙虚に見せる。シンフォニックな哲学にピアノが準じているような印象があるのだ。そのうち真面目で誠実なアシュカールのピアノが、無邪気で面白い、歓喜の笑いのような音に聞こえてきた。バーンスタインが「ベートーヴェンの音楽は無限に増殖していく自然界の豊かさ」と語っていたのを思い出す。これはひょとして、春の音楽なのではないか…3/31に聴くベートーヴェンの1番のハ長調のコンチェルトは、白紙に最初の言葉を書くような清々しいはじまりの気運に溢れていた。元気な若い命が、生きる喜びに悲鳴を上げているような印象だ。同時に、今まで聴いたこともないような斬新な音楽にも聴こえた。
インバルはどの演奏会でも、不動の構えで微塵の迷いもなく最初から最後まで泰然と振るが、この日もノーストレスで自然の重力に任せるようなリラックスした棒だった。指揮者は作曲家のしもべであるようなことを言い、楽譜を聖書のように崇める指揮者もいるが、インバルはそういうタイプではない。作曲家も人間で、指揮者も人間。もっと対等な関係で、指揮者は第二の創造主でもありうるし、少なくとも下僕ではない。さらにベートーヴェンをやるのに、ベートーヴェンという人物の悩ましい生涯やさまざまな証言を細かく参照する必要もないのだ。

インバルのリハーサルを聴いたことは一度もないし、都響とどのように音楽を作っているのかは全くの未知だが、私の想像では、インバルはすべての楽譜を鏡文字にして、左右の偏りや筆跡の歪みを把握したうえで、再び普通に見えるように戻し、フラットでニュートラルな情報として把握しているように思える。歴史の中で無限に演奏されてきたメロディから含意という垢を取り除き、シンプルな記号としてプレイヤーに演奏させる。「いろはにほへと」を「あいうえお」に並べ替えるような、タイポグラフィーを全部変えてしまうような変換を行う。分離のいい明晰なタッチのアシュカールのソロは、インバルのその意図をストレートに伝えていた。
そこで音楽が無味乾燥なものになるかというと、そうならないのがインバルの凄いところで「音楽はどのように解析しても、やはり美しい」という結論になる。そこに個人を超えたすごい愛を感じる。視点が宇宙人的なのだ。
3楽章のロンド/アレグロ・スケルツァンドはすべての人間の身体と心の中に躍動する春の喜びで、踊りだしたくなるハイなバイブレーションだった。

後半のチャイコフスキー『交響曲第5番』は当然のように譜面なし。前半のベートーヴェンとのつながりは、この曲が「運命」から霊感を受けたオマージュのようなものだからかな…と思っていたが、違った。一楽章では、都響とインバルの作り出す音楽の大きさに圧倒された。ロマンティックな英国人指揮者、ベンジャミン・ザンダーがこの曲の一楽章を学生に振らせるマスタークラスのDVDを見たことがあるが、弦のメロディアスなフレーズに歌詞をつけて「アイラブユー、ドントリーブミー」と何度も歌いながら指導している面白いものだった。チャイコフスキーをロマンティックに演奏するなら、徹底してそこまでやるべきだ。しかし、インバルは「愛している。行かないで」という愛とはまた違った、宇宙的な愛をこの曲に見出す。何年か前のマーラー・ツィクルスの8番のあとの懇親パーティで「マーラーは生きています。音楽がそれを証明している」と言ったインバルが思い出された。チャイコフスキーもまた、そのような不滅の存在であるということをインバルは音楽で顕す使命を担っている。
2楽章では弦楽セレナーデに振りつけられたバランシンのバレエも連想した。「ベルリン・フィルのような都響」を振るのはインバルにとっても大きな喜びなのだと重ねて思った。命が燃え、ロマンティックな音の帯が金管と打楽器によって獰猛になっていく件は、驚くほど動物的だ。音楽が危険なほどワイルドになるためには、何か素っ頓狂なアイデアがなければなく、やはりそれは「ただの記号で、ただの音楽」というフラットな原点回帰なのだった。3楽章ラルゴでは、ヴァイオリンとヴィオラが渾身の力を振り絞ってかいがいしく働かなければならない様子が見えたが、命がけの冗談の音楽にも聴こえた。ワルツのアクセント部分に「ブッ」という濁った管の響きが乗っかるのは、やはりふざけている。一気呵成に書き上げたこの交響曲第5番を「わざとらしい作り物」とチャイコフスキー自身が呼んでいる。シリアスで神聖な精神性だけでは不足なのだ。

4楽章は微かに期待していたインバルの「俗っぽさ」がこれでもか、これでもかと溢れ出した。「イソップ物語」の、色々な鳥の羽を拾って身に着けるカラスの童話を思い出した。ベートーヴェン、ブルックナー、ベルリオーズ、ヴェルディからバロック音楽まで様々な断片がカラフルに飛び出す。サウンドも楽想も巨大化し、狂気に近い高揚感が襲い掛かるが、その中空にはブラックホールのような無意味、チャイコフスキーの詐欺師の心が渦巻いていた。インバルは、その透き通った悪の部分を見逃さない。作曲家はなぜ曲を作り、指揮者はなぜ指揮をするのか。「みんなをびっくりさせたいからだよ!」と言う作曲家の声が聞こえたような気がした。飄々として偉大なチャイコフスキー5番は、ストラヴィンスキーの『春の祭典』そっくりだった。この上なく知的なプレイヤーが、ロマンティシズムを超越した膨大な音の連なりを淡々と聴かせ、祝祭的で楽しい音楽に仕上げていた。このコンサートは春の喜びが溢れていたのだ。