小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

モーリス・ベジャール・バレエ団 『魔笛』(11/17)

2017-11-18 10:59:30 | バレエ
ベジャール・バレエ・ローザンヌの3年ぶりの来日公演。今年はベジャール没後10年に当たり、『魔笛』と『ボレロ』他のプログラムと、東京バレエ団との合同の『ベジャール・セレブレーション』も上演される。ベジャール没後10年は、ジル・ロマンが芸術監督を引き継いで10年ということでもあり、『魔笛』はそのこと脳裏に浮かべながら観た。1981年に振り付けられた『魔笛』でジル・ロマンは三人の童子の一人を演じ、映像に残っている1982年の来日公演でも同じく童子を踊っている。
初日の東京文化会館は予想以上に人が入っていて、古くからのベジャール・ファンも多くいることをうかがわせた。日本人は移り気で新しいトレンドに弱いとも言われるが、芸術に関しては想いが根深く、ベジャールほどの人になると忠実な信奉者も多い。マーケティングの網目にひっかからない「サイレントな」良質の芸術愛好家たちだ。こうした客層には鑑識眼もあれは強い美意識もある。

ところで、モーツァルトの『魔笛』の全編をバレエにしたこの作品は2004年にも来日公演で上演され、ジル・ロマンが弁者として八面六臂の活躍を見せた。この弁者はフランス語で語り、他の登場人物の台詞や設定も語る重要な役で、立派な声とカリスマ的な存在感が求められる。前回の弁者のダブル・キャストのバティスト・ガオンは声も芝居もいいダンサーだったが、若手ではなかなか新しいキャストは見つからないのではと思っていた。
ベジャール・バレエはとにかくダンサーの入れ替わりが激しい。キャラクター・ダンサー・タイプのマッティア・ガリオットがこの弁者を見事に演じていたので驚いた。ジル・ロマンが相当集中的に稽古についたのか、眼光鋭く時々そっくりな表情を見せる。ベジャール版『魔笛』の屋台骨のような役を見事にこなし、舞台全体に安定感を与えていた。

タミーノは長身痩躯で繊細な表情のガブリエル・アレナス・ルイスが演じた。経歴を見ると2008年入団なので新人ではないが、少年ぽいルックスで大変若く見える。前回の公演ではベテランのドメニコ・ルブレがタミーノ役だったので、今回の若々しいタミーノは新鮮。ベジャール特有のクラシックを軸にした苛酷な振付も丁寧にこなす。特に一幕は出づっぱりで台詞もあり、たくさんの登場人物とコミュニケーションをとらなければならない上に自分のアリア=ソロにも注目が集まるが、すべてを真摯にこなしており、姿も美しかった。
新鮮だったのは、鳥刺しパパゲーノを演じたヴィクトル・ユーゴー・ペドロソで、プロフィールによると2016年に入団したブラジル出身のダンサーだという。陽気で剽軽者で、空気のように軽いパパゲーノをキュートな表情で踊り、クラシックの技術も確かだった。ベジャール・バレエの歴代パパゲーノの中でもとびきり若く、赤ん坊のようなあっけらかんとした輝きを放っていて、どのシーンでも彼を見ずにはいられなかった。こういうダンサーを見ると、長くこのカンパニーにとどまってほしい、と強く思う。

生前のベジャールが直接指導したダンサーは現在4人だけになった。そのうちの一人であるカテリーナ・シャルキナは、前回の来日公演で『ライト』のタイトルロールを踊ったダンサー。2年前に出産を経験し(2015年の『第九』にはそのために参加できなかった)現在33歳だが、昔の生意気な美少女の面影を残しながらも、すっかり大人の表情になっていたのに驚かされた。ローザンヌでクラスレッスンを見学したときも、一番熱心に励んでいたのがシャルキナだったが、トゥシューズをはかないパミーナの役も、細部まで正しいポジションをキープしながら踊る。演劇的にも、ベジャールの薫陶を得た世代の貫禄があり、パミーナの母性がタミーノを包み込んでいると思わせる場面がたくさんあった。シャルキナはウクライナ出身だが、ロシア系のカリスマ・バレリーナ…ザハロワやプリセツカヤのような表情を見せることがある。13年前は三人の侍女の一人を踊ったが、今回のパミーナは彼女の当たり役であった。

驚いたのは、大ベテランのエリザベット・ロスが未だに衰えぬ冴え冴えとした動きで夜の女王を演じたことで、これは何かの魔法か奇跡ではないかと思った。生前のベジャールが「母親の面影を感じる」と気に入って、『くるみ割り人形』や『海』などで母親役を与えられてきた人で、1997年からカンパニーで踊っている。彼女の年齢を数えるのもやめてしまったが、日々の節制と精神力でダンサーは半永久的に踊れるということなのだろう。オペラグラスで見るとさすがに年齢相応に見えるが、ダンスは13年前の夜の女王と比べて見劣りするところがない。カンパニーの中でもお母さんのような存在なのかも知れない。

13年前に26歳でザラストロを踊ったジュリアン・ファヴローが、今回も同じ役を踊った。ヒエラルキーのないこのカンパニーで実質上のプリンシパルを長年務めてきたダンサーだが、根っからの演劇人で、生前のベジャールも彼に一目を置いていた。2004年の再演のとき、タミーノにキャスティングされたが途中でザラストロに役が変わった。「バクティ」のインドの神を見事に踊っていた頃だったから、ベジャールも「神」的な役のほうがファヴローに相応しいと思ったのだろう。髭を生やして長老的なザラストロの雰囲気を加えたファヴローは、『魔笛』で描かれた不可思議な存在を、彼自身の知的なアイデアによって創り上げていた。超人間的で、感情を超越し、踊りも象形文字のようにミステリアスで、ところどころユーモラスでもある。驚いたのは、13年前も彼は同じアプローチでザラストロを演じていて、それはベジャールの考える「神」に拮抗する、彼自身の「神」であったということだ。ベジャール作品をいくつも見ていれば、ファヴローのザラストロはベジャールの神とは「異なる」神であることは一目瞭然だろう。そのようにして、彼は昔から不思議な形でこのカンパニーの中で「自立」していた。凄まじい克己心と忍耐力にベジャールも最後は根を上げ、ザラストロの延長線上にある『ツァラトゥストラ』(2005年)を彼のために振り付けた。

気になるのはジル・ロマンで、彼はこの10年で変わったのか、変わらなかったのか…その心のうちは簡単には明かされていないのだ。ベジャールの元を三回去り、三回戻ってきた問題児であったロマンは、「ベジャールから一番に愛されたい」と思っていたダンサーの一人だったはずだ。ジルの前にはあの巨大なジョルジュ・ドンという存在がいた。芸術監督となり、愛されるより愛さければならない…ベジャールのような愛を持たなければならなくなったとき、彼は自分を変えたのだろうか?
『魔笛』では、ジル・ロマンのド根性を感じた。こういう表現はあまり洗練されていないが…極限まで努力して頑張っている、献身的な日常が伝わってきた。人間はそう簡単に変われるものではないが、善き方向に自分を導くことはできる。こう言いながらも、ジル・ロマンがどういう人なのか私はほとんど知らない。ただ、ベジャールの忍耐と寛大さ…愛ゆえの「大きさ」を引き継ぐのは、常人には不可能に近いのではないかと思う。それをジル・ロマンは引き受け、この立派な『魔笛』の再演を実現した。

愛、と一言でいうが、愛は綺麗ごとではなく、そこには様々な混濁したものが詰まっている。愛は苦しいものでもある。「この愛が正しい」と粘り強く主張することが自分を危険にさらし生命を縮めることもある。ベジャールもつねに苦悩した…労働を重ね、壊しては作り直し、愛を拡大してきた。ベジャールは一貫して「愛する人」で、「愛されたい」などというひ弱な動機から創造をしたことはなかったと思う。日本という国を愛したのも、日本から愛されたかったわけではない(結果的に日本は彼を愛したが)。
ベジャールはダンサーを心から愛した。最後のバレエ『80分間世界一周』でも、彼はダンサーに踊る喜びをプレゼントし、彼らが幸福であることを望んだのだ。
今回の『魔笛』は、不思議な答えを見せてくれた。ベジャール亡き後のダンサーたちは、振付を愛し作品を愛し、ベジャールが想像していたよりはるかに知的な方法で「ベジャールを愛している」ことを伝えてくれたのだ。ベジャールは自分が愛しこそすれ、ダンサーからこんなふうに愛されるとは思ってもいなかっただろう。それが、振付家の肉体の不在によって明らかになった。ダンサーはベジャールに若さを提供する。舞台には若さが必要なため、何度も何度もダンサーは入れ替わる。まるで若さを貪る吸血鬼だ。ベジャールは創造の中で、少しばかりの罪悪感も感じていたはずなのだ。
「若さ」の側からこんなふうに聡明な形で愛されるとは、ベジャールの予想外のことだったはずだ。閃光のごとき鮮やかな答えが、13年ぶりの『魔笛』から伝わってきた。

三人の侍女の一人、大橋真理さんは動きにキレがあり静止もぴったりと決まっていて、理想の演技を見せてくれた。2004年には長谷川万里子さんがこの役を演じ、華やかな存在感が似ていると思った。ベジャール作品ではつねに日本人ダンサーが輝く。二人の武士のダニエル・ゴールドスミスとコナー・バーローは70年代のベジャール・ダンサーを彷彿させる雰囲気の持ち主で、試練のシーンで迫力のあるダンスを見せた。モーリス・ベジャール・バレエ団『魔笛』は11/18と11/19にも公演が行われる。