かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(57)

2025年03月27日 | 脱原発

2017年10月27日

 選挙の間は、フェイスブックもツィッターも政治の話で満ち満ちていた。その中で、立憲民主党に人気が集まった機微に触れるようなツィッターの投稿を見つけた。​



 いま、政治の世界(というよりは政権党の世界)に溢れているのはディスコミュニケーションというコミュニケーションである。会話が成立していないのだ。
 マスコミやネットでは、安倍首相を「息を吐くように嘘をつく」などと評しているが、私には、彼は「嘘つきで」はなくて、「ほんとうのことが話せない」人なのではないかと思えるのだ。それは、ほんとうのことを知らないということもあるのだろうが、眼前する事象を理解して言葉にすることができないのではないかとしか思えないのである。
 ほんとうのことを話す能力がないために、質問されれば、とりとめのない言葉の羅列か、質問者への感情的な反発となり、あらかじめ準備された言葉は事実の裏付けがない政治的な美辞麗句ばかりで、それは誰が聞いても「嘘」としか思えない内容になってしまう。
 彼は、政治の世界で語られる「言辞」については嫌というほど薫陶を受けてきたに違いないのである。不幸なことに、その政治言語を、事実とか真実、あるいは善悪や眼前する状況と関係づける能力に欠けているのである。​

​​善悪に関する言語の混乱。この症候を、国家の目印だと考えればいい。じっさい、死への意志をこの症候は示している!​ フリードリッヒ・ニーチェ [1]

 この言語の混乱を許していては、国家は「国家の死」に向かうのである。人によっては今、今度の選挙を最悪の結果だと評するが、「善悪に関する言語の混乱」を乗り越える兆しが見えてきたということもできる。まあ、それが政治家の「普通の受け答え」というのは情けないと言えば情けないが……。​

 人間というのは、世界や環境への認識を少しずつ進化せてきた。政治的、社会的認識も、長いスパンで考えればやはり進歩していると考えていい。しかし、歴史の時間を短く区切ると、進化どころか退化しているのではないかと思えてしまう。
 先に引用したニーチェは、100年以上も前に亡くなっている。ナチス・ドイツから逃れ、フランス・スペイン国境で77年前に死んだベンヤミンは、次のように書いている。​

現代の人間のプロレタリア化の進行と広範な大衆層の形式は、おなじひとつの事象のふたつの面である。あたらしく生まれたプロレタリア大衆は、現在の所有関係の変革をせまっているが、ファシズムは、所有関係はそのままにして、プロレタリア大衆を組織しようとする。ファシズムにとっては、大衆にこの意味での表現の機会を与えることは、大いに歓迎すべきことなのだ(それは大衆の権利を認めることと同一では絶対にない)。所有関係の変革を要求している大衆にたいして、ファシズムは、現在の所有関係を温存させたまま発言させようとする。当然、行きつくところは、政治生命の耽美主義である。大衆を征服して、かれらを指導者崇拝のなかでふみにじることと、マスコミ機構を征服して、礼拝的価値をつくりだすためにそれを利用することは、表裏一体をなしている。ヴァルター・ベンヤミン [2]

​ 時代は変わって「プロレタリア化の進行」は「プロレタリアの二極化、貧困層プロレタリアの急増」とでも呼べるような状況になっているが、ファシズムの機制はまったく変わらない。
 マスコミジャーナリズムは、あたかも自由な言説を謳歌しているように見えながら、じっさいにはほとんど自公政権の言論統制下にある。みんな、自由にモノが言えると信じて疑わないが、その「モノ」はテレビや新聞が政治的圧力下で創り上げたフェイクという時代である。自由だと思い込んでしまう隷属こそ現代ファシズムの特徴だろう。
 そして「美しい日本」という幻想への耽美的趣味、テレビでは「すごいぞ、日本!」的な番組が氾濫している。もうすでに、ベンヤミンが描くファシズムそのものである。
 進化とか退化とかいう前に、ほんの80年前のことを覚えていられない日本人がここにはいる。ドイツも日本も、70数年前の記憶を憲法の形で記憶化した。一方はそれを順守する形で西欧先進国のリーダーの道を歩み、一方はそれを形骸化することで東アジアの後進国への道を歩んでいる。
 立憲政党の誕生が歓迎され、喜ばれ、支持される所以である。

​​[1] フリードリッヒ・ニーチェ(丘沢静也訳)「ツァラトゥストラ 上巻」(光文社古典新訳文庫 2010年)p.97。
[2] ヴァルター・ベンヤミン(佐々木基一編集解説)『複製技術時代の芸術』(晶文社、1999年)pp. 46-47 。



2017年11月17日

​ 「原発事故の自主避難者を被告にした行政の鬼畜」は、​『田中龍作ジャーナル』​の一記事のタイトルである。その記事は、次のように始まって「鬼畜」政策の経過をきわめて適切に要約している。​

​​ この国の行政は鬼畜だ。原発事故からの自主避難者をとうとう被告として訴えたのである。
 福島県と国は自主避難者への無償住宅供与を今年3月末で打ち切った。これを受けて山形市の雇用促進住宅で避難生活を送っていた8世帯は立ち退きを迫られた。
 立ち退きを拒否したところ、大家である独立行政法人・高齢・障害・求職者雇用支援機構は、8世帯を相手取り、「住宅の明け渡し」と「4月1日からの家賃の支払い」を求める訴えを山形地裁に起こした。9月22日のことだ。
 訴えの法的根拠は、災害救助法にもとづく住宅支援の契約が3月31日で切れたことによる。
 自主避難者とは避難区域に指定されたエリア以外からの避難者のことである。区域外といえども線量は高い。
 国が避難基準とするのは、年間20mSv以上という殺人的な線量だ。チェルノブイリ原発事故のあったウクライナでは年間1mSv以上であれば避難の権利が発生し、5mSv以上は強制移住となる。住民は国家から住宅の提供を得るのだ。世界的に見て日本の避難基準が人権軽視であることがよく分かる。
 東電福島第一原発の事故による自主避難者の数は2万6,601人(福島県避難者支援課まとめ=昨年10月末現在)。自らの生活基盤を奪われたのだから、当然収入は減り生活は厳しくなる。
 にもかかわらず自主避難者の99%は、4月1日から家賃を払わせられている。彼らの多くは生活に困窮する。これも人権問題である。​​

​ この記事以上のことを付け足すことは何もない。私たちの脱原発の闘いは私たちの人権を守る闘いそのものであることは確かだが、〈3・11〉以降、放射能被曝をめぐってじっさいに起きている人権侵害の一つが「原発事故の自主避難者を被告にした行政の鬼畜」政策なのである。
 「棄民」という指摘はしばしばなされているが、政府の原子力政策の失敗としての東電1F事故の被害者を「棄民」として切り捨てることで不正を回収しようとすることはもはや政治などではない。国民を否認する政治・行政というのは、本質的に矛盾した存在であることは明らかである。 原発事故の自主避難者はいわゆる区域外避難者であるが、この区域外避難者をめぐる経過は、​『FoE Japanブログ』​の「山形県雇用促進住宅の8人の自主避難者が訴えられる!」という記事にもう少し詳しく書かれている。その記事のなかの次の一文が政府の避難者政策の本質を端的に示している。

​​​「原発事故子ども・被災者支援法」は2012年に制定されました。避難した人もとどまった人も帰還する人も、自らの意思で選択できるように、国が住宅の確保や生活再建も含めて、支援を行うように定めた法律です。被災者の意見を政策に取り入れることも定めています。

国と福島県が、この法律を適切に運用し、避難者や支援者の声に耳を傾け、避難者の生活再建のための具体的な施策を打ち出し、住宅提供を延長していれば、現在のような事態を回避できたはずです。

しかし、残念ながら、国は、帰還促進、復興の名のもとに、次々と避難指示を解除し、避難者への支援を打ち切りました。​​

​ こうして、国は20mSvもある汚染地域への帰還を強制しようとしている。避難者への支援を打ち切り経済的困窮におとしめること、そして20mSv汚染地域での生活を強いることなど、政府・行政は幾重にも人権侵害を重ねている。


 

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