二つの大惨事が同時に起きてしまいました。ひとつは、私たちの目の前で巨大な社会主義大陸が水中に没してしまうという社会的な大惨事。もうひとつは宇宙的な大惨事、チェルノブイリです。地球規模でこのふたつの爆発が起きたのです。そして私たちにより身近でわかりやすいのは前者のほうなんです。人々は日々のくらしに不安を抱いている。お金の工面、どこに行けばいいのか、なにを信じればいいのか? どの旗のもとに再び立ちあがればいいのか? だれもがこういう思いをしている。一方チェルノブイリのことは忘れたがっています。最初はチェルノブイリに勝つことができると思われていた。ところが、それが無意味な試みだとわかると、くちを閉ざしてしまったのです。自分たちが知らないもの、人類が知らないものから身を守ることはむずかしい。チェルノブイリは私たちをひとつの時代から別の時代へと移してしまったのです。
私たちの前にあるのはだれにとっても新しい現実です。
スベトラーナ・アレクシエービッチ『チェルノブイリの祈り』 [1]
今年のノーベル文学賞をドキュメンタリー『チェルノブイリの祈り』の作家、スベトラーナ・アレクシエービッチが受賞したことは、大いなる事件である。文明史的な意味でのメルクマールたりうるのではないか、大げさでもなんでもなく、そう思えるのである。
チェルノブイリの大惨事の後、さらに規模の大きい原発事故が福島で起きてから、ドイツという先進工業国が原発廃棄を国家として決断し、オーストリアのような原発を持たない国家でも原発由来の電力の輸入を禁止した。それは、明らかに一直線に進んできた技術文明の変革の兆しに違いないし、そして、そのような未来への新しい意思に呼応するようなノーベル文学賞の発表だった。
しかし、一方で、悲惨な原発事故で汚染された領土と数万の被災民を抱えながら、原発再稼働を画策し、場合によっては新しい原発が必要だと公言する極東アジアの後進国がある。
まるっきり200年以上も昔の産業革命のときと同じような時代錯誤の技術信仰に踊り狂っているとしか思えない愚かな宰相のいる国に生きる私たちは、今日も「原発再稼働反対」、「すべての原発廃炉」を叫ぶためにデモに行くのである。
今年の最後の読書をノーベル文学賞作家の『チェルノブイリの祈り』を読んで終わらせようと思ったのだが、じっくりと読むのは難しい。全編、チェルノブイリの人々のインタビューで構成されていて、冒頭の作家自身の言葉も、自分へのインタビューの形になっている。
急性障害で死亡した家族のこと、挽発性障害で苦しむ自分のこと、自分たちを見捨てる政府への不信、住民を指導してきたはずの共産党組織の人の不信と後悔、どれも読み進めるのが辛い話ばかりだ。
同じことが福島で起き、そして今も起き続けているのだ。
昨日、トロリ—バスに乗りました。その一場面。男の子がおじいさんに席を譲りませんでした。おじいさんがお説教をします。
「きみが年をとったときにも、席を讓ってもらえないぞ」
「ぼくはぜったいに年をとらないもん」
「なぜだね?」
「ぼくらみんな、もうすぐ死んじゃうから」
リリヤ・ミハイロブナ・クズメンコワの発言『チェルノブイリの祈り』 [2]
[1] スベトラーナ・アレクシエービッチ(松本妙子訳)『チェルノブイリの祈り』(岩波書店、2011年) pp.32-33。
[2] 同上、p. 219。
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