いつ瀑ぜむ青白き光を深く秘め原子炉六基の白亜列なる 佐藤禎祐
この短歌は、歌集『青白き光』の最後に配されたもので、平成14年の作である。
原子力発電所の敷地に足を踏み入れたことはないが、研究用原子炉の建屋内には幾度か立ち入ったことがある。原子力工学を学んでいた学生時代のことだ。一度だけ原子炉の内部を覗いたことがある。燃料棒や制御棒が大量の水の中に沈んでいるのが見えるのだが、その水が青白くぼーっと輝いていた。チェレンコフ放射光である [1] 。
上の短歌を読んだとき、若い頃に見た原子炉内のチェレンコフ放射光を鮮明に思い出した。しかし、歌人が想像していたのはもっと苛烈な事象だったのである。「あとがき」に「かつて東海原発で不用意に核の臨界を招き、青白い光を受けて亡くなった例がある」と記して、その光を歌集名にしたとある。
「東海原発」とあるが、実際は茨城県東海村にあるジェー・シー・オー(JCO)という住友金属鉱山の子会社の核燃料加工施設で起こした臨界事故のことを指しているのだと思う。ウラン溶液の作業中に不用意に臨界量以上のウランを1箇所に集めたために核分裂の連鎖反応が起きた事故である。近くで作業していた3人の従業員は核分裂で発生した大量の中性子、ガンマ線を被爆し、 2人が死亡し、残りの1人も重症となった。全体の被爆者は700人近くにのぼった。
臨界事故の時にも閃光のような青い光が観測されることが知られている。JCO事故の時もチェルノブイリ原発事故の時も見られたという。これはチェレンコフ放射とは物理的過程が異なる [2] 。大量の放射線(ほとんどX線やガンマ線)が空気中の酸素や窒素原子あるいは分子の電子状態を励起し、励起した原子(分子)が元の状態(基底状態)に戻る際にエネルギーを光として放出する。したがって、青い閃光は大量の放射線が放出される瞬間の光であり、それを見ている人間もまた大量の放射線を浴びることになる。人は、死に至る瞬間にのみ「青白き光」を見るのである。
佐藤禎祐という歌人を知ったのは、2014年3月10日付け朝日新聞の記事によってである。東電福島第1原子力発電所の核燃料溶融事故以来の「朝日歌壇・俳壇」で原発事故がどのように読まれているかに関心を持って、その抜き書きを「原発を詠む」や「原発事故はどう詠まれたか」というブログにまとめているので、「朝日歌壇・俳壇」には必ず目を通すのだが、そこに「うたをよむ」というコラムがあって、佐藤通雅が「佐藤禎祐という歌人」という題で次のように書いていた。
佐藤禎祐という歌人がいた。彼は1929年に福島県大熊町に生まれ、原発批判の歌を作ってきた。それが『青白き光』として刊行された。大熊からいわき市に避難してからも作品を作り続けてきたが、昨年3月に帰らぬ人となった。83歳の生涯。過労の末の無念の逝去だ。
眠れざる一夜は明けて聞くものか思はざりし原発の放射能漏れ
『短歌』2011年10月号
死の町とはかかるをいふか生き物の気配すらなく草の起き伏し
同
その佐藤祐禎の存在すら忘却されようとしている。なんとかして残しておきたい。手始めに私の個人誌「路上」128号に「佐藤祐禎100首選」と佐藤祐禎論を編集することにした。前者はいわき市在住の歌人高木佳子さんに、後者は会津若松市在住の歌人本田一弘さんに担当してもらった。
いま、もっとも残しておきたい歌人、それは佐藤祐禎だ
福島県双葉郡大熊町は、東京電力福島第1原子力発電所の所在地である。佐藤禎祐は、1929年に大熊町に生れ、米を作る農民として生き、歌を詠み、原発に反対し、2011年3月の原発事故でいわき市への避難を余儀なくされ、その地で2013年3月に83歳の人生を終えた。
佐藤通雅が紹介している2首の歌は原発事故後に詠まれたが、『青白き光』には2002(平成14)年までの作品が収められていて、2004年に短歌出版社から発行された。私が手にしている歌集は、原発事故後の2011年12月にいりの舎から再刊されたものである。
苦労して拓き拡げし三町のこの田もわが農の終りとならむ (p. 13)
旅を来て目につく田畑を批評するわれを「百姓ね」と妻のいふ (p. 45)
ひたすらに耐へて譲るを旨として今振りかへり見る過ぎし七十年 (p. 106)
放射能に追われて大熊町を出るまで、生れ落ちた土地を生きる農民として故郷を見つめてきた。佐藤禎祐によって詠まれた大熊町の田園の景色は、宮城県北部の農村で生まれ育った私にとってもなじみ深い、それだけに切実なリアリティを持って迫ってくる。
去り難くその襞々にたち迷ふ雲見ゆ夕の遠き山脈 (p. 14)
梅雨あけの夕べ立ち籠むる靄の海に浮かぶがごとし家も太樹も (p. 15)
水番をしつつ寝転ぶ草土手にハルジョオン咲きしろつめぐさ咲く (p. 22)
穂に出でて光漲る田に立てば蟬はめぐりの山にひびかふ (p. 40)
水に浮くケラ啄まむつばくらめ代搔く田面すれすれに飛ぶ (p. 46)
雷響きたちまち迫り来たる雨は日照り畑に筋なして降る (p. 61)
残し置かむ風景一つこの地区に軒傾ぶきし茅葺きの家 (p. 88)
遠くまで続く田んぼの中に島々のように点在する農家の屋敷林は、父祖から代々受け継がれてきた年代を顕わにするように大樹となって、夕靄の中に浮かびがっている。農道や畦道を辿ればハルジョオンやシロツメクサが咲いているが、それらは田仕事の合間に刈り取らねばならない雑草でもある。
かつて農家はほとんど茅葺き屋根だったが、いま残っている茅葺き屋根といえば、離農して放棄された家屋だけである。離農した人がいる。離農せざるを得なかった人がいる。貧しさに追い打ちをかける冷害、干害がある。さらにまた、棄民政策に等しい日本の農政がある。
あらかたは植ゑ終りたる田に遠く妻亡き人のひとり植ゑつぐ (p. 13)
花咲かず垂るるなき穂を抜き持ちて農夫ら寄り合ふ今朝の田の畦に (p. 27)
畔道に皺みたる手を比べ合ひともに継ぐものなきを語りあふ (p. 30)
高温の続けば米の穫れ過ぎを密かに恐るる百姓われら (p. 40)
なし崩しに米は自由化されゆかむ部分輸入と言ふ手法にて (p. 48)
作るほど赤字とならむ米作と子は知るゆゑに継げとは言はず (p. 51)
冷害資金の返済いまだ終へざるに再び借りる申込みに来つ (p. 69)
建てしまま金払へずに夜逃げせし家の垣根の赤き山茶花 (p. 75)
減反をせねば米価は廉くするとの役場と農協の脅しに屈す (p. 92)
政官財の癒着もわれには何せむに農の滅びむ予感に怯ゆ (p. 104)
農業はたしかに苦労の多い仕事だ。だが、当然のことながら、農には農の楽しみがある、誇りがある、意志がある。それが農民である佐藤禎祐を支える。そういう歌も歌集に含まれている。
採算の合はぬ米作といふなかれ獲入れどきのときめきはあり (p. 66)
後継者無くともこの田荒らすまじ作る当てなき峡田を耕ふ (p. 92)
野にあるはわれとわが乗るトラクターと捉はるるなきこの自在感 (p. 99)
老われの離農を人ら予測すと言へど簡単に止めてたまるか (p. 99)
貧しさ、生活の苦しさは農村の構造を変える。農民は当たり前のように賃労働に従事せざるを得ない。近くに土木工事がなければ出稼ぎに行くしかない。東北ではよく聞いた話だ。いずれにしても、農業だけで生活できる農民は減っていく。これは大熊町だけではなく、全国の多くの農村、あるいは漁村で起きていたことに違いない。
食へぬ農の嘆きは言はず大方の農夫は土木工事にはげむ (p. 56)
休耕田貸さむ目論見はづれたり牛飼ひ止むる人の増え来て (p. 57)
弁当箱提げて車を待ちてをり田植終へ土工となりたる人ら (p. 69)
扱き終へし稲架寒々と並ぶまま農夫ら土工に出でて働く (p. 71)
七十歳近きに土工となりて行く妻なき人と夫なきひとと (p. 71)
このような農村に目を向ける政治はどんなものだったか。1974年に電源三法が成立する。これは、いわば「田中角栄主義」 [3] の一つで、貧しい農漁村に原子力発電所を建設することでエネルギー危機の解消を図ることを目的としつつも、一方では中央資金を地方に流すことによって自民党の票を購おうとするものであった。
季節的土工であれ、離農土工であれ、その農漁村で暮らすことが困難になりつつある人々を抱える地方自治体が、原子力発電所建設に伴う膨大な電源三法交付金の誘惑に勝てないのは構造的に明らかだった。
核の危険性を怖れて反対する住民は確かにいた。それを支援する少数の活動家も存在した。彼らの多くは新左翼の流れを汲むため、当時、核の平和利用を是認する(原発を容認する)メジャーな左翼党派からは「過激派」として批判されていた人たちであった。3・11後にはすべての左翼党派が脱原発、反原発を標榜しているが、当時は、原発に反対する住民は地元で孤立するばかりではなく、全国的なレベルでも政治的には孤立していた。
そして、大熊町に東京電力第1原子力発電所が建設される。国と電力会社がつぎ込む金によって町は変貌する。
原発に漁業権売りし漁夫の家の甍は光りて塀高く建つ (p. 32)
町道の鋪装は誰のお陰ぞと原発作業員酒に酔ひて言ふ (p. 47)
都市なみの庁舎諸施設道路網原発諸税と言ふ糖衣着て (p. 47)
原発依存の町に手力すでになし原子炉増設たはやすく決めむ (p. 52)
原発に縋りて無為の二十年ぢり貧の町増設もとむ (p. 52)
原発に富めるわが町国道に都会凌がむ地下歩道竣る (p. 67)
サッカーのトレセン建設を撒餌とし原発二基の増設図る (p. 76)
鼠通るごとき道さへ鋪装され富む原発の町心貧しき (p. 93)
原発があるから何でも出来るといふ一つ言葉は町を支配す (p. 95)
原発に海売りて富めりし人の家とき経ていたく寂しく見ゆる (p. 96)
原発がある故出稼ぎ無き町と批判者われを咎むる眼あり (p. 96)
地方経済といえば聞こえがいいが、いわば金が地方自治体の政策ばかりでなく、思考そのものをがんじがらめにする。3・11後には電力会社から地方自治体への寄付行為は強く批判されるようになったはずだが、2014年3月16日付けの朝日新聞には次のような記事が掲載された。
山口県上関町に原発を建設しようとしている中国電力は、総額約2億円をかけて町道を拡幅・新設して上関町に引き渡す計画を進めているという。上関町からの強い要望があったと中国電力は主張する。上関では原発のための準備工事が2009年から始まり、3・11後工事は中断している。しかし、すでに上関町は町の政治・行政レベルで電力会社に大きく依存していることは明らかで、自立・自発的な政治判断をする可能性は格段と低くなっているということだ。
経済的に、つまり金で縛り上げられた町で、人々もまた変容していく。
小火災など告げられず原発の事故にも怠惰になりゆく町か (p. 26)
原発事故にとみに寡黙になりてゆく甥は関連企業に勤む (p. 26)
空走る原発六基の送電線逃れぬ思ひに慣れてわが住む (p. 32)
原発が来りて富めるわが町に心貧しくなりたる多し (p. 38)
リポーターに面伏せ逃げ行く人多し反対を言へぬ原発の町 (p. 53)
原発に自治体などは眼にあらず国との癒着あからさまにて (p. 72)
原発を本音で言ふはいくたりかうからやからを質にとられて (p. 93)
原発に縋りて生くる町となり燻る声も育つことなし (p. 104)
うからやから質に取られて原発に物言へぬ人増えてゆく町 (p. 104)
繁栄の後は思はず束の間の富に酔ひ痴るる原発の町 (p. 104)
いつはりの富に満ち足るこの町にプルサーマルを言ふは少なし (p. 107)
「逃れぬ思ひに慣れて」住むしかない住民に、放射線被爆の危険はあからさまな事実として見えてくる。原発で職を得たであろう住民が、被爆していく。多くの場合、放射線被曝はひたすら隠されるが、友人、知人、その縁故者の多くが原発で職を得ていれば、いかに電力会社や自治体がそれを隠そうとしても、自ずと露見してくるのである。
線量計持たず管理区に入りしと言ふ友は病名なきままに逝く (p. 26)
原発に勤めて病名なきままに死にたる経緯密かにわれ知る (p. 28)
原発のわが知る作業員二人病名をつけられぬままに死にたり (p. 38)
放射能は見えねば逃げても無駄だとぞ避難訓練に老言ひ放つ (p. 52)
原発に勤むる一人また逝きぬ病名今度も不明なるまま (p. 64)
下血を下痢と信じて死に行けり原発病患者輸血受けつけず (p. 64)
原発はつひに被曝を認めたり三十一歳にて逝きたる人に (p. 67)
危険なる場所にしか金は無いのだと原発管理区域に入りて死にたり (p. 78)
子の学費のために原発の管理区域に永く勤めて友は逝きにき (p. 78)
原発の被曝者ひたすら隠されてひそかに伝ふ少なからぬを (p. 107)
人の父であり祖父である歌人は、いち早く原発に反対しなかったことを悔やみ、子どもや孫たちの未来へ思いを馳せる。不安は果てしない。
農などは継がずともよし原発事故続くこの町去れと子に言ふ (p. 31)
この子らはいつまで生き得む原発の空は不夜城のごとく輝く (p. 31)
原発を知らず反対せざりしを今にして悔ゆ三十年経て (p. 33)
この孫に未来のあれな抱きつつ窓より原発の夜の明り見す (p. 34)
歌人は強く原発反対を訴えるようになる。町における立場も「なべての役」もすてて原発反対の声をあげる。原発は様々な事故を発生する。電力会社は事故を隠蔽しようとし、露見すれば「軽微で問題ない」とばかり言いつのる。
しかし、人々は次第に実態を知るようになる。少しずつではあっても、明確に原発反対の意思表明をする人々は増えていく。
民意なき原子炉再開に沸く怒りマグマとなりて地中に潜む (p. 38)
反原発のわが歌に心寄せくるは大方力なき地区の人々 (p. 53)
立場あるわれは人目を避くるごと脱原発の会の末席に坐す (p. 65)
なべての役町に返上せしわれは恣に詠まむ反原発の歌 (p. 72)
声を大に言はねばならぬを原発に勤むる人の多きこの町 (p. 93)
原発を言へば共産党かと疎まるる町に住みつつ怯まずに言ふ (p. 93)
憚らず言ひ得る時代に生き遭ひて科技庁の原発容認批判す (p. 95)
プルサーマル容認の報に肩落とす君も反対の一人なりしか (p. 107)
さし出されしマイクに原発の不信いふかつて見せざりし地元の人の (p. 108)
原発などもはや要らぬとまで言へりマイクに向かひし地元の婦人 (p. 109)
反対運動は次第に力を得ていくのか、そんな期待がふくらみかけてきたころ、大熊町の東京電力第1原子力発電所の原子炉は想定しうる限りでの最悪の事故に見舞われた。核燃料の溶融、メルトダウンである。
原子炉建屋の水素爆発によってばらまかれた高濃度放射能汚染によって原発近隣の広い土地に人は住むことが不可能になった。歌人はいわき市に避難する。
放射能にまみれる前、佐藤祐禎は大熊町をこう詠んでいた。
わが町は稲あり魚あり果樹多し雪は降らねどああ原発がある (p. 76)
[1] この場合のチェレンコフ放射は、荷電粒子(原子炉の中ではウラン235の核分裂で発生した中性子がさらに崩壊してできる陽子と電子がほとんど)が水の中を運動する時、荷電粒子の速度が水中の光速度よりも速い場合に紫外領域に近い光が出る現象。水の中では光の速度は真空中の速度の0.75程度になるため、高エネルギーの荷電粒子の速度が光の速度よりはやくなり得る。また、青白く見えるのは可視光としてはエネルギーが高いため、波長の短い領域だけが人間の目に見えるためである。私の学生時代はチェレンコフ輻射と呼んでいたが、Cherenkov radiationの訳である。ちなみに、この現象は1934年にパーヴェル・チェレンコフにより発見され、イリヤ・フランクとイゴール・タムがその物理現象の理論的説明に成功した。この3人は1958年にノーベル物理学賞を受賞した。
[2] 水がなくても眼球(水晶体)で発生するチェレンコフ放射光が青い光として見えるという間違った俗説もある。確かに水晶体でもチェレンコフ効果は起きうるが、その時には眼球が大量の荷電粒子に曝されるため、その他の原子・分子の物理過程による光も大量に発生する。同時に生体組織が滅茶苦茶に破壊される時であって、光が見えたかどうか認識する時は死亡する時だ、と考えるのが妥当である。つまり、チェレンコフ放射光が見える、見えないという議論自体にどんな意味もない。
[3] 安冨歩 『幻影からの脱出――原発危機と東大話法を越えて』 (明石書店、2012年) p. 113。