かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 原発をめぐるいくぶん私的なこと(14)

2025年01月16日 | 脱原発

2017年1月27日

 ベンヤミンはかつて言ったことがある。世界について子供が持つ最初の経験は、「大人たちのほうが強い」ではなく、「自分には魔術の能力がない」ということである、と。
         ジョルジョ・アガンベン『瀆神』[1]

 「自分には魔術の能力がない」ことに気づくことから人間は大人に近づく。それに気づくことのない未熟な精神はどうなるのだろう。発達しそびれた精神は、自分には魔術の能力がないと信じることができないのではないか。十分に年老いた政治家なのに、手に入れた政治権力を「魔術の能力」だと思い込み、行使しようとしている。この国にはそうとしか思えない例がある。
 時あたかも、俳優の窪塚洋介さんが、ご自身が出演した映画『沈黙』の舞台あいさつで「東北大震災でたくさんの弱者が生まれました。他の国に何兆円もばらまき倒しているのに、自分の国の弱者に目もくれない。福島の原発は人災。あれだけのことがあっても再稼働なんて、危ねーっつうの。悪魔のような連中たちが、この国を切り売りしている」と政府の対応を批判したという。
 もちろん、魔術の能力は悪魔が使うから魔術なのである。つまりは、「訂正でんでん」などと意味不明な呪文を唱える悪魔のような連中が政治権力を魔術として行使するのだ。かつて「言語明瞭なれど意味不明」という政治家への評言があったが、いまは「言語不明瞭で悪意鮮明」の評言がふさわしい。
 間違った国語が話される「美しい国」などあるだろうか。

 不調の胃がゲフゲフとなるように、政治家の悪い日本語に当たって気持ちがゲフゲフとなる。心の調子を整えようと、この数日で少しばかり冬の歌を集めてみた。「訂正でんでん」を聞いて死にそうになった心へのささやかな薬である。

噴水は疾風にたふれ噴きゐたり 凛々(りり)たりきらめける冬の浪費よ
             葛原妙子[2]

生きていれば意志は後から従きくると思いぬ冬の橋渡りつつ
             道浦母都子[3] 

冬一日(ひとひ)暮れむとしつつ束の間のやさしさが空にただよふを見ぬ
             安立スハル [4]

病む心はついに判らぬものだからただ置きて去る冬の花束
             岡井隆[5]

 好きな短歌を抜き書きしているのだが、どういうわけか女性の歌が多い。上の三種を選んだらすべて女性の歌だったので、岡井隆の歌も加えてみた。言い訳めくが、女性歌人だけが好きなわけではない。挙げればきりがないが、岡井隆も寺山修司も塚本邦雄も福島泰樹も好きである。
 政治家の言葉などではなく、そんな歌や詩を読みふけるはずだった老後はどこへ行ってしまったのだ。原発とうす汚れた政治言葉への〈私怨〉が私の老後のすべてになりそうで困惑している。
 「はじめに言葉ありき」。ロゴスとは言葉である。つまり、言葉は論理である。論理が論理であるためには、人々の間で言葉は共有されねばならない。明治以降の日本の教育が「読み書き」を重要視したことには大いなる意味がある。今ふうに言えば、コミュニケーションに言葉は不可欠である。健全な社会の成り立ちには言葉は不可欠のはずだ。
 しかし、「訂正でんでん(訂正云々)」、「がいち(画一)」は総理大臣である。「みぞうゆう(未曾有)」、「ふしゅう(踏襲)」は副総理大臣である。体から力が抜けてしまう。日本の義務教育制度は完全な失敗だったのだ。基礎的な読み書き能力を小、中学校で学習しなくても政治権力のトップの座を得ることができるのだ。しかし、勉強しない子どもたちが誰でもそうなれるわけではない。世襲政治家が多いということは、貴族政治または封建政治における世襲制に似たシステムが現代日本には存在していることを示している。その社会ステムは、教師や親や子供たちの頑張りを貶めている。
 学校の勉強を頑張らなかった人間が世襲で政治権力の座についている。そんな政治家が「頑張れば成功する」などといいながら「一億総活躍」などという白々しいスローガンを口にする。彼らが私たち国民の頑張りを無意味なものにしているというのに……。
 いや、少なくとも私たちの頑張りをこのような社会を変えることに向ければいいのだ。頑張った人間がほんとうに報われる社会、頑張ることが困難な人間でも大切にされる社会にするための頑張りには意味がある。そういう頑張りでは、けっして自民党の政治家にはなれないが……。
 ろくに日本語を使えない政治家に、脱原発を訴えるデモ人の言葉は届くのか、ほんとうに心配になる。今話題になっている政治家にはたぶん届かないだろう。「彼ら」の言葉が日本語なら、私たちの言葉は日本語ではない。私たちの言葉が日本語なら、「彼ら」の言葉は日本語ではない。
 しかし、「彼ら」ではない政治家もいるはずだ。そういう政治家には必ず届く。なによりも、私たちと同じ日本語を話す無数の日本人には届くはずだ。そう信じる。

[1] ジョルジュ・アガンベン(上村忠男、堤康徳訳)『瀆神』(月曜社、2005年)24。
[2] 葛原妙子『現代短歌全集 第十四巻』(筑摩書房、1981年)p.44。
[3] 『道浦母都子全歌集』(河出書房新社、2005年)p. 116。
[4] 安立スハル『現代短歌全集 第十五巻』(筑摩書房、1981年)p. 131。
[5] 岡井隆『現代短歌全集 第十三巻』(筑摩書房、1980年)p. 203。

 


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