かわたれどきの頁繰り

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【書評】名嶋義直・神田靖子編『3・11原発事故後の公共メディアの言説を考える』(ひつじ書房、2015年)

2015年05月21日 | 読書

 

 「リテラシー」という言葉は普通に使われているし、ことさら特殊な専門的なことを含意しているわけではない。そう思いながらも、じつは、とても微妙な、ある種の頼りないようなニュアンスで受け取ることが多い。私にとってのことだけだろうが、たとえば英語のリテラシーならば、ある程度明確な意味合いで使えるように思う。
 職業柄、教科書や解説を除いて200篇を超える論文を書いたが、日本語で書いた論文はたった1篇だけで、あとはすべて英語で書いた。それに、私の仕事に先行する論文や関連する論文を数えきれないほど読んでいる。しかし、その英語は、物理学の中の固体物理学分野に限られる。もっと正確に言えば、固体物理学の磁性物理に関するものに限られる。
 磁性物理という狭い分野を離れてしまうと読み書き能力は途端に怪しくなる。結論から言えば、残念ながら私の英語リテラシーはかなり貧しいと断言できる。ましてや、物理学を離れて人文科学系、社会科学系の英語ばかりではなく英語社会一般に溢れている英語も覚束ないのだ。
 それでは、日本語テクストのリテラシーだったら大丈夫なのだろうか。これはかなり若いときの記憶なのだが、「リテラシー」ということを聞いた(考えた)とき、日本語の読み・書き・話す能力なら何とかなるだろうとあまり真剣に受け取らなかったように思う。

 年を経て、じわじわと気付かされてきたのは、当然ながら、日本語といえども私のリテラシーはだいぶ怪しいということなのだが、もう一つ気付き始めたことがあった。私の周囲、というよりも日本社会のほとんどの人たちが自分の日本語リテラシーを信じて疑っていないかのごとく振る舞っているということだ。私から見れば、明らかに間違っていると思えることを力強く断言、広言する根拠が、「本に書いてあった」、「新聞が報道していた」、「テレビで言っていた」と言うことがあまりにも多いのである。
 文字通り、「メディア・リテラシー」の問題なのだが、どうも私たちの文化的土壌には、知識や知恵、情報は与えられるものであって、自ら前に歩み出して獲得するものではないという気分が蔓延しているような気がする。今はやりの「反知性主義」とは異なった意味で、日本ではずっと「知」を尊重するという社会一般の価値観が低かったように思う。所与のものとして認めてしまっている社会システムから与えられる情報が「知」であると誤解する風潮の中では、メディア・リテラシーの充足はかなり困難に違いない。

 編著者の一人である名嶋義直が主催した「言語学者によるメディア・リテラシー研究の最前線」というシンポジウム講演を聞きに行く機会があって、その時に本書が出版されるのを知った。シンポジウム講演の半数ほどは、私が強く関心を持つ原発報道に関するものだったし、さらに本書は原発問題に特化しているので大いに期待していたのである。原発報道の実態と、これから私(たち)が原発報道にどのように接するかということをリテラシー研究の専門家に教えてもらいたいということだ。

 本書は、ミランダ・シュラーズの巻頭言から始まる。ドイツは、福島原発事故後、国家として脱原発へと政策の転換を決定したが、それは長期にわたるドイツ国民による反原発の運動があった。ベルリン自由大学教授のシュラーズは、2022年までにすべての原発の閉鎖をドイツ政府に勧告した諮問機関「ドイツ脱原発倫理委員会」の委員であった。
 以下、次のような論考が続く。名嶋義直「序章 背景となる諸事象の説明」、「第一部 民と官のことば」として、高木佐知子「電力会社の広報にみる理念と関係性」、野呂香代子「「環境・エネルギー・原子力・放射線教育」から見えてくるもの」、大橋純「官の立場のディスコース」、「第2部 新聞のことば」として、庵功雄「新聞における原発関連語の使用頻度」、神田靖子「新聞投稿と新聞社の姿勢」、名嶋義直「福島第一原子力発電所事故に関する新聞記事報道が社会にもたらす効果について」とあって、最後は、名嶋義直「終章 吉田調書をめぐるできごとを読み解く」でまとめられている。 

 冗談めいた話からはじめよう。著者一同による「まえがき」に、次の1文がある。おそらく、野呂香代子が自身の論考で取り上げている文科省発行の小学校副読本『放射線2011』の作成目的の「放射線等について学び、自ら考え、判断する力を育成すること」と言う文章 (p. 87) なども念頭にあったのではないかと思われる。

 読者は、批判的な読みの実践を読み込むことによって、最終的には「情報を自分の生きている社会と関連づけて読み解き、考え、判断する」という「批判的読解力」を獲得する。これこそが本当の意味での、文部科学省が学習指導要綱に掲げる「生きる力」であり、読者自身に身につけてほしいと願うものである。 (p. xviii)

 私は、国立大学の大学院修士課程まで原子力工学を学んだ。国家資格である第一種放射線取扱主任者も取得して、一時は職場の放射線安全管理業務も担当したこともある。国家機関としての大学では学業として、次いで同じ国家機関での放射線安全管理業務を通じて、「放射線等について学び、自ら考え、判断する力を育成」した(された)のである。それに基づき、「考え、判断」した結果、日本は原子力をエネルギー源とする政策を早急に転換し、すべての原発を直ちに廃炉にすべきだという結論に達したのだ。
 小学校副読本どころか大学院まで放射線等について学んだという点において、私という個人は、文科省が学習指導要領で記した目的を事実上体現しえた教育成果そのものではないかと思うのだが、どうだろう。もっとも、修士課程終了時に、私のような者は原子力工学の世界に無用だということで、みごとに放逐されたのだったが [註1]

 閑話休題。本書の話題に戻ろう。
 名嶋は、序章の「背景となる諸事象の説明」で、原発事故後に生じた諸々の経過を的確に要約しているが、その中で私がとくに注目したのは、次のように述べている事柄である。

 政府は、原発事故後の2011年4月、福島県11市町村に、警戒区域(原発から20キロ圏)、その外側で放射線量が20ミリシーベルト/年を超える計画的避難区域などの避難指示区域を設定した。2011年末には、放射線量に応じて、(a) 2012年3月から数えて5年以上戻れない帰還困難区域(50ミリシーベルト超/年)、(b)数年で帰還をめざす居住制限区域(20~50ミリシーベルト超/年)、(c)早期帰還をめざす避難指示解除準備区域(20ミリシーベルト以下/年)への再編を決めた。この再編は2013年8月に完了し、避難指示解除準備区ではお盆や年末年始に伴う2週間程度の特別宿泊も認められた。
 しかしこの20ミリシーベルト/年という基準値は、法律で定められている各種の基準値、たとえば、放射線業務従事者の基準値が50ミリシーベルト/年であること、放射線管理区域の基準値が5ミリシーベルト/年であること、一般の人の「追加被曝」線量限度が1ミリシーベルト/年であることなどを考えると、かなり高い数値であることがわかる。今後当然のごとく予測される健康被害を考えてか、政府は住民に積算被曝量を記録できる線量計を貸与し、住民が自身の被曝量を「後から」知ることができるような仕組みを導入する予定である。合計でどれくらい被曝したかを継続的に管理する必要があるということは、確実に放射性物質汚染があることに他ならず、安心して健康な暮らしが送れる環境ではないということである。もはや基本的人権の侵害と言える状況である。 (p. 3-4)

 この被曝限度に関する政府の決定は極めて深刻な問題であり、その反倫理性に対する名嶋の厳しい批判に全面的に同意する。そのうえで、一般人の被曝限度を法律によって1mSv/年と定めていたにもかかわらず、政府が避難解除の目安を20mSv/年以下に設定しているという事実が「3・11原発事故後の公共メディアの言説」にもたらす効果について考えさせられたのである。
 生活に必要なインフラの整備の問題もあるが、帰還地区が1mSv/年ではなく20mSv/年相当の放射能汚染があっても良いとなると、帰還可能区域が格段に拡大する。そして、実際に避難支援打ち切りと相俟って帰還が始まれば、晩発性障害による生命、健康の危険を強いられながら汚染地区で暮らすことになるが、メディアが表象するのは、おそらくは福島が復興しているとイメージである。そのメデイアによって、福島を除く地域の日本人は原爆事故の問題は終わりつつあると認識するだろう。
 3・11原発事故後の原発推進勢力がその言説の背後に常に隠し持っている意識は、「原発事故はなかった(ことにしたい)」ということである。それは、「原発事故(放射線被曝)は重大な問題ではない」という意識として言説に現われていると思う。「原発事故が起きた」、ましてや「放射線被曝で多数の生命が危機的状況にある」などということは原子力推進には消えて欲しい「障害」情報に他ならない。

 たとえば、高木佐知子が分析対象として取り上げている3・11後の電力会社のプレスリリースは、原発事故にはまったく触れることなく、原発が稼働していないための電力不足や節電のお願いに終始している。関西電力は「東日本大震災を受けて」とだけ表現し、東京電力も「東北地方太平洋沖地震により原子力発電所、火力発電所の多くが被害を受け停止した」と記述するに留まる。あたかも原発事故で放射能が大量にまかれて多くの生命が危険に晒されている事実は存在せず、電力会社は地震と津波の被害者であるにすぎないという表現があるだけなのだ。
 高木は、このような言説を正当に見せる表現戦略として、N. Faircloughの分析手法を紹介していて、門外漢の私にはとても興味深い(引用が含まれるが、出典は本書を参照されたい)。

Fairclough (2003)は、「いかなる社会秩序もものごとのあり方やものごとのなされ方に対する説明と弁明の正当性が広く認められること(すなわち正当化)を必要とする」(Fairclough2003:219)として、Van Leeuwenによる4種類の正当化ストラテジ一、1)権威化(authorization) 2)倫理的評価(moral evaluation) 3)合理化(rationalization) 4)神話作成(mythopoesis)を援用している(Fairclough 2004: 98)。これらは、権威や価値や有用性があるということを述べたり、正当な行為には報酬があるという語りをすることで正当化を主張する方法である。この節電依頼においては、この中の「合理化」(rationalization) ストラテジー、が用いられている。すなわち、「社会が構築してきた知識を参照することによる正当化」であり、その知識は、本データでは、原発による電力供給の知識や夏の電力需給の見通しと電力不足に関する知識などである。これらの知識が、文や節のつながりにより、追加され、具体的化されることによって、節電という目的とその有用性に対して妥当性が与えられることとなり、依頼の説得性が生み出されたと考えられる。 (p. 41)

 高木の分析は、プレスリリースの細部にわたっているが、その分析に基づいて次のような説得的な主張がなされている。

 企業の主張や顧客への依頼がどのように自然で説得力あるものとして伝えられていったのか、その一端が明らかになった。本章で考察したのは、企業の理念や関係性についての暗示的メッセージである。ことばによる情報として提示されるものでないため、解釈されなければ気づかない場合もあるかもしれないし、ことばとともに何となく受け入れて納得してしまうこともあるかもしれない。しかし、できるならば、すぐに納得することなく、これらのプレスリリースにおいて提示されたことばがどのような社会状況を背景にしたものであるのか、だれがどのような立場で発したものなのかを考えることが重要だと思われる。さらに、原発再稼動の観点はどこまで必要なのか、そもそも必要なのか、節電の依頼は、結局は受け入れやすい形での指示行為となっているのではないか、などについて問うことも必要であろう。このような問いを発することで、私たちは、企業によるディスコースの実践を検証することができるのである。 (p. 42-3)

 積極的に「暗示的メッセージ」を発するばかりではなく、背景には「原発事故はなかった」という虚偽の空気、虚妄の背景があるように、私は思うのだ。なんとなく直感的に感じることはあるが、そればかりではなく、言語リテラシーによって言説の背景のさらに奥へ突き抜けていく眼差しが私(たち)には必要だということである。

 野呂香代子が分析するテクストは、文科省発行の原子力(放射線)についての小学校用副読本である。ここでもまた、放射線被曝は深刻な問題ではないことを暗示するかのような表現で、一般人の被曝限度1mSv/年を福島では20mSv/年へと引き上げようとする政府の意図を補完するかのようである。

 『原子力ランド2011』では、医療関係の放射線も含まれていて、ロボットに「少しの量なら体に影響はないんだよ!」と言わせている。教師用の指導のボイントを見ると、「放射線は好ましくないイメージが先行しがちであるが、自然からの放射線として身の回りに常に存在し、普段我々は放射線とともに生活をしている」とある。 (p. 86)

 宇宙線を含む自然放射線も人体にとっては有害で、すでに自然放射線由来の癌死や遺伝的障害の存在はよく知られているにもかかわらず、自然放射線に多少の人工放射線による被曝が加わっても問題がないという主張である。つまり、ここでも「原発事故による生命、健康への危険はない」かのごとく表現することで、意図的であれ無意識的であれ、「原発事故はなかった」ないしは「原発事故があってもたいした問題ではない」という虚偽のイメージを背景化しようとしていると考えることができる。
 きわめて適切な野呂の分析は、結果としては鋭い批判となっていて、私のような立場の人間には心地よく読み進めることができる。たとえば、副読本の「 [2] 事故の後、福島県から避難した人たちが差別を受けたり、子どもがいじめられたりしたこともありました。また、被害を受けた地域では、検査によって安全が確かめられていても、正確な情報が行き届いていないことにより、物が買ってもらえなくなったり、その地域への観光客が減ったりする「風評被害」も受けました。」という文章を取り上げて、次のように分析する。

 ここで面白いのは、「被害を受けた地域」で「風評被害も受けた」という作りである。何の「被害を受けた」を受けたのか、その「受けた」被害の内容を説明せずに、その地域では「風評被害も」「受けた」と、その被害の内容を詳しく明示していることである。

[(被害内容の説明なし)]被害を受けた地域では
[(風評被害の詳しい説明)]風評被害も受けた。

 「被害を受けた地域」とはどこを、また、どんな被害を指すのだろうか。[1]の「放射性物質が多く降り積もった地域」を指すなら、「多くの人たちが自分の家にもどることができて」いない地域ということになる。しかし、(食品)検査をしているのだから、その地域に人が住んでいるということになる。つまり、(放射性物質の)被害を受けたが、人が住み、生産活動をしている地域ということになる。なぜそのような事態が引き起こされたか、それにより、どういう事態が生じるのかについては、全く触れていない。  (p. 82)

 ここでも、原発事故による被害(の実態)は背景のさらに後方に押しやられてしまっている。受けた「被害」はあると言いながら、その実態は不可視化されている。こうした分析は、福島の深刻な現実の描写と国の政策への鋭い批判として結果する。

 また、「事故が起こる」と自動詞を使うと、被害者、加害者の対立は生まれないが、「差別」「いじめ」「風評被害」は、加害者、被害者を作る。原発事故を起こしたのは東電であり、原発を推進しているのは国であるのに、それには言及せず、「差別」「いじめ」「風評被害」をテーマに選ぶことで、国民を被害者、加害者に分断させ、被害の責任を暗に国民側に負わせるというテクストの構成になっているのではないだろうか。 (p. 84)

 そして、野呂はその「まとめ」の節に、「明確に言ってしまえば、そもそも国が原発を推進するかぎり、国民を言葉(とお金)でだまし続けなければならない、ということではないだろうか」(p. 89) という文言を置くのである。

 3・11原発事故後の民主党政権のスポークスマンは枝野官房長官で、菅直人の後を継いで政権を担ったのは野田佳彦である。政府の公的見解として、その二人の発言を語用論的にきわめて明快に分析しているのが、大橋純の論考である。 
 枝野は、経産省を引き合いに出すときには、「記者の皆さんにブリーフを経産省の方でしていただこうと思っております」とか「経産省の方等で、ご報告をいただけるかというふうに思います」という表現をすることを取り上げ、大橋は次のように述べる。

 つまり枝野氏が経産省に対してへりくだり、経産省を立てているのである。経産省に頭が上がらない官邸の体質が見て取れるが、この経産省の力の優位は、次の東京新聞の2014年3月29日の朝刊記事でより鮮明になる。 

中長期のエネルギー政策の指針となる「エネルギー基本計画」政府案をめぐり、自民、公明両党が再生可能エネルギーの導入目標について、抽象的な目標を明記することで大筋合意したにもかかわらず、経済産業省が二十八日、それでも原発依存度の縮減につながりかねないと合意案を拒否、与党了承の手続きが先送りされた。与党の合意を省庁が拒否するのは異例で、原発推進を狙う経産省の姿勢が浮き彫りとなった。

 参考までに付け加えるが、この件について他の大手新聞は全く報じていない。 (p. 105-6)

 政治を官僚から取り戻すことを標榜することで政権を奪取した民主党政権が、結局は、官僚の抵抗を打ち破ることに力量不足であったことをさらけ出してしまい、ふたたび自民党に政権の座を明け渡してしまったことを枝野のささやかな謙譲語がすでに象徴的に示していたのである。
 枝野には放射線量、被曝線量に関して何度も繰り返し使用された「直ちに人体に影響を及ぼすような数値ではございません」という(皮肉にも)とても有名になったフレーズがある。「直ちに人体に被害がある」のなら、それは原爆、水爆様の爆発を意味している。広範に放射能をばらまく原発事故においては、晩発性障害が問題になるのは最初から明らかである。にもかかわらず、被曝の影響を急性放射線障害に限定することで、ここでも「原発事故による生命、健康への危険はない」かのごとき表現となっている。国民のパニックを防ぐという口実もあったろうが、明らかに「原発事故があってもたいした問題ではない」という虚偽のイメージの背景化が、すでに原発直後の政府見解に孕まれていたと考えることができよう。パニック回避を口実とする枝野の文言について、大橋は次のように要約している。

 このように、次第に統一された文言が、国民に対して何度も枝野氏から発せられ、事態の楽観視、リスクの過小評価が徹底されていく。枝野氏が認識するスポークスパーソンとして果たすべき役割が、迅速に事実を伝えることより、不安やパニックの回避だったことが分かる。それを客観的に表すのは、「落ち着いて」が16回、「冷静に」が13回用いられ、避難や屋内退避などの指示に「念のため」が9回、「万が一/万一」が10回であり、政府は「万全(16回)を期す/な対応をしている」ので、国民は安心して、パニック状態にならないよう要請されていることが頻度数の多い言葉からも明らかになる。………ここで、上記、枝野氏の敬語表現で明らかにされた経産省の優位性については再度明記しておく必要があるだろう。事態の深刻さが認識されるにつれ、国策として、安全な日本のイメージ創り、不安やパニックを回避する談話が記者会見における枝野氏から発信されていく。また、日本のイメージを損なう発言、情報については、徹底して政府が介入するようになる。  (pp. 112-3)

 大橋は、さらに政府のクールジャパン政策に言及していて興味深い。これは、最近のマスコミ(とくにテレビ)が、「日本のここがスゴイ」的な番組、報道を多くしていて、クールジャパン政策がけっして政府の政策ばかりではなく、メディアが一体となった気持ちの悪い現象であることと良く対応している。

このようにクールジャパン政策が原発問題の対極に位置し、日本のポジティブなイメージのみを演出し発信し続ける場合、日本が抱える様々な負の問題から内外の目を逸らしてしまう危険性を多く孕んでいる。震災事故後の保障の問題、老朽化する原子炉の廃炉、使用済み核燃料の処理問題など経済的に大きな負担を国家が背負うことが明確になった。それに加え、現在も続いている放射能汚染水漏れ、長期的な低レベル放射線量被曝問題など深刻な問題が山積みである。東日本大震災後のクールジャパン政策の歩みを考えると、今後、原発推進、原発技術の海外輸出などが盛り込まれないという保障はない。長引く不況の中で、新たな活路を開くためのクールジャパン政策が被災地の復興を後押しするのはよいが、大震災後のクールジャパン政策は、日本人、日本文化の特殊性、優位性を謳った日本人論、日本文化論の台頭、ナショナリズムへの回帰を示唆しているのではないだろうか。 (p. 125)

 読売新聞と朝日新聞における原発関連語の使用頻度を統計的に調べたのが、庵功雄の論文である。残念ながら、私は理系にもかかわらずデータの統計処理を行うような仕事はしなかったので、カイ二乗検定(と残差分析)の結果の意味を実感的に理解できない。ただ、カイ二乗検定と残差分析をそのまま受容すれば、結果はきわめて納得できるものだ。
 次の神田靖子の論文も相俟って、庵のこの論文は私の空想(妄想)をいたく刺激したのだ。ここで取り上げられた原発に関するさまざまな語彙について、それぞれ対相関係数を付与して、語彙対の使用頻度から関連言説の中での対象テクストの相対位置価が出せるのではないかと考えたのである。
 たとえば、原発推進か原発反対かを-3から+3までの7段階で評価するとしよう。原発に関連するa1とa2という語彙対にも-3から+3の間で適切な値を与えられるものとする。5個の語彙を選べば対の数は10である(10個の語彙では対数は45に激増するので、いちおう5個の語彙としておく)。対の使用頻度で対相関係数の平均を求めるとテクストの原発に対する態度が7段階で評価できる(はずだ)。ただし、この場合、相対位置価が既知の複数(多いほどよい)の異なったテクスト(研究者が読み込んであらかじめ相対位置価を付与しておく)を用いて、10組の対相関係数を調整する必要がある。妥当な係数が得られれば、新しいテクストの対使用頻度を数え上げれば自動的に相対位置価が出せるというわけである。一つの対に「原発賛成・反対」、「新自由主義賛成・反対」、「グローバリズム賛成・反対」のような複数の対相関係数を与えて、多次元空間における相対位置価も出すことができる(はず)。
 このアイデアが妄想に近いという理由は、語彙の選択に大きな任意性があって妥当な語彙選択が可能かどうか不明なこと、社会的、政治的イシュウは時限的であるので、妥当な対相関係数が得られる頃にはそれを適用すべきテクストは過去のものとなってしまうことが十分にあり得ることなどである。最悪の場合、対相関係数を定めるためにあらかじめ相対位置価を与えたテクストしか残っていないことになって、猫が自分の尻尾を狙ってぐるぐる自己言及的に回るというような無意味で無惨な結果になってしまう。とはいえ、ひとしきりこんな妄想を楽しむことができたのは、言語学の手法が門外漢の私にとってとても珍しくて興味深いせいなのである。

 先ほど触れた神田靖子は、読売新聞の「気流」という読者投稿欄の原発に関する採用傾向と社説を分析対象とし、対照として朝日新聞の社説も取り上げている。どの著者も同様だが、神田もはじめに分析の方法論について節を設けている。

 ここにいう「ディスコース」(discourse)とは、「同時にそして連鎖的にたがいに関連しあう言語的行為の複雑な束」(Reisigl and Wodak 2001:66)とされる。本章のテーマについて言えば、それぞれ「ディスコース」である「原発推進」と「脱原発・反原発」が共ディスコースの関係にある。さらにそれらの下位に、多様なメディアで取り上げられた「廃炉」「原発のコスト」「電力不足」「再生エネルギー」「事故補償」といったディスコース・トピックが位置する。 (p. 159)

 読売新聞によって選択掲載された読者投稿記事を、「事故について(原因など)」、「電力不足」、「再稼働とエネルギー政策」という3つのディスコース・トピックに分類して検討を加えている。よく知られているように、読売新聞は社主であった正力松太郎を先頭に一貫して原発推進の論陣を張ってきたメディアであり、その投稿欄もまたその趣旨に沿って取捨選択された投稿で構成されているのは当然と言えば当然である。神田は、投稿を分析した結果を次のようにまとめる。

つまり、新聞社の主張と同じ主旨のものを採用し、読者からの声という具体的な事例によって強化したと言えよう。「気流」欄の投稿は「原発の難しいことはわからない、しかし今現在、電気が止まるのは困る、文化的な生活形態は変えたくない」といった庶民感情に訴え、原発の必要性を確認させる装置の1つなのである。 (p. 191)

 当然ながら、読売新聞の社説は強硬な原発推進論を表明している。そして、その背後に原子力の平和利用を超えた意図の存在を指摘している。社説の中から、その意図が明らかになる。

 ではこれほどまでに原発を推進しようとする根拠は何であろうか、読売新聞社を立て直した人物が日本の原子力事業を牽引してきたという経緯から、原発推進派を擁護するのは当然であろう。しかしエネルギー問題だけであろうか。社説は事故直後から原発稼動を訴えてきた。「脱原発に向えば、(略)、国際的な発言力も大きく低下するだろう」(110714)、「日本は、平和利用を前提に、核兵器材料にもなるプルトニウムの活用を国際的に認められ、高水準の原子力技術を保持してきた。これが、潜在的な核抑止力としても機能している」(110810)、「日本は原子力の平和利用を通じて核拡散防止条約(NPT)体制の強化に努め、核兵器の材料になりえるプルトニウムの利用が認められている。こうした現状が、外交的には、潜在的な核抑止力として機能していることも事実だ」(110907)と述べている。
 ここから明らかなように、「平和利用」という名目を掲げながら、最終的には核兵器に転用可能な原子力を維持し続けたいという思惑が見えている。信夫隆司氏が指摘するように「この原発と軍事の関係こそ、福島第一原発事故後も政治が原発ゼ口を進めることのできない隠された理由になっている」のかもしれない。 被爆国日本が1950年代に「原子力の平和利用」という言葉に幻惑され、明るく文化的な未来の夢を託して導入に賛同した原発には「核兵器転用可能」が秘密裏に盛り込まれていたことに改めて気付かされるのである。 (pp. 189-90)

 投稿記事と社説は緊密に連動しており、そこから神田は読売新聞が取り上げなかったディスコース・トピックに注目して、次のような興味深い事実を指摘する。

こうしてみると、読売新聞社説が取り上げなかったディスコース・トピックは多い。例えば次のようなものが挙げられる。

・原発の危険性 ・廃炉費用と所用時間 ・発送電の分離
・使用済み核燃料処理 ・事故補償 ・事故責任の所在

 ここから読売新聞は原発の負の側面に触れることを意図的に回避しており、原発の優位性のみに焦点を当てて読者を誘導しょうしていることが明白に見えてくるのである。 (p. 159)

 原発の負の側面に触れないことは、いわば原発事故を言説の背景から放逐することに等しく、やはり「原発事故はなかった(ことにしたい)」、「原発事故(放射線被曝)は重大な問題ではない」式の原発イメージの誘導がなされるのである。福島県民を除く残りの日本人のマジョリティがこのようなメディア戦略に誘導されれば、野呂香代子が指摘した「国民の分断」を越えて、私たちが福島の被害者を「棄民」として見殺しにすることへ加担するに等しいこととなるだろう。メデイア・リテラシーの貧困は、場合によっては罪ですらありうるということだ。

 名嶋義直は、テクスト分析の極と呼んでよいような極めて短い新聞記事の見出しを対象としている。そして、見出しの言語形式などの分析を通じて、「多くの見出しには権力による何らかの意図が介在しうる余地があり、そのある意図に動機づけられた談話行動」を次のような分類によって整理している。

全体的に言うと、8つの談話行動の実践が確認され、それらは4つずつがそれぞれ1つにまとめられ、2つのグループに大別される。ここではその概略を述べる。
 まず「前提化」・「権威化」・「低評価」・「負の側面の焦点化」という4つの談話行動の実践が確認された。これらは当該事態について積極的に言及していくという点において「本来の事態を前景化する(見せる)」方向での実践という共通点を持ち、「事態の既成事実化(存在の容認)」という意図が関わるものとしてまとめることができる。
 残りの4つは「全体の中での部分化」・「焦点のすり替え」・「事態のすり替え」・「別事態の焦点化」という実践である。これらは「関連のある事態」を語ることによって当該事態について積極的な言及を避けるものである。その点において「本来の事態を背景化する(見えなくする)」方向での実践であるという点で共通性を持ち、「事態の非存在化(存在の非容認)」という意図が関わるものとしてまとめることができる。つまり、「事態の既成事実化(存在の容認)」と「事態の非存在化(存在の非容認)」という、表面的には対極的な2つの意図に動機づけられた8つの談話行動の実践が確認できたということである。 (p. 203)

 そうした見出しに見られる実際の談話行動の傾向を次のようにまとめている。

「既成事実化」させて「見せる」実践よりも「非存在化」させて「見せない」実践の方が、談話行動を行う意図や主体の存在が捉えにくくなっていることがわかる。言い方を換えれば、「見せない」実践の方に権力の意図がより巧妙に仕組まれうるとも言える。 (p. 231)

 「見せない」実践は、「原発事故はなかった(ことにしたい)」と言う推進論者の意図に見事にはまるだろう。また、産経新聞の「首相、福島の桃に「とても甘い!」」(p. 224) や毎日新聞の「フラガールズ甲子園、笑顔と元気で観衆魅了 福島・いわき」(p. 227) などという新聞見出しがもたらす効果について、著者は次のように述べる。

……原発事故とは表面的に無関係に見える別事態を繰り返し報道していくことで、読み手に気づかせることなく、事故が収束して従来の生活が戻ってきたと言う解釈や事故などなかったかのような印象を持たせることが可能である。そこに権力が介入する余地があると考えられる。もし権力がそのような解釈を広めることを意図して談話行動を実践しているとしたら、そこには原発事故という事実を消し去ろうという意図が存在するかもしれない。 (p. 229)

 名嶋は「……かもしれない」と慎重だが、世間では安倍自公政権による報道への介入や大手マスコミの取り込みがしきりに取沙汰されているし、フーコー流に言えば、権力は私たちの日常的な細々とした周囲に張り巡らされているので、マスコミ報道が権力に絡め取られていることは想像に難くない。少なくとも私は、「原発事故はなかった(ことにしたい)」という権力の意図が一貫して存在しているという実感を抱いている(もちろん、分析によってではなく、直感のようなものを通じて)。
 多くの新聞見出しの分析例からひとつだけ興味深い例を挙げておく。

(68)五輪招致委「250キロ離れ東京は安全」福島県民「差別的」
<http://www.tokyo-np.co.jp/article/nationaI/news/CK2013090702000127.html> 2013.9.7

 「東京は安全」という表現は副助詞「は」の持つ対比効果ゆえに「福島はその限りではない」という意味を暗示する。それが言い過ぎなら、少なくとも「東京」を「は」で主題化して「東京」についてのみ語ることで、その時だけであっても福島を主題から外し非存在化している。だからこそ福島県民がその言動を「差別的」だと感じるわけである。
 ここで言う「分断」とは、「250キロ」という地理的な距離の遠さだけに起因するものではなく 、福島第一原発の問題に対する関心や興味を弱体化することで起こる「人と事態との『心理的な分断』」である。………したがって、「東京は安全」という談話行動の実践には、東京と福島と対比させたり、東京だけを取り上げて福島は取り上げなかったりする潜在的な意図があったと見ることができる。よって、(68)はその「心理的な分断」という意図が、それに動機づけられた談話行動の実践を通して、見出しの中で顕在化したわかりやすい例であると言える。 (p. 233)

 名嶋義直は、「終章 吉田調書をめぐるできごとを読み解く」という論考も寄せている。政府事故調による原発事故当時の吉田昌郎東電福島第1発電所長(故人)からの聞き取り調書の内容を朝日新聞がスクープしたものの、報道内容に誤りがあったと朝日新聞が認めた事件についての考察である。朝日新聞に対して、政府や他のマスコミから激しい批判が浴びせられたが、名嶋はそれを「貶めてその権威を奪うという逆方向の実践」と指摘して、次のように原子力ムラに言及している。

 そして私たちは、その「非権威化」を達成すべく、批判と要求と指導とを繰り返してきた強い立場の側に誰が立っていたのかを今一度認識する必要がある。それは個別的には、原発再稼働を進める姿勢を鮮明にしている政府与党自民党・政治家という「官」であり、客観的な姿勢で種々の記事や主張を発信する新聞社やジャーナリストなどの「メディア」であり、学術的・科学的な態度で客観的な意見を述べる学者や学会関係者などの有識者という「民」であり、原発を保有し運転する電力会社という「民」であった。そして、それを全体的に捉えれば、官や民が共通の目標や姿勢や利益などで結びついた集合体であり共同体であった。それはいわゆる「原子力ムラ」に他ならないというのが筆者の考えである。 (p. 268)

 原子力ムラについては、多くの論述がある。政・官・民の精緻な相関図もネットを通じて出回っている。政治的、経済的利害関係を考慮すると、ムラの人口は日本の一部とは呼べないほどに大きなものだと言う人もいる。
 その原子力ムラが、メディアを通して「原発事故はなかった(ことにしたい)」攻勢をかけているのだと考えると、事態はとても楽観視できるものではない。福島の避難民が10万人以上も存在し、福島で生きることを決断すれば20mSv/年という将来の生命が危ぶまれる放射線被爆を強制させられる事態が厳然として存在することを考えれば、メディア言説の一つ一つに透徹したまなざしを持って向き合うことはきわめて重要だ。
 原発推進のメディア言説が効果的に作用して原発を漫然と容認している人々に本書のような言説分析が届くことを願うが、おそらくは容易なことでは届かないだろう。これもまた、メディアの社会構造的効果なのかもしれない。

 ここまで、メディア言説の深い奥底を「原発事故はなかった(ことにしたい)」、「放射線被爆はたいした問題ではない」と主張する意図が流れているという観点から本書を眺めてきた。言語学的分析という中立的手法を用いているとは言え、6人の研究者による原発事故を巡る論考を、それぞれの主題に沿って、なおかつ全体を通してまとめるなどというのはとても難しかったので、視点を限定して振り返ってみたということである。そのため、論考の大部を取り逃がしてしまったかみしれない。しかし、読み解けなかった大部を惜しむより、わずかでも私の内部に入ってくるものがあれば、それで良しとしたい(あえて言うほどのことでもない。もともと私の読書はそういうものなのだから)。 

 

[註1] まったくの私事だが、誤解があってはいけないので、敢えて注釈を附しておく。私の博士課程進学が学科教授会によって拒否された(正確には、入学願書が握りつぶされた)ことで、私は原子力工学の場に居場所がなくなった。修士課程の院生として、原子力工学のカリキュラムを巡って学科教授会(団体交渉などを通じて)を批判していたこと、政府の原子力政策(ひいては原子力学会)に反対していた全国原子核共闘という全共闘系の組織に協力していたことなどがあったのは確かで、それが素地となっていただろうが、なによりもこんな面倒くさい学生を引き受ける研究室がなかったのが最大の理由だったと思う。優秀な学生であれば、多少の無理をしても引き受ける教授が現われたと思うのだが、残念ながら私はそれほど優秀な学生ではなかった。追いだされたとも言えるが、追い出されるに値したとも言えるのである。その辺の事情というか機微は、同じ大学の別の部局で教授になったことでよく理解できるようになった。ただ、いずれにせよ、学科教授会は私を拒否する手続きにおいて法的な瑕疵を犯したということになって、私の処遇は学科を越えて学部長扱いとなり、救済措置として工学部採用の助手職を与えられ、部局間の折衝を経て、間をおかず付置研究所の物理系研究室へ転属となって、私の職としての物理学が始まったのである。研究者として望まれて助手になったわけではないが、いずれにせよ、最終的には理学研究科物理学専攻で職を終えることになった。