かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

『グエルチーノ展 ―よみがえるバロックの画家』 国立西洋美術館

2015年03月09日 | 展覧会

【2015年3月8日】

 内的意匠(ディゼーニョ・インテルノ)としての〈イデア〉にまだ影響されている一六世紀の前バロック的なマニエリスムとはちがって、バロックが発展するのは一七世紀と一八世紀前半、現実を支配し、現実をマテーシスにしたがわせ、現実をその感覚的存在において疑わしいものにし、現実をその視覚的可能性において構成するところの遠近法の科学、自然の光学に、見ることと外観の戯れとが属するような世界においてである。奇妙にも〈対抗宗教改革〉の運動と近代科学とが競合する、こうしたイマージュと外観との無限の生産によって、多なるものや非連続的なものに意を注ぐバロックの目は一四〇〇年代の〈眼〉から区別される。   クリスティーヌ・ビュシ=グリュックスマン [1]

 仙台市立図書館の書架を眺め歩きしていたら、『見ることの狂気』 [1] という本が目に入った。一週間後に東京に出て「グエルチーノ展」を観に行く予定にしていたので、〈バロック美学と眼差しのアルケオロジー〉という副題に引かれたのだ。
 つい借り出して読んでみたのだが、大失敗だった。美学と美術史のみならずバロック文学、バロック音楽についての素養を必要とするうえ、著者のバロックへの情熱そのものが言葉として迸るような文章なのだった。私には「素養」も「情熱」もほとんどないので、言葉を辿るのが困難なのであった。
 困り果てた私は、深みにはまりそうな危惧を押しのけて、数日後、『見ることの狂気』の訳者である谷川渥の『美のバロキスム』 [2] に加えて高階秀爾の『バロックの光と闇』 [3] まで借り出して読んだのである。この二冊の本は、『見ることの狂気』と比べればすごく読みやすい。あっという間に読み終えて心のどこにも引っかかっていない感じがして、それはそれで心許ないのである。

 「バロック」とは何かについて多くの議論があるようだが、図録 [4] の解説にあるように、グエルチーノ(1591-1666)はトレント公会議(1545 – 1563)以降の対抗宗教改革の時代を生きて、カソリックの宣伝教化としての美術を担うという典型的な「バロック」の画家である。



《聖カルロ・ボッロメーオの奇跡》1613-14年頃、油彩・カンヴァス、
217×117cm、レナッツォ、サン・セバスティアーノ聖堂
(図録、p. 47)。

 《聖カルロ・ボッロメーオの奇跡》は対抗宗教改革文化の中での宗教美術の典型である。生れながら盲目の幼児を開眼させた聖人の奇跡を描いた絵で、当時の庶民の世界と天上の聖人とがともに描かれている。一方は現実で、一方は「ファンタスム」としての幻視である。聖書の物語を信者に解りやすく教えるために、このような天上の幻視世界と地上の世俗世界を描き合わせるという構図は多い。
 対抗宗教改革が美術に求めたものについて、高階秀爾は次のように紹介している。

 トレント宗教会議以後、その精神に基づいて求められ、制作された数多くの宗教美術作品の重要な特色として、ルドルフ・ウィットカウワーは、第一に「明快さ、単純さ、解り易さ」、第二に「写実的表現」、第三に「情動への訴え」の三点を指摘している。いずれも多くの一般大衆の共感を得るための必須の条件であって、そのまま現在のコマーシャル・アートにもあてはまると言ってよいであろう。 (『バロックの光と闇』 p. 80)


《聖母子と雀》1615-16年頃、油彩・カンヴァス、78.5×58cm、
ボローニャ国立絵画館、サー・デニス・マーン遺贈(図録、p. 51)。

 バロックに関して本を三冊も読んだせいか、展示作品を見ながらその絵の「バロック性」について考えてしまうが、《聖母子と雀》ではそんな感覚から解放されたように感じる。聖母子像も宗教画としては多く描かれる主題だが、この絵は、「聖」をはずしても優れた「母子像」として成り立っている。
 グエルチーノは、《聖母子と雀》において聖性を描こうとしたのだろうか。解説に「ここで強調されるのは、日常の親子の団欒である」(図録、p. 50)とあるように、聖母子の姿を借りて「母と子を包む情愛」という普遍、一般性を描いているのだと、私には思える。つまり、図らずして画家は対抗宗教改革バロックの限界を超えて(画家として自由になって)いるのだと思いたいのである。
 正直に言えば、次々と展示される宗教画の圧倒的な物語性に辟易しながら、この絵だけは物語性の重さに悩まされず、ほっとした気分で絵の前に立っていられたのである。


《聖三位一体》1616-17年頃、油彩・カンヴァス、154×262cm、
ボローニャ、ウニクレディト銀行(図録、p. 59)。

 対抗宗教改革バロック絵画のもっともラディカルな主題が《聖三位一体》であろう。偶像崇拝を排するルターの宗教改革への反動として、教化のために大衆が理解しやすいように偶像化を積極的に認めたわけだが、キリストはさておき、「精霊」は鳩に「神」は白髭の老人として描かれている。人間は神に似せて造られたとすることから言えば、神が老人の姿でも間違っているわけでもないだろうが、ここまで具体化してしまうと聖性を損なっているように私には思えるのだ。これは、宗教の領域のことで絵の問題ではないし、ましてやグエルチーノがどうという問題でもないのだが。
 精霊を中心としてキリストと神が左右に対照的に配されている構図は、いくぶん古典主義的な雰囲気がある。バロックといえども、聖三位一体においては構図的にも完全性が求められたのでもあろうか。


《ロレートの聖母を礼拝するシエナの聖ベルナルディーノと聖フランチェスコ》
1618年、油彩・カンヴァス、239×149cm、
チェント市立絵画館(図録、p. 65)。

 天使や背景の空の様子を除けば、《ロレートの聖母を礼拝するシエナの聖ベルナルディーノと聖フランチェスコ》では、礼拝する二人の聖人を見下ろすマリアの眼差し、天子が抱える幕による聖母子の陰影、聖人に注ぐ光線の具合などごく自然なリアリティを与えられて描かれている。
 「ロレートの聖母とは、イタリアのマルケ州ロレートのバシリカにあるサンタ・カーサ(聖家)に奉られた、幼児を抱いた聖母マリアの像」(図録、p. 27)で、実際は彫刻像である。ここでは台上に奉られた彫像の雰囲気を残しているものの、聖人の前に幻視として顕われた姿として描かれている。
 当時のマリア信仰の熱烈さを表現しているのだが、私は、マリアの白衣、聖人の黒衣を左右に配し、頭上に空と雲の青と幕の赤を置いた絶妙な色彩配置に惹かれたのだ。


【上】《聖イレネに介抱される聖セバスティアヌス》1619年、油彩・カンヴァス、179×255cm、
ボローニャ国立絵画館(図録、p. 77)。

【下左】《巫女》1619年、油彩・カンヴァス、72.7×61.7cm、ボローニャ国立絵画館、
サー・デニス・マーン遺贈(図録、p. 79)。

【下右】《巫女》1620年、油彩・カンヴァス、69×79cm、チェント貯蓄銀行財団(図録、p. 81)。

 《聖イレネに介抱される聖セバスティアヌス》は、強烈な明暗表現も目を惹くが、左後方から覗き込む聖イレネが異様な存在感を発している。聖イレネの慈愛を主題とするのであろうが、グエルチーノは聖イレネに仮託した形で画家が理想とする美しい女性像を描こうとしたのはないだろうか。
 次に展示されていた《巫女》は、手に持つ物が違うだけで、全く同じポーズ、同じ服装の同一人物で、この婦人そのものが主題となっている。さらに、同じタイトルの《巫女》も同じ婦人が振り返っている姿を描いている絵だ。
 宗教画を描きつつも、美としての婦人像そのもの(おそらくは他の人物像についても同様だろうが)の表現を追求している画家としての心情が窺える作品なのだと思う。


【上】 《放蕩息子の帰還》1627-28年頃、油彩・カンヴァス、125×163cm、ローマ、
ボルゲーゼ美術館(図録、p. 97)。
【下】 《The Return of the Prodigal Son》1619年、油彩・カンヴァス、107×143.7cm、
Vienna、The Kunsthistorisches Museum [5]。

 《放蕩息子の帰還》が「ボルゲーゼ美術館蔵」であることから、前に一度見たことがあったことをかろうじて思い出した。5年前に文字通りの『ボルゲーゼ美術館展』で、グエルチーノ作としてはこの一点のみを見たのである。
 帰宅してから、ウイーン美術史美術館にある同じ主題のグエルチーノ作品が図録で紹介されているのを読んで、その絵《The Return of the Prodigal Son》を三度ほど見ていることに気づいた。ヨーロッパで美術館に入ると、圧倒的な数の宗教画が展示されていて、その中からグエルチーノ作品をピックアップして記憶に残しておく能力は私にはないので確かなことは言えないが、以前の私のグエルチーノ経験はおそらくこの2作だけだと思う。


《聖フランチェスコ》1634年、油彩・カンヴァス、124×99cm、
ローマ、ベヌッチ画廊(図録、p. 129)。

 図録に、渡辺晋輔が「グエルチーノの“本物らしさ”」(図録、p. 23)という論考を寄せている。《聖フランチェスコ》がとても印象深かったのは、その「本物らしさ」のためだったような気がする。人物が画面からこちらに向かって浮き上がっているように見えたのである。頭部を覆う布の描き方にいくぶん異和を感じたものの、肩から両腕にかけての存在感に圧倒された。
 衣服も髑髏も背景の空も茶系で統一された色彩であることもこの絵が好もしい理由の一つである。聖フランチェスコをめぐる物語りをまったく気にしないでこの絵を眺めていることができたのも、とても良かったのである。


《改悛するマグダラのマリア》1952-55年、油彩・カンヴァス、177×234cm、
ボローニャ国立絵画館(図録、p. 144)。

 《洗礼者聖ヨハネ》という絵もあったが、最後に《改悛するマグダラのマリア》を挙げておく。宗教画の中で私がいつも気になるのは、男性像では洗礼者ヨハネで、女性像ではマグダラのマリアなのである。

 聖母子とともに描かれるヨハネは、幼子なのに健気に聖母子に付き従っている。同じく幼子のキリストは母親に抱かれているのに、親から離れて己の使命を果たすべく聖母子に寄り添っているヨハネに対して、私はいつも強く同情しているのだ。
 マグダラのマリアは、宗教画に登場する女性の中でもっとも美しい人だと私は思っている。エル・グレコの《悔悛するマグダラのマリア》も美しいし、正面から顔を描かれることのないジョルジュ・ド・ラ・トゥールのマグダラのマリアだって私にはとても美しいのだ。
 どちらも、私の単なる強い思い込みである。
 

[1] クリスティーヌ・ビュシ=グリュックスマン(谷川渥訳)『見ることの狂気――バロック美学と眼差しのアルケオロジー』(ありな書房、1995年) p. 21。
[2] 谷川渥『美のバロキスム』(武蔵野美術大学出版局、2006年)。
[3] 高階秀爾『バロックの光と闇』(小学館、2001年)。
[4] 『グエルチーノ展 ―よみがえるバロックの画家』図録(以下、『図録』)(TBSテレビ、2015年)。
[5] 『The KUNSTHISTORISHES MUSEUM IN VIENNA』(BONECHI VERLAG STYRIA, 1996) p. 66。



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