近代の個人が、自分自身の思考を合理的思考の全体系の代表とみなすように、彼が同胞のなかに見いだすのは、自分自身の合理的性質の反映でしかない。 (p. 27)
著者は、本書の「序」に相当する部分で、次ぎのように二十一世紀初めの私たちの世界の情況を語っている。
私たちと何も共有するもののない――人種的つながりも、言語も、宗教も、経済的な利害関係もない――人びとの死が、私たちと関係している。この確信が、今日、多くの人びとのなかに、ますます明らかなかたちで広がりつつあるのではないだろうか? 私たちはおぼろげながら感じているのだ。私たちの世代は、つきつめれば、カンボジアやソマリアの人びと、そして私たち自身の都市の路上で生活する、社会から追放された人びとを見捨てることによって、今まさに審判を受けているのだ、と。 (p. 12)
「カンボジアやソマリア」がシリアやルーマニア、ガザに変わっても、「今まさに審判を受けている」私たちのありようは変わっていない。それは、私たちが文字通りの「何も共有していない者たちの共同体」に参画していないからではないか、私たち自身何も共有していない者たち」に他者として向き合い、コミュートしていないからではないか。
本書は、まさにタイトル通りの「何も共有していない者たちの共同体」についての論考である。その共同体は、合理的な、言説的な共同体の影に隠れるように存在している。論述は、合理的な思考が支える共同体を常に参照しつつ進められる。
私たちが常識的に「共同体」として考えてきたものは、著者によればギリシアから始まる。
古代ギリシアの通商港湾都市に異邦人がやってきて、ギリシア人に「どうしてそのようなやり方をするのか?」と尋ねたとしよう。人間の集団が独自性を築きあげた社会であればどこであれ、この問いにたいする答えは、昔も今も変わらず、「私たちの父祖がそうしなさいと教えたからだ。私たちの神々がそうあるべきだと命じたからだ」というものである。ところが、ギリシア人が、そうした先祖や神々を共有しない異邦人にも受け入れられる理由――明晰な精神の持ち主であれば誰でも受け入れられる理由――を与え始めたとき、何か新しい事態が誕生したのである。 (p. 19-20)
それは科学と哲学の始まりだと、著者は指摘する。そのような合理的意志をフッサールは「理由を与える意志と定義した」 (p. 18) 。人は、経験に理由を与えて経験的法則を作り、経験的法則を演繹できる理論を考えだし、究極的には理論の理論としての標準理論を探し出そうとする。そうして、合理的言説が生みだされるのである。
著者は、合理的言説がギリシアに始まると象徴的に語るが、もちろん、人類が言葉を獲得し、単なる群れから規範を持つ集団へ変容していく長い過程の中で合理的言説が獲得されたと考えるのが自然だ。
合理的言説によって維持される共同体は、国家、社会と呼び習わされてきたような従来語られてきた共同体そのものである。
合理的言説が生みだされることによって行動は変容する。個人の無言の衝動や渴望に衝き動かされる行動は、理由によって動機づけられた行動へと変容させられる。この理由は理由であるかぎり、個人に固有のものではなく、他者の同意を必要とする。こうした理由による主導は、他者の活動を共通の動機のなかに組み入れることができるので、集団的行動へと変わる。各人は、自分を飲みこみ、脱個人化する企て――自分の存在とは無関係に持ちこたえて存続する、あるいは崩壊しもする企て――に自分の力と熱情を注ぎこむ。公共領域における企てについて考察する際に、私たちは、その企てが私たち自身のものであれ他者のものであれ、誰か個人のものではなく、誰のものでもある理由によって、それを説明するのである。 (p. 21-2)
このような共同体では脱個人化することによって、「私」は「あなた」と常に交換可能である。カントに従えば、私たちは「みずから制定する命令に従うことによって、他者をも支配する命令に従っている」 (p. 35) のだ。合理的言説の共同体を支えているのはコミュニケーションである。メッセージが相互に届くことである。
情報交換のなかで形づくられる合理的共同体は、抽象的実体を、つまり観念化された指示物の観念化された記号を交換している。コミュニケーションとは、相互に無関係で対立する信号――すなわち雑音――のなかからメッセージを抽出することである。対話者は同盟して雑音に戦いを挑む。コミュニケーションの理想都市とは、最大限に雑音が除去された都市だろう。しかし、それでもなお、メッセージに内在する雑音、すなわちメッセージを伝える声の不透明さが存在する。さらに、私たちの声も同時に消さずには沈黙させることができない、世界の背景にある雑音(バックグラウンド・ノイズ)がある。進化生物学の視点のなかに人間の声を置いてみることで、私たちは、人間の声がお互いのために反響させつづけている、世界のざわめきを聞くことができるようになるのである。 (p. 29-30)
メッセージが内包しない声、コミュニケーションに乗ってこない人びとの声、世界のざわめき、雑音を聞くとは何か。著者は、カント的世界にもそのような合理的言説のコミュニケーションによる共同体以外のものを見る。
カントは、合理的な共同体を自律した行為体(エージェント)からなる共和国として構想した。そこでは、個々人は、みずから制定する命令に従うことによって、他者をも支配する命令に従っている。しかし、カントの分析において、合理的行為体がどのように他者と出会うのかを検証すると、合理的に理解されたはずの他者の姿が、感覚的な苦しみや死すべき運命のイメージと二重写しになっていることに気がつく。この他者の二重の相貌のなかに、私たちは、他者との二重の結びつきと、二重の共同体が形づくられるのを、かいま見ることができるのである。 (p. 35-6)
こうして、哲学や社会学、あるいは政治学や経済学が対象、ないしはフィールドとしてきた共同体に重なっている別の共同体がある、と著者は考える。それこそが、「何も共有していない者たちの共同体」である。
このもう一つ別の共同体は、……何ものも共有していない者――アステカ人、遊牧民、ゲリラ、敵――にたいして、人が自分自身を曝すことによって実現される。この共同体は、人が他者と直面し、一つの命令〔命法〕を認識するときに形づくられる。この命令は、他者である彼または彼女を排除している共通の言説や共同体にたいしてだけでなく、人が彼または彼女と共有している物、あるいは作りだそうとする共有物のすべてに異議を唱える。 (p. 28)
この他者は、エマニュエル・レヴィナスの「顔」に対応していると考えてよいだろうが、レヴィナスは合理的言説の共同体と「もう一つの共同体」を特に区別しているわけではない。レヴィナスが他者の「顔」を通じて宗教的に倫理を深化させようとするとき、それはリンギスの語るもう一つの共同体に踏み込むことではないか。リンギスは、この世界と人間存在の中にレヴィナスの言う「根源的なもの」を通じて、この何も共有しない他者と向き合う。
人は、自分の洞察と観念を、それらのものが異議を唱えられるように、他者――見知らぬ人、貧困者、審判者――に曝すだけではない。人はまた、自分の裸の目、自分の声、自分の沈黙、自分の何も持っていない両手をも曝しているのである。というのも、他者、すなわち見知らぬ人は、彼または彼女の確信や判断だけでなく、彼または彼女の弱さ、傷つきやすさ〔可傷性〕、死すべき運命をも、こちらに向けてくるからだ。彼または彼女は、その顔、偶像、そしてフェティッシュを、人に向けてくる。彼または彼女は、地に返る土でできた炭素化合物の顔を、土と空気、暖かさ、血、光と影でできた顔を、こちらに向ける。彼または彼女は、苦しみと死すべき運命とによって傷つき皺がよった肉体を向けてくる。共同体は、人が自分自身を裸の人間、困窮した人間、見捨てられた人間、死にゆく人間に曝すときに、形づくられる。人は、自分自身と自分の力を主張することによってではなく、力の浪費、すなわち犠牲にみずからを曝すことによって、共同体に参入するのである。共同体は、人が自分自身を他者に、自分の外に存在する力と能力に、死と死すべき運命の他者に曝けだす動きのなかで形づくられる。 (p. 29)
レヴィナスは、他者の「顔」の前で「私」はすでに罪あるものだと言う。リンギスの他者もまた、あたかも私たちが罪あるものとして他者と向き合っているかのように他者は私たちの中に侵入してくると言う。何も共有しない他者が、私たちの中で存在論的な共同体を形成する。侵入してくる他者という概念は、ジャック・デリダの「歓待」を思わせる。デリダの無条件の歓待は、「自ら他者に向かい(=おのれを他者に返し)(se render à l’autre)、おのれを他者に与える」 [1] というものだ。「おのれ」は他者であり、他者は「おのれ」である。
私と対面する他者の表面、他者の苦しみの表面は、私に訴えかけ、私に要求を突きつける。その表面のなかの異他的な命令が、私にのしかかる。その命令の重みは、他者が、彼/または彼女の疲労と傷つきやすさとでもって、私に対面し、私を苦しめ、私の意図を混乱させる表面として感じとられる。
命令の重みは、他者が私に向ける表面が、私に援助を求めるような曝しと無防備な表面として私に訴えかけるかぎり、感じとられる。他者は私に、剥きだしの、護られてもおらず服も着ていない目を曝し、その目を向けながら、私に対面する。事物――何もない部屋、何の飾りもない裸の壁――は、その裸形生を、そこに住む身体から得ている。自身を剥きだしにする身体の裸形性は、顔の裸形性に由来する。ただ対面する人だけが、彼または彼女の身体を裸にすることができる。 (p. 54-5)
他者は、私に命じることができるがゆえに、私に訴えかけることができる。彼は私に要求することができるがゆえに、私に助けを求めることができる。他者に応答すること、ただ彼女の挨拶に応えることですら、すでに、彼女の私にたいする権利を承認することである。 (p. 56)
他者は侵入者として、一つの権能として現われる。私の思考が、私の思考自身の命令に従って表象した自然の秩序の只中に。私の思考が、目的を達成する手段の配置のなかに表象した所作領域の只中に。私の思考が、みずからの命令に従って表象した経済的、政治的、言語的な法則と、地位と礼儀作法のコードとをもつ社会的な領域の只中に。彼または彼女/は、もう一つ別の命令をもつ表面として近づいてくる。彼の接近は、私の環境、私の実際的な配置、私の社会的な領域に異議を申し立てる。彼女の接近は、彼女の苦悩に悩まされる感受性から生ずる理解を要求するのである。 (p. 56-7)
侵入者である他者の要求に応えること、それは倫理を立ち上げることである。「すでに罪ある者」として倫理を宗教的高みに置こうとするレヴィナスの哲学と照応しているリンギスの倫理である。
コミュニケーションならぬコミュニケーション、私たちの内部に侵入してくるものとして、著者は死にゆく者を挙げる。私たちは、肉親であれ、友人であれ、それどころか「何も共有しない」他者であれ、死にゆく者がそこにいるとき、その死に立ち会うことが強いられる。「倫理的に強いられる」と言ってもいいし、「根源的なもの」に誘われると言ってもいい。しかし、死にゆく者の死に立ち会う場所で交換しうる言葉、届ける言葉があるのだろうか。たとえば、死にゆく母親を前にして人は何を語ることができるのか。
たとえば、「大丈夫だよ、お母さん」と。きみはこんなふうに言うことは愚かなことだと知っている。母親の知性にたいする侮辱ですらあることも分かっている。母親は自分が死ぬということを承知しているし、きみよりも勇敢なのだから。母親はきみが言ったことを責めたりはしない。結局、何を言うかは大して重要なことではないのだ。要請されていたのは、何か語るということだけであり、それは何であってもよかったのである。きみの手と声が、彼女が今しも漂いゆく、何処とも知れぬ場所に付き添って伸ばされること。きみの声の暖かさとその抑揚が、彼女の息が絶えようとするまさにその時に、彼女のもとに届くこと。そしてきみの目が、何も見るものがない場所に向けられている彼女の目と出会うこと。このことだけが重要なのである。
語ることと語られた内容のあいだに裂け目が開いてしまうような、こうした状況を知らない者はいない。語るということ――これが本質的で絶対に必要なことだ――が、語られたことから切り離されてしまう状況、語られたことの方は、もはや要求されてもおらず、ほとんど必要とされてもいない状況を。 (p. 143-4)
私たちが想起した極限状況、つまり、共同体のひとりが私たちのもとから旅立とうとしている状況、彼または彼女が人生の終着点にある状況は、その人の傍に行く私たち、その人の傍に行かなければならない私たち自身が、語りの極限に追いつめられる状況でもある。……まさにきみが、そこにいなければならず、語らなければならないのである。きみは何かを語らなければならない。言語が語れない何かを、共通の言説資源のなかには含まれていない何かを、究極的には非本質的な何かを。本質的なのは、語ることであり、きみの手が、今この世を去ろうとしている人の手にさし伸ばされ、きみの目の光が、もう何も見るものがないところに向けられている他者の目と出会うこと、他者の息が絶えるときに、きみの声の暖かさが、その人のところに届くことなのである。こうした状況は、たんに言語が終焉を迎えるときなのではない――互いに語るべきことがすべて、それを語るべき相手の沈黙と死によって終わり、そして何かを語るためにやってきた人の沈黙とすすり泣きによって終わる、最後の瞬間ではない。それは始まり、コミュニケーションの始まりなのである。 (p. 148-9)
合理的な言説によらないコミュニケーションがここにはある。「本質的なのは、きみ自身、きみが何かを,語ること」 (p. 152-3) だけというコミュニケーションがある。
こうしたコミュニケーションの終わりと始まりの状況で語っているのは、いったい何者なのか? ……語るのは、人間としての物質性をそなえた誰かである。それは、都市の喧騒と自然のささやきのなかで呼吸し、ため息をつき、声を発する人間であり、太陽の暖かさと夜の熱情で、暖かくなった血を通わす人間である。その肉体は土くれで――いずれ地に帰る土で――できてはいるが、自分のなかに湧きおこる大地の力に支えられながら、他者に顔を向けて立つ人間。その顔は光と影でできており、目は光と涙でできている人間なのである。 (p. 152-3)
その人間が存在している世界に展開しているものこそ、エマニュエル・レヴィナスが「根源的なもの(エレメンタル)〔諸要素、元基、始原的なもの〕」として主題化した」 (p. 159) ものなのである。
私たちは、私たちの目が知っている光、私たちの姿勢を支えてくれる地面、私たちがそれを使って話す大気と暖かさを互いに伝達しあう。私たちは、大地、光、大気、暖かさの凝縮として、互いに向きあい、根源的なものにおいて、互いを原初的なコミュニケーションに導くのである。私たちは、自分が迷い込んでしまった、見知らぬ根源〔諸要素〕のなかでくつろげるように、私たちを助けてくれるよう他者に求める。 (p. 159)
彼の目は、根源的なものの流動性で輝き、そして動く。彼女の声は、空気と暖かさでできている。他者の顔は、根源的なものの表面である。すなわち、根源的なものが、喜び――目を輝かせ、手を暖め、姿勢を維持させ、声を能弁かつ生きいきとしたものにし、顔を熱気に溢れたものにする、そうした喜び――に、包み込まれることに注意を向けたり、訴えたり、要求したりする場なのである。他者の顔は、私の生の喜びが浸されている根源的なものの源泉を要求するために、根源的なものが現われる場なのである。 (p. 168)
この他者の「顔」たちは、もうレヴィナスの「顔」とは違う。「顔」が要求しているのは、「すでに罪ある者」という自己認識ではなく、「生の喜びが浸されている根源的なものの源泉」なのである。こうして、私たちは「何も共有していない者たちの共同体」を形成することができるだろう。合理的言説によって立つ共同体を超えて、ではない。二重の共同体の一つとして、である。
もう一つの共同体を通じて見えてくるものがある。それは、たとえば、「確立された科学・技術工学の合理性に忠誠を誓い、みずからを代表制民主主義国家とみなしている先進国に従属する国家のなかで、特に猛威を振るっている」拷問の犠牲者としての「破壊活動分子、狂信者、熱狂者、そしてテロリスト」 (p. 184) の発話が聞こえてくる。その発話は、「たんに人間の共同体だけに向けられているのではなく、……空の鳥、彼を烈しく焼き帯電させる太陽光線、昆虫、カエル、ネズミ、岩、そして何もない空」 (p. 191) 、つまり世界の「根源的なもの」にも向けられているのである。
もう一つの共同体が内包する極限に「死の共同体」があるだろう。ふつう、共同体の中で私が他者と結び合うとき、そこにはある種の親族性の承認がある。共同体を支える親族性というものがある。だが、この親族性の彼方に「何も共有していない者たちの、あるいは何も作りださない者たちの、死すべき運命において見放された人びとの友愛」 (p. 198) があると著者は語る。
むしろ、誰にでも訪れるが、誰にとっても個別的な死が「もう一つの共同体」を作ると言うべきか。そこには、「カンボジアやソマリアの人びと、そして私たち自身の都市の路上で生活する、社会から追放された人びと」 (p. 12) や「拷問の犠牲者」 (p. 184) たちが共同体の中の他者である。
私の近づきつつある死の感覚に応答して、私は、他の誰でもなくこの私の前にだけ広げられた世界の可能性のなかに、私の力を注ぎ込みながら、それに向かって歩を進め、私自身の力を使って世界のなかへと死んでいく。私の不安にのしかかる召喚は、私を、私固有の実存のもつ力へと引き渡し、世界で私だけに固有の死へと私を引き渡す。死ぬことにたいする消しがたい恐怖とは、なくてはならないだけの忍耐強さをもつていないという恐怖であり、自分の平静さと決意には、私を召喚する死の命令に従う強さが欠けているという恐怖なのである。 (p. 213)
他者が立ち去った後の場所に生まれ、すでに私自身の死によって召喚されており、私だけに開かれている可能性を感受している私は、他者をその他者性において、彼らのための場所と可能性において発見する。自分自身に固有の力を追求する他者は、彼らが現実化できずに、私のために残してくれる可能性も描きだす。私たちの親族性を認識する握手において私たちはメッセージと財を交換するのだ。 (p. 215)
こうして、「私たちは、私たちの死すべき運命において自分自身を知る」 (p. 200) のである。「もう一つの共同体」の他者も自身の死を死ぬ。彼または彼女が「一人で耐えなければならない疲れと苦しみ」 (p. 216) の死が訪れる。
苦しみから逃れることができない他者の介抱をする際に、そして、死を待つ他者と共に苦しむために傍に寄り添うときに、人は、世界の時間とは切り離された時間を耐え忍ぶ。死ぬには時間がかかる。死は、人が予期している時間を蝕み、未来もなければ可能性もない時間、ただ時間の存在を耐え忍ぶことしかすることがない奇妙な時間を伸張するのだ。……死は、絶対的に、個人の歴史や人格間関係の歴史の時間の外にあって、無限に、そして遠い昔からやってくる。それは、どこから来るのでもなく、どこに行くのでもない、時間の合間で起こるのだ。 (p. 216-7)
その死にゆく他者たち、なにも共有していない他者たちの死に立ち会う場所こそ「もう一つの共同体」の場所である。
人は、自分が行くことができないところに何も与えられず、約束もされないところに出かけていく。慰めのために触れることは、死すべき運命の人間が、苦しみを感じる人間が他者に付き添うことである。それは、他者が、もうどこにも向かわない時間、無にすら向かわない時間のなかに沈みこみつつあるときに、その他者に付き添うことである。慰めのために触れることは、忍耐と苦しみの時間のなかに、死にゆくことに付き添うための道を切り開き、彼または彼女の困窮の極限において、他者との友愛を見つけだすのである。 (p. 221-2)
人が出かけていくのは、そこに行くように駆り立てられるからだ。人は、他者が、彼または彼女が、ひとりきりで死んでいくことのないように出かけていくのである。敏感さとやさしさと共に動かされる人の手の動きのすべてが、他者を感受する力によって、その人に向けられた命令を感知する。人は、他者のために、そして他者と共に、苦しまずにはいられない。他者が連れ去られてしまったときに感じる悲しみ、いかなる薬も慰めも効かなくなったときに感じる悲しみは、人は悲しまずにはいられないということを知っている悲しみなのである。 (p. 222-3)
リンギスは、合理的言説の共同体、つまり近代合理主義世界に対して、歴史を超越しているような存在論的共同体を措定する。それは、解説で堀田義太郎が述べているように、「二〇世紀の二つの世界戦争が人間の単独性や特異性を捨象して人びとを均質化する近代合理主義の帰結だった」 (p. 242-3) と考えることから出発しているらしい。
近代合理主義から「根源的なもの」の「もう一つの共同体」へと思考を向けるとき、そこには合理的世界から情動の世界へときわめてエネルギッシュで意志的な跳躍、断絶があるように思う。なぜなら、そこは合理的言説の積み重ねでたどり着ける世界ではないからだ。私は、このような跳躍、断絶をレヴィナスの思想にも強く感じた。他者の「顔」に向き合う私は「すでに罪ある者だ」という断言は、強い倫理がもたらす跳躍なのだと思う。
リンギスは、私たちの世界に燦めく光り、暖かいあるいは冷涼な空気、私たちを支える大地に「根源的なもの」を見る。合理的言説によって私と他者は交換可能な存在として共同体を構成する近代性に対して、「根源的なもの」を共有する私たちは歴史を越えて相互侵入的な存在として「もう一つの共同体」を形成しているのだ。そこでは、近代が推し進めてきた排除、抹殺すべき異者というものは存在しない。ナショナル・マイノリティという政治的存在もまた否定される。そのような思想を通じてのみ、「カンボジアやソマリアの人びと、そして私たち自身の都市の路上で生活する、社会から追放された人びとを見捨て」 (p. 12) ることのない世界に辿り着くことはできない。
哲学者アルフォンソ・リンギスによる本書は、優れて倫理の書である。
[1] ジャック・デリダ(廣瀬浩司訳)『歓待について――パリのゼミナールの記録』(産業図書、1999年)p. 65。