ジョージ・マイアソン(竹田ちあき訳、大澤真幸解説)
『ハイデガーとハバーマスと携帯電話』
(岩波書店、2004年)
ハイデガーとハバーマスの名前が並んではいるが、七面倒くさい本ではない。「新しいケータイ文化と古いコミュニケーション哲学」 (p. 73) をごく「常識的」に論評した読みやすい本である。つまり、「新しいケータイ文化」をハイデガーやハバーマスの「古いコミュニケーション哲学」によって批判しているのだ。
本書は、「ハイデガーとハバーマスと携帯電話」という論述に、〈付録〉としての「ハイデガーとハバーマスの基礎知識」、さらに大澤真幸の「もう一つの「ハイデガー、ハバーマス、ケータイ」」という批判的解説から構成されている。
その大澤真幸は、ジョージ・マイアソンの論考を次のように要約している。
コミュニケーションとは何か? ケータイのそれは、個人の自由の極大化をめざす私的なものだが、哲学者たちの思い描くコミュニケーションは、「われわれ」という関係を志向する。なぜコミュニケーションをとるのか? ケータイのコミュニケーションは、功利的な目的を充足させるためだが、哲学者たちのそれでは、会話それ自身が享受されている。誰がコミュニケートするのか? ケータイでコミュニケートしているのは、実際には装置だが、哲学者たちが目指すコミュニケーションは、生活世界に内属する声が主役である。何がやりとりされるのか? ケータイでは、メッセージが交換され、哲学者たちのコミュニケーションでは、意味の共有に基づいて理解が達成される。コミュニケーションがうまくいくとは、どういう場合なのか? ケータイでは、即座の応答が得られるときであり、哲学者にとっては、合理性の相互批判の可能性や相互の接触が成功を含意する。コミュニケーションから何を学ぶか? ケータイでは、情報が学習され、哲学者のコミュニケーションでは、知識の獲得の過程が重要であって、世界は理解可能だという感覚が得られるだろう。それぞれのコミュニケーションが目指すユートピアは何か? ケータイのそれは、貨幣の獲得を指向する商取引に漸近しており、哲学者たちのそれは、システムから独立した生活世界に固有の価値を目指している。 (p. 107-8)
著者は、ケータイに関わる資本の広告やマスコミの論調を「新しいケータイ文化」の言説として取り上げる。
この国における携帯電話の数は七七〇〇万台近く、無線電話サ—ビスの加入者は一日に三万七五〇〇人以上(と推定されている)。しかもこれらのユーザーは、今まで以上に話をしている……。電話ネットワーク上の通信量は過剰である……(下線は著者)
『ニューヨーク・タイムズ』二〇〇〇年八月一九日 (p. 9)
申し分なくぴったりです、人々に話しかけるのにも、短いメッセージの受信にも、映画の予告編チェック、移動テレビ会議、新聞の見出しの受信にも。(下線は著者)
オレンジのプレス・リリース、二〇〇〇年七月一三日 (p. 11-2)
コミュニケーションという概念そのものが、いま変えられていくのです。
オレンジのプレス・リリース、二〇〇〇年七月一三日 (p. 23)
今日、無線電話が九四〇〇万以上の人々、つまりアメリカ人の三人に一人へ提供しているのは、コミュニケーションをとる自由です――みなさんが欲しいときにいつでも、みなさんが欲しいところでどこでも。
ノキアのプレス・リリース、二〇〇〇年七月一二日 (p. 24)
(新しい電話機器は)文字通り、あなたの個人的なコミュニケーション・センターになります……
オレンジのプレス・リリース、二〇〇〇年七月一三日 (p. 26)
……このモデルは、生命を持たないモノどうしのコミュニケーションを反映し、通常の声やデー夕の通信に対する請求だけでなく、付加価値サービスに対する支払いも受け取るためのもので……(下線は著者)
オレンジのプレス・リリース、二〇〇〇年七月一三日 (p. 36)
このような資本やマスコミの言説は、ケータイ文化そのものをほとんど表現している。つまり、ケータイを道具として消費する人びとの動向は、このような言説によって作られるからである。消費文化は消費者ではなく、資本によって形成されのだから。
上のような「新しいケータイ文化」に対して、著者は次のようなハバーマスやハイデガーの「コミュニケーション哲学」を対置させる。
〔マルティン・ハイデガー〕
会話と言説は
・メッセージないし情報を伝達する、という目的をもたない。
・われわれが欲しいものを、より効率的に手に入れる手段ではない。
・「私という人間」を、表現しない。
・意味を発見する、という目的をもつている。
・理解を共有する、という目的をもっている。
・人間の世界内存在を表現する。 (p. 88-89)
〔ユルゲン・ハバーマス〕
コミュニケーションの合理性とは
・自分自身の目標や興味を、人と争って追い求めること、と定義されるものではない。
・成功のための「戦略」をあみだすことをいうのではない。
・言語その他、コミュニケーションの媒体を通じて、共通理解を得ることをいう。
・批判をおおらかに受け入れるとともに、自らの信条・決定・行為について十分な理由を述べることができる状態をいう。 (p. 91-2)
著者は、ケータイで私たちが行なっていることは「コミュニケーション」ではなく、メッセージの交換にすぎないと考える。「欲しいときにいつでも」、「欲しいところでどこでも」、「通信量は過剰」であっても、それは「個人的なコミュニケーション・センター」にすぎない。単独では、コミュニケーションは成立しない。
じつに目を引くのは「個人的な……センター」という発想だ。これがコミュニケーションのモバイル化の根本原理なのだ――コミュニケーションとは、じつのところ、孤独な行為である。あなたは自分だけのコミュニケーション・センターをもつ。こうしてわれわれがたどりつく重要な忠告は、モバイル化の基本方針を示している。コミュニケーションは、かかわるのがひとりだけのときに、いちばんうまくいく。 (p. 26)
メッセージは意味とは大違いである。どう甘くみてもせいぜい、メッセージは意味の極端な縮約版――意味の薄っぺら版としか言いようがない。ハバーマスの哲学のおかげでわれわれは、メッセージを意味のある表現とはっきり区別できる。 (p. 51)
ここで「コミュニケーションをとる」というのは、接続すること、ネットワークに入ることである。繰り返して言うが、この新しい言い方では「コミュニケーションをとることができる」のは機器である。コミュニケーションの「相手」はネットワークであり、行為者ではない。 (p. 65-6)
私たちの「新しいケータイ文化」は、「古いコミュニケーション哲学」と鋭く対立する。それは歴史的なものゆえに回避できないものなのか、あるいは相容れない概念として同時代的に対立したままなのか。
またも大きな違いが、対立するユートピア像に見られる。ケータイのユートピア像は、目先の必要にぴったり合致する情報へ瞬時にアクセスできる、というものである。これはできるだけ効率よく入手・獲得することに終始する。これとは対照的に、哲学者がこだわるのは獲得の過程であり、それはまさにケータイによって極力切り詰められる段階なのだ。いってみれば、ハバーマスは「最小限の時間で最大限の情報を得る」というのを「学ぶ」ということのよい定義とは思わないだろう。しかしそれこそ、データ出力や即刻アクセスというケータイのレトリックが、暗黙のうちに踏まえている定義なのである。 (p. 69-70)
小説『ミドルマーチ』でジョージ・エリオットが書いたのは「沈黙の裏にある怒号」であった。今ここにあるのはおそらく、メッセージの怒号の裏にある沈黙だ。 (p. 83)
この〔大学の学期の授業後の〕アンケートの書式はささやかながら、絶望から生まれたものであり、その絶望とは、これほど多くの人数を相手にして、また評価される学生と評価する教師を隔てずにはおかないような、これほど絶対的な利害の違いをこえて、本当の接触をもつことなどはとうていできない、という思いである。これもまた、深い沈黙を裏にもつ怒号なのだ。 (p. 84-5)
著者は、m(=mobile)とs(=still)という対立する形容詞を用いて、次のように論考を終える。
本書の「出会い」では、ハイデガーとハバーマス、それに「会話」や「話」から「コミュニケーション的行為」に至る真のコミュニケーション哲学との対話の中で、このm未来の定義が煮詰まってきた。あのコミュニケーション哲学は終わっていない――それはケータイの宣伝が終わっていないのと同じことである。古い哲学は、m未来に代わる新しいものをこれから見出すだろうか。願わくは、われわれが「sコミュニケーション」の手ごたえを取り戻しますように――その「s」とは、「静止(スティル)」のことなのだ。 (p. 86)
本書で取り上げられていることは、ハイデガーやハバーマスをきちんと読みこんでいなくても、おそらく容易に理解できる内容だし、「新しいケータイ文化」もまた日常的にメディアで語られ、描かれていることだ。希望は、「古いコミュニケーション哲学」も「新しいケータイ文化」も未だコミュニケーションの未来を決定していないということだ。
ジョージ・マイアソンは、否定的な現状把握を行なった上で希望を述べているのだが、「解説」を書いている大澤真幸は、マイアソンとは異なった分析に繫がるような社会学的アプローチについて触れている。
マイアソンはモバイル化したコミュニケーション、ケータイのコミュニケーションに「コミュニケーション」とは名ばかりであって、実際には孤独な行為であり、個人の欲望や目的の充足をのみ志向している、と論じている。だが、いくつかの社会調査は、こうした説明には回収できない側面が、ケータイによる関係性にはあることを示唆している。例えば辻大介の調査によれば、互いのプライベートにまで立ち入るような「深い」人間関係を求める者の割合は、ケータイや電子メールの使用頻度が高くなるほど多くなる。こうした事実は、マイァソンが指摘している事実とは別の側面があることを含意しているだろう。それは何であろうか? (p. 109)
あるいは、新海誠のアニメ『ほしのこえ』のストーリーを引用しながら、「他者への近接性の要求」が私たちがケータイを求める契機になっているのではないかと言う。
このアニメ〔『ほしのこえ』(新海誠作)〕は、ケータイを必須の道具として用いている若者たちがケータイを通じて何を希求しているかを、反照してみせる。そこで求められているのは、近接性の感覚ではないか。もう少し丁寧に言い換えれば、遠く隔たったものの間の近さの感覚、他者の近接性の感覚ではないか。ほとんど完全な同時性を覚えるほどまでの――本来的には遠いはずの――他者の近接性への欲求、ケータイによってすらも完璧には到達しえない極度の近接性への欲求が、ケータイの使用を駆り立てているのではないか。 (p. 110)
その「近接性」とはどんなものか。私などには信じられない事例もあるのだ。
和田伸一郎は、次のような例を挙げている。街で知り合った若い男女六人が、カラオケで台コンをやることになった。何となく白けたムードが漂う中で、一人の女の子が突然、ケータイでメールを打ち始めた。彼女はどこか遠くにメールを送ろうとしていたのではない。テーブルを挟んで反対側にいる気に入った男に、メールを送ろうとしていたのだ。なぜか? 和田が述べているように、ケータイでつながる極限の近さ――距離ゼロの近さ――は、テーブルの幅よりもさらに近いからではないだろうか。この少女のやっていることは、冒頭のパズルでロバートがやったことの裏返しだ。 (p. 119)
バーチャルな消費空間の実体化であって、笑い話のネタではないのだ。「近接性への欲求」を満たす道具としてケータイは肯定的に受け入れられ、利用されている。この「近接性への欲求」をめぐるこうした事態がいかに「社会学」的事実であり、「社会学」的解釈が可能であるとしても、そのまま受容しうる事柄だとはとても私には思えない。少なくとも、擁護しつつ受容するのというのは難しい。ここには、現代社会に特有の心理学的な問題があるのではないか、と思う。私にはそれが健康でノーマルなことなのか、病的でアブノーマルなことなのか判断できないが、そのような切り口は必要だろうと思う。
大澤真幸は、「求められているのは他者の極限の近接性である。これは無論、ありえない近接性だ」と言い、「ケータイは、決して踏破できないはずの距離を無化する魔術的な装置として迎えられている」 (p. 118) としている。
ハイデガーによれば、遠さ―除去の運動との相関で、現存在の「現」がそこにいるところの場所、つまり空開が開かれるのであった。空開は、現存在の最小限のアイデンティティ(ここにいること)を保証する。それならば、極限の近接性を感受させるケータイが導入されたときには、事態はどのようになるのだろうか。現存在の「現」が、相互に無関係なものへと二重化し、破綻してしまうのだ。一方で現存在は、現実の、通常の空間の内部に、自身の「現(ここ)」を確保している。だが同時に、他方で、彼/彼女は、極限の近接性がその内部で実現するような、もう一つの「現」が根付く、もう一つの空開を構成してしまう。遠さ―除去の過程が、あるいは旅程が無化されているということは、このもう一つの空開は前者の「現」が住まう現実の空開と関係を持ち得ない、ということである。こうして、現存在は分裂してしまう。 (p. 119-20)
問題は、分裂した現存在なのだ。時代が現存在を分裂させ、ケータイとマッチングさせたのか、ケータイへの没入が現存在を分裂させたのか、あるいはまた、現存在そのものが他者への関わり(コミュニケーション、会話、共通理解)の中で本質的に分裂せざるを得ない存在としてあるのか。
論考すべきテーマは残されているのではないか。