【2016年1月28日】
奇しくも一昨年(2014年)の1月28日に六本木の森アーツセンターギャラリーで『ラファエル前派展』 [1] を見て、2年後の同じ日に渋谷で『英国の夢 ラファエル前派展』を見ることになった。
前回はロンドンの国立テート美術館のうちのテート・ブリテン所蔵作品による美術展だった。今回はリバプール国立美術館所蔵展であるが、ウォーカー・アート・ギャラリー、サドリー・ハウス、レディ・リーヴァー・アート・ギャラリーの三施設の所蔵作品が出品されている。
ラファエル前派の作品は、神話や伝説、文学作品を多く主題として取り上げるというその物語性(と象徴性)に特徴があるが、その描法は自然性を重んじ、描かれる人物(とくに婦人像)はヴィクトリア朝という時代を反映してか、とても華やか(ときとして艶やか)な雰囲気をもって描かれることが多い。
同じ時期に大陸では印象派が活躍していたが、それに比べればラファエル前派は古典的にすら私には見え、当時のイギリス美術界で彼らのアヴァンギャルド性が驚きをもって迎えられ、批難されもしたということが直感的には信じられないくらいである。ラファエル前派作品に顕われるロマン主義的傾向という点からはドイツ・ロマン派を想起させるが、当然のことだが、ドイツ・ロマンティーク [2] もまた私には印象派よりもはるかに古典的に見えるのである。
【上】ジョン・エヴァレット・ミレイ《いにしえの夢―浅瀬を渡るイサンブラス卿》1856-57年、
油彩・カンヴァス、125.5×171.5cm (図録 [3]、p. 29)。
【下】ジョン・エヴァレット・ミレイ《森の中のロザリンド》1867-68年頃、油彩・板、
22.6×32.7cm (図録、p. 35)。
ラファエル前派といえば、私にとってまず誰よりもエヴァレット・ミレイである。先のテート美術館展では《オフィーリア》を見ることができたことが何よりだったが、今回の目玉作品の一つは、《いにしえの夢―浅瀬を渡るイサンブラス卿》であろう。
図録解説には「ミレイの画業の初期における最も野心的でロマンティックな一点」(p. 28)と評されているが、自然の忠実な描写を目指したラファエル前派の運動の原則から離脱を示した作品であるとも示唆されている。それは演劇的な構図や絵画的に過ぎる描法、あるいは画商の要求によって不自然に大きく描かれた馬などに現れている。イサンブラス卿のエピソードも与えられておらず、物語的、象徴的な意味合いも強くないのである。
いくつかのミレイの展示作品のなかで、私が最も心惹かれたのは《森の中のロザリンド》という小品である。この小品の細部が、近眼で老眼の目に明らかになる前に打たれた感じがした。そして、それは私の少年期のロマン主義的な感情と共鳴したのだ。
この絵を見て強い感情が惹起されたことに驚いたのは、当の昔に消えてしまったと思い込んでいたロマン主義に感動する感覚が私の内部に生き残っていたことに驚いたという意味が強い。
木々の太い幹がそれに寄りかかるロザリンドの可憐さを強調しているように見え、男装しているとはいえ不幸な道行が画面全体に漂っているようにさえ思ってしまう。いわば、この絵の持つ物語性に過剰に反応してしまう何かが私の中でいまだ蠢いているようなのだ。
【左】ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ《シビラ・アルミフェラ》1865-70年、油彩・カンヴァス、
98.4×85cm (図録、p. 49)。
【右】ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ《パンドラ》1878年、カラーチョーク・紙、
100.8×66.7cm (図録、p. 51)。
【左】ジョン・エヴァレット・ミレイ《良い決心》1877年、油彩・カンヴァス、110×82.2cm
(図録、p. 39)。
【右】チャールズ・エドワード・ペルジーニ《シャクヤクの花》1887年に最初の出品、油彩・カンヴァス、
77.4×59cm (図録、p. 81)。
ラファエル前派の絵画全体がそうではないのを承知の上で、「華やか(ときとして艶やか)な雰囲気」を感じたのは、先のテート美術館展でのロセッティの一連の女性の肖像画を見たためである。なかでも、図録の表紙にも採用されていた《プロセルピナ》などは、女性美の追求の最たるものであろう。
しかし、今回のロセッティ作品にはそれほどの「華やか(ときとして艶やか)」さを感じない。描かれた絵が美しいかどうかということと、描かれた女性が美しいかどうかというのはまったく別の次元の話であるが、どうしてもその分別がつかないまま絵を眺めてしまう。
それは、ミレイやペルジーニの女性像と比べてみればよく理解できる。ありていに言えば、私はロセッティの描く女性よりも、《良い決心》や《シャクヤクの花》の女性(像)が好もしいのである。ミレイやペルジーニの描く女性がロセッティの描く女性よりも美しいと思えるのは、モデルの女性の問題ではなくて、画家が女性の美しさをどうとらえているかということに他ならない。だから、これは女性の好みではなくて、絵そのものの好みだと思いたいのである。
好みの問題はさておいて、ロセッティの絵の訴求力の源は何だろうかと考え込むのだが、よくわからない。《シビラ・アルミフェラ》にせよ《パンドラ》にせよ、よく理解できない物語性が女性の美しさとあいまって独特の雰囲気を作っているようだ。
《シビラ・アルミフェラ》の図録解説(p. 81)によれば、それは絵の持つ象徴性によるらしい。例えば、女性が右手に持つヤシの葉は美の勝利の証であるという。しかし、それは女性に与えられたものか、誰かに与えようとしているのは不明のままその判断は鑑賞者に委ねられている。また、背後の左右の柱には「愛」と「死」の象徴が彫り込まれているという。
このように絵の中に描き込まれた象徴性の強い事物とロセッティ流の女性美が共鳴的に醸し出す雰囲気が(象徴の意味を知らなくても)私の目を引きつけるということであるらしい。
【上】アーサー・ハッカー《ペラジアとフィラモン》1887年、油彩・カンヴァス、113×184.2cm
(図録、p. 89)。
【下】ジョージ・オーウェン・ウイン・アバリー《プロクリスの死》1915年、水彩・グワッシュ、鉛筆・紙、
78.9×134cm (図録、p. 95)。
会場には、裸体画を含め女性の様々な美しい姿態を描いた作品がたくさん展示されていたが、女性の裸身像という点で、《ペラジアとフィラモン》と《プロクリスの死》という二つの作品の比較がとても面白いと思った。
前者は、チャールズ・キングスレイの歴史小説『ヒパティア』に主題をとり、悔悛して荒野に出て死を迎えたペラジアの葬儀を兄フィラモンが執り行う場面である。後者は、古代神話に主題をとっていて、誤って妻プロクリスを矢で射殺してしまったケファロスが妻の死骸を前に嘆いている場面である。
描かれる物語は違うが、ともに死んで横たわる女性を裸体として描いて、女性の肢体の美しさを表現している。《ペラジアとフィラモン》では女性の肢体の美しさを強調するかのように死体にポーズをとらせているように見え、一方、《プロクリスの死》では女性は死んだそのままの自然な死体が描かれている。
そして、私はプロクリスの死体のまっすぐに伸びた右足の美しさに圧倒されたのである。さまざまに美しくポーズをとる女性の肢体を描いた作品群のなかで、私のお気に入りになったのはどんなポーズをとる(とらせられる)こともなく素直にまっすぐに伸びた女性の右足だったのである。
ジェイムズ・ハミルトン・ヘイ《流れ星》1909年、油彩・カンヴァス、64×76.8cm (図録、p. 113)。
数は少なかったものの、風景画も何点か展示されていた。そのなかでジェイムズ・ハミルトン・ヘイの《流れ星》がとても印象深かった。図録からスキャンした画像では判然としないが、中央左寄りに微かに流れ星の飛跡が描かれている。
雪原でもあろうか、白い大地と暗黒の空の境に人家が描かれている。その中の一軒から黄色い灯がこぼれている。雪原の右端には何本かの木立も描かれている。私は、光がなければ成り立たない絵画において、こういう漆黒の闇というべき風景を描こうと思い立った画家の心性に驚いたのである。
【上】ジョン・エヴァレット・ミレイ《春(林檎の花咲く頃)》1859年、油彩・カンヴァス、113×176.3cm
(図録、p. 31)。
【下】ジョン・ウィリアムス・ウォーターハウス《デカメロン》1916年、油彩・カンヴァス、101.5×159cm
(図録、p. 143)。
群像を描いたラファエル前派初期のミレイ作品と後期のウォーターハウスの作品の比較も興味深くて、《春(林檎の花咲く頃)》と《デカメロン》を並べてみる。
ミレイの《春(林檎の花咲く頃)》は、家族や知人たちが林檎の花が咲く果樹園に集っている様子が描かれている。ここには、ラファエル前派が多く描こうとした神話的な物語はなく、強いて言えば、横たわる女性の頭上の鎌が家族(あるいは友人)の上に降りかかる運命を暗示していることが目立つくらいである。
また、人物の姿勢もどこか硬質で、自然の忠実な描写という点においても、物語性と同様にラファエル前派が目指した傾向や主義、手法からの逸脱が見られるように思う。
それと比べれば、ジョン・ウィリアムス・ウォーターハウスの《デカメロン》に描かれる人物像はより自然である。とくに女性像は、ロセッティの描く女性を思わせて、いわばラファエル前派の本流を行くような印象を受ける。そして、正直に言えば、《デカメロン》の前に立ったとき、そのあまりにもラファエル前派のど真ん中という印象は、その描写力の確かさにもかかわらず凡庸性という感覚に結びついたのだった。
しかし、じっさいには《デカメロン》はそのタイトルにもかかわらず、『デカメロン』という物語を暗示する象徴性がほとんどないと図録解説は指摘したうえで「明白で即座に理解可能な物語性の忌避を信条とする唯美主義の典型的な作例」(p. 142)だと評している。つまり、ウォーターハウスにおいても、方向は違えども、ミレイと同じように絵画性の追求によって「ラファエル前派」性からの逸脱が見られるということらしい。
そうした逸脱は、考えてみれば当然のことだ。「〇〇派」とか「▽▽主義」と括られても、それぞれの集団の芸術思想や手法のど真ん中というのはごくごく抽象的な概念で、それぞれの画家はそれを共有しつつもそこから逸脱する自我を有していて、それこそが個性であり才能であるだろう。だから、ど真ん中そのものという印象が凡庸性という印象と結びつくのはあながち間違いではないのである(と、私の鑑賞力の弁解をしてみる)。
ジョージ・フレデリック・ワッツ《十字架下のマグダラのマリア》1866-84年、
油彩・カンヴァス、103×77.5cm (図録、p. 119)。
私にとって、この美術展の最大、最良の収穫はジョージ・フレデリック・ワッツの《十字架下のマグダラのマリア》を見たことである。マリアの背後の柱の上には磔刑のキリストがいる(はずである)。ここに描かれているのは、もはや美しさではない。
〈悲哀〉そのものの具現化としてのマリアである。力を失った腕、死せるキリストを見上げているというよりも、中空の〈絶望〉から目が離せなくなったように仰向く顔。哀切そのものの実存性。私にはそう思えるのである。
かつて私は、しばしば主題として描かれるマグダラのマリアの改悛や苦悩のなかに見るマリアの美しさばかりを気にしていた。だれだれが描いたマグダラのマリアが一番美しいなどと考えていたのだ。愚かである。
[1] 『ラファエル前派展 ―英国ヴィクトリア朝絵画の夢』(朝日新聞社、2012年)。
[2] 小林敏明『風景の無意識――C・D・フリードリッヒ論』(作品社、2014年)。
[3] 『英国の夢 ラファエル前派展』図録(以下、『図録』)(有限会社アルティス、2015年)。
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