かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 脱原発デモの中で (6)

2024年07月05日 | 脱原発

2013年11月1日

 街頭が点灯しないまま、暗闇で集会が始まる。今月は反原発関連のイベントが多くて、告知が続く。山本太郎さんが秋の園遊会で天皇に手紙を手渡したことをスピーチで取りあげた人がいた。政治家やマスコミの反応に怒っているらしいのだが、よく聞き取れなかった。
 山本太郎さんが天皇に手紙を手渡してから深々と最敬礼をしている姿を写真で見たが、この人は天皇を深く敬愛しているという印象だった。青年政治家が園遊会の立ち話では失礼に当たると考えて、手紙をしたためて原発事故をめぐる日本の現状を奏上したという図である。敬愛する天皇に日本の実情を知ってもらいたいという純朴で真摯な行いと私は受け取った。
 私は母の胎内で太平洋戦争の敗戦日を迎えて戦後民主主義の息吹をたっぷり吸いながら育ったので、歴年の自民党政府の原発政策に断固として反対して反原発運動の先頭を走り、その強い思いで政治家になった青年が、天皇制に逡巡することなく深々と最敬礼している姿に、これほど深く天皇を敬愛していたのかと少しばかり驚いたのである(もちろん、「天皇制」と「天皇制イデオロギー」は峻別して考えなければならないけれども)。
 政府の政策に強く反対する青年政治家が天皇を深く敬愛している。その事実に自民党などの右翼政治家、ナショナリストたちは感動して褒め称えるのかと思っていた。なんとかという文科大臣が田中正造と同じだと発言したと聞いて、山本太郎は田中正造のような歴史的偉人だと褒めたのだと思ったほどである。ところが、事態はまったく逆で、総掛かりで袋叩きにしようという魂胆らしい。
 これはどうやら、たったひとりで反原発を訴え、政治の場を志し、国民の強い支持を受けて当選してきた青年政治家に対して、地盤にしがみつき、政党にしがみつき、金とおべんちゃらで這い上がってきた老醜政治家たちの「妬み」と「嫉み」が天皇を梃子として暴発したというのが正しい見方のようだ。これこそ「天皇の政治利用」そのものである。じつに醜い。


2014年4月27日

 フリートークでは、ドイツ語のスピーチがあって日本人の奥さんが通訳をしてくれた。「原発はドイツや日本という国の枠組みを超えた問題だ」という締めくくりが印象的だった。「フクシマ」は確かに個別・具体的でナショナルな深刻な問題ではあるけれども、「原子力エネルギー」として考えれば、全地球規模の人類そのものの未来への脅威として位置づけられる。つまりは、私たちの存在する社会的、時空間的なさまざまな位相で、私たちは原発と立ち向かわざるをえないということだ。
 フリートークでは私も、宮城県の淡水の魚の汚染状況の話をした。福島から流れてくる阿武隈川の放射能汚染がひどいのは当然として、県内でも1000mを越すような奥羽山地の山間から流れ出すほとんどの河川のイワナは国の規制値(100Bq/kg)を超えて汚染され、禁漁措置が執られている。規制がないのは、鳴瀬川・吉田川水系と海辺の小河川のみである。
 好きな釣が制限されていること、山菜採りや茸狩りといった季節の楽しみが奪われたことなど、原発問題のもっとも低い位相、つまり「個人的恨み」が私の話の締めくくりである。国家の枠組みを超えるというピンの話題に対して、私のはキリのレベルの話である。
 今日が初めての参加という人のスピーチがあった。友人に参加を誘われたのだという。私がスピーチをして戻ると、その人に「小野寺さんが魚の話ですか」と声をかけられた。専門は違うが、職場の大学で同僚だった人である。
 彼をデモに誘ったという人は不参加だったが、よくよく聞いたら知っている人だった。どこかで見かけた顔の人がずっとデモに参加されていたのだが、思い出せないままにいた。一時期同じ職場にいたものの早くに転出された人で、どうにも私の記憶が曖昧すぎていたのである。
 昔の職場の同僚とデモで出会ったのは、これで四人目ということになる。悪くない人数ではある。
 私は物理系の研究室に職を得たが、原子核工学科だった同級生のほとんどは原子力関係の職を得た(当たり前のことだが)。大学に残る少数を除けば、優秀な人たちは日本原子力研究所や動力炉・核燃料開発事業団に入った。原子力規制委員会の田中俊一委員長は、私より一年上で、学部卒業で日本原子力研究所に入った一人である。同級生の中には、職業人生のほとんどを高速増殖炉「もんじゅ」に関わりつづけて退職した友人もいる。
 「もんじゅ」といえば、4月21日付けの読売新聞(私はネット記事で見たが)に「もんじゅ推進自信ない…原子力機構が意識調査」という記事が載った。日本原子力研究開発機構の高速増殖炉「もんじゅ」で、多数の機構職員が「もんじゅのプロジェクトを進めていく自信がない」と考えていることがわかった、という内容である。
 日本原子力研究開発機構は、日本原子力研究所と核燃料サイクル開発機構と改めた動力炉・核燃料開発事業団が統合されてできた国家レベルの原子力研究機関である。私が卒業した頃の原子核工学科の就職状況から類推すれば、ここには原子力工学を専門とするなかでも優秀な部分が集まっているはずだ。そのような技術者、研究者の多くが「もんじゅのプロジェクトを進めていく自信がない」というのだ。福島の事故で「絶対安全」という盲信、非科学的信仰が崩壊してしまった現在、ノーマルな精神・知性を持つ技術者、研究者が原子炉、なかんずく高速増殖炉という不安定な原子炉に不安を持つのは当然と言えば当然なのである。
 日本の原子力工学の中枢にいる人びとが不安に陥っている一方、政治・行政の世界では「世界最高水準の原子力安全基準」などというありもしない虚妄の根拠を問われて、政治家も役人も返答に窮している。なんという「反知性主義」の国なのだろう。最近、自民党・右翼的言動を「反知性主義」と呼んでいるようだが、安倍的言説を反知性主義というのは正しいとは思えない。ただの無知を反知性主義とカテゴライズするのは過ちだと思うのだが。もしかしたら「無知+政治権力」を反知性主義と考えるのだろうか。


 

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【メモ―フクシマ以後】 原発をめぐるいくぶん私的なこと(1)

2024年07月03日 | 脱原発

2015年㋀16日

 脱原発デモに出かける前にPCのメールを確認して、仙台市図書館から予約書籍の準備完了の知らせをみつけた。集会場所の勾当台公園への道すがら図書館から借り出すことにして、家を出た。
 原発や辺野古のこと、特定秘密保護法や解釈改憲などをフェイスブックに積極的に投稿していて、その合間に花の写真や日々のことなども書いている女性がいる。フェイスブック上で知り合ったその人が、一週間ほど前、日々の思いの後に「夕暮れには目覚めてはいけないと書いたのは清岡卓行だったか」という意味のことを書いていた。
 詩人が書いたというその言葉を私は知らなかったが、小説ならいざ知らず詩集からならそのフレーズを探せるかも知れないと納戸や本棚を探してみた。さんざん探したが、清岡卓行の小説は数冊出てきたものの詩集は一冊も見つからない。たくさん読んだはずなのにどうしたことか。若い頃、詩集を借りて読むという習慣はなかったはずだ。詩集だけは買ったのである。そもそも清岡卓行の詩集を持っているという確信はどこから来たのか。そんなことがあって、若いときの記憶が茫洋となってしまったのではないかと背筋がざわざわしてきたのだった。
 仙台市図書館を通じて他の図書館に借用依頼をしていたその本は『清岡卓行全詩集』である。開いてみれば、すぐに記憶に鮮明なフレーズが見つかる。

二〇世紀なかごろの とある日曜日の午前
愛されるということは人生最大の驚愕である
かれは走る
かれは走る
そして皮膚の裏側のような海面のうえに かれは
かれの死後に流れるであろう音楽をきく
人類の歴史が 二先年とは
あまりに 短かすぎる
   「子守歌のための太鼓」(部分) [1]

 今日の参加者はやや少なくて50人ほどだった。仙台としては暖かい夜だったので、50人は元気にデモに出発した。勾当台公園と宮城県庁舎の間の道に出て、勾当台通りの交差点を渡り、仙台市庁舎の前を通って一番町に向かう。
 定禅寺通りを越えれば一番町である。ここまではデモの列には照明の当たらない道だ。50人の参加者だからと思いこんでシャッターを押すと、その後ろからさらにたくさん現われて、立ち位置を変えて取り直すという失敗も暗さのせいである(空間認識力が脆弱だとは決して言わないのだ)。
 参加者が少ないとかえってデモが元気になるというのはなぜだろう。清岡卓行の詩集を借り出して、最初の数十ページを図書館で読んだら、次のような詩句がみつかった。

どこから世界を覗こうと
見るとはかすかに愛することであり
病患とは美しい肉体のより肉体的な劇であり
絶望とは生活のしっぽであってあたまではない

きみの絶望が希望と手をつないで戻ってくることを
きみの記憶と地球の円周を決定的に選ぶことを
夜の眠りのまえにきみはまだ知らない
              「氷った炎」(部分)[2]

 沖縄のことを思い出した。沖縄の歴史的な苦悩、繰り返される琉球処分の絶望的な情況から、「絶望が希望と手をつないで戻って」きた沖縄のことが思い出されたのである。沖縄の総意が新しい形を生んだ。もちろん安倍自民党政権の陰湿な加虐的対応に苦しめられるだろうが、昨年までの沖縄とはもう違うだろう。「絶望が希望と手をつないで戻ってくる」朝は、もう来たのだ。
 我が「デモびと」も明るく楽観的である。安倍政権が続いて状況は芳しくないが、「絶望が希望と手をつないで戻ってくる」朝があることを知っているのだ。
 さて、急いで帰って、「夕暮れに目覚めてはいけない」というようなフレーズがあるものかどうか『清岡卓行全詩集』のページを繰らなければならない。

[1] 『清岡卓行全詩集』(思潮社、1985年) p. 48。
[2] 同上、p. 30-1。


2015年1月23日

 勾当台公園への道すがら、仙台市図書館に立ち寄って、先週の金デモの日に借り出した『清岡卓行全詩集』を返却した。フェイスブックの投稿から気になっていたフレーズは、予想通り清岡卓行の「うたた寝」 [1] という詩の一節だった。

タぐれに眼ざめてはならない。すべてが
遠く空しく溶けあう 優しい暗さの中に
夢のつづきの そこはかとない悲しみの
捉えようもない後姿を追ってはならない。

 夕暮れに目覚めて夢の続きを追うようなことは、私にはあまりないことだけれど、そのような時間帯に思わず深く眠り込んで目覚めたとき、私がどんな時間にどこにいるのかまったく自覚を失って少しばかりパニックに似た感情に陥ることはしばしばある。

なにかに追いたてられるように 眼を覚ますと
深く長い眠りの 洞窟からではないのに
一瞬 記憶喪失にでもかかったように
ぼくはぼくの 致命的な愛が思いだせない。
           「秋のうた」部分 [2]

 残念ながら、私の目覚めにあまり「愛」などというのは関係ないのではあるが。

[1] 『清岡卓行全詩集』(思潮社、1985年)p. 144。
[2] 同上、p. 203。


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【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(7)

2024年07月01日 | 脱原発
2013年5月26日

 ずっと気になっていたことがある。吉本隆明が「原発擁護論」を盛んに言っているということを雑誌や本やらでよく目にしていたのだが、私自身は吉本が原発について直接語ったり書いたりしたものを見たことがなかった。雑誌のインタヴュー記事のようなものが多いらしいのだが、古い雑誌の記事を探すほど熱心でなかったということもあるし、漏れ聞く限りでは吉本はつまらない科学神話に取り込まれているような話らしかったので、気になってはいたものの放っておいたのだった。
 1週間ほど前、暇つぶしに本屋を覗いていたら黒古一夫著『文学者の「核・フクシマ論」』 [1] という本を見つけた。吉本隆明、大江健三郎、村上春樹の3人の原発・核をめぐる言説を論じたものである。原発をめぐる大江健三郎の言説・行動はよく知られているし、この本でも高く評価されている。一方、吉本と村上は強く批判されている。
 著者によって批判されている内容を取り上げて、あらためて批判するなどということは意味がないが、少なくとも私が予想したとおり、吉本隆明の原発容認論はきわめて素朴な科学信仰、つまり、科学の発展がすべてを解決する、科学の進歩で勝ち取った原発を放棄することは人類の進歩に反する、といったたぐいの話なのである。そもそも科学と技術を混同しているのだ。核分裂や核融合の発見は科学であって、確かに自然についての科学的認識は後戻りしないし、できない。その科学的事実を応用して原発を作るのは工業技術なのである。技術というのは人間に都合の良いものを取捨選択すればよいのである。薪を作るのに鉈を使うか鋸を使うか、という程度の問題なのである。人類の進歩などと何の関係もない。
 後戻りしない(できない)科学の進歩というのであれば、半導体によって太陽光を直接電力に変換する科学技術のほうが原子力よりも遙かに新しい科学(的発見)によるエネルギー創成技術なのである。単純な科学進歩論に基づくなら、原子力より太陽光発電を主張しなければならないはずだ。
 吉本隆明ともあろう人のあまりにも素朴な科学信仰に涙が出そうになる。彼の『言語にとって美とは何か』や『共同幻想論』を夢中になって読んだ世代として、なんと評して良いか分らない。「吉本の「福島」以後も同様の発言を繰り返していることについては、問題化すること自体が酷であり、責任は、認知力が衰えた吉本にインタヴューしたメデイアにあると考えるのが適当である」と書いた絓秀実の言い方 [2] が適切なのだろう、と思いたい。

[1] 黒古一夫『文学者の「核・フクシマ論」』(彩流社、2013年)。
[2] 絓秀実『反原発の思想史』(筑摩書房、2012年)p. 63。

 
 フクシマはあらゆる現在を禁ずる。それは、未来への志向の崩壊なのであって、そのために他の諸々の未来へと働きかけなければならないのである。
     ジャン=リュック・ナンシー [1]
 
 ナンシーの『フクシマの後で』を読んだ。フクシマを語ることを哲学者の避けられない義務として引き受けた講演を基にした論考である。本は、フクシマ以前に書かれた「集積について」と「民主主義の実相」を加えた3部構成になっている。なかでも、〈68年〉以降の政治状況を民主主義の意味から論じている「民主主義の実相」は、私としてはとても興味深く読むことができた。
 しかし、フクシマを哲学するとことはきわめて困難のことに見える。ナンシーは、マルクスの「貨幣=一般的等価物」とする考えを社会全般に拡大して「一般的等価性」を基本として考えようとする。そして、「結局、この等価性が破局的なのだ」 [2] と結論する。
 このナンシーの言葉は、「象徴交換と死」を書いたボードリヤールが、いまやポスト・ポストモダンの世界が「不確実なものになったのは、世界の等価物はどこにも存在しないからであり、世界は何ものとも交換されないからだ」 [6] と述べるにいたったことと呼応しているようだ。
  ナンシーは、破局的な等価性について次のように書いている。
 アウシュヴィッツとヒロシマという二つの名に共通するのは、境界を越えたということである。それも、道徳、政治の境界でではなく、あるいは人間の尊厳の感情という意味での人間性の境界でもない。そうではなく、存在することの境界、人間が存在している世界の境界である。言いかえれば、人間があえて意味を素描し、意味を開始するような世界の境界である。実際、これら二つの企ては戦争や犯罪そのものをはみ出しており、それらがどのような意味内容を有しているのかは、そのつど、世界の存在からは独立した領野においてしか理解されなくなる [3]
 そして、フクシマは、アウシュヴィッツ、ヒロシマ・ナガサキに同列に加えられてしまったのである。フクシマもまた「諸々の名の極限における名となった」 [4] のである。
  このような「極限における名」たちを前にするとき、ナンシーも触れている [5] ように、アドルノの次のような言葉を思い出さざるをえない。
 
アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。
        テオドール・W・アドルノ  [7]
 
 アウシュヴィッツについては、アドルノの言葉に私は納得する。しかし、ヒロシマ・ナガサキばかりではなくフクシマについてもたくさんの「詩」が書かれているのではないか。しかも、私(たち)はそれを野蛮だとはけっして思ってはいない(くだらない「詩」がたくさんあることとは話は別だ)。
 アウシュヴィッツとヒロシマ・ナガサキ・フクシマのこの大きな差異は何に由来するのだろう。考えられることは次のようなことだ。ナチスに虐殺されるユダヤ人やロマ、共産主義者の存在は境界を越えた極限の名であるが、ナチスもまた人間が存在する世界のあらゆる領野を越えた極限の狂気(国家の狂気)であって、そのふたつの極限が存在する世界は、「意味を素描し、意味を開始するような世界」ではありえないだろう。
 しかし、ヒロシマ、ナガサキ、そしてフクシマでは、〈ヒバクシャ〉という極限の名、極限の存在について語られるばかりで、その対極を共存させて語られることがないのではないか。大都市の上空で爆裂する原爆がどんな結果をもたらすか、人間は想像できる。その想像を超えて原爆投下を決断する戦争国家の狂気は、ナチスの狂気と完全に比肩しうるものである。
  放射能汚染によって16万人が故郷を追い出され、残る人々もその日々を〈ヒバクシャ〉として生きなければならないフクシマが私たちの世界に間違いなく存在し続けているのに、「美しい日本」と言って憚らない政治(国家)の狂気、その原発を他国に売りつけ、「美しいトルコ」、「美しい◯◯◯国」を地球上に再生産しようとする狂気、フクシマそのものと私たちが暮らしているこの国家の狂気とを一つの世界として描ききる「詩」や「哲学」は存在するのだろうか。
 
[1] ジャン=リュック・ナンシー(渡名喜庸哲訳)『フクシマの後で--破局・技術・民主主義』(以文社、2012年)(p. 65)。
[2] 同上、p. 26。
[3] 同上、p. 34。
[4] 同上、p. 34-5。
[4] 同上、p. 30。
[5] ジャン・ボードリヤール(塚原史訳)『不可能な交換』(紀伊國屋書店、2002年) p. 7。
[7] テオドール・W・アドルノ(渡辺祐邦、三原弟平訳)『プリズメンーー文化批判と社会』(ちくま学芸文庫、1996年) p. 36。
 
 


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