《2015年7月3日》
安倍政権は、この15日くらいに衆議院で戦争法案の強行採決を図るだろうというニュースが流れている。いつものように、朝4時くらいに目をさました私は、少しの間ネットを眺める。そこからは、多くの人の緊張感が伝わってくる。
まだ薄暗い朝の4時、読むべき本の手持ちがなくなって、アガンベンの『開かれ』を引っ張り出した。アガンベンは、ナチスを生み出した現代政治を批判的に考察している哲学者だが、『開かれ』は少し趣が変わっていて、「人間とは何か」、「人間と動物を分ける境界はあるか」という主題の本である。
あまりにも現実的な生臭さ(腐臭)がまとわりつく戦争法案や安倍政権をめぐるもろもろとは対極的な主題でその安倍的生臭さを消そうと思ったというわけでもないが、いくぶん距離を置いた本を読みたいとは思ったのだった。
しかし、何度読み返してもアガンベンは厳しいのである。
人文主義による人間の発見とは、人間そのものの不在の発見であり、人間の尊厳=序列(ディグニタース)の取り返しようのない欠如の発見である。 [1]
ここで言う「人文主義」とはヒューマニズムと呼ばれる人間中心主義のことで、アガンベンは「人文主義のマニフェスト」と呼ばれるピコ・デッラ・ミランドラの次のような言葉を引用したうえでそう断言するのである。
汝自身のいわば自由意志を具えた誉れ高き造形者にして形成者として、汝は、汝が望むような姿で汝自身を模(かたど)ることができる。汝は、下位の存在にある獣へと頽落することもできるだろうし、また心がけしだいでは、上位に存する神的なものへと転生することもできるだろう。 [2]
政治権力を得て独善的にその権力を振り回す安倍政権は、あたかも自分たちを「上位に存する神的なもの」と信じ込み、思い上がっているようだ。
しかし、あたかもフクシマは存在しなかったかのごとく原発再稼働を推し進めて、日本の地に住む人々の未来の生命、健康を危うくしているばかりではなく、戦争法案によって世界中に戦争の危機をばらまき国民にその命を差し出せと言わんばかりの政策に邁進しているその姿は、人間の歴史や積み重ねてきた人間の思慮というものが完全に欠落していると言うしかない。「獣へと頽落」した姿そのものである。
私たちは今、自民党や公明党に「人間そのものの不在」を発見している。何のためにアガンベンを読んだのか、思いはふたたび元へ戻ってしまった。
[1] ジョルジュ・アガンベン(岡田温司、多賀健太郎訳)『開かれーー人間と動物』(平凡社、2011年)p. 58。
[2] 同上、p. 57(原典:ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラ(大出哲、阿部包、伊藤博明訳)『人間の尊厳について』(国文社、1985年))。
《2015年7月10日》
デモはいつものように賑やかで元気だ。しかし、正直に言えば、集会中もデモのときも、あまり人と話す気分ではないのだった。もともと社交的ではないのだが、こういう精神状態の時はことさら話すのが辛い。
長い人生でこんなことを何度も繰り返せば、何事もないように挨拶する術は身につけたが、まったく楽しくはないのだ。目の前のことどもから逃げ出さずに対処することができれば問題ないはずなので、さしあたって逃げ出さないで耐え抜くというのが経験的な知恵である。その程度で何とかなってきたので、病気までは進んでいなくて気質の問題なのだと自分では思っている。
そんな気分の時によりによって辺見庸さんの文章を読んだりするのである。エマニュエル・レヴィナスとかプリモ・レーヴィ、そして辺見庸などなど、その文章を読むと自分の精神がいかにフワフワと軽いものだということを思い知らされる思想家がいるのだ。
底知れないほど低級な、ドブからわいたような、およそ深みなどまったくない力に、げんざいがやすやすと支配されていること。 [1]
私たちが置かれている政治的情況をみごとに切り取って見せた一節である。辺見さんの文章は、いつでも現実をひたすら見据えたすえの深い絶望を経たうえで、いっそう勁い精神で言葉を紡ぐのである。
誤解のないように書いておくが、私の心の不調はけっして現在の政治的情況のせいではない。単なる個人的な情緒の問題に過ぎない。「ドブからわいたような」政治家のために私の心が左右されるなどあり得るはずがない。ちっぽけなプライドとはいえ、そんなことを自分に許すことはけっしてない(はずだ)。
[1] 辺見庸「1★9★3★7 『時間』はなぜ消されたのか ㉑」『週間 金曜日 1045号』(株式会社金曜日、2015年6月26日)p. 34。
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