かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(24)

2024年10月26日 | 脱原発

2015612

 カメラをザックに放り込んで家を出るのだが、そのザックにはずっと「No Nukes」のタグがぶら下げられている。その脇に先月から「No War」のタグが並んでいる。闘う敵の根っこは一緒だから「No Nukes」のシングルイッシューで十分だと嘯いていたが、自公政権の戦争立法攻勢にそうばかりも言っていられなくなった。憲法審査会での3人の憲法学者が揃って戦争法案は憲法違反だと断言したことで状況はいくぶん流動的になって、政権は国会会期内の成立を断念した。「潮目が変わった」という言う向きもあるが、会期を延長して成立させようという意志はまったく衰えていないようだ。
 どの閣僚も国会審議の中で話すことは支離滅裂で、最低限の立法趣旨すら説明できていないのだが、ほとんどの憲法学者が憲法違反だと主張していることも意に介する風はない。最後は多数で押し切れるという「奢り」が背広を着て歩いているようなのである。
 今の状況は戦前だと多くの人が指摘している。今日の状況は、敗戦後に日本人がかつての戦争をどう捉え、どう責任を取ったかということに起因しているのだと思う。戦後をどう生き抜いたかという点に関して、必ず引き合いに出されるのがドイツである。そのことで平川克己さんが興味深い文章を書いている。

 〔すべての戦争責任はナチスにあるとしたドイツの〕歴代の指導者たちは、〔……〕何度でもあの時代の光景を思い出させるような演説を繰り返した。国内に博物館をつくり、収容所を歴史の証拠として残し、学校ではワイマール憲法のもとでどのようにしてナチスが台頭してきたのかという政治プロセスを、中学校ぐらいのときに学ばせた。そして、「忌まわしき自分たちの過去を克服する」ことを国民的な課題としてきたのである。[1]

 一方の日本では、誰一人として日本人の責任を問うことはなかったし、戦勝国から戦争犯罪人と断罪された日本人を靖国神社に祀ることで、彼らの責任すら否定してしまった。つまりは、日本人はすべて戦争の被害者だという認識の欺瞞を生きてきたのである。
 だからこそ、戦争遂行政府の高級官僚であった吉田茂や岸信介、帝国陸軍将校で慰安婦施設を作ったことを自慢するような中曽根康弘が戦後の首相になることができたのである。

 もし、戦後民主主義というものが軽薄な理想主義に映るとすれば、それはおそらくそこに加害者としての国民という意識がほとんど無く、災害から立ち上がる被害者たちという立ち位置を多くの日本人が選択してしまったというところにあるのだろう[2]

 これは、まったく福島の原発事故後と同じことなのだ。あれほどの被害が生じた事故を起こしながら、原発を推進してきた政府・自民党も事故を起こした東京電力の誰一人として責任を取ろうとしていない。責任を問うべき立場にある法にたずさわる人間たちも口を濁したままである。「風評被害」とか「食べて応援」などという、すべからく「被害者同士助け合いましょう」的な感情・意識に席巻されてしまっている。戦争責任と同じく、誰も責任をとらないことを暗黙の内に認めて往き過ぎようとしている。
 戦争責任を自らにも他者にも問うことなく戦後を生き延びた日本人は、結局ふたたび同じような過程で戦争に踏み込もうとしているというのが、今の戦争立法の歴史的意味であろう。責任もとらず反省もしなかった者は、ふたたび同じ過ちを犯すのである。
 戦争と同じように、いま、真剣に原発事故の責任の所在を明らかにしなければ、またふたたび原発事故に見舞われるに違いないのである。そして、原発事故は非可逆的な事象であって、私たちの国土の上で日本人として暮らすことが不可能になる怖れがある。戦争に負けた国土は生き残った者が復興させることができるが、放射能にまみれた土地では誰も生き残れないのである。
 日本人の敗戦処理が間違っていた、日本人は誰も戦争責任をとらなかった、という話ではどうしても「日本人」として括ってしまうのだが、これは注意を要する話法だ。日本人はみんな悪いという言い方は、日本人はみんな正しいということと大差ないのである。「1億総懺悔」が「1億総無責任」と同じ意味だったことと同じである。
 責任を重く受け止めた日本人はいる(いた)。責任の所在をはっきりと自覚する人はいる(いた)。しかし、それが社会に反映されなかった、マジョリティにならなかったというに過ぎない。私たちの反原発の意思表示、戦争立法への反対の行動は、一方でそのような人々の発見の過程でもあると私は考えている。今はマイノリティでも、いつかマジョリティの意志として社会を形成すると信じるしかない。
  先ほどの平川克美さんと同じ本に、鷲田清一さんが社会構成と社会の安定性について論評されている文章が、抗議行動や反対運動との関係でとても意味が深いのではないかと思った。
 鷲田さんは、「ある社会を構成する複数文化のその《共存》のありようがきわめて重要になるのです」と言い、TS・エリオットの言葉を引用しながら、次のように述べている。

 エリオットはこの《共存》の可能性を、なにかある「信仰」やイデオロギーの共有にではなく、あくまで社会の諸構成部分のあいだの「摩擦」のなかに見ようとしました。あえて「摩擦」を維持するとは、これもまたなかなか容易いことではありませんが、エリオットはこう言っています(傍点は引用者)――

〔一つの社会のなかに階層や地域などの相違が〕多ければ多いほど、あらゆる人間が何等かの点において他のあらゆる人間の同盟者となり、他の何等かの点においては敵対者となり、かくしてはじめて単に一種の闘争、嫉視、恐怖のみが他のすべてを支配するという危険から脱却することが可能となるのであります。(「文化の定義のための覚書」『エリオット全集5』深瀬基寛訳、中央公論新社、290)

 一つの社会の「重大な生命」はこの「摩擦」によって育まれるというのです。社会のそれぞれの階層やセクターはかならず「余分の附加物と補うべき欠陥」とを併せもっているのであって、それゆえに生じる恒常的な「摩擦」によって「刺戟が絶えず偏在しているということが何よりも確実な平和の保障なのであります」とまで、エリオットは言います。というのも、「互いに交錯する分割線が多ければ多いだけ、敵対心を分散させ混乱させることによって一国民の内部の平和というものに有利にはたらく結果を生ずる」からです。[3]

 戦前の日本社会もドイツのナチズムも、社会とその構成員である国民を唯一の価値に染め上げて「摩擦」を無くそうとして多くの非人道的な弑虐を行ったのは確かなことだ。共産主義の名のもとに国民意志の斉一化を図ろうとしたソ連もまたアーレントの言う全体主義国家であった。
 反原発の運動は原発の廃棄をめざすことに間違いないが、そのような意思表示をすること自体がすでに多様な存在の一つ、「摩擦」の一つとなって社会の安定に寄与している(はずだ)。正しくプロテストすることこそ、「国民の内部の平和というものに有利にはたらく」ことになるのだと思う。
 雨は降り続いているが、青葉通りに出るとすっかり弱くなっていた。「みやぎ金曜デモ」は必ず晴れると豪語していたのだが、最近は雨に降られることが多いとデモの出発前に発言したのは主催者代表に西さんだった。 

[1] 平沢克美「戦後70年の自虐と自慢」、内田樹編著『日本の反知性主義』(晶文社、2015年)pp. 166-7
[2]
同上、p. 167
[3]
鷲田清一「「摩擦」の意味――知性的であることについて」、同上、p. 128

 


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