「恐慌」は仙台市内は比較的はやく解消されたのかもしれない。
宮城県南部の場合、野菜の復活ははやかったが、肉、魚、そして乳製品では仙台市以上に苦労があった。
宮城県南部に魚を供給していたのは、荒浜港、相馬港、仙台港(中央市場)である。いずれの港も津波で損壊した。
仙台港は震災一週間後には漁船の入港ができるようになっていたが、陸揚げされた魚はすべて飢えた仙台市内へ流通してしまう。
どうしても郡部は後回しである。人口の多い都市ゆえの「エゴ」は首都圏だけではないのだ。
加えてライフラインの復旧も遅れていた。
例えば、ふだん宮城県南部は(亘理郡を除いて)蔵王水系の水道管から供給を受けている。
今度の震災では、この水道管がかなり大もとで破断した。
断水は多くの市町村におよんだ。
BELAちゃんの実家は角田市。
当然、断水の苦労が待っていた。
「復旧、まだなの?」
「んー?水か、まだまだ。白石で管が破けたんだ。相当かかるぞ。」
実家に行くと、はじめの問答はかならずコレだった。
「えー、みんな死んじゃうよ!」
電気は被災後一週間しないうちに通電していた。
ガスはプロパンだからなんとかなっている。
お風呂は灯油。だけど水が出ない。
「給水車なんか、あっちの山のほうサ来てんだど。遠くて年寄りがポリタンク抱えて上り下りでぎっとこでねぇのや!」
「ナニソレ!なんとかなんないの!」
実家では仕方なく山から採れる水も利用していたらしい。
「沸かせば何だってことないのヤ。」
と78歳になったお義母さん。
さすが自然の恵み。でもリヤカーに水タンクを乗せてよたよた山道を下ってくる姿は想像しただけではらはらする。
「慣れたワ。んでもこのあいだなんか、山の水で洗い物すっぺと思って食器もっていったっけ、トウチャンのお箸、沢に流してしまったな。」
だ、だー!ナニやってんですか、お義母さん!
(お箸って、津軽塗りのいいヤツだったのに・・・。)
でもやっぱり清潔な水で手洗いしてほしい、飲み水も沸かさなくても手軽に飲める環境って大事だと思う。
台所には10リットルポリタンクを設置。ほか10リットルほど置くようにした。
これら飲用水は仙台で汲んでせっせと運ぶしかない。
ガソリンは入手に苦労したが(仙台では苦労して並んでもガソリン2000円分しか買えない)、何度も並んでやっと買った。
(ちなみに丸森町では一回並んでも500円分しか買えなかったようだ。)
ご近所にも山の水を運んで来てくれる方がいるので、角田入りの際には魚やお肉を差し入れした。
「英雄」クンから頂いた支援物資もあるし、並んでGETしたものもあった。
ささやかな恩返しだった。
いつも心配して畑の物とかを分けてくれる。ご近所の方も分けてくれる。
自然の豊かさがある地だが、一方で高齢化が進み、商店が1件しかない。
だから今度の震災では、すっかり「買い物弱者」になってしまった。
「津波の被災地でないから」というのも理由のようだ。
この不便さ、なんとかしてあげたい。
「このあいだマンホールもあふれてたっけな。」
ええ!上水だけでなく下水もダメなの!
「阿武隈川の下水処理場壊れたワ。修理に数年かかるど。回覧板廻ってきて、紙とウンコ流すなヅ言われだもの。」
じゃあ用便するときどうすんの?
「新聞紙にくるんで庭サ埋めるか、燃やせだど。」
それはひどい・・・。
そういえば、さっき道歩いていて、マンホールの蓋に赤く「モル」と書いてあった。なんの意味かと思ったが、あれは「漏る」ということだったのか!
笑うに笑えない。強烈なお話。
わいわいと物資を届けて(でも空のペットボトルはしっかり回収して)、夕方、仙台へと向かった。少しは役に立てたかな・・・。
「大変だねぇ。でも自然の恵みはスゴイね。」
「きれいな水がでるところだったからね。」
夕闇が東の方からだんだんと迫ってきていた。
そのとき、バイパスを数台の大型車両が通過した。
灰色のマイクロバス。自衛隊の車両も見える。
みんな赤色灯を廻し、けれどサイレンも鳴らさず、やや低速で走行していた。
BELAちゃんと一瞬目を見合わせた。
おそらく遺体を運んでいるのだろう。荒浜で見つかった遺体か、もしくは岩沼か・・・。
運び先は角田にあるという遺体安置所だろうか。
そこまで想像して、何も言えなくなった。
宮城県南部の場合、野菜の復活ははやかったが、肉、魚、そして乳製品では仙台市以上に苦労があった。
宮城県南部に魚を供給していたのは、荒浜港、相馬港、仙台港(中央市場)である。いずれの港も津波で損壊した。
仙台港は震災一週間後には漁船の入港ができるようになっていたが、陸揚げされた魚はすべて飢えた仙台市内へ流通してしまう。
どうしても郡部は後回しである。人口の多い都市ゆえの「エゴ」は首都圏だけではないのだ。
加えてライフラインの復旧も遅れていた。
例えば、ふだん宮城県南部は(亘理郡を除いて)蔵王水系の水道管から供給を受けている。
今度の震災では、この水道管がかなり大もとで破断した。
断水は多くの市町村におよんだ。
BELAちゃんの実家は角田市。
当然、断水の苦労が待っていた。
「復旧、まだなの?」
「んー?水か、まだまだ。白石で管が破けたんだ。相当かかるぞ。」
実家に行くと、はじめの問答はかならずコレだった。
「えー、みんな死んじゃうよ!」
電気は被災後一週間しないうちに通電していた。
ガスはプロパンだからなんとかなっている。
お風呂は灯油。だけど水が出ない。
「給水車なんか、あっちの山のほうサ来てんだど。遠くて年寄りがポリタンク抱えて上り下りでぎっとこでねぇのや!」
「ナニソレ!なんとかなんないの!」
実家では仕方なく山から採れる水も利用していたらしい。
「沸かせば何だってことないのヤ。」
と78歳になったお義母さん。
さすが自然の恵み。でもリヤカーに水タンクを乗せてよたよた山道を下ってくる姿は想像しただけではらはらする。
「慣れたワ。んでもこのあいだなんか、山の水で洗い物すっぺと思って食器もっていったっけ、トウチャンのお箸、沢に流してしまったな。」
だ、だー!ナニやってんですか、お義母さん!
(お箸って、津軽塗りのいいヤツだったのに・・・。)
でもやっぱり清潔な水で手洗いしてほしい、飲み水も沸かさなくても手軽に飲める環境って大事だと思う。
台所には10リットルポリタンクを設置。ほか10リットルほど置くようにした。
これら飲用水は仙台で汲んでせっせと運ぶしかない。
ガソリンは入手に苦労したが(仙台では苦労して並んでもガソリン2000円分しか買えない)、何度も並んでやっと買った。
(ちなみに丸森町では一回並んでも500円分しか買えなかったようだ。)
ご近所にも山の水を運んで来てくれる方がいるので、角田入りの際には魚やお肉を差し入れした。
「英雄」クンから頂いた支援物資もあるし、並んでGETしたものもあった。
ささやかな恩返しだった。
いつも心配して畑の物とかを分けてくれる。ご近所の方も分けてくれる。
自然の豊かさがある地だが、一方で高齢化が進み、商店が1件しかない。
だから今度の震災では、すっかり「買い物弱者」になってしまった。
「津波の被災地でないから」というのも理由のようだ。
この不便さ、なんとかしてあげたい。
「このあいだマンホールもあふれてたっけな。」
ええ!上水だけでなく下水もダメなの!
「阿武隈川の下水処理場壊れたワ。修理に数年かかるど。回覧板廻ってきて、紙とウンコ流すなヅ言われだもの。」
じゃあ用便するときどうすんの?
「新聞紙にくるんで庭サ埋めるか、燃やせだど。」
それはひどい・・・。
そういえば、さっき道歩いていて、マンホールの蓋に赤く「モル」と書いてあった。なんの意味かと思ったが、あれは「漏る」ということだったのか!
笑うに笑えない。強烈なお話。
わいわいと物資を届けて(でも空のペットボトルはしっかり回収して)、夕方、仙台へと向かった。少しは役に立てたかな・・・。
「大変だねぇ。でも自然の恵みはスゴイね。」
「きれいな水がでるところだったからね。」
夕闇が東の方からだんだんと迫ってきていた。
そのとき、バイパスを数台の大型車両が通過した。
灰色のマイクロバス。自衛隊の車両も見える。
みんな赤色灯を廻し、けれどサイレンも鳴らさず、やや低速で走行していた。
BELAちゃんと一瞬目を見合わせた。
おそらく遺体を運んでいるのだろう。荒浜で見つかった遺体か、もしくは岩沼か・・・。
運び先は角田にあるという遺体安置所だろうか。
そこまで想像して、何も言えなくなった。