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世間の人々の精神構造

2017-03-12 08:32:56 | ブログ
 日本の歴史と言えば、織田信長がいつ何をしたかというようにイベントの羅列で構成されている。つまり、歴史の教科書はイベント・ドリブンの形式で記述されている。

 そうすると、歴史認識とか歴史観というものも、何らかの歴史イベントをどう解釈し、どのように認識するのかを問うものであるようだ。

 一方、特定のイベントの詳細を追求するのではなく、社会の中で家庭生活、教育、労働、文化など人間の諸活動がどのように変遷していったかを研究する社会史という分野がある。

 「社会」という用語は、江戸時代にはなく、明治になって英語のsocietyの訳語として導入されたものだそうだ。そうすると、江戸時代の社会を表す用語としてふさわしいのは、似て非なるものではあるが、「世間」という用語が適している。

 江戸時代が始まるとともに、幕府は、士農工商という身分制度を確立させた。しかし、江戸時代の後期になるまでに、士農工商の実態は、身分を表すものというよりも職業を区分するものという認識に変わっていったと言われる。その証拠として、明治維新となって身分制度が撤廃されても、それに対する抵抗勢力のようなものは存在しなかった。身分よりも個人の向上心と努力が日本を近代化させる原動力となったのである。

 江戸時代の武士は今日のサラリーマンに相当するが、それ以外の9割以上の日本人はいわば自営業であった。若い時の奉公はあっても、いずれ一人前の自営業者として生計を立てるのが普通である。

 そのような自営業者が集まって村や町のようなコミュニティを形成するが、各人は独立した職業人というよりも、世間というコミュニティに束縛されるその構成員と言った方がよい。武士が所属するコミュニティについても同様である。

 江戸時代から今日に至るまで、明治維新と太平洋戦争という特大の歴史的イベントを経験したにもかかわらず、また、昔存在した村や町が個人を束縛するコミュニティではなくなっていったにもかかわらず、世間の構成員という意識だけは根強く残っている。国土を壊滅させるような歴史イベントが起こり、自由と民主主義の国になっても、世間の人々の精神構造だけは無傷のまま残ったと言うべきであろう。
 
 もっとも、世間の実体となるものは時代とともに変化している。今日では、同じ職場で働く人々であったり、派閥・学閥とかママ友であったり、宗教団体であったり、気の合った者が集まる趣味仲間や仲良しクラブであったりと、様々である。

 従って、「世間の構成員」と言っても、それは世間に属する人々を抽象的に表現しているのであって、現実の姿はこのようなコミュニティやクラブの構成員という形で存在するのである。そして、そのようなバラバラに存在するはずのコミュニティやクラブが日本全体では目には見えず意識もしないネットワークを介して互いに結合されることになり、世間という共通の精神構造をもつ場として人に作用するのである。

 世間は複雑系で言うスモールワールド・ネットワークになっていて、人が想定するよりもはるかに狭いのである。世間全体がもつ精神的特徴がその中のどの小グループをとってみても現れる点に着目するならば、世間の精神構造はフラクタル構造をしているとも言えよう。

 世間の構成員となったら、最優先するものは人間関係とそのコミュニティだけで通用する暗黙のルールとである。そのため、大学で教えるような学問は実生活では役に立たないものであり、学問よりも人間関係を学び、就職のために必要な卒業証書を取得することが重要なのである。コミュニティの中では小難しい理論は不要であるし、あ・うんの呼吸でもコミュニケーションできるとともに、プレゼンテーションのスキルが問われることもない。

 このような世間の精神構造では、世間から独立した個人が育ちにくい。先輩―後輩の人間関係があったり、職場では自分の仕事に邁進するというより上司や同僚の顔色をうかがうような雰囲気では、独立した個人は世間のアウトサイダーとして生きるほかない。

 仲良しクラブなどのコミュニティでは、法律や社内規則よりも暗黙のルールが優先することはよく経験するところである。逆に言えば、独立した個人は社会的なルールを盾に争えばよいのである。もっとも、世間の構成員は社会的なルールが意識化されることを嫌って論争に加わることはないであろうが。

 こうみてくると、学校で教える日本の歴史は日本人が知っておくべき教養の範疇には入っても毎日の生活にとって不可欠という程ではないが、世間の構造を知るということは独立した個人の日常生活にとって不可欠ということになる。一方、世間の構成員にとっては、毎日の行動は無意識に行っているだけの当たり前のものであるから、いまさら世間の構造を知って何になる、というところであろう。

 ここで、自分の親戚や知人の顔ぶれを思い出してみると、その8割以上がいわば保守派に属し、世間の構成員と考えてよいようだ。どちらかというと無口であり、公の場所でスピーチしたり、公の席で議論したりするタイプではない。

 独立した個人は、マイノリティであり、多数決による投票では到底優位に立てる立場にはない。その代わり、言論と自主的な行動によって人生を切り開き、社会に貢献できるのでは、という希望がある。

 社会と言っても、世間の構成員が支配する世の中では彼らが主役なのであるから、彼らの言い分を聞こう。彼らは、世話好きのおじさん、おばさんなど老若男女であり、地域コミュニティやボランティアなどを通じて、世のため人のために日夜尽力している。彼らの利他的な努力によって、地域の安全が守られ、道路の清掃が行き届き、地域の子どもが健全に成長できることは明らかである。また、彼等は、世界に誇る伝統的な日本文化の継承者でもある。世間の構成員であって何が悪いのか。

 なるほど。世間の構成員と独立した個人とは、相手に対して互いに違和感をもつのはやむを得ないが、外国人の住民の増加など益々多様化する社会にあって、共存していくほかないのである。そのためには、お互いに寛容と忍耐の精神をもって臨む必要がある。

 自由、平等、友愛とは、フランス革命のときの旗印となった標語であるが、今日では、「友愛」の代わりに「寛容と忍耐」を置きたいと思うのである。

 参考文献
 養老孟司などの対談集「見える日本、見えない日本」(清流出版)
 浅羽通明著「教養論ノート」(リーダーズノート新書)