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歴史的必然を意識するこのごろ

2020-07-05 08:03:06 | ブログ
 過去の会社員の生活を思い返すにしろ、現在の日本および米国の状況を概観するにしろ、歴史的必然性を意識することが多くなった。ここでは、物理学の歴史並びに日本と米国の現況を例にとって歴史的必然性について語る。

 20世紀前半に確立された量子論は、20世紀および21世紀の物理学および化学の基礎理論を根底から変えるものとなり、その影響は生物学の分野にまで及んでいる。

 ニュートン力学では、数式で表されるような理論と観測される物理量とが一体となっていた。すなわち、測定される物理量は、基本的には理論的に予想されるものと一致するとみなされる。つまり、決定論が通用する世界である。しかし、量子力学となると、その数学的理論と量子の物理量を測定するという行為とは、別世界のものとなっている。

 ボーア、アインシュタイン、シュレディンガーは、いずれも量子力学の構築に貢献したが、その理論を観測に結び付けるような解釈を提唱したのは、ボーアを代表者とする「コペンハーゲン学派」であった。彼らは、量子の測定によってその波動関数が収縮し、確率的な存在であった量子が粒子として観測されると解釈した。この解釈は激しい反論を呼び、観測問題としてその後長く議論されることになる。

 今にして思えば、コペンハーゲン解釈に対するこのような反論や抵抗は、歴史的必然であったと考えるのである。量子力学がもたらす世界観は、ニュートン力学およびキリスト教に基づく世界観とは相いれないものである。言い換えれば、量子力学は、天動説から地動説への「コペルニクス的転回」に準ずるほどのパラダイムの転換である。このような革命的な転換があるとき、どのような対立、抵抗あるいは権力による取り締まりがあったかは、歴史が教えるところである。

 次に、日本と米国について、その歴史的必然と現況とがどう関連するのか考えるところを語る。

 日本では、その長い歴史を通じて稲作が経済の中核であったことは疑いがない。稲作は集約農業であって多くの労働力を必要とするため、多くの人々が集まって村を形成することになった。ムラ社会の形成である。日本全国では多くの村が存在したが、その労働形態が同一であるため、村の規模にかかわらずほぼ同一のムラ社会文化を形作ることになった。また、この文化の影響力は大きく、農業以外の職業に従事する人々の集団にまで波及することになった。

 ムラ社会では守らねばならない掟が定められた。ムラの掟を破った人とその家族に対しては厳しい村八分の制裁が課されることになった。人々は、村八分にされることをおそれ、多くの人々はムラの同調圧力に対して従順にならざるを得なかった。しかし、ムラの掟は建前であって、各個人には個性があり、その能力や性格に違いがあって当然である。また、各々の家族という人の集団をとると、各々の家族や親族の間に家風の違いが生じる。人々は、ムラの中に親族、仲良しクラブ、派閥など、本音で話せる人の小集団をつくるようになる。そうなると、小集団どうしの間に家風や価値観の違いによる対立が生じるのも当然である。

 江戸時代から今日に至るまで、人々は明治維新と太平洋戦争という特大の歴史的イベントを経験したにもかかわらず、ムラ社会の文化とその中の小集団の気風というものは揺るぎないようにみえる。

 ただ、かつてのムラ社会はその束縛が厳しかったが、その反面、ムラ社会の構成員のだれかれ構わず面倒見がよいという優しさがあった。しかし、今ではムラ社会の束縛があまり変わらないのに対して、その構成員は「自己責任」で生きて行け、という世の中になったのではなかろうか。そのためであろう、多くの「ひきこもり」を生みだしたり、家族崩壊や子供の虐待事件を引き起こしているのではなかろうか。

 こうなると、ムラ社会あるいは小集団の構成員と独立した個人とが対立して当然である。両者は、相手に対して互いに違和感をもつのはやむを得ないが、外国人の住民の増加などますます多様化する社会にあって、共存していくほかないのである。そのためには、お互いに寛容と忍耐の精神をもって臨む必要がある。

 ムラ社会には、国民のcommon groundがしっかりしているという利点がある。common groundとはあいまいな言葉であり、明確な日本語に置き換えるのは難しいが、結束力とでも訳したらどうだろうか。今年の新型コロナウイルスの感染者および死者数に関して、日本は、 G7の国々の中では最も少ない累計数を上げた。その理由について諸説が唱えられているが、common ground説もその一つとして挙がっていた。

 米国は、日本ほどの長い歴史をもっていないが、日本とは反対に第一次産業に集約産業らしいものは見当たらず、ムラ社会という概念は存在しない。米国の歴史を通じて特筆すべき最上位の事項として挙がるのは、19世紀の南北戦争と奴隷制度であろう。

 奴隷制度は廃止され、黒人の米国人は白人の米国人と並んで法の下で平等になった。しかしそれは建前の話であって、本音では、本能的に黒人が嫌いであるとか白人は黒人より優秀であると考える白人米国人が少なくないのである。言い換えれば、現実の米国社会には白人が黒人より優位とする階層構造が出来上がっているのである。建前の話としては何とでも言えるが、住居地域、学校、教会における白人/黒人の分離が白人米国人の本音を如実に物語っているのである。これは法律も及ばない問題であり、この社会構造を変革することはパラダイムの転換に等しく、日本のムラ社会と同様に変革することは至難の業なのである。

 このような社会的な人種差別は、警官による黒人の暴行事件や殺人事件で頂点に達する。過去の犯罪歴データを知る多くの警官の頭には黒人=犯罪者のプロファイルが刷り込まれているようだ。しかし、白人も黒人も同じ人間であり、黒人に犯罪者が多いとしたらそのような犯罪の根源は制度的な人種差別というバックグラウンドにあるとみるほかない。

 黒人に対する社会的な人種差別は、白人との間に経済格差、教育格差、健康格差などの問題を引き起こしている。教育格差と健康格差は、経済格差によるところが大きい。健康格差は、健康保険を利用できないとか、高額の医療費を支払えないとか、身体リスクの高い仕事についているとか、安全とは言えない住宅に住んでいるなどによって生じているのだろう。

 有色人種に対する人種差別は、米国社会の分断の大きな要因の一つとなっている。

 今年の新型コロナウイルスに関する米国の状況はどうだろう。米国は、感染者数と死者数がともに世界のトップに位置している。特に、黒人の感染者数と死者数とがその人口に対して不釣り合いなほど多い。

 黒人の中には、ぜんそく、高血圧、心臓や肺の病気、糖尿病などの既往症をかかえている人が多い。このような人々が新型コロナウイルスに感染すると、重症化しやすく、死亡する確率が高い。

 黒人など有色人種の人々には、設備のメンテナンス要員、農場の労働者、小売業の店員、レストランのスタッフなど市民の生活に不可欠な労働者であるにもかかわらず低所得の人が多い。しかも仕事柄、現場勤務であってテレワークができないため、ウイルス感染のリスクが高い。また、コロナウイルスによる職場の休業に伴って職を失うケースも多い。