浄土真宗本願寺派 法徳寺ブログ

神奈川県厚木市にある浄土真宗本願寺派(西)のお寺です。
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仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし

2023-04-02 20:57:41 | 法話

皆さん こんばんわ!

経に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり、経=大無量寿経です。その経の下巻の最初に、お釈迦様が、法蔵菩薩の願いは、成就したとお伝えくださる箇所が、本願成就文です。その中に出てくるのが「聞」です。親鸞聖人は、お示し下さいます。阿弥陀如来様の願いは、なぜ起こされたのか?(仏願の生起)、その答えは、私がいるからです。そして、本心の願い(本)は、成就され、今、南無阿弥陀仏とはたらいてくださっている(本末)ことを聞くのです。昔、「阿弥陀如来という仏様がいらっしゃって、私をお浄土へ救ってくださる」という、法話は、間違いだと先生から教わりました。私は、先生は、何を私に言っているのか、意味がわからなかたったのを、今も鮮明に覚えています。阿弥陀如来は、私がいなければ、存在する必要がないのです。法蔵菩薩の誓いも修行も必要なかったのです。私の法話は、私が、存在してもしなくても、阿弥陀如来様は存在するいいまわしです。阿弥陀如来は、私をお浄土へ救うためだけにいらっしゃるのです。すべての者を救うという仏と成られたのは、すべてとしなければ、私がもれてしまうからです。私が称えていると思っていた念仏は、実は、阿弥陀如来様がはたらいて下さっている証拠でありました。疑心あることなしとは、自力心が消滅したことです。疑心とは、自力心です。自力心とは、私が念仏を称えてお浄土へ救われると思っていることです。私が、称える功徳でお浄土に参るのではありません。私の自力は、何も必要ないのです。

私は、疑心あることなしということは、死ぬことが怖くなくなることだと思っていたのです。ですから、私は、ずっと、救われないと悩み続けていました。54歳になってもです。もう僧侶になって30年以上です。ところが、最近になって初めて分かりました、死ぬのは怖い、長生きしたいは煩悩です。煩悩は、死ぬまで消えません、阿弥陀如来様のはたらきは、煩悩を往生の妨げにはなりません。阿弥陀如来様の別名は、無碍光如来(むげこうにょらい)何もにもさまたげられない光の仏様です。私の煩悩もさまたげられません。疑心=自力心です、自力心は、阿弥陀如来のはたらきで消滅するのです。その証拠は、今、私の口に、南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏とはたらいてくださっているからです。自力は必要なしです。でも、煩悩は死ぬまで消えません。それでも良しです。

 


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