浄土真宗本願寺派 法徳寺ブログ

神奈川県厚木市にある浄土真宗本願寺派(西)のお寺です。
永代供養墓10万より受付中です。

南無阿弥陀仏は呪文ではありません

2023-04-08 19:43:50 | 法話

皆様、こんばんわ!

今日は、晴れの予報だったような気がしましたが、午後から、お寺の空は、雨になりました。いろいろと境内の手入れをしようかと思いましたが、諦めました。もう、お寺の周辺の桜は散ってしまいました。今日は、午前中は、お寺でご法事、午後からは、秦野市の霊園へ出張でした。先週までの高速道路状況から比べると、今日は、空いてました。そろそろ、春休みも終わりで、新学期が始まるためか、お出かけの方は少な目なのかもしれません。これから、新学期を迎える皆様、不安と期待で大変だと思います。この前もお話をしましたが、「諦め」が肝心です。過剰な期待はせず、現実をあきらかにみることが大切です。最初から、うまくいかないのが当たり前、友達がすぐに出来ないのが当たり前、すぐに慣れない、すぐに馴染めない、それが当たり前、それが、現実をあきらかにみること=諦めるです。期待しない方が、上手くいきます。

人間は、常に考えなくてはならないのは、死を免れようとするのではなく、生きられるだけの時間を、どうしたら、最も、よく生きられるかということです。大切なのは、単に生きるというのではなく、よりよく生きることなのです。そして、どうしたら、亡き方が喜んで下さるのかを、常に考えて生きることが大切であります。

浄土真宗では、南無阿弥陀仏を、六字名号と申します。「名」という字は、 夕方、薄暗くなって、自分の存在を相手に知らせる為には、で自らの名前を告げるという意味からきています。「号」も同じくが上についている字です、大きな声で叫ぶという意味です。阿弥陀様が自分の存在を、私たちに知らせるために、南無阿弥陀仏の名号という声の仏になって、私の口に現れてくださっているのです。

以前、お聞きしな法話の中で、あるお坊さんが「なんまんだぶつ なんまんだぶつ」と念仏を称えながら、タクシーに乗っていました。すると運転手さんが「私は、安全運転ですから大丈夫です!」と少し声を荒立てて言ったというのです。そこで、その僧侶の方は、ニコりとしながら、運転手さんに、私が今称えているお念仏は、交通安全の為の呪文ではありません、喜びの念仏ですと言ったそうです。今、私は、とてもいいことがあって嬉しいのです、そんな時、私の口からは、自然に念仏が出てくるのです、これは、いつでも、どこでも、阿弥陀様と一緒だから、仏様も喜んで下さっています。念仏は、仏様そのものなのです、私が辛い時も嬉しい時も、仏様が一緒にいてくださり、共に、喜び、共に悲しみ励ましてくださるのですといいますと、運転手さんは、「そうでしたか、念仏とはそういう意味でしたか、知りませんでした、大変、勉強になりました」とおっしゃったそうです。皆さまも嬉しいとき、悲しいとき、辛いとき、いつでもお念仏を称えてみてください。人生には、 必ず、終わりがくる、でも、それを、嫌なこと、不幸なこととは思わないでください、それは、自然なことです。私のいのちは、仏様の世界につながっているいのちなのです。

「人間、最後は、お金が欲しいとは言わないのです。大切な方の名を呼ぶのです」という言葉が大変印象的でした。私も、いつか、自分が、この世を卒業する時、大切な方の名前を呼ぶと思います。そして、お念仏を称えると思います。お念仏は、私の側からいえば「阿弥陀如来様、お救い下さり、ありがとうございます」という意味です。この世の最後に「阿弥陀如来様、助けて下さい」とお願いする必要はありません。既に、救いの中なのです。


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