浄土真宗本願寺派 法徳寺ブログ

神奈川県厚木市にある浄土真宗本願寺派(西)のお寺です。
永代供養墓10万より受付中です。

他力の信心

2023-04-18 16:45:00 | 法話

皆様 こんにちわ!

皆様、疲れた時とか、頑張らなきゃいけないときとか、栄養ドリンクとかを飲んだりしますか?私は、日頃は、あまり、飲むことはありませんが、お盆の時期だけは、飲んだりします。 少し昔の事、意外な場所で、リポビタンDの販売機見つけました。横浜の北部斎場です。しかも、専用のそれだけしか売ってない販売機です、よく、売れるからだろうなと思ったのです。 寝ずに看病し、そして、亡くなり、そして、通夜・葬儀、身も心も疲れはピーク。でも、頑張らなきゃいけない。そんな方の強い見方になっているのかなと思いました。でも、皆様、疲れたら休んでください

法徳寺では、5月2日に、降誕会(ごうたんえ)法要をお勤め致します。降誕会とは、降りてこられ、誕生されたという意味で、 どこから降りてきたのかと言えば、仏様の世界から降りてきたのです。 親鸞聖人は、人間として、この世にお生まれになったけれども、それは、阿弥陀如来様が、親鸞さまという姿をとり、降りてこられ、この世に生まれたというように頂くのです。そのため、 浄土真宗では、聖の人とお書きしております。もう一つ、誕生の「誕」という字ですが、先日、小林顕英先生に教えて頂いたのですが、おめでたい意味ではなく、逆に、嘘・偽りという意味だと教えて頂き、ビックリしました。「誕」とは、「言葉を延ばす」つまり、よく言葉に、おひれがつくという言い方があります、言葉がいつの間にか、大袈裟になったり、嘘が本当のように噂されたりすることがあります。誕生とは、嘘、偽りの世界に生まれたという意味だそうです。嘘、偽りの世界に、降りてこられ、真実の救いを説いて下さったのが、親鸞聖人であると頂くのです。 その教えが、永久に絶えることがなく、続くように、お勤めるのが、永代経法要です。

親鸞様は、1173年5月21日に京都にお生まれになりました。 時代的には、平安時代の末期であり、もうすぐ、鎌倉時代になるころです。 そして、聖人のすごいところは、90才まで長生きされました。そのころの平均年齢は、24歳だと歴史学者の先生がおっしゃっております。今でこそ、90才は驚かない長寿社会ですが、鎌倉時代に、90才まで長生きしたというのは、親鸞様お一人ではないか?と思います。その為、この前も書きましたが、明治時代には、親鸞聖人は架空の人物説まで言われたそうです。

私は、お寺が大好きです。 お寺の住職をさせて頂いていることが本当に有難く思っています。 それは、親鸞聖人の教えに出会えたということが大きいのです。 親鸞聖人は、生涯、お寺を建立されることもなく、教団を組織するお気持ちもなかったと教わりました。浄土真宗のお寺が、全国に広まったのは、八代目蓮如上人(1415年~1499年)の時代からです。蓮如上人の以前は、本願寺 暗黒の時代と言われ、世間には全く知られていない、京都の街ですら、本願寺の存在は誰も知らないような時代だったそうです。蓮如上人は、八代目を43歳の時、継職され、85歳の入滅までの約40年間で、現在の本願寺の基礎を確立され、浄土真宗は全国に知れ渡ります。稲城和上の本には、40年間で、大教団に発展をとげた功績は、日本宗教史、世界宗教史でも類がなく、大変な高僧であったと書かれています。

法徳寺が開基されたのも、1502年に開基住職が亡くなったという記述があるので、蓮如上人が御門主の時代です。 お寺は、どなたが、来ても、出入り自由な場です、阿弥陀様の救いは、どなたにも注がれているからです。 前にも書きましたが、私は、お寺に生まれましたが、小さい頃から、お寺が好きではありませんでした、よく、坊主丸儲けだとか、くそ坊主だとか、三日坊主ですとか、いじめられて、家がお寺であることが、嫌で嫌で、「おまえは、誰かが、死ぬと嬉しいだろ」と言われたりもして、出来るだけ、家がお寺であることを隠していました。しかも、父は、高校の教員でもあり、学校の成績も良くなかった、私は、尚更、いじめの対象でした。中学の先生から「教員の息子で家はお寺なのに、おまえはだらしないな」などと言われたこともありました。お寺に生まれた者は、お寺が嫌いになることは、よくある話です。 しかし、浄土真宗の教えを学ぶようになり、私のお寺に対するイメージは、変わりました。 それは、お寺は、生きている者が救われる場であり、亡くなった方が、迷っているのではなく、この世に生きている者こそが、迷いの存在であり、苦しみの存在であり、その私たちを救おうとはたらいて下さるのが、阿弥陀如来様であることを学んだからです。

お寺にお参りしたり、お墓参りすると気持ちが安らぐのはどうしてでしょうか?皆さんは、亡き方のためと思ってお参りされていると思いますが、真実は、亡き方が、皆さんの気持ちを安らぐようにと、お参りに導いて下さっているのです。世の中というのは、なぜ、こんなにも、心配事が多いのでしょうか。やっと、一つの心配事が片付いた、やれやれと思ってら、次の心配事が起こってくるのです。動画再生アプリユーチューブには、「不安」「心配」などを検索すると無数にその解消方法が紹介されています。しかも、再生回数がとても多いです。それだけ、悩んでいる方が多いのです。 南無阿弥陀仏の意味も、親鸞聖人の教えを学び、驚きました。 私が、称えているのではない、阿弥陀様のはたらきで称えさせてもらっているのです。南無阿弥陀仏は、「助けて下さい」という呪文ではなく、阿弥陀如来様の「あなたを必ず救う」という 呼び声であったと学んだ時もビックリでした。私は、時々、いろいろな心配事があり、寝付けない時などは、南無阿弥陀仏と称えています。それは、仏様が、私に、「大丈夫・大丈夫」と呼びかけて下さっているのです。亡き方も、 いつでも、どこでも、皆様の側にお戻り下さいまして「 頑張れよとか、守っているよ」と呼びかけて下さっています。

昔、テレビの観ていましたら、タレントの明石家さんまさんが、プールで、お年寄りの方が、一生懸命泳いだり、歩いたりする方を見ると、三途の川を、渡るための練習をされているんだなと思うと言って、笑いをとっていました。 でも、浄土真宗は、三途の川を、自分で泳いで渡ったり、歩いて渡る必要はありません。 泳ぎの苦手な方は、向こう岸まで渡れないかもしれません。 足の悪い方は、向こう岸までたどり着けないかもしれません。 ですから、 私たちは、こちらの岸から向こう岸へ、阿弥陀如来様の船に乗せて頂いて、渡らせてもらうのです。 しかも、既に、この世に生きている間に、船に乗せてもらっているのです。 昔は、棺に、六文銭を入れたのです、船で、向こう岸に渡してもらう運賃だそうで、船の渡し代として、六文銭もあらかじめ納棺しましたが、船代も必要ありません。 亡き方は、成仏するまで49日間の旅をすると言われていますから、そのために杖と履物をはき、旅装束で納棺しますが、浄土真宗は、必要ないのです 。49日待つことなく、即座に、仏様と成るのです。

浄土真宗では、「信心」という言葉を、特別な意味で使います。信心とは、 阿弥陀如来様が、私たちを、何があっても、見捨てることがない、必ず救うという仏心を、私が聞かせて頂いた事を申します。信心には、「仏の悟りを開く因」が欠けることなく備わっておりますので、浄土に生まれ、そのまま仏(如来)と成って実を結ぶのです。浄土真宗は、南無阿弥陀仏の本当の意味を聞かせて頂いて救われる教えです。

親鸞聖人のお言葉を最後にご紹介します。主著「教行信証」より

この心はすなわち如来の大悲心なるがゆえに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもって諸有海に回施したまへり。これを、利他真実の信心と名づく。『教行信証』三一問答 法義釈 信楽釈

教行信証 現代語訳版 この心、すなわち信楽(信心)は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土(阿弥陀仏の浄土)にいたる正因となるのである。如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。これを他力の真実の信心というのである。  

 


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