浄土真宗本願寺派 法徳寺ブログ

神奈川県厚木市にある浄土真宗本願寺派(西)のお寺です。
永代供養墓10万より受付中です。

「信じるものは、なぜ、救われないか」

2023-04-04 20:08:12 | 法話

みなさん、こんにちわ!

いつまでも、生きている気の顔ばかり

死ぬことを忘れていてもみんな死に

最初から、嫌な川柳ですが、これは、昔、20代の頃、流行ったものですが、今も、世の中変わりません。

今は、どうかわかりませんが、昔は、結婚式に行きますと、新婦は、ご両親の前で、「私を生んでくれてありがとう、今まで育ててくれてありがとう。」そこが、最高の感動の場面です。 日頃、 親に面と向かって、「生んでくれてありがとう、育ててくれてありがとう。」とはなかなか、思っていても、口には出せません。

親鸞聖人は、法然上人に出会い、「阿弥陀仏に救って下さい」とお願いする前に、阿弥陀如来様の方から、既に、救いの中におさめとって下さっていた。比叡山で、天台宗の僧侶として、一生懸命救われたい救われたいと、20年間の長きの間、修行に励んでいる間も、既に、阿弥陀様の救いの中にあったということを教えて頂いたのです。

私も、親に頼んで、生まれてきたわけではありません。気がつけば、親が育ててくれていました。 ところが、私は、学生の頃、親に対し文句を言いたかった、もう少し賢く生んで欲しかったとか、もっとカッコ良くとか、そして、何で、お寺の長男になんて、生まれてしまったのだろうかと。 私は、小学校、中学校で、家がお寺という理由で、いじめられた経験があるので、正直、お寺が好きではありませんでした。お坊さんと聞いて、連想する言葉は、クソ坊主、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、三日坊主、坊主丸儲け、悪口がたくさんあります。余談ですが、ご自宅でのご法事が終わり、 ご住職がお帰りになったトタン、呼び方が、ご住職から、クソ坊主に代わると聞いたことがあります。しかし、今、私は、両親に心から感謝しています、お寺に生まれて良かったと思っています。 いつから、そのような思いになったのかは、もう、忘れてしまいました。

日本人は、常に、不安感もっている方が多いと聞いています、私もその一人です。でも、世界的にみたら、ものすごく、恵めれているはずなのです。 仏様のお話を聞くことを、聴聞(ちょうもん)と申します。どちらも、「きく」という意味の漢字ですが、「聴」というのは、お医者さんが使う聴診器の「聴」です。お医者様は、体から発せられる音を、じっと、耳をすまして聴くのです。ですから、「聴」というのは、私たちが、仏様のお話をじっと耳をすまして聴くということです。それに対し「聞」というのは、その聴いたことを、そのまま、素直に、疑いなく、受け入れるという意味です。向こうから聞こえてくることを、受け取ることを「聞」というと、私は、教えて頂きました。聴聞となぜいうのか、私は、疑問でした。浄土真宗は、「聞」の宗教と言われているので、「聴」は必要ないはずなのですが、聴は、やはり、必要なのです。いきなり、「聞」にはいかないのです。何度も何度も、法話を聴かなければ、「聞」にはなりません。また、親鸞聖人は、「聞」ということは、「信じる」ということですとお示しくださいます。たとえば、人を信じるとは、相手を、疑いなく、心から受け入れることだからです。 相手が、私たちの心を開かせてくれるのです。法話も、阿弥陀如来様の声が聞こえてくるのです。

法事の主役は誰? だと思いますか。浄土真宗の場合に限って言えば、「主役は阿弥陀如来様」です。皆さんが日頃、お勤め下さいます、法事の主役は、亡き方だと思われていると思いますが、そうではないのです。もし、亡き方が迷わないように、成仏出来るように、寂しがらないように、みんなで追善供養しましょうというのであれば、主役なのです。しかし、今、亡き方は、阿弥陀様の「必ず救いますから、どうぞ、安心なさってください、お任せください」というはたらきの中にあります。そのはたらきに対し、参列者は、「ありがとうございます、お任せします」となりますので、法事は、阿弥陀様にお礼をするためのものですから主役です。そして、準主役は、お参りなさっている方なのです。亡き方は、阿弥陀様と共に、残された皆さまを、心配されております。亡き方は、なぜ、心配なさっているのでしょうか?それは、皆さまが、毎日、生きるのが楽しくて、何の悩みもない、苦しみもない、不安や悩みや悲しみもないのであれば、亡き方は心配ないのですが、そのような、人生を生きている方が、はたしていらっしゃるでしょうか?実は、迷い、苦み、悲しんでおるのは、私たちの側です。その私たちをご覧になって、亡き方は、安らかに眠っていたり、ほってはおけないのです。皆さんが、救われることが、亡き方が救われることなのです。 

1192年(いい国作ろう鎌倉幕府)のとき、親鸞聖人は、20歳です。 その当時は、比叡山でご修行中であります。 平安仏教は、いわば、貴族仏教です。 ごく一部のかぎられた、選ばれた方のみの仏教です。 平安末期から鎌倉時代にかけて、今も続く宗派が多く誕生されました、まさに、時代が求めたのでしょう。 比叡山は、鎌倉仏教の開祖といわれます、法然上人、日蓮上人、親鸞聖人、道元禅師、は、すべて、比叡山でご修行されたのです。 親鸞さまの誕生は、1173年です。父は、日野有範様、藤原氏の流れをくみます、下級貴族のご出身であったと教わりました。母は、吉光女様と言われ、源氏の流れを組む方だと教わりました。お母様は、聖人が8歳のときに、死別。父は、勢力争いの中で、出家しなければ命の危険にさらされてしまい、離れ離れ、聖人は、叔父に育てられます。しかし、その叔父も、厳しい経済状態の中、聖人たちまでも、育てることが出来ず、出家させるしかありませんでした。今で言えば、家庭崩壊だったのです。けっして、幸せな幼少時代ではありませんでした。生きていく道は、出家する道しかなかったようです。 世の中が大きな火災、飢饉、廃墟の町をごらんになり、世の中の無常をお感じになったと言われています。

親鸞聖人は、京都にある青蓮院で得度(僧侶となる)をされます。得度式が、夕刻となってしまい、明日に延ばそうとの提案がなされたそうですが、そこで、聖人が詠まれたとされるのが、有名な「明日ありと思う心の阿波桜、夜半に嵐のふかぬものかわ。」 です。今は、綺麗に咲いている桜も、今晩もし嵐がくれば散ってしまうように、私のいのちも明日生きている保証はありません、是非共、今、得度をさせて欲しいと願われた伝えられています。

浄土真宗の教えでは、人間は、阿弥陀如来の救いを、心から信じる心を起こすことは不可能だとされ、南無阿弥陀仏と称えることさえも、仏の力によるものとされています。親鸞聖人の教えは、南無阿弥陀仏の名号が、私の元に至り届き、救われるというものです。そのことを信心を頂くとお示し下さいます。 信心とは、如来の真心のことをいいます。南無阿弥陀仏、すべての者に、平等に、至り届いています。ですから、同じ浄土へ生まれることが出来るのです。

先日、ご病気の奥様のために、お経を唱えてほしいというご依頼がありました。私、迷ったのですが、お受けすることにしました。お経を称えても、病気は治りません、読経で治療が出来るのであれば、お医者様は必要ありません。でも、私、一生懸命、読経を勤めたのです、最後に「 よかったです、これで安心しました。」とお帰り下さいました。私の勝手な解釈ですが、ご依頼頂いた方も、読経を称えて病気が治らないのは分かってはいても、何かしなければ、不安で不安でたまらないからだと思います。その後、私は、心が痛みました、でも、お経を称えることで、少しでも希望が持てるのであれば、少しでも楽になるのであれば、いいのではないかと思うことにしました。

阿弥陀如来様は、私たちの閉じた心を開かせてくれる、これが、南無阿弥陀仏のはたらきです。 お互い、いろいろ信じて生きています、お金を信じたり、自分の健康を信じたり、お医者様を信じたり、しかし、残念ながら、いざ、この世を、卒業という時に、その信じていたものは、何一つ、頼りにはなりません。昔、「信じるものは、なぜ、救われないか」という本を読みました。 今の世の中、人が信じられない時代です、気軽に、近所の子供に声などかけられません、親御さんに、怪しい人だと思われかねません。 私は、今のペットブームは、人が信じられなくなった反動ではないかと思います。ペットは、エサをくれる方を、裏切ることをしませんから。親は、子供たちに、人を簡単に信じてはいけないと教えているんじゃないでしょうか。家族なのに、親が子供を殺し、子供が親を殺す事件が起こります、一体、誰を信用していいのか、信頼していいのか分かりません。まさに、人間不信の時代です。この本の中に、次のような内容が、書かれていました。人は、「信じて」救われるのではなく、「信じられて」救われるのです。たとえば、皆さん、証明してみようのない自分の親を、なぜ親と信じるようになったのでしょうか?それは、私に先立って、頼んでもいないのに、親の方から私を信じていてくださったはたらきがあったからです。いっしょに暮らす中で、この人は、他の大人とは違って、自分のことを、本当に思ってくれると実感したからこそ、間違いなく、親と確信するようになったのでしょう。たとえ、怒られても、それは、自分のことを憎いのではなく、本当に心配してくれているということが分かって、初めて、信じるようになるのです。血縁があるとかないとかではなく、親は、はたらきとして存在するのです。その親に向かって、「信じていますよ」「お願いですから、面倒みてください」という人はいません。私が信じる前から、私のことを思い続け、決して、私を、ひとりぼっちにしておかないという、はたらきに気づいた時、人は、相手を信じるようになる、その信じるという心は、相手から、頂いたものでしょう。私が信じる前に、私を信じてくださった、私のことを、本当に思ってくれていた、はたらきがあったからこそ、人を「信じる」という心が生まれてくるのです。それは、単に優しさではありません。時には、怒ってくれる、厳しいことを言ってくれるのも優しさです。余談ですが、最近は、阿弥陀如来様を親に喩える法話は、出来なくなったと言われています。理由は、先ほどの、親が子供を殺し、子供が親を殺す、そんな事件が起こってしまうからだそうです。

信じるとは喜び です。こういう時代であればこそ、本当に「信じる」ことの出来る方との出会いは、大変、有り難いことであり、喜びであると思います。この人は、絶対に、私を裏切らない、どんなことがあっても、自分を見捨てることがないという、出会いこそ、生まれてきた甲斐があるというものです。信じるという言葉は、安心感であり、喜びであり、楽しみという言葉と同じ意味で、仏教では使います、その信じることの出来た喜びこそ、救いなのです。浄土真宗の教えは、南無阿弥陀仏と称えれば救われるとは説いていません。仏様のことも何も分からず、ただ、信じれば救われるとも説きません。阿弥陀如来様は、私が気付く前から、既に、南無阿弥陀仏の呼び声となって、私に至り届き、救いの中におさめとってくださっていたことを聞かせて頂き、救われるのです。それが、信心を頂くと申します。自分勝手に信じていても駄目なのです。 人間は、阿弥陀如来の救いを心から信じることも出来ない、南無阿弥陀仏と称えることすら難しいとお考え下さったのが、親鸞聖人なのです。でも、大丈夫です。阿弥陀如来を信じることも、南無阿弥陀仏と称えることさえも、仏の力によるものなのです。


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今朝のお寺

2023-04-04 11:50:00 | 日記

おはようございます。

今朝は、健康診断の日でした。いつもなら、混雑している病院が空いてる!
先生も、いつもより、余裕がある感じでした。秋から、年末にかけて、検査を望む方が多いと、先生は、前に、おっしゃっていましたが、私も、何故か、秋になると、健康診断をしたくなる。何故だろう。でも、これからは、この時期が、良いかもと思いました。昨日は、法話会でしたが、毎回、法話会が終わるとほっとします。昨晩は、今日の法話とても良かったですとのお電話を頂きました。やはり、いくつになっても、褒められると嬉しいものです。皆さまも、周りの方の良いところを見つけたら、遠慮なく、どんどん褒めてあげて下さい。私たちは、とかく、周りの方の欠点を見つけるのは、得意ですが、良いところを見つけるのは、不得意です。












 

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