浄土真宗本願寺派 法徳寺ブログ

神奈川県厚木市にある浄土真宗本願寺派(西)のお寺です。
永代供養墓10万より受付中です。

一寸先は闇ではありません

2023-04-11 20:19:38 | 法話

皆様 こんばんわ!

私は、阪神淡路大震災が起こった年に、京都で100日間の研修がございました。それは、布教使という資格をとるためのもので、100日間、西本願寺の参道にある伝道院という場所で、二人一組の部屋で寝食をともにする形式で、私にとっては、とても、大変なものでした。西本願寺での朝のお勤めにお参りし、朝食の後、授業が始まるのですが、その前に、毎朝、順番に法話をする登板がまわってきます。その参加者の中に、ブラジルのお寺から、来られていた女性が、ある日、こんな法話をしてくれました。お寺という字は、十一寸と書きます。一寸はたったの約3センチですが、「一寸先は、闇」とも申します。私たちの人生は、一寸先に何が起こるかわかりません。なぜ、十一寸なのか、人間の、ものさしは、本来、十寸しかありません、しかし、仏さまの教えを聞かせていただくことにより、十一寸のものさしを持つことが出来るのです。 それでは、十一寸のものさしとは何でしょうか。 例えば、『死』です、私たちのものさしから言えば、死は、不幸なことです。 でも、仏様のものさしでは、「死」は、不幸なことではなく、自然なことです。 皆さん「なぜ、僧侶は、法事や葬儀で、色のついた派手な衣を着るのでしょうか?」沢山、お布施をもらう為でしょうか?昔は、私のお寺の地域では、葬儀に赤飯を炊く習慣がありました。 それは、苦しみ多き娑婆世界を離れて、苦しみのない、浄土へ生まれ仏様に成るのですから、おめでたいことなのです。それが、仏様のものさしです。 仏様のものさしでは、死は、誕生日なのです。もちろん、大切な方を失い、おめでたいなんて言ったら、怒られます。しかし、そういうものさしを持つことが大切なのです、ある方が、『葬儀が終わり、残ったのは、疲れと涙だけでした』と語られたそうです。コロナ過前、私も経験がありますが、家族を失い、悲しみと疲れの中で、葬儀の準備をしなければなりません。家族が亡くなったら、まったなしです。悲しんでいる暇はありません、親戚への連絡、隣近所への挨拶、隣近所、友人、知人が、お線香あげさせてくださいとお参りにこられる。疲れているのに、「あれもしなきゃ、これもしなきゃ」と考えると、ゆっくりと眠ることも出来ません。葬儀が終わったら、あっという間に49日です。私は、身体が疲弊してしまい、病院通いになりました。そのような、大変な経験をされた方が、子供たちには迷惑をかけたくない、心配かけたくないと、葬儀はしなくていいよ、火葬だけでいいのよ、家族だけで見送ってねと、遺言する気持ちも理解出来ます。コロナ過が終わっても、葬儀だけではなく、地域の行事や、隣近所との付き合い方、さまざまな事が、変わっていくと思います。お寺の存在意義も問われています。住職として、心して、勤めていかなければならないと思います。でも、皆さん、生きている間に、仏様の教えを聞くことは、とても、大事です。一寸先は闇ではありません、一寸先も今も、阿弥陀如来様の光明に包まれている人生です。


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