浄土真宗本願寺派 法徳寺ブログ

神奈川県厚木市にある浄土真宗本願寺派(西)のお寺です。
永代供養墓10万より受付中です。

地獄に堕ちる一番多い職業

2023-04-07 20:25:28 | 法話

みなさん、こんばんわ!

昔、読んだ本に、こんなお話が紹介されておりました。 ある王様が家来に「人生とは何か、まとめて教えてほしい」と指示しました。「かしこまりました」と、家来は、早速、国中の優秀な学者を集めてその研究をさせました、学者たちは、ああでもない、こうでもないと研究を重ね、ついに、膨大な成果をまとめることに成功しました。 王様は、その膨大な報告書を見て、「もう少し簡単にまとめてくれないか」と命令しました。学者たちは、また、十数年かけて半分の量にしましたが、その間に、老いてしまった王様には、とても、読みきることは出来なくなってしまいました。ふたたび、もう少し簡略にと要望しました。また、学者たちは、懸命に努力をして一冊の本にまとめました。これで、大丈夫だと、王様にお持ちすると、王様は、既に、余命いくばくかもない状態になっていたのです。王様は、学者に「人生とは一言で言えばどういうことか」と尋ねたのです。すると、一人の学者が王様の耳元で、「人生とは、生まれて、生きて、死ぬことです」と説明しました。王様は、大きく頷き「そうか、わかった」と言って息を引き取ったそうです。

皆さん、「当たり前じゃないか」と思われたと思います。人生とは、それだけのことです。でも、それだけで、たいしたものなのです。だって、 生まれることも、生きることも、死ぬことも、自分の自由にはならないのに、毎日、頑張って生きているのです、何の悩みもなく楽に生きている人間は、誰ひとりいらっしゃらないと思います。今年は、親鸞聖人御誕生800年の記念すべき年です。50年に一度、行われる法要です、次回は、50年後です。50年後、一体、どんな世の中になっているでしょうか?一つだけ変わらないのは、「人生とは、生まれて、生きて、死ぬこと」。更に医学が発達すると思いますが、コロナのような新しい伝染病が流行るかもしれません。長生きが当たり前になる一方で、心を病む方が増えるかもしれません。

世の中で、一番、不思議なことがあります。地獄に堕ちる生き方しか出来ない私が、お浄土へ救われるということです。 私が、自力で、お浄土へ生まれ、仏と成るということは、不可能なことです。 私が、修行をして仏に成るには、五十六億七千万年かかるというのです。その大変な修行を、私に代わって成し遂げて下さった方が、阿弥陀如来様です。お念仏を称えることで、救われるというのですから、誠に不可思議です。一生涯かけて、厳しい修行をしたとしても、自力では、仏になれない、浄土へ生まれることはできないのです。 親鸞聖人は、人生は素晴らしい、空しい人生ではないというのですそれは、お念仏に出会えたから言えることです。 昔、読んだ本によると、地獄に堕ちる一番多い職業は、お坊さんだそうです。 私は、それを読んだ時、震えあがりました。

親鸞聖人は、29歳のとき、それまで、20年間修行された比叡山をおりる決心をします。人間というのは、欲深い生き物です。山で修行している僧侶は、国のため、人のためと修行しているが、一皮むけば、金がほしい、名声がほしい、成り上がりたい、女性を抱きたいという欲望でがんじがらめ。 いくら、厳しい修行をしても、その欲から逃れられない。心は、綺麗にならないのです。そこに苦しまれたのです。 仏教では、欲が、地獄に堕とすのです、仏様が罰を与え堕とすのではなく、自らの行いで堕ちていくのです。 親鸞聖人は、比叡山をおり、京都の六角堂にこもられました。観音様の前でお参りを続けました。すると、95日目に夢の中で、聖徳太子があらわれ、お告げを得て、東山吉水の草庵を訪ね、法然上人に出会い、まことの道をお尋ねになったといわれております。 それは、「お釈迦様は、たくさんのみ教えを説かれましたが、私のような愚かなものは、どの教えを、よりどころとすればよいでしょうか?」と、自分自身の「いのち」のよりどころを尋ねられたのです。 それに対する法然上人のお答えは、「善人も悪人も、どんなに罪深いものであっても、平等にお救い下さる阿弥陀如来様の本願を信じて、み仏の仰せのままにお任せし、お念仏申すことです」という一言だったといわれております。 お念仏は、確かに、私の口から称えておりますが、その中身は、「私の名を称えておくれ、必ず浄土へ生まれさせますよ」と阿弥陀如来様が私の口にあらわれでたものです。 例えば、いつでも、水道の蛇口をひねれば、水が出てくるのは、水が届けられているからです。蛇口をひねったら、ダムから水がやってきて、では時間がかかってしまいます。いつでも、私の口から念仏が出てくるのは、いつでも、私たちは、仏様の救いに包まれているからなのです。 ですから、いつ、いのち、終わろうとも、助かるのです。 私が、お念仏を称える功徳で救われるのではありません。私の口に、南無阿弥陀仏と阿弥陀如来様がはたらいてくださっていることを聞いて助かるのです。

葬儀は、その方の、人生の完成をみんなが確認しあう儀式です。 人生の完成というのは、仏様と成られるということです。 親鸞聖人は、その当時としては脅威的な90歳という長生きをされました。 しかも、80歳を超えても沢山の著書を書かれております。 それは、いつ、いのち終わろうとも、必ず、阿弥陀様は、お浄土へお救い下さるという絶対の安心感の中に、生きられたからです。そして、自分が救われた喜びを、後世の者に間違いなく伝えるために、晩年のすべてを、著作にささげられました。そのおかげで、今、私たちは、阿弥陀如来様の救いを正確に聞かせて頂けるのです。最後に、 なぜ、お浄土というのでしょうか?、「浄」は、争いを水に流す世界です。この世は、争いごとが絶えません。人間世界は、修羅場です、常に争いが絶えません。しかし、お浄土では、生前は、争っていたもの同士が、「生前は申し訳なかった」と笑顔で出会える世界です。 まったく、不思議なことですが、どんなに憎しみあった者もお浄土では、同じ、仏様のお仲間です。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする