今朝の台風のような、荒れた天気には、びっくりして目が覚めました。先日、高野山に行ってきたのですが、実は、今日にするかどうか迷っていたのです、結果的には、先日、行っておいてよかったと思いました。もしかしたら、飛行機も飛べなかったかもしれません。私は、仕事柄、予定がたちません、いつもの話ですが、仏教は、明日のことは語りません。生きているのは今しかないからです。友人と、いつかまた会おうねという約束は実現したためしがありません。本当に会いたいなら、出来れば、今日、会いましょうと、約束することにしています。死は、理不尽にも突然やってくるものです、そして、平等にやってきます。不平等な世の中に、間違いなく平等にやってくるものです。逃げても無駄です。ですから、受け入れましょう。受け入れるといっても、死にたくない心のまま、長生きしたい心のままで、良いのです。南無阿弥陀仏は、阿弥陀如来のお呼び声、この世で一番貴い言葉です。その仏様の真言(真実のことば)に出遇えた人生は、幸せな人生で間違いありません。南無阿弥陀仏以外の言葉は、嘘偽りばかりです。私は、阿弥陀如来様が、お浄土へお救い下さるのは有難い、しかし、その死までの間、どう生きれば幸せになれますか?それを知りたいと、いつも思っていました。でも、今、南無阿弥陀仏に出会えたこと以上に幸せはないのです、明日生きている保証がないのに、どう生きれば幸せになれるかという質問は、今、幸せでないことを証明しています。やはり、死は未来のことであり、今の問題であることをけっきょく分かっていないのです。今、生きている事以外に、幸せを探してもどこにも見つかりません。生きていればこそ、悩み、苦しみ、不安にもなります。死は、他人事ではなく平等なのに、今生きている、それが、有難い人生であり、幸せな人生です。それ以外には、ありません。それでも、幸せ探しをしたいなら、いくらでも、本が出ていますし、ユーチューブで検索すれば、幸せになれる方法がたくさん出てきます。私も、たくさん見ていますが、死の解決が幸せだとは、出てきません。そして、幸せになる方法、長続きしません。だから、また、探す🔍ことなり、不幸のまま、時は過ぎ去ります。