私たちは、人間であるかぎり老い、病み、死ぬものであることを知ってはいます。しかし、この私がそうなることを真剣に考えようとはしません。むしろ、考える事を避けているといってもいいでしょう。これは、自分のこととして考えるのが、恐ろしいからです。私の「いのち」は、明日かも知れぬ、無常の「いのち」です。きびしいけれど、この現実をはっきりと受け入れねばなりません。でも、受け入れられないのが人間です。そして、私の「いのち」が、そのような不確かな、無常の「いのち」であるならば、かぎりある人生をどのように生きていくかが、問題となるのです。しかし、浄土真宗のお説教では、あまり、どう生きればよいのかを聞いたことがありません。
昔、中国のあるところに大変尊敬される僧侶がいました。 ある方が、その僧侶に、仏教を一言で言えば、何を教えてくれているのか? と質問をしました。「良い行いをしなさい、悪いことをしない」ということです。 その答えを聞いて「なんだそんなことか、そんなの3歳の子供でも知っている。」がっかりしたと。僧侶は、「 そうです、3歳の子供でも知っていることなのに、大人になっても、本当にそれができる人はいなのではないですか?」といわれたそうです。
浄土真宗で、生き方を説かないのは、「善い行いをしなさい、悪い行いをしてはいけない」という、誰でも、知っている事が出来ない私たちなのです。阿弥陀如来のすくいのめあては、その人間にあります。それでも、みんな、頑張って生きて、幸せになりたいと願っています。しかし、自分が幸せになるためなら、何をしでかすかわからないのが本当の人間の姿でもあります。仏教の目指すものは、すべての者の幸せです。人間は、自分の家族の幸せは願っても、他人の幸せまでは願いません。仏様は、すべての者の幸せを願っています。お互い「生まれてよかった」といえる人生を送りたいものです