グアム3日目は まず、アデラップ岬に行った。
上記の写真に小さなオーブがいくつか写っているが、ここに立っただけで、、とても悲しくなった。
「ねえー、歌ってよ」と言っている気がしたが、ノワタリさんが「若い少年兵たちが、たくさんいて、『お母さん!お母さん!』と言って泣いているわ。唱歌を歌って欲しいそうよ」。と言われ、私達3人は知っている小学唱歌を泣きながら歌った。母さんの歌、ふるさとなど、何度も繰り返し歌った。
ここは太平洋戦争国立公園で、米軍が、上陸した激戦地だという。日本統治時代はこの辺一帯はの水田地帯の長閑な写真があった。
ここには、古い砲台の残骸やトーチカがあった。「先ほどのアデン岬と対象的に、年配の兵士達なので、覚悟をされて戦った。」と、ノワタリさんは言い、歌いながら回られていた。「ここ!ここ!」と言われた所に、水や粗塩を私達はまき、般若心経、光明真言を唱えた。大正生まれの父によると、グアムは戦勝国の米国は日本よりも犠牲者が多く、日本は死守する為に、粘ったそうだ。ただ、トーチカは火炎放射器で焼かれたり、ガソリンを投げ込まれたらしい。惨い!とても 気が重い。
そうするうちに、日本人夫婦が慰霊にやって来た。
そう遠くない所にマリンパークがあったが、知ったら、遊ぶ気もしないだろう。
私達は南へ進んだ。グアムには珍しく山道になった。
山を降りると、ずっと海沿いの道を走り、南端へ行った。集落のお店で、水と塩を買い、ノワタリさんがコカコーラを買った。ここのコーラは日本で飲んだよりも、ずっとスッキリして美味しく思った。これは3人共意見が一致した。(帰国して飲んだが、なんか違う。)
南端は低く、海の中に林のように木が生えていた。
いくつかの集落を過ぎ、太平洋側の岬を目指した。山側に横井さんの住んでいた所の反対側の海辺に向かって進んだ。太平洋は見えているが、道が途中で無くなったり、分岐の道を誤り、行ったりきたりした。
それ以上進むと、車を出せなくなると思い、途中で、車を置き、徒歩で進んだ。前方の草むらの中から、子供達の声がして来た。トラックが置いてあり、その先には洞窟があった。 洞窟の入り口
洞窟の中は広く、7~8人の家族が泳いでいた。外の海とつながっているらしく、やはりここも、日本人が逃げてきた所らしい。邪魔をしないようにお清めをした。
おばあちゃんと両親と子供達だった。親切に車の所まで乗せて行ってくれたが、車のトランクは何者かに、開けられており、私達はみんな ぞっとして背筋が寒くなった。近くにまだ誰か潜んでいる気がして、怖いので、広い道に出るまで、誘導してもらい、別れた。
ノワタリさんはあの家族は上(神様)が使わされたのだろうと言った。
その後、パゴ岬の近くに行き、お清めしたら、もう夕方になっていた。それで終了。
その晩、疲れて、ノワタリさんはオイルマッサージを頼んだが、オイルが合わなかったといって、返って辛そうだった。私は、いきなり左肩にドン!と来たと、思ったら、背中の痛みがぶり返した。
最後の朝は、ゆっくりと、ハイアットリージェシーで、(私達が泊まったホテルとは段違い)朝食を楽しみ帰国した。
後で、気づいたが よくガイドなしで回ったなと思った。
グアムと言えば、マリンスポーツとゴルフとお買い物だが、全部 私達には関係なく自分に買ったのは日除けに買ったキャップだけだった。
東京駅で 春に熊野古道に行く事を約束して別れた。
電車の中で座っていたが、急におなかの内臓を摑まれ、五臓六腑をシャッフルされたようになった。電車の支柱を掴み、ほんの数十秒だと思うが脂汗が出てきて動けなかった。後にも先にも、このような経験はない!これって 何!
ノワタリさんの所に その夜、立派な将校姿の人がお礼に現れ、敬礼して姿を消したそうだ。
例のぎっくり腰を治してくれたおじいさんにも、グアムに行ったことを話すと、さめざめと泣かれ、お礼を言われたそうだ。(おじいさんも、戦争でグアムに行っていた。)
この写真もノワタリさんの撮影です。