■畏れ入谷の彼女の柘榴/舞城王太郎 2022.3.7
『 畏れ入谷の彼女の柘榴 』 を読みました。
舞城さんの本は、初めてです。
畏れ入谷の彼女の柘榴
裏山の凄い猿
うちの玄関に座るため息
この本は、少し風変わりな題名の3編の短編から成っています。
いずれの作品も、ちょっと薄気味悪いファンタジーを読まされたなぁという感じです。
でも、主人公が言っていることや思うことは、至極、真っ当。納得です。
もし、ぼくだったら当たり散らし、怒鳴りまくって修羅場になるような場面でも、主人公たちは、至って冷静、もの静に説得したり心の中で思ったりします。不思議な性格の変人、奇人なのです。
/畏れ入谷の彼女の柘榴/
何度も何度も問い直す。
俺は千鶴としたのか?
触ってすらいない。やっといて忘れたということも絶対にない。というか同じことを訊くな!答えさせるな!
「こどもができることはおめでたいことや。自分で作ったならな。でもそうでなかったら別や。人に押し付けるおめでたが相手に迷惑になるなんて普通にありえるやろ?それチヅわかってるはずやろ?ほやかって今、まさしくその例を並べてくれたもんな」
「・・・・・・・・・」
「千鶴が親としてふさわしくない、有害やって言うてるのはそういうところや」
「・・・・・・どういう・・・・・・」
「わかってるはずのことを自分に都合良くわからんふりをするところ。そんでそのわからんふりしてることも誤魔化そうとするところ。誤魔化すために嘘をつくことも平気なところ」
「・・・・・・・・・」
追い打ちをかけ続ける。そう決めている。
「さっきチヅ言うたが?『子供の親を軽じるな』って。俺は親と親であることを決して軽んじてない。敬意を払うからこそ今はっきり言うわ。チヅには親は無理や。向いてないどころの話でない。資格がないわ」
「悪いところがあったら直すで・・・・・・」
「直せるところでない。もともとないわ。悪いところって言うても何が悪いかもわからんやろ?」
「・・・教えてや」
「いいで?根本や。チヅは命を大事にできんのよ。ほやでいろんな人に気軽におめでたを押し付けたりできるんよ。新しく生まれる命の話だけでない。もうすでにある命のことも全然適当やもんな。女の人たちのことだけでなく、その人らの周りにも家族とか友達とかたくさんいるんやで?皆生活してるんや。そんでその生活はそれぞれにチヅの命と同じ重さがあるんやで?それを乱しても壊してもでっち上げの理屈でへらへら笑って無視してるのがチヅっていう欠陥人間や。他人のことだけでないで?チヅのお父さんお母さんのこともチヅは大事にしていない。俺のことも、尚登のことも」
「ほやでこれからちゃんと・・・・・・」
「そんなふうに簡単に言えるところがみんなのことを安く見てるって証拠よ」
「ほんな・・・・・・ほんなこと言うてたら私、反省してもどうしたらいいん?」
「反省ってのはしたことにするんでなくて、本当にするんやで」
「わかったわかった」
「わかってないって、まあわかってもらえると思って言うてないけど、チヅにはわからんのや。反省ってのは、何が悪いかわかってからでないとできんことや。それがわからんチヅにはできんって」
「そんな・・・・・・私、欠陥人間?」
「そう言うたやろ。でもまだ言い終わってないで?」
「もういいわ」
「諦めるんやろ?面倒臭くなったか?」
「いやそうでなくて・・・・・・」
/裏山の凄い猿/
子供への虐待案件も発生したりしていよいよ町全体の空気が殺伐としてる気がする。しかし実のところ理解できないのはこの事態でなく、どうしてこのような当たり前の結果がこの制度を作った人間に想像できなかったのかということだ。人は易きに流れる、バカはどこにでもいるしいろんなことを言う、恥知らずに言葉は通じない、薄っぺらい正論は毒である、親切心や優しさには限界があるし負担の許容量は本人が思っている以上に小さく、時にはたった一言、ちょっとした振る舞いですら我慢できないのが人間なのだ・・・・・・という常識って、学校で習わないからって知らないものだろうか?
「アホがアホな制度作るであかんのやな。気軽に人助けなんてしようとするもんでないってことや」
と俺は言うが、ふん、と城野は鼻白む。
「困ってる人を助けようって気持ちがなくなったら社会は終わりやわ。ほれにあんたは絶対結婚できんわ」
山と川と海からは、妙なものを持ち帰らない。
全てのお話は寓話であって、教訓や警句に満ちているのかもしれない。
でもそれを打ち破るのも物語のあり方で、寓意なんかに気持ちをこなされないように、気を張って生きるしかないのだ。
/うちの玄関に座るため息/
「『こんな話しなきゃよかった』って思うと思う。でもいいの。私が言いたいのは、そういう後悔も、私の中にあっていいの。あって嬉しいものじゃないけど、あってもある程度平気なの。なぜなら私も、それで私を鍛えてきてるから。これは『後悔しよう』とか『後悔で自分を鍛えよう』ってモットーなんかじゃない。でも後悔なんて、普通に生きててりゃ普通にたくさん生まれて、それを抱えて生きてて当然だと思ってるの。いろんな迷いとか妄想と同じで、人間はそういうの止めようがないし、それと折り合いをつけながら毎日一歩一歩進んでいくものだと信じているの」
「でもそのせいでお残りさんが生まれるんでない?」
「それを知っているのがズマくんの特殊さだよね。ある意味やっぱり迷惑はかかってるのかもしれない。可愛そうというか、申し訳ないってことなんだろうね。でも、他の人がそんなこと知らないから普通に生きてるだけだってのは理解できる?」
「もちろん」
「私は、私のことを、後悔を引き受けるつもりで、選んで欲しかったの」
失敗に気付いて即座に切り捨てることで、少なくとも後悔はしない。後悔は《あのとき力を尽くしておけば》ってことだから、《力を尽くした》という実感さえあれば《仕方ない》に回収されて後悔なんて起こらない。
兄は直哉さんのために本当に力を尽くそうとしているか?
していない。明らかに。
持ちつ持たれつや、人の負担にならんようにって考えは、態度としてはいいで?おんぶに抱っこはあかんでな。ほやけど、自分は他人様の負担になってないって思ってるんやったら単なるアホや。頼むで?そういうことでないようにな?
思考停止か。智英くん苦手だもんね。でもさ、成り行きを見てるだけなら、後悔はないだろうけど何も掴めないよ。
『 畏れ入谷の彼女の柘榴/舞城王太郎/講談社 』
『 畏れ入谷の彼女の柘榴 』 を読みました。
舞城さんの本は、初めてです。
畏れ入谷の彼女の柘榴
裏山の凄い猿
うちの玄関に座るため息
この本は、少し風変わりな題名の3編の短編から成っています。
いずれの作品も、ちょっと薄気味悪いファンタジーを読まされたなぁという感じです。
でも、主人公が言っていることや思うことは、至極、真っ当。納得です。
もし、ぼくだったら当たり散らし、怒鳴りまくって修羅場になるような場面でも、主人公たちは、至って冷静、もの静に説得したり心の中で思ったりします。不思議な性格の変人、奇人なのです。

/畏れ入谷の彼女の柘榴/
何度も何度も問い直す。
俺は千鶴としたのか?
触ってすらいない。やっといて忘れたということも絶対にない。というか同じことを訊くな!答えさせるな!
「こどもができることはおめでたいことや。自分で作ったならな。でもそうでなかったら別や。人に押し付けるおめでたが相手に迷惑になるなんて普通にありえるやろ?それチヅわかってるはずやろ?ほやかって今、まさしくその例を並べてくれたもんな」
「・・・・・・・・・」
「千鶴が親としてふさわしくない、有害やって言うてるのはそういうところや」
「・・・・・・どういう・・・・・・」
「わかってるはずのことを自分に都合良くわからんふりをするところ。そんでそのわからんふりしてることも誤魔化そうとするところ。誤魔化すために嘘をつくことも平気なところ」
「・・・・・・・・・」
追い打ちをかけ続ける。そう決めている。
「さっきチヅ言うたが?『子供の親を軽じるな』って。俺は親と親であることを決して軽んじてない。敬意を払うからこそ今はっきり言うわ。チヅには親は無理や。向いてないどころの話でない。資格がないわ」
「悪いところがあったら直すで・・・・・・」
「直せるところでない。もともとないわ。悪いところって言うても何が悪いかもわからんやろ?」
「・・・教えてや」
「いいで?根本や。チヅは命を大事にできんのよ。ほやでいろんな人に気軽におめでたを押し付けたりできるんよ。新しく生まれる命の話だけでない。もうすでにある命のことも全然適当やもんな。女の人たちのことだけでなく、その人らの周りにも家族とか友達とかたくさんいるんやで?皆生活してるんや。そんでその生活はそれぞれにチヅの命と同じ重さがあるんやで?それを乱しても壊してもでっち上げの理屈でへらへら笑って無視してるのがチヅっていう欠陥人間や。他人のことだけでないで?チヅのお父さんお母さんのこともチヅは大事にしていない。俺のことも、尚登のことも」
「ほやでこれからちゃんと・・・・・・」
「そんなふうに簡単に言えるところがみんなのことを安く見てるって証拠よ」
「ほんな・・・・・・ほんなこと言うてたら私、反省してもどうしたらいいん?」
「反省ってのはしたことにするんでなくて、本当にするんやで」
「わかったわかった」
「わかってないって、まあわかってもらえると思って言うてないけど、チヅにはわからんのや。反省ってのは、何が悪いかわかってからでないとできんことや。それがわからんチヅにはできんって」
「そんな・・・・・・私、欠陥人間?」
「そう言うたやろ。でもまだ言い終わってないで?」
「もういいわ」
「諦めるんやろ?面倒臭くなったか?」
「いやそうでなくて・・・・・・」
/裏山の凄い猿/
子供への虐待案件も発生したりしていよいよ町全体の空気が殺伐としてる気がする。しかし実のところ理解できないのはこの事態でなく、どうしてこのような当たり前の結果がこの制度を作った人間に想像できなかったのかということだ。人は易きに流れる、バカはどこにでもいるしいろんなことを言う、恥知らずに言葉は通じない、薄っぺらい正論は毒である、親切心や優しさには限界があるし負担の許容量は本人が思っている以上に小さく、時にはたった一言、ちょっとした振る舞いですら我慢できないのが人間なのだ・・・・・・という常識って、学校で習わないからって知らないものだろうか?
「アホがアホな制度作るであかんのやな。気軽に人助けなんてしようとするもんでないってことや」
と俺は言うが、ふん、と城野は鼻白む。
「困ってる人を助けようって気持ちがなくなったら社会は終わりやわ。ほれにあんたは絶対結婚できんわ」
山と川と海からは、妙なものを持ち帰らない。
全てのお話は寓話であって、教訓や警句に満ちているのかもしれない。
でもそれを打ち破るのも物語のあり方で、寓意なんかに気持ちをこなされないように、気を張って生きるしかないのだ。
/うちの玄関に座るため息/
「『こんな話しなきゃよかった』って思うと思う。でもいいの。私が言いたいのは、そういう後悔も、私の中にあっていいの。あって嬉しいものじゃないけど、あってもある程度平気なの。なぜなら私も、それで私を鍛えてきてるから。これは『後悔しよう』とか『後悔で自分を鍛えよう』ってモットーなんかじゃない。でも後悔なんて、普通に生きててりゃ普通にたくさん生まれて、それを抱えて生きてて当然だと思ってるの。いろんな迷いとか妄想と同じで、人間はそういうの止めようがないし、それと折り合いをつけながら毎日一歩一歩進んでいくものだと信じているの」
「でもそのせいでお残りさんが生まれるんでない?」
「それを知っているのがズマくんの特殊さだよね。ある意味やっぱり迷惑はかかってるのかもしれない。可愛そうというか、申し訳ないってことなんだろうね。でも、他の人がそんなこと知らないから普通に生きてるだけだってのは理解できる?」
「もちろん」
「私は、私のことを、後悔を引き受けるつもりで、選んで欲しかったの」
失敗に気付いて即座に切り捨てることで、少なくとも後悔はしない。後悔は《あのとき力を尽くしておけば》ってことだから、《力を尽くした》という実感さえあれば《仕方ない》に回収されて後悔なんて起こらない。
兄は直哉さんのために本当に力を尽くそうとしているか?
していない。明らかに。
持ちつ持たれつや、人の負担にならんようにって考えは、態度としてはいいで?おんぶに抱っこはあかんでな。ほやけど、自分は他人様の負担になってないって思ってるんやったら単なるアホや。頼むで?そういうことでないようにな?
思考停止か。智英くん苦手だもんね。でもさ、成り行きを見てるだけなら、後悔はないだろうけど何も掴めないよ。
『 畏れ入谷の彼女の柘榴/舞城王太郎/講談社 』