■さらば長き眠り 2023.9.18
1989年、私立探偵沢崎シリーズ第二作「私が殺した少女」が発売された6年後、1995年に本書「さらば長き眠り」が出版されました。
渡辺のその後が、明かされます。
このシリーズで以後、渡辺について何か詳しくエピソードが語られたり、面白い話が明かされることはもうないだろうと考えるとなんとなくさびしさを感じます。去るもの日々に疎しでしょうか。
p570程の長編ですが、飽きることなく面白く読めました。
「火事は----」橋爪はそこで私に気づいた。「沢崎、おまえか!?」
橋爪は清和会の若手の幹部で、十三年前に私の事務所のパートナーだった渡辺が起こした事件以来、私とは不愉快な腐れ縁か続いていた。最後に会ったのは五年ほど前のはずだった。橋爪は抗争事件の最中にチンピラに撃たれ、弾丸の剔出手術を受けた直後で、紙のように白くて血の気のない顔は呼吸をするのも苦しそうな状態だった。今はそれか嘘だったように、殺しても死にそうにないほど健康そうな浅黒く陽に灼けた顔に戻っていた。その顔の真ん中で、誰も信じたことのない眼だけがあのときと同じように異様に光っていた。
「そんなことを言われても、あたしが何も知らないことはあんたが一番知っているじゃないか。あたしはただ、あの若い男に頼まれて----」
「うるせえ!」と、橋爪か情け容赦もなく言った。「おまえたち、そんなにこの事務所か気に入ったんだったら、何日だって泊めてやるぜ」
橋爪の顔の冷笑が仮面のように揺らいで消えた。彼は意外にも生欠伸を噛み殺していた。橋爪の気分はいつも唐突に変化した。彼らは利益を前にすると際限なく貪欲になる人種ではあるが、その感触か消えたとたんに玩具に飽いた子供のように無関心になった。
小滝橋通りでタクシーをつかまえてアパートのベッドヘ急ぐあいだ、あの初老の浮浪者への対応の甘さを咎める自分の声に耳を澄ましていた。理由は解っていた。一瞬のことではあったが、彼を昔のパートナーに見間違えたからだった。誰にも弱点というものはあるのだ。
魚住は椅子に座りなおし、事務所の中を見まわした。「あのときは汚い事務所なんて言っておいて、こんなことを言うと叱られるかもしれませんが……この事務所は、何だか気分が落ち着きますね」
さっきの既視感の謎か解けた。十九年前のことだが、私か最初にこの事務所を訪れたときに感じた印象も、ちょうど魚住が口にした言葉と同じものだった。こんな殺風景な場所でしか落ち着けない人間がいてもおかしくはないだろう。あのときは、私がこの事務所のドア口に立ち、このデスクについていたのは渡辺だった。構図か裏返しになった既視既視感というわけだ。
渡辺は手近にある紙は何でもヒコーキにしてしまう癖があり、出来上がったばかりの紙ヒコーキを彼が飛ばした瞬間に、私がドアを開けたのだった。紙ヒコーキは私たちのあいだの空間をゆっくり二度旋回して、私の足もとに着陸した。
あのときの私はちょうど魚住と同じ年齢で、渡辺は今の私の年齢とほぼ同じだった。
「何もないからだろう」と、私は言った。「きみの部屋と同じだ。きみの部屋ほど徹底してはいないが」
「きみの質問がつまらないからだ。つまらない質問にはいくつでも好きなだけ正しい答えが見つけられるんだ。だが本当の質問には簡単には答えられないものだ。たぶん。質問そのものに答えなどより重要な意味があるからだろ……偉そうに言ってるんじゃない。この世の中で、われわれ探偵ほどつまらない質問をすることに明け暮れている人種もいないから、職業柄知っているんだ」
「今はおそらく警察の留置場でしょんぼりしている男に同情するのは勝手だが、出稼ぎの労務者が浮浪者を仲間と思ってくれるかどうかは疑問だな」
彼は苦笑した。「あんたはときどき実に嫌な人間になるな。きっとそう見られることか好きなんだ」
「人は誰かのために死んだりはしない。本人はそのつもりかもしれないが、たいていは自分のために死ぬんだ」
『 さらば長き眠り/原尞/ハヤカワ文庫JA 』
1989年、私立探偵沢崎シリーズ第二作「私が殺した少女」が発売された6年後、1995年に本書「さらば長き眠り」が出版されました。
渡辺のその後が、明かされます。
このシリーズで以後、渡辺について何か詳しくエピソードが語られたり、面白い話が明かされることはもうないだろうと考えるとなんとなくさびしさを感じます。去るもの日々に疎しでしょうか。
p570程の長編ですが、飽きることなく面白く読めました。
「火事は----」橋爪はそこで私に気づいた。「沢崎、おまえか!?」
橋爪は清和会の若手の幹部で、十三年前に私の事務所のパートナーだった渡辺が起こした事件以来、私とは不愉快な腐れ縁か続いていた。最後に会ったのは五年ほど前のはずだった。橋爪は抗争事件の最中にチンピラに撃たれ、弾丸の剔出手術を受けた直後で、紙のように白くて血の気のない顔は呼吸をするのも苦しそうな状態だった。今はそれか嘘だったように、殺しても死にそうにないほど健康そうな浅黒く陽に灼けた顔に戻っていた。その顔の真ん中で、誰も信じたことのない眼だけがあのときと同じように異様に光っていた。
「そんなことを言われても、あたしが何も知らないことはあんたが一番知っているじゃないか。あたしはただ、あの若い男に頼まれて----」
「うるせえ!」と、橋爪か情け容赦もなく言った。「おまえたち、そんなにこの事務所か気に入ったんだったら、何日だって泊めてやるぜ」
橋爪の顔の冷笑が仮面のように揺らいで消えた。彼は意外にも生欠伸を噛み殺していた。橋爪の気分はいつも唐突に変化した。彼らは利益を前にすると際限なく貪欲になる人種ではあるが、その感触か消えたとたんに玩具に飽いた子供のように無関心になった。
小滝橋通りでタクシーをつかまえてアパートのベッドヘ急ぐあいだ、あの初老の浮浪者への対応の甘さを咎める自分の声に耳を澄ましていた。理由は解っていた。一瞬のことではあったが、彼を昔のパートナーに見間違えたからだった。誰にも弱点というものはあるのだ。
魚住は椅子に座りなおし、事務所の中を見まわした。「あのときは汚い事務所なんて言っておいて、こんなことを言うと叱られるかもしれませんが……この事務所は、何だか気分が落ち着きますね」
さっきの既視感の謎か解けた。十九年前のことだが、私か最初にこの事務所を訪れたときに感じた印象も、ちょうど魚住が口にした言葉と同じものだった。こんな殺風景な場所でしか落ち着けない人間がいてもおかしくはないだろう。あのときは、私がこの事務所のドア口に立ち、このデスクについていたのは渡辺だった。構図か裏返しになった既視既視感というわけだ。
渡辺は手近にある紙は何でもヒコーキにしてしまう癖があり、出来上がったばかりの紙ヒコーキを彼が飛ばした瞬間に、私がドアを開けたのだった。紙ヒコーキは私たちのあいだの空間をゆっくり二度旋回して、私の足もとに着陸した。
あのときの私はちょうど魚住と同じ年齢で、渡辺は今の私の年齢とほぼ同じだった。
「何もないからだろう」と、私は言った。「きみの部屋と同じだ。きみの部屋ほど徹底してはいないが」
「きみの質問がつまらないからだ。つまらない質問にはいくつでも好きなだけ正しい答えが見つけられるんだ。だが本当の質問には簡単には答えられないものだ。たぶん。質問そのものに答えなどより重要な意味があるからだろ……偉そうに言ってるんじゃない。この世の中で、われわれ探偵ほどつまらない質問をすることに明け暮れている人種もいないから、職業柄知っているんだ」
「今はおそらく警察の留置場でしょんぼりしている男に同情するのは勝手だが、出稼ぎの労務者が浮浪者を仲間と思ってくれるかどうかは疑問だな」
彼は苦笑した。「あんたはときどき実に嫌な人間になるな。きっとそう見られることか好きなんだ」
「人は誰かのために死んだりはしない。本人はそのつもりかもしれないが、たいていは自分のために死ぬんだ」
『 さらば長き眠り/原尞/ハヤカワ文庫JA 』
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