■ペルーの異端審問/フェルナンド・イワサキ 2017.5.29
筒井康隆氏は、巻頭言「大らかで根源的な笑い」で、この本について次のように述べられている。
それにしても人間とはなんと哀れで滑稽なものであろう。読み終えてつくづく悟るのはその愚かさだ。この愚かさによる笑いは、実に大らかで根源的であり、それこそが文学としての本書の価値であろう。
異端審問官が、うら若き娘らに真剣に、真面目に微に入り細をうがち、追求すればすれほど、グロテスクな姿となり、エロチックで滑稽なものになってしまう。笑いを誘う。
その雰囲気を拾ってみた。
異端審問官たちも、ダバロス家の姉妹への尋問には並々ならぬ労力を要したに違いない。何しろ若い娘たちの裸体を前にすることは、聖職者の高潔な魂をさらに堕落させるべく、悪魔が敷いた誘惑だからだ。マロン・デ・シャイデ帥は名著『ベマグダレーナの改宗の書』で、悪魔は男を揺さぶり堕落させるべく、女性の両太腿のあいだにみずみずしい果実を据えたが、それに抗い、蛇の頭を握りつぶせるような男には、神が天国行きを保証してくれると述べている。
いずれにしても聴罪司祭ルイス・ロペスは、リマ市内に暮らす敬虔なキリスト教徒の奥さまがたの口から飛び出す数多くの好色行為に、我慢も限界に達したということだろう。..
....当然ながらルイス・ロペスも、本人が行為に及ぶ際にはたえず欲望のある・なしを自問しなければならなかったし、相手のご婦人がたに対しても告解の場で、どんな時に快楽を感じるのか、裸で行為をするのか、それとも下着をつけたままでするのか、どのように衣服を脱いでいくのか、さらにはどの程度神の目に異常に映る行為をしているか……などと問いただしていたと思われる。
告解に訪れるご婦人がたは神との和解を望み、”みずからの邪淫なふるまい”を神のしもべであるルイス・ロペスに打ち明け、神にとってその行為が好ましいものかどうかを問いただす。
長年リマ王立聴訴院の死刑囚に屍衣を着せ、埋葬している慈悲深き修道女の証言。彼女は自身の経験から、しばしば死刑執行後の囚人の男根が、欲望による硬直状態になり神を冒とくするのを心得ている。......
高名な女子修道院長のお墨つきを得て、歓喜に沸いたフランシスコ会士たちは、大事なことを訊きそびれてしまった。それは死刑囚と修道士のペニスの大きさについてだ。教会で説かれているように、ペニスの大きさと罪深さが必ずしも比例しないことが判明していたら、どれだけ多くのキリスト教徒たちが、肉欲の罪にさいなまれることなく、のびのびと暮らせていたことか。......
葬儀から三ヶ月後、棺の蓋を開けたフランシスコ会士らの目には、腐敗せぬまま横たわる修道士の遺体と、この世に永遠の炎をともす大ろうそくのごとくそびえ立つペニスが映ったのだった。アーメン。
男と悪魔のペニスにどの程度違いがあるのか? 悪魔の一物がうろこに覆われ黒光りしているのは本当か。
純真な修道女たちは、悪魔の特徴をこのように証言している。<雪のように冷たく、魚のように黒光りした大きなペニスは、その珍しさだけでも一見に値する>と。
神父、悪魔、闘牛士、役人、商人......誰が一番女性にもてたのか。
聖職者に対する好意について問われた被告は、自分の経験からも間違いないと答えた。女たちは王室の役人や執行官、商人よりも、告解をした相手に身をゆだねる傾向がある。
イエズス会やドミニコ会は婦人たちが一番熱を上げる修道会だとのことである。神父が敵では騎士も闘牛士もかなわない、という噂は本当だった。
悪魔とは、何者だ。
四度目に薬を飲んだ際、マリア・ピサロは<腹にたまったガスが悪臭とともに放たれ、ようやく悪魔が出て行った>と語る。その言葉から察するに、悪魔はたとえ姿かたちはなくても、人に感知される程度の臭いはあることがうかがわれる。
カトリック教会はつねに黒人を悪魔と結びつけ、彼らに対しては、肌が黒いから醜いのではなく、悪魔ゆえに醜いのだとまで言っている。
教会の影響で、パンをはじめとする食べ物が祝福される一方、こと金に関してはサタンの商売だと見なされる傾向が強い。
無限の知性を持つ神が男にも女にも翼を与えなかったのは、結局のところ人間が、天のそばで姦淫の罪を犯し、空中から糞便を落とすことのないようにとの配慮からだったのだから。
いずれにしても異端審問官らは打開に向けて行動を起こした。リマ市民に外出を禁じ、夢魔が破滅するまでは夢を見ぬようにとの命令を布告した。
ご婦人方が、悪魔とするのと聖職者とするのでは、その気持ちよさには違いがあったのか。異端審問官は、当然取り調べた。
本書には、その違いが報告されていた。読めば分かる。
さて、「ペルーの異端審問」は17編の話で構成されているのですが、ぼくは次の2編が気に入った。
13 神の集金係 ビジネスの元手としてのお布施
14 平常服の耐えがたい悦び 重婚を続けたにせ神父
うら若い娘や貞淑そうな婦人から、告解された聴罪司祭は、そのなまめかしい話には驚愕するとともに、なにやら自分の頭の中もおかしくなってしまったのではないか、とぼくは想像した。
毎日毎日、そんな話ばっかり聞かされては、頭の中も体も持たないではないか。
彼女が事細かに説明してくれるのはよいのだが、露骨な言葉であったためか、拷問者らの繊細な神経を逆なでしたとみられる。<頭痛を覚え、歯の根が合わず、気が狂うほどの思いだった>と綴られたあとは、ご丁寧にラテン語で記されている。
ラテン語は、彼らにとって論文、論争などで使われる神聖な言葉であったはずなのだが。
とにかく面白かった。
なまめかしくびっくりするような話がたくさん書かれているのだが、どこか大らかで笑いを誘う。
真剣とか、真面目とか、猥褻とかを極限まで突き詰めていくと、ばかばかしく、滑稽なものに変容してしまうのだろうか。
<愚かなことをするのが愚者ではない、愚行を隠しきれないのが愚者である>
『 ペルーの異端審問/フェルナンド・イワサキ/八重樫克彦・八重樫由貴子訳/新評論 』
筒井康隆氏は、巻頭言「大らかで根源的な笑い」で、この本について次のように述べられている。
それにしても人間とはなんと哀れで滑稽なものであろう。読み終えてつくづく悟るのはその愚かさだ。この愚かさによる笑いは、実に大らかで根源的であり、それこそが文学としての本書の価値であろう。
異端審問官が、うら若き娘らに真剣に、真面目に微に入り細をうがち、追求すればすれほど、グロテスクな姿となり、エロチックで滑稽なものになってしまう。笑いを誘う。
その雰囲気を拾ってみた。
異端審問官たちも、ダバロス家の姉妹への尋問には並々ならぬ労力を要したに違いない。何しろ若い娘たちの裸体を前にすることは、聖職者の高潔な魂をさらに堕落させるべく、悪魔が敷いた誘惑だからだ。マロン・デ・シャイデ帥は名著『ベマグダレーナの改宗の書』で、悪魔は男を揺さぶり堕落させるべく、女性の両太腿のあいだにみずみずしい果実を据えたが、それに抗い、蛇の頭を握りつぶせるような男には、神が天国行きを保証してくれると述べている。
いずれにしても聴罪司祭ルイス・ロペスは、リマ市内に暮らす敬虔なキリスト教徒の奥さまがたの口から飛び出す数多くの好色行為に、我慢も限界に達したということだろう。..
....当然ながらルイス・ロペスも、本人が行為に及ぶ際にはたえず欲望のある・なしを自問しなければならなかったし、相手のご婦人がたに対しても告解の場で、どんな時に快楽を感じるのか、裸で行為をするのか、それとも下着をつけたままでするのか、どのように衣服を脱いでいくのか、さらにはどの程度神の目に異常に映る行為をしているか……などと問いただしていたと思われる。
告解に訪れるご婦人がたは神との和解を望み、”みずからの邪淫なふるまい”を神のしもべであるルイス・ロペスに打ち明け、神にとってその行為が好ましいものかどうかを問いただす。
長年リマ王立聴訴院の死刑囚に屍衣を着せ、埋葬している慈悲深き修道女の証言。彼女は自身の経験から、しばしば死刑執行後の囚人の男根が、欲望による硬直状態になり神を冒とくするのを心得ている。......
高名な女子修道院長のお墨つきを得て、歓喜に沸いたフランシスコ会士たちは、大事なことを訊きそびれてしまった。それは死刑囚と修道士のペニスの大きさについてだ。教会で説かれているように、ペニスの大きさと罪深さが必ずしも比例しないことが判明していたら、どれだけ多くのキリスト教徒たちが、肉欲の罪にさいなまれることなく、のびのびと暮らせていたことか。......
葬儀から三ヶ月後、棺の蓋を開けたフランシスコ会士らの目には、腐敗せぬまま横たわる修道士の遺体と、この世に永遠の炎をともす大ろうそくのごとくそびえ立つペニスが映ったのだった。アーメン。
男と悪魔のペニスにどの程度違いがあるのか? 悪魔の一物がうろこに覆われ黒光りしているのは本当か。
純真な修道女たちは、悪魔の特徴をこのように証言している。<雪のように冷たく、魚のように黒光りした大きなペニスは、その珍しさだけでも一見に値する>と。
神父、悪魔、闘牛士、役人、商人......誰が一番女性にもてたのか。
聖職者に対する好意について問われた被告は、自分の経験からも間違いないと答えた。女たちは王室の役人や執行官、商人よりも、告解をした相手に身をゆだねる傾向がある。
イエズス会やドミニコ会は婦人たちが一番熱を上げる修道会だとのことである。神父が敵では騎士も闘牛士もかなわない、という噂は本当だった。
悪魔とは、何者だ。
四度目に薬を飲んだ際、マリア・ピサロは<腹にたまったガスが悪臭とともに放たれ、ようやく悪魔が出て行った>と語る。その言葉から察するに、悪魔はたとえ姿かたちはなくても、人に感知される程度の臭いはあることがうかがわれる。
カトリック教会はつねに黒人を悪魔と結びつけ、彼らに対しては、肌が黒いから醜いのではなく、悪魔ゆえに醜いのだとまで言っている。
教会の影響で、パンをはじめとする食べ物が祝福される一方、こと金に関してはサタンの商売だと見なされる傾向が強い。
無限の知性を持つ神が男にも女にも翼を与えなかったのは、結局のところ人間が、天のそばで姦淫の罪を犯し、空中から糞便を落とすことのないようにとの配慮からだったのだから。
いずれにしても異端審問官らは打開に向けて行動を起こした。リマ市民に外出を禁じ、夢魔が破滅するまでは夢を見ぬようにとの命令を布告した。
ご婦人方が、悪魔とするのと聖職者とするのでは、その気持ちよさには違いがあったのか。異端審問官は、当然取り調べた。
本書には、その違いが報告されていた。読めば分かる。
さて、「ペルーの異端審問」は17編の話で構成されているのですが、ぼくは次の2編が気に入った。
13 神の集金係 ビジネスの元手としてのお布施
14 平常服の耐えがたい悦び 重婚を続けたにせ神父
うら若い娘や貞淑そうな婦人から、告解された聴罪司祭は、そのなまめかしい話には驚愕するとともに、なにやら自分の頭の中もおかしくなってしまったのではないか、とぼくは想像した。
毎日毎日、そんな話ばっかり聞かされては、頭の中も体も持たないではないか。
彼女が事細かに説明してくれるのはよいのだが、露骨な言葉であったためか、拷問者らの繊細な神経を逆なでしたとみられる。<頭痛を覚え、歯の根が合わず、気が狂うほどの思いだった>と綴られたあとは、ご丁寧にラテン語で記されている。
ラテン語は、彼らにとって論文、論争などで使われる神聖な言葉であったはずなのだが。
とにかく面白かった。
なまめかしくびっくりするような話がたくさん書かれているのだが、どこか大らかで笑いを誘う。
真剣とか、真面目とか、猥褻とかを極限まで突き詰めていくと、ばかばかしく、滑稽なものに変容してしまうのだろうか。
<愚かなことをするのが愚者ではない、愚行を隠しきれないのが愚者である>
『 ペルーの異端審問/フェルナンド・イワサキ/八重樫克彦・八重樫由貴子訳/新評論 』
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