■長屋のお節介焼きは、事件を解決する 240715
白蔵盈太さんの『実は、拙者は。』を読みました。
久しぶりに面白い小説です。堪能しました。
江戸の町は、決して人に知られてはならぬ裏の顔であふれている。
棒手振りの八五郎 犬
市蔵店に住む浪人雲井源次郎 鳴かせの一柳斎
常廻り同心村上典膳 隠密影同心
長屋の人気者浜乃 公儀御庭番夕凪の真砂
八五郎は深川佐賀町の裏店、市蔵店に独りで住んでいる。
八五郎の隣の部屋に住んでいるのが雲井源次郎である。
市蔵店に越してきた頃の源次郎は、目が虚ろで生気がなく、まるで死神のようにげっそりと痩せこけていた。最初のうちこそ月代も剃っていて身なりも小ぎれいにしていたが、口がな一日部屋に龍もりきりで世捨て人のように人を避けているうちに、髪も髭もあっという間に伸びてしまった。
当時の源次郎は、いつも眉間に皺を寄せて決して笑おうとはせず、近所の者にろくに挨拶もしなかった。だが、根っからのお節介焼きで、人は持ちつ持たれつが当たり前だと信じて疑わない深川の連中を相手に、そんなよそよそしい態度が通用するわけがなかった。
源次郎がどれだけ迷惑そうな顔をしようが、八五郎や近所の連中は、やれ夕餉を作りすぎたからどうぞだとか、あぶく銭が入ったからみんなでパアつと飲みに行くぞとか、戸も叩かずにずかずかと部屋に乗り込んできては、源次郎を勝手に仲間に加えている。
源次郎は最初の頃、心底迷惑そうな顔をして、
「それがしは道を外れたはぐれ者。長屋の方々にご迷惑をおかけするわけにはまいらぬゆえ、そのようなお気遣いは無用にござる」
と言ってその余計なお世話を頑なに拒んだものだが、そんな態度は半年も持たなかった。
人は人に頼るもの、近くに人がいたら誘って一緒に楽しむもの、というのが深川の流儀である。
実は八五郎は、その「犬」の一人だった。
犬は普段、町中で普通に暮らしている。そして、犯罪に関する噂や、幕府のご政道批判や打ち毀しの相談といった、世間を騒がせるような不隠な動きを聞きつけたら同心に密告するのだ。
間者であることが周囲に知られてしまったら役に立だなくなるので、犬と同心との接点は必要最小限に抑えられ、普段はこうして岡っ引きの甚助を介して、長屋から少し離れたところでこっそりと連絡を取り合っている。
「村上様が直々に俺と会うって? 珍しいこともあるもんだな」
八五郎の「飼い主」は南町奉行所定廻り同心の村上典膳だが、ただの町人にすぎない八五郎が典膳と会って話をすることなどめったにない。
「てめえだけじやねえよ。この界隈の『犬』全員に呼び出しがかかった」
「なんでえそれは。大捕物でもおっぱじめようってのかい、お奉行は」
八五郎が驚いた顔でそう言うと、甚助は黙ったままこくりと頷いた。
「皆の者、ご苦労であった。本日こうしておぬしらに集まってもらったのは、南町奉行、大岡越前守様からのお達しを皆に伝えるためである」
挨拶もそこそこに、やたらと堅苦しい口調で用件を語りはじめたこの侍こそ、八五郎を犬として飼っている定廻り同心、村上典膳である。
歳の頃は三十半ば、真一文字に伸びた太い眉に、きつく結んだ口とがっしりした顎。月代はきれいに剃られ、きっちりと整えられた髪には一分の乱れもない。
くそ真面目な性格が見た目にそのまま溶み出たかのごとき、堅苦しい男だった。
定廻り同心の仕事は、犯罪の取り締まりと治安維持である。
その役目はなにも、人殺しや盗人の捕縛だけとは限らない。市中で起こる様々な揉めごとを、あらゆる方面の顔を立て、ときには多少の悪事にも目をつぶったりしながら、全員に角が立たぬよう丸く収めるのも同心の腕の見せ所である。
ところが、生真面目で融通が利かぬ典膳は、いつも奉行所のお達しや公儀の触れを馬鹿正直に執行しようとするものだから、管轄する地域の町人たちからは「話の通じねえお方だ」「お奉行様の腰巾着」と評判はあまりよろしくない。
「最近じゃ蓼井様は、囲っている娘たちを出世の道具にしているらしいの」
「蓼井様以外にも、色好みだけど悪所に大っぴらに通うのは憚られるような立場の方はいっぱいいる------ご公儀のお偉方であるとか、大藩のお大名とか。蓼井様はそういうお方を自分の隠し屋敷にお招きして、一緒に遊ばせてるのよ」
やりたい放題じゃねえか、と八五郎は思わず呻いた。
「そうすれば、そういうお偉方の覚えもめでたくなって、ますます蓼井様の出世につながる。いまじゃそのお屋敷は『黒吉原』って呼ばれて、その筋では有名になりつつあるんだって」
黒吉原。なんという醜悪な名前であろうか。
人目を避けた秘密の廓にあえて「黒」と名付けたところに、悪を悪だと知ったうえで、己であればそれも当然許されると信じて疑わぬ増上慢の響きがある。
「ちょ……ちょっと待て、浜乃ちゃん。それじゃ浜乃ちゃんは……」
「でもね、八五郎さん。私ここに連れてこられてからずっと考えてたんだけど、どうせ売られるなら、蓼井様の屋敷でやんごとない方々の慰みものになるほうが、吉原よりずっとましだと思うの。だって、それで運良く見初められたりしたら、どこぞのお大名の妾になれるかもしれないんだし」
「お、おい。何を言って------」
八五郎が必死に食い下がっても、典膳は目を逸らして取り合おうとしない。その腰の引けた態度はまさに、上役に媚びへつらう気骨のない小役人そのものだ。
だが、八五郎は典膳の瞳の奥に潜んだ、力強い眼光を見て確信していた。
------大丈夫だ。このお方は間違いなく動いてくれる。情けないふりをしてるのは、ただの表の顔。隠密影同心としての裏の顔は、いますぐにでも蓼井に天誅を下してやろうって、腸が煮えくり返ってるといった表情をしてるぜ……。
「八五郎とやら、決して望みを捨てるな。捨てる神あれば拾う神ありという言葉もある。拙者は手助けできぬが、天網恢恢疎にして漏らさずじゃ。悪は決して栄えぬ。くれぐれも神仏をよく敬って、信じて待つがよい」
その言葉は、普通に聞いたら無責任極まりないものだ。
だが、典膳の裏の顔を知る八五郎にとっては、隠密影同心が間違いなく動いてくれるという確約に近い、とても心強いものとして響いた。
「公儀御庭番には、いかなる敵の攻撃も力を逃がして静かに止めてしまうという、凄腕の忍びがいるとの噂がある。それでついた名が、『夕凪』」
「それが、この女だというのか」
「ああ。こうして実物を見るまで、拙者も半信半疑だったがな……しかし、あの夕凪の真砂が、まさか女だったとは」
典膳の言葉に、真砂は挑発的な口調で噛みついた。
「女だとわかったから何だ? 何なら、いますぐ闘って本当に強いかどうかを試してやってもいいんだぞ」
そう言って睨みつけてくる真砂に対し、典膳はやれやれとため息をつき、もはや闘う意思はないと示すようにゆっくりと刀を鞘に納めた。かたや、一柳斎のほうはまだ治まらぬ様子である。
「それがしは納得しておらぬぞ、夕凪の真砂とやら。我々の誇りをかけた真剣勝負、何の義理があっておぬしは止めた」
鼻息荒く尋ねるその態度はもはや、蓼井氏宗を警護するという本来の目的などどこかに吹き飛んでしまっている。典膳との勝負に白黒つけたいという、剣客としての本能が一柳斎にそう言わしめているのだろうか。
そんな一柳斎を軽くあしらうように、真砂は平然と答えた。
「そんな顔で睨むな。こんなくだらぬ闘いで、ご両人のような類まれな剣豪が共倒れになるのはいかにも惜しい。傍から見ていてそう思ったから止めた。それだけのことだ」
『 実は、拙者は。/白蔵盈太/双葉文庫 』
白蔵盈太さんの『実は、拙者は。』を読みました。
久しぶりに面白い小説です。堪能しました。
江戸の町は、決して人に知られてはならぬ裏の顔であふれている。
棒手振りの八五郎 犬
市蔵店に住む浪人雲井源次郎 鳴かせの一柳斎
常廻り同心村上典膳 隠密影同心
長屋の人気者浜乃 公儀御庭番夕凪の真砂
八五郎は深川佐賀町の裏店、市蔵店に独りで住んでいる。
八五郎の隣の部屋に住んでいるのが雲井源次郎である。
市蔵店に越してきた頃の源次郎は、目が虚ろで生気がなく、まるで死神のようにげっそりと痩せこけていた。最初のうちこそ月代も剃っていて身なりも小ぎれいにしていたが、口がな一日部屋に龍もりきりで世捨て人のように人を避けているうちに、髪も髭もあっという間に伸びてしまった。
当時の源次郎は、いつも眉間に皺を寄せて決して笑おうとはせず、近所の者にろくに挨拶もしなかった。だが、根っからのお節介焼きで、人は持ちつ持たれつが当たり前だと信じて疑わない深川の連中を相手に、そんなよそよそしい態度が通用するわけがなかった。
源次郎がどれだけ迷惑そうな顔をしようが、八五郎や近所の連中は、やれ夕餉を作りすぎたからどうぞだとか、あぶく銭が入ったからみんなでパアつと飲みに行くぞとか、戸も叩かずにずかずかと部屋に乗り込んできては、源次郎を勝手に仲間に加えている。
源次郎は最初の頃、心底迷惑そうな顔をして、
「それがしは道を外れたはぐれ者。長屋の方々にご迷惑をおかけするわけにはまいらぬゆえ、そのようなお気遣いは無用にござる」
と言ってその余計なお世話を頑なに拒んだものだが、そんな態度は半年も持たなかった。
人は人に頼るもの、近くに人がいたら誘って一緒に楽しむもの、というのが深川の流儀である。
実は八五郎は、その「犬」の一人だった。
犬は普段、町中で普通に暮らしている。そして、犯罪に関する噂や、幕府のご政道批判や打ち毀しの相談といった、世間を騒がせるような不隠な動きを聞きつけたら同心に密告するのだ。
間者であることが周囲に知られてしまったら役に立だなくなるので、犬と同心との接点は必要最小限に抑えられ、普段はこうして岡っ引きの甚助を介して、長屋から少し離れたところでこっそりと連絡を取り合っている。
「村上様が直々に俺と会うって? 珍しいこともあるもんだな」
八五郎の「飼い主」は南町奉行所定廻り同心の村上典膳だが、ただの町人にすぎない八五郎が典膳と会って話をすることなどめったにない。
「てめえだけじやねえよ。この界隈の『犬』全員に呼び出しがかかった」
「なんでえそれは。大捕物でもおっぱじめようってのかい、お奉行は」
八五郎が驚いた顔でそう言うと、甚助は黙ったままこくりと頷いた。
「皆の者、ご苦労であった。本日こうしておぬしらに集まってもらったのは、南町奉行、大岡越前守様からのお達しを皆に伝えるためである」
挨拶もそこそこに、やたらと堅苦しい口調で用件を語りはじめたこの侍こそ、八五郎を犬として飼っている定廻り同心、村上典膳である。
歳の頃は三十半ば、真一文字に伸びた太い眉に、きつく結んだ口とがっしりした顎。月代はきれいに剃られ、きっちりと整えられた髪には一分の乱れもない。
くそ真面目な性格が見た目にそのまま溶み出たかのごとき、堅苦しい男だった。
定廻り同心の仕事は、犯罪の取り締まりと治安維持である。
その役目はなにも、人殺しや盗人の捕縛だけとは限らない。市中で起こる様々な揉めごとを、あらゆる方面の顔を立て、ときには多少の悪事にも目をつぶったりしながら、全員に角が立たぬよう丸く収めるのも同心の腕の見せ所である。
ところが、生真面目で融通が利かぬ典膳は、いつも奉行所のお達しや公儀の触れを馬鹿正直に執行しようとするものだから、管轄する地域の町人たちからは「話の通じねえお方だ」「お奉行様の腰巾着」と評判はあまりよろしくない。
「最近じゃ蓼井様は、囲っている娘たちを出世の道具にしているらしいの」
「蓼井様以外にも、色好みだけど悪所に大っぴらに通うのは憚られるような立場の方はいっぱいいる------ご公儀のお偉方であるとか、大藩のお大名とか。蓼井様はそういうお方を自分の隠し屋敷にお招きして、一緒に遊ばせてるのよ」
やりたい放題じゃねえか、と八五郎は思わず呻いた。
「そうすれば、そういうお偉方の覚えもめでたくなって、ますます蓼井様の出世につながる。いまじゃそのお屋敷は『黒吉原』って呼ばれて、その筋では有名になりつつあるんだって」
黒吉原。なんという醜悪な名前であろうか。
人目を避けた秘密の廓にあえて「黒」と名付けたところに、悪を悪だと知ったうえで、己であればそれも当然許されると信じて疑わぬ増上慢の響きがある。
「ちょ……ちょっと待て、浜乃ちゃん。それじゃ浜乃ちゃんは……」
「でもね、八五郎さん。私ここに連れてこられてからずっと考えてたんだけど、どうせ売られるなら、蓼井様の屋敷でやんごとない方々の慰みものになるほうが、吉原よりずっとましだと思うの。だって、それで運良く見初められたりしたら、どこぞのお大名の妾になれるかもしれないんだし」
「お、おい。何を言って------」
八五郎が必死に食い下がっても、典膳は目を逸らして取り合おうとしない。その腰の引けた態度はまさに、上役に媚びへつらう気骨のない小役人そのものだ。
だが、八五郎は典膳の瞳の奥に潜んだ、力強い眼光を見て確信していた。
------大丈夫だ。このお方は間違いなく動いてくれる。情けないふりをしてるのは、ただの表の顔。隠密影同心としての裏の顔は、いますぐにでも蓼井に天誅を下してやろうって、腸が煮えくり返ってるといった表情をしてるぜ……。
「八五郎とやら、決して望みを捨てるな。捨てる神あれば拾う神ありという言葉もある。拙者は手助けできぬが、天網恢恢疎にして漏らさずじゃ。悪は決して栄えぬ。くれぐれも神仏をよく敬って、信じて待つがよい」
その言葉は、普通に聞いたら無責任極まりないものだ。
だが、典膳の裏の顔を知る八五郎にとっては、隠密影同心が間違いなく動いてくれるという確約に近い、とても心強いものとして響いた。
「公儀御庭番には、いかなる敵の攻撃も力を逃がして静かに止めてしまうという、凄腕の忍びがいるとの噂がある。それでついた名が、『夕凪』」
「それが、この女だというのか」
「ああ。こうして実物を見るまで、拙者も半信半疑だったがな……しかし、あの夕凪の真砂が、まさか女だったとは」
典膳の言葉に、真砂は挑発的な口調で噛みついた。
「女だとわかったから何だ? 何なら、いますぐ闘って本当に強いかどうかを試してやってもいいんだぞ」
そう言って睨みつけてくる真砂に対し、典膳はやれやれとため息をつき、もはや闘う意思はないと示すようにゆっくりと刀を鞘に納めた。かたや、一柳斎のほうはまだ治まらぬ様子である。
「それがしは納得しておらぬぞ、夕凪の真砂とやら。我々の誇りをかけた真剣勝負、何の義理があっておぬしは止めた」
鼻息荒く尋ねるその態度はもはや、蓼井氏宗を警護するという本来の目的などどこかに吹き飛んでしまっている。典膳との勝負に白黒つけたいという、剣客としての本能が一柳斎にそう言わしめているのだろうか。
そんな一柳斎を軽くあしらうように、真砂は平然と答えた。
「そんな顔で睨むな。こんなくだらぬ闘いで、ご両人のような類まれな剣豪が共倒れになるのはいかにも惜しい。傍から見ていてそう思ったから止めた。それだけのことだ」
『 実は、拙者は。/白蔵盈太/双葉文庫 』
コメントをありがとうございました。
「実は、拙者は。」は、面白い小説ですよね。
ぼくは、時間を忘れて読みました。
azuminoさんのブログを、いつも楽しく読ませていただいています。
この場を借りて、お礼を申し上げます。
僕も読みましたが、アイデアが面白い時代小説で、映画やテレビドラマ化されれば、楽しそうな小説だと思いました。
メインではありませんが、簡単な感想を書いてあります。時間があればご覧ください。
https://blog.goo.ne.jp/azuminojv/e/be4fe0274bf85d7555121f2105eb9aab