井頭山人のgooブログ

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咸臨丸航海長「小野友五郎」

2024年12月28日 12時35分59秒 | 明治・大正・昭和、戦前の日本

 私は小学校のころにそろばんを習い、その関係で日本古来の数学である和算に関心が有った。算盤は手動式の計算機でこれは現代の電子計算機を除けは、世界で最も発達した計算機である。しかもこの手動式計算機は電気も要らず、どんな山奥にも持って行ける。珠算一級の方のその速度は物凄いものです。さらに、珠算は頭の働きを活発にして、何桁もの暗算を一瞬のうちに算出し容易にさせる。珠算の超一級の人は、頭の中に算盤を思い浮かべて、それを弾くことで頭の中で計算機が作動すると云う。和算の起源を勘案すると、奈良時代に「九章算術」という書物が隋より渡来している事がある。東洋の自然科学はシナの科学に端を発しているが、それは未だ科学とは呼べない代物であり、古代支那科学の分析と解説は、藪内清先生や吉田光邦先生の様な方の研究が素晴らしい。なぜ古来の数学である和算に興味を抱いたかに附いては、江戸時代に算学は驚くべき速度で急速に発展し、なんと庶民の間にも大流行があったことなど、また各地の神社に奉納され算額を見る機会が有った為です。

江戸時代は徳川の世で、身分や作法、年貢などの掟は有ったが年貢さえ支払えば、他には身に詰まることは無かった。ただ農業経営が主であったので収穫は気候に左右される事が多く、大冷害の年は大変な事態になり、飢えに晒されて悲惨にも村が消滅するような事さえ発生した。これは冷害に備えて一年を遣り過す備蓄が無かった為でもあろう。全国300藩の中には、予め冷害を予想して備蓄米を米蔵に備えて、餓死を防ぐ策を取った藩もある。だが或る程度の余裕が無ければ取れない施策だが、領民の飢え死には、藩の名誉としては大恥の筈であろう。冷害に強い品種改良も江戸時代を通じて行われ、また肥料の関係も農民はよく知ってゐたが、「肥料公社」があるわけでは無く、肥料は百姓が工夫して自分たちで揃える必要があった。木の葉を集めて堆肥とするなど、現代では肥料の三要素として窒素・リン酸・カリウム、が必要な事は子供でも知ってゐるし、茎中の窒素を固定する技術さえあるが、当時は経験から試行錯誤を繰り返した。そして歴史に名を残す大飢饉だけではなく、不作の小飢饉は常に存在した。

天体物理学の観測から言えば、太陽活動は江戸時代を通じて低調で、中期からは小氷河期の時期に当たる。大飢饉と小飢饉が平均すると30年ごとに発生した。敏感な者は今年が飢饉かどうかを手近に有る兆候から、ある程度予想できたという。長期的な予想は無理でも経験がものを言った。飢饉の実相は太陽の光が弱い、曇天が多い、干ばつ、洪水、台風、と様々であるが、稲の品種改良が格段に進んだ訳でもなく、飢饉は常に直ぐそこに在ったと考える。過去の飢饉の記録を見ると、誰もが知って居る記録に出くわす、それは鴨長明の方丈記の記述にある「養和の飢饉」である。方丈記を読むと養和元年(1181年)に起きた飢饉は全国規模で、その年は春先から雨が降らず、旱魃が続き作物は実らなかった。源平の鍔迫り合いが続いた時代である。飢えた人々は都へ行けば何とかなるだろうとの希望から京に集まったが、そこでも食べ物は無かった。餓死者は特に東北は酷い惨状だったらしい。京都に流れ込んだ人々は結局は飢えて死に、臭き臭いが満ち満ちて、洛中には四万二千三百人の死骸が洛中に在ったと長明は書いている。日本国では日米戦争のあと、天候不順による作柄と収穫量の減少は存在したが、この様に大量の人が飢えて死ぬ事は無かった。

此処で江戸時代の飢饉の実情を詳しく調べれば、享保・天明・天保、3大飢饉だけではなく、その他にも多くの小飢饉があったのだ。先ず、元和五年(1619)、寛永十九年二十年(1642、1643)、延宝三年(1674~1675)、延宝八年(1680)、天和期(1682~1683)元禄期(1691~1695)、享保の大飢饉(1732)宝暦期(1753~1757)、天明の大飢饉(1782・1787)、天保の大飢饉(1833・1839)、飢饉で亡くなった人々は数百万人近い。天明の大飢饉では東北地方で40万人が亡くなったと当時の旅行家である菅江真澄が日記に残している。江戸時代だけでなく、飢饉は身近に在ったのだ。

小野友五郎は、私の在所から東に益子を経て、仏の山を越えればもう笠間のお稲荷さんです。車で行けば道の混み具合もあるが凡そ40分で行ける。友五郎の時代は笠間藩牧野氏の支配する八万石の小藩であった。友五郎はその笠間藩の一代限りの下士で、永続的な武士としての籍は無かった小守家に三男として生れた。父が亡くなれば兄がその後を継ぐのであるが、それは雇われることが保証されたものでは無くて。継続伺いを申し願いそれが代々許可されて来たと言うだけに過ぎない。友五郎は三男であったので家を継ぐ希望は無かった。それでどこかの家の養子に入る事で身を処する以外に道は無かった。友五郎の性質は温厚で熱心な性質であったのだろう。二十俵三人扶ちで生活はカスカスであり、元より贅沢をする等という事は有り得ない最低の武士であった。友五郎が15歳の時、笠間藩の算家である甲斐駒蔵に弟子入りした。15歳にもなって初めて学問をするのは、だいぶ遅過ぎる様に感じられるが、小守家では藩校に出す余裕も無かったのだろう。藩校に通わせるには、それなりの身だしなみも居るだろうし、学用品も掛かる。それで本来ならば7歳位には塾なりに出すべきが、貧乏でそれが出来なかったのだろうと想像する。

それで甲斐駒蔵の家に教えを受けに行く訳だが、入門してから友五郎は、一日とて休むことなく3里の道を通ったらしい。師匠の駒蔵は町場の賑やかな所が好きで、たまには酒を飲んだり芝居が掛るとまた足を向ける。そう云う性格だから、出歩くことが多くてなかなか家に居ない。そうすると友五郎は駒蔵が帰るまで家で待って居るわけだ。それが度々重なる。それでも友五郎は師匠が帰るまで待って居るので、流石の駒蔵もこの若い弟子の為に出歩くことを幾らか控えたらしい。3里と謂えば12キロメートルである。もちろん江戸時代の事であるから徒歩である。12キロを一時間で歩ける訳がないから、幾ら早く歩いても時速6キロメートル、2時間は掛かる。そして帰りも2時間で、何とも和算の勉強に往復4時間を費やしている。そして、それは通学時間に過ぎない、駒蔵に教えを受ける時間が2時間として、帰りも2時間、駒蔵が遊びに出て居なければ、家で待って居る。友五郎は、家の用事か、病気にでも為らない限り、雨の日も、風の日も、雪の日も、夏の盛りの暑い日も、駒蔵の家に教えを受けに出掛けたのである。15歳の食べ盛りの年頃では腹も減る事だろう。如何して居たのか?。この熱心さが、2年位で師匠の駒蔵の学力を追い抜く。学問の出発は晩かったが元々地頭は良かったのだろう。やがて、彼は藩の勘定方に採用され、藩の勘定所の下働きを熱心に遂行する。やがてそれが認められて笠間藩の江戸藩邸勘定役に抜擢される。

江戸に着任した友五郎は藩の扶持米の管理に仕事に精を出したが、勤務以外に暇を見つけては、精力的に数学の研究に邁進する。その頃に江戸は神田橋に在る長谷川寛の「算学道場」に入門した。当時の長谷川道場は全国から数学好きが集まった有名な道場であった。そこでは世の中の武士や町人百姓などの身分は一切考慮されなかった。ただ、そこで基準に成るのは数学の実力一本だった。だから全国から数学好きが集まった。中には農家の次男坊なども居て月謝が払えないので、天秤棒を担いで魚屋をやったり、大工の下働きをやったりして、何がしかの金を得てそれを月謝に宛てていた。長谷川寛は実に物の解った指導者で、入門して困窮してゐる者は道場の寮の賄や掃除などをさせて僅かだが給料を支払い塾生の生活を助けた。その頃、友五郎は長谷川道場に入門すると同時に、伊豆の江川英龍(太郎左衛門)の所に出掛けて西洋式の反射炉で鉄を作る技術とか蘭学などを学んでいた。英龍も友五郎が見どころの或る青年であるので可愛がった。

時は幕末である、嘉永五年にPerryが江戸湾に現れて強引に外交開国を迫った、そんな時代である。もう家柄がどうしたとか謂って居られない時代であった。実力のある人材が求められる危機の時代でもあった。時の老中筆頭、阿部正弘は、家柄を越えて真に実力ある賢人を抜擢した。いま迄は家柄が役職を独占していたきらいがあった。安倍老中はこの様な危機に時代に遭遇しストレスの為か若くして亡くなった。その後を継いだのがあの井伊掃部守直弼である。老中筆頭はやがて大老となる。何人かの目付は井伊直弼の大老就任に反対したが、それはごり押しで通って仕舞い、歴史は安政の大獄を演出する事に成る。

 
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哲学の東北

2024年12月05日 20時29分04秒 | 日本文化の多様性

 哲学の東北とは或る本の題名である、中沢新一か?。僕には東北はなにか鈍臭くて、それでいて強靭な深い何かがあると感じる。外面に捉われない自立の強さと詩情の豊かさがある。自分は東北に対して常にそう感じて来た。僕の生まれは北関東だが、それは或る意味では南東北である。僕は関東人であるが、こころの中では東北人である。雪に閉じ込められて耐え、春を待つ希求のひたむきな強さがある。東北には闇と光の計り難い何かがある。それは二万年を越す縄文の地霊かも知れないし、大自然のふところに暮らした、永い永い歳月の記憶が積み重なった霊的地層である。東北人は日本人の原型なのである。彼らは、一見寡黙であるが思考の中では饒舌で、時流に流されない根源的なものを求める。斎藤茂吉、棟方志功、宮沢賢治、寺山修司、思い付く名前をすこし並べて見たが、なにかここに共通項は見いだせないか?。

芸術家の大抵は一途で個性的だが、上に挙げた彼らは、非常に不器用で骨の太い主張と存在感がある。鈍臭いにも関わらす豊かな味がある、然し全くスマートではないのだ。野暮ったくて、それゆえ信頼できる。なぜなのだろうと長い間感じて来たが、これと言った説明が付かなかった。その内、もしかするとこれは人種が違うのでは無いか?とまで思った。何か東北と云うと縄文人である。それから沖縄も縄文人、日本文明は異質な物の混合か。哲学も文学も圧倒的に東北が強い。ナウマンゾウを取ってゐた人々が居る、ゾウが滅んだのが35000年前と云う、ならばその当時この列島には人が住んで居たはず。過去の歴史は中々推察し難いのである。文字記録がないのは当然の事だろうが、人々は話すばかりで話を文字で再現できないのだ。人間の文化は、火を取り扱うこと、土器を発明したこと、文字を発明したこと、で、文化の進歩度が格段に進んだ。人間の住むには温度が決定的な役割をする。当時の人々は狩りばかりしていたのでもない。栗を栽培したり柿やイチジクも作ったであろう。陸稲が縄文期には在った。

空想を逞しくすると、仮に日本人の起源が東南アジアに太古存在したというスンダランドに在ったとすると、今から5万年前以上以前、スンダランドが水没する前に、その住人は、JavaからAustraliaに出てNew ZealandからPolynesiaに広がりPolynesiaは現在は島々であるが超古代には、そこはある程度の大陸を形成していた。水没を機会に彼らは北上し日本列島と目指して船を進めた。彼らは日本列島が在るとは考えもしなかったがそこに流れ着いた。もちろんPolynesiaからと同じく、黒潮に舟をこぎ出しPhilippinesからTaiwanを経て、沖縄諸島をへて九州に来た者も居れば東京湾、鹿島灘に入った者も居たであろう。関東地方は海が深く進入し大きな内海を形成していた。そこは魚介類が豊富で、気温の温かかった当時は照葉樹林の大森林が形成されていたであろうから、将に楽園だったのだ。いつの事であったか新聞に鬼怒川中流域でクジラの化石を調査している県立博物館の記事が出ていたことがある。

*何人かの男たちが干上がった川の中でタマ石を掘り返している

通り掛りの者 ー 何をして居るんだね?

博物館の職員 ー クジラの骨を発掘しています。

通り掛りの者 - ここは川だぞ。

博物館の職員 ー ハイ、今は川です、しかし1500万年前、この場所は内海でた。それは中々信じられない事ですが、現実で確かです。我々の生存時間のスケールでは、地球の変化は実感出来ませんが、陸地は移動し隆起と沈下を繰り返しています。

当時の海の深さはどのくらいあったのか?が、思われるが、関東平野には太平洋の海が深く入り込んで、栃木、茨城、群馬、埼玉に跨る内海を形成していた事は、海岸線に沿って貝塚遺跡が何千と点在していることを考えれば、この海は豊かで穏やかな海だった事が窺がわれる。千葉の外側を、暖かい黒潮が還流して居いて、非常に住み易い所であっただろうと想像する。縄文期の水深がどの位あったのかは不明だが、一千万年前にこの鬼怒川の中流を10mのクジラが泳いでいるとすれば、少なくとも30mの水深はあったのでは。関東地方の等高線を考慮して見ると、その大まかな形状が推察される。此れだと北関東の平地はだいたい水没する。山地に降った雨を集めて鬼怒川も塩水の内海にそそいで居た可能性が大である。山地には落葉広葉樹林と針葉樹の森が大森林を形成していた。二万年に及ぶ縄文期がそこに展開された。これは一種の奇跡である、大自然の恵みの中で自然と共に生きて来た古い人類である縄文人、この世界はまだ明確に明らかにされてはいない。縄文期が17000年続いた、それ以前に12万年もの旧石器時代があった。12万年前の磨製石器が出土しているのだ。この石斧やガラスのナイフなどを使い、採取と漁労により生活を支えて居たのだろう。

氷河期は最近の物も含めて何度もあった。近々の例を挙げれば、ギュンツ氷期(80万年前)、ミンデル氷期(38万年前)、リス氷期(15万年前)、ウルム氷期(1万5000年前)、そうして我々は次の氷期を迎えることに成る。そして人間に取って肝心なのは、この氷河期がどうして到来するかという事です。永い地質年代を俯瞰すると、氷河期は珍しくなく、寧ろ間氷期に比べて氷河期の方が永いことが解かるのです。人間の文明はこの間氷期の間に発達したものです。温暖な気候に下に植物が繁茂し、それに支えられた動物が増え、動物の一種である人間も増えた。次の氷期が来ると、たぶん私の予想でしかないが、我々の「神である植物は」減少し、本物の食料減少に見舞われる。現在80億人の人口は1000分の1に成るかも知れない。それは地球全人口が800万人に成る事です。500分の1とすると1600万です。必然的にそう成らざる得ない。

地球の歴史を遡れば、或る時太陽が弱くなり何度も氷河期は訪れた。寒冷化の原因は太陽活動の弱まりと地球自体の原因、火山活動の活発化大気中への光を遮る埃灰。宇宙線の増大により雲の発生で太陽光が地表に届かぬ寒冷化、太陽系の歳差運動による周期的なサイクル。色々と原因らしきものが挙げられたが、これが原因という物は一つでは無いであろう。円の中に正多角形が内接する、そしてあらゆる形が円に含まれることで、形はすべて円の中に在る。特に円に内接する精妙な形は、円内の存在する正多角形である。五つの正多角形に数学者としてのヨハネスケプラーは宇宙の構造を見た。彼の考えた惑星の軌道は、この多角形とその運動がもたらすものだった。そうすると正多角形が宇宙の軌道を構造を作っていることに成ります。ケプラーはたぶんそう考えた。(宇宙が非の打ち所がない程完璧ならば数学的整合性が宇宙を形作っていると)。だが多角形は無限の存在する。我々は正二角形さえ描くことが可能だ。

だがKeplerが考えた宇宙的定理性と調和は、物理的存在様式とは同値ではない。数学の理念と現実の宇宙は同じではないということです。実際に宇宙を形成しているのは原則としてはエネルギーが最小のかたちで形成される。これは普遍的な原則です。この宇宙もその様な形を維持している。氷河期も大規模な運動の歪から起きる。それは未だに解明はされていないが、定期的の起こる事を思えば原因は確かに在る。未だに太陽系の形成とその運動は隅から隅まで解明されたわけでは無い。若しもその経過を詳細に調べて見れば、地球内部の原因、太陽系と太陽活動の原因、太陽系を覆う外部銀河系宇宙の原因、と、に分けられるでしょう。我々を含めた生命という存在は、この地球という惑星が生み出したものです。我々は大自然のほんの小さな一部です。

一人の人間の寿命は、カゲロウやセミにくらべれば長いものです。本川先生の本に「ゾウの時間とネズミの時間」というご著書があります。そこで謂われているのは大きな動物ほど長命で小さな動物ほど短命というご指摘です。だが短命と長命が一概に比較できる物では有りません。長命だから得で、短命だから損であるとは言い切れないのです。生物の寿命はその生物の心臓の鼓動数が決めているという御指摘もあります。確かにゾウの鼓動はゆっくりで、ネズミの鼓動ははやい、その鼓動が一億回を打った時が一つの命の寿命だと仰ってゐる。わたしは調べた事が無いですがわかる気がします。そしてもっと言うならば、動物のゾウは子供を産むのに二年に一頭です。ネズミはネズミ算式と言う様に、短期間にたくさんの子供を産む。産まれて来た命がこの世で生物的に為さなければ成らない事は、つぎの世代を産む事と、自分が飢え死にしない様に自分の体を維持する事です。これが地球上の生物の基本的な仕事です。生命はその様に設計されているのです。ですから最適状態を模索するように作られている。大自然は無駄を省きます、最小作用の原理があらゆる所に働いてゐる。大自然の配慮ははるかに人智を超えて居ます。生命の設計は何か大きな数学の原則を再現し大自然はそれを顕現して居ます。

「植物は動物に取って神の如き存在です」。動物はすべて、植物によって命を支えられて居るのです。皆さんは、モミジの種子を見た事が在るでしょうか。モミジの種子は種に二枚の羽根が生えています。その羽根を詳細に見て調べた事が在りますか?。その羽根は実に芸術的に設計されたものです。あれほどの美しい構造を見たことが在りません。何かに気が付く筈です、そうですハエの羽根にもそっくりです。これは驚くほど似ている、私も詳細にルーペで観察し、ハエの羽根とモミジの羽根には、自然上の何らかの知られていない共通性が存在すると思いました。わたしが生物のかたちに興味を持ったのは、小学生の頃でした。なぜこんな形をしているのだろう?、わたしは昆虫少年でしたので、セミやカマキリ、蝶や甲虫類に常に関心を抱いて居ました。自然には何らかの深い配慮が潜んでいると感じていました。世の中は段々に、そんな疑問に答えを用意できる段階にまで進みました。1980年代に「自己組織性」という言葉が学問にも現れて来たのです。その言葉になんら違和感は有りませんでした、なぜならば自分が自然観察から得た結論が、その自己自身で自分を形図くる本能的な能力にある事を知っいたからです。これを数学的に解明する事が必要だと感じていました。生物のかたちは遺伝情報(DNAの塩基構造)のなかに潜んでいる。ですからその塩基構造を記号情報として形の形成と結びつけなければ為りません。それは未だ解明されていない分野です。数学と情報理論、暗号理論、確率論、非線形力学、分子構造数学、非可逆過程論、熱力学、統計物理学、量子力学、相対論、流体力学、成長過程分析、波動工学、等々、理論物理学の全領域と数学の全領域を知って居る必要があります。不思議なのはなぜ、自然はDNA構造の様な見事な情報の蔵を創り上げたかです。

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見えない五つめの次元に付ゐて。

2024年11月25日 17時27分16秒 | 天文学と宇宙論

 我々の存在する世界は三次元+時間の四次元で構成されているとされている。物の存在は、一応、縦・横・高さ・の三つのベクトル+時間で、空間内の変化の挙動表現が可能だ。ユークリッド幾何学の描く物のかたちは、X・Y・Z・軸で表現可能である。一応そういう事に成ってゐる。我々の眼のもたらす映像は、この三次元の中で生成されたものであるので、当然と言えば当然の事であるが、我々の眼も脳も多次元を感知する様には出来て居ない。ところが物理学の冒険的最先端では、現象の説明にもう一つの次元を要求する場合がある。それどころか世界は10次元とか11次元とか、果ては24次元でなければならないとまで主張する者まで居る。

我々の世界の物事の構成には基本的な4つの力が働いているとされているが、それはなぜ4つに力なのか?、そこに謎がある。その内の2つは我々の感知しない力である。もう2つは身近に感じる現象を司る力である。感知しない二つの力とは原子核を構成する陽子と中性子などを構成する、我々の存在次元とは異なる力である、我々を構成している次元では、重力と電磁気力しか解らない。私たちの心は電磁気力と重力で作られている。陽子は三つの構成子から成りその構成子間を結び付ける力で強い力と呼ばれている引力(此処で仮に力を引力と呼ぶ)である。強い力とは陽子を破壊してもその構成子に分離できないからで、相当、強烈な力で結び付けられている。次に原子崩壊を司る弱い力と呼ばれている引力がある。この力は重い重量の原子が電子と中性微子を放出して一段軽い原子に変異する時に関係する引力である。この二つの引力は我々の目に見えない段階での引力である。次の二つの力は電磁気力と万有引力である。

この電磁気力と引力を一つの物として考えられるのでは無いか?と考案した幾つかの構想の内、ヘルマン・ワイルとカルツアークラインの物が今も生き残ってゐる。特にテオドール・カルツアーのアイデアを後にオスカー・クラインが発展させた、カルツアークライン理論が有名で、此れは結局上手く行かなかったが、このアイデアは応用範囲が広く、今でもこの理論の焼き直しされたモノが時々提案される。

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日本科学史ー吉田光邦

2024年11月20日 21時13分23秒 | 日本の古典

 吉田光邦氏の「日本科学史」を読む、吉田さんは凄い思想家で、何冊もの秀でた本を書かれてゐてこの本も優れた著作である。初版は1957年で小生が小学校一年の時である。吉田さんの著作で一番初めに読んだものは「江戸の科学者」という著作である。何時の頃かは定かでは無い。和算の人物が紹介されてゐて大変に面白い。また此処には江戸時代の特筆すべき思想家が記述されており、森銑三先生の「オランダ正月」と共に愛読した著作である。この日本科学史が提起している問題の一つに、前書きで、吉田さんの先生でChina古代科学研究の泰斗である藪内清博士が書かれている様に、「日本文化の中から自然科学はなぜ生まれなかったか?」という問題に答えようとした物であろう。全般にアジアでは、日本を含めて数学的分析的な自然科学は生れなかった。

古代Chinaに、科学の萌芽が無かった訳ではないが、最終的には定量的な科学はうまれていない。Chinaの三大発明品とされている「羅針盤」(指南車)は、誰が最初に発明し、それが何処だかは本当の事は解らない。あとは「紙」と「火薬」である。紙は文字の有る文化でなければ当面必要とはしないが、有った方が便利には違いない。紙は集権国家には必要欠くべからざるものでしょう。紙で思われるのは、paperのその語源ともなったエジプト文明の「パピルス」です。彼らは、ナイル湖畔に群生するアシを集めてその繊維から紙を作った。植物の繊維が無い所では獣皮を使ったのでしょう。Chinaで紙が出来た時期は時代は特定できないが、記述の在る記録によれば、この紙を一般的に普及させた「蔡侖」という人物について吉田氏は別の著作、吉田光邦評論集Ⅰ(芸術の解析)で書かれている。

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フランス革命と精神現象学

2024年11月18日 07時37分34秒 | 世界の近・現代史

 フランス革命について、その名称を知ったのはいつの頃だろう。村の小学校の小さな図書室には多くに日本の偉人伝が確か並んでいた。湯川秀樹、北里柴三郎、志賀潔、野口英世、牧野富太郎、伊能忠敬、二宮尊徳、その中に外国人の偉人も並んでいてトロイアの発掘で有名な考古学、ハインリッヒ・シュリーマン、キュリー夫人、バスコダ・ガマ、ロビンソン・クルーソー、そして、その中に子供向けのフランス革命の本なども在った。小学生の頃、私の小学生時代は昆虫少年で、色々な虫を集めることが趣味でもあった。セミやカマキリ、カナブンなどの甲虫類は解るが、地面を歩く虫は名前を知らない。それで図書室にあった昆虫図鑑を見る為に授業が引けると木造の図書室に入った。校舎は現在から150年前に建てられた懐かしい木造一階の校舎で、今なら文化財に指定されて然るべきものだろう。ここでのタイトルはフランス革命および精神現象学であるから、遠い記憶を思い起こして書いてみる。

小学五年の子供にはまだフランス革命の本質は到底解らなかった。後年トックビルのフランス革命について、マチエやとか何冊かの本を読んだが、其処にはトックビルの様な批判もあったが、大方は賛辞しか書かれて居ない。この事件はアメリカ独立革命と関連して居りそれにはFreemasonの暗躍が深く関係している事をしった。そして自由平等博愛が、矛盾する聴こえの好い絵に描いた餅であり、裏で画策していた連中の血に塗られた破壊の遂行である事が段々に解り、今までの知らん重要な側面を知った。それは澤田昭夫先生のご著書も大いに関係している。この本は現在封印され多くの人々が読めない様に成っている。

精神現象学は、curl・Friedrich・Hegelの理論的著作ですが、その前に神学校の時代に構想を練った宗教書を書いている。精神現象学は非常に読み辛く、最初の頃の宗教書が明晰で明解なのに比べて、後で書かれているこの本がなぜこんなにも晦渋なのか不思議に思った。翻訳が拙いに違いないと予想したが、これはどうも相でもないらしい。熟達した独逸語の友人に聴いてみたが、「僕にも分らないがこの本は人に理解してもらう意図が無いのかもね、遠大な目標を掲げたが途中で尻切れトンボに終わっているし、大体この本は完成して居ない」。「あのね、本を書くからには他人に理解してもらう事が目標の一つでしょう」。Hegelのこの本に対する意図は何だったか?先ず、それが問題だ。精神現象学は、人間精神の進歩を段階を追って描こうとした目的があった。いわゆる人間精神の進化とでも言うべき主旨なんだと思うのだ。まあ深い意図のある大それた企画だな。最初、精神から始まり意識、そして最終的には人間の精神の発展につなげたいらしい。若い頃はそれが解らなかったが、歳を取ってこれを読みこれは人間の発展史観なのだ。つまりMarxの描く世界の破壊の源泉原型なのだと思った。とするとHegel自身もFreemasonであったことに成ろう。

Hegelが生まれた当時の独逸は、数十の小国家に分れていた、それは三十年戦争という原因とその後のWestphalia条約という理由が有る。史実として三十年戦争を調べて見たら好い。表面上はCatholicとProtestantの争いであるが、その裏には様々な意図がある。これで独逸は荒廃の極に立った。独逸の民衆は生活を破壊され、地獄を見たのである。この気違いじみた破壊の時代にも幾らかの常識人も居た。それはヨハネス・ケプラーを始めとする知的探求者である。Catholicとそれに反対するProtestantの勢力争いの背後にはFranceのRichelieu枢機卿など戦争を仕掛けた者たちの意図がある。そして、其処には後のFrance革命の謀略源泉も潜んでいる。現代では金融と報道を握った者が世界を支配するのだが、当時もそうであった。

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「玄語」ー黒い言葉の宇宙

2024年11月13日 15時03分07秒 | 日本の古典

 「玄語」は、江戸中期の豊後の人三浦梅園の主著である。彼は其の解説本とも言われる「贅語」を書いている。ところで山人がこの本のお目に掛かった最初は、父の蔵書を探検していた高一の夏の頃で、「玄語」とは何だ?この書物には一体何が掛かれているのだろうと手に取ると、文章は漢文であり何やら円を二重に三重に描いた中に三角や四角が鏤められた図形が出て来る。幾何学の本か?、私の学力では文章の漢文自体は殆ど読めない。この本は天文学の著書なのかな?とも考えた。その時はそれで終わった。自分の力では読めないものを読もうとしても、これは骨が折れると感じた。高1だから学力に弱いところがある。数1の教科書は当時の阪大の教授であった功刀金次郎博士の監修だ。式と計算、因数分解、分数式、無理式の計算、二次方程式、高次方程式、三角関数、指数関数、対数函数、と基本的な事が多々ある。いま57年前の教科書を読み返すとレベルは非常に高い。数Ⅰは250ページくらいの教科書だが、功刀先生には、失礼な表現だが実に良く書けている。続く数ⅡB、数Ⅲも、中々良い教科書だ。これを完全に理解し応用を練習すれば高校数学は90点は取れそうだ。梅園の著作がこの数学を使って理解できるかもしれないと思った。しかしそれにしても難解だ。第一に漢文が読み下せないのだ。端から文が読めなければ、梅園の思考の過程跡と結論が推察できない。

山田慶児氏は三浦梅園の自然哲学「玄語」の中で、梅園の思索の跡を詳細に追っている。永い時間を掛けて培われた梅園のこの論文集を解明するのは、なかなか容易な事ではない。特に漢文の敷居の高さが顕著である。しかし漠然と感じるには、この異常なる思索者の道具立てが五行説であったり干支の構造であったりしているのは、どう見ても道具立てが古いと感じるし、易や五行、陰陽、などの二分説には何か的外れの感もある。易経や五行説、陰陽、干支、など、シナの文化的著作の影響を受けた当時の日本では、どう見ても道具立ては此れしか無かったのでしょう。和算と天文学が合体して居たら、梅園の自然哲学はもっと明確で分かり易いものに変って居たと思われる。

山田慶児先生の名著の序文を拝見すると、先生のある意味での嘆きが解る。一言で云うと、この日本史上も最も偉大な哲学者であろう、「三浦梅園は未来の現代科学の世界に対しては、余りにも早く、古代の天気思想に対しては、余りにも遅く、生れて来た思想家であった。」陰陽・五行の思想はもう古代の遺物に成りつつある時代に、梅園は、その道具を使って自然哲学を詳述しょうと努力した。その努力が殆ど価値を持たないとしたら。人生を枯渇した何とも恐るべき事であろう。梅園の努力は過去の遺品を道具を使い、その気の哲学で物理現象を探求し、且つ説明を為そうとしていた訳であるから。二元論はそれでも西欧にヒントを与えた、0と1の二進法である。梅園は現代の自然科学の萌芽が出始めた時代の直前で亡くなった。彼の知力をもってすれば、生涯の疑問も解き得たか。

ここで「玄語」の大筋を見る。言語は宇宙の現象を説明する為の方法を志向する。その指導原理は、天と地、上と下、陰と陽、などの二分法である。それに要素としても五行説など元素の導入である。この二分法と五行説を絡めて現象を分類する。だがこの様な二分法と五行説、更にそこに干支を加味して果たして自然現象の根源を説明することが出来るのだろうか?。不思議と謂えば不思議な理屈である。これは謂わば占いに過ぎない。近代の自然科学は数学を基礎とする。ところが此処には数学らしきものは見られない。シナの文化的伝統がこの様な分類学で自然現象を説明しょうとする方法論だ。ここには自然科学の基礎である数学の方法論を使われていないという事は思えば不思議な事である。シナ人はどうやって納得するのかは奇妙な事である。玄語はシナの伝統的な哲学である例えば朱子学からは有効な方法論は出て来ない。

三浦梅園は秀でた自然哲学者であった。彼の方法が上手く行かなかった根本の原因は古代東洋の哲学である、陰陽、五行、易、などの説で自然現象を説明しょうとした事である。梅園の時代においては、それは仕方のない事であったと私は思う。我々が少しでも自然現象を説明できるのは、我々が古代ギリシャの始まり、16~17世紀の西欧の錬金術師に始まり、分析的科学に始まる土台に立ってゐるからに過ぎない。だが、梅園の時代はそれがまだ完成されては居なかった。更には当時は鎖国の状態であり、ギリシャ時代の科学も、錬金術に始まる物質の科学を、少しも知らなかった時代であったから。

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寺田寅彦について。

2024年09月21日 10時06分09秒 | 明治・大正・昭和、戦前の日本

 文人的科学者として有名な寺田寅彦は、江戸幕府が瓦解して西洋文明(主に独仏英)を受け入れ、そしていち早く西洋文明の粋であった科学力と技術力に追い付く事を目的にした、明治の中期に現れた物理学者であった。今でも彼の随筆は多くの人々に読まれており文庫本の再販は常に為されている。とても人気の高い科学者である。寺田寅彦の人生と、その科学の考え方を書いた評伝は、小生の見るところ10冊以上は有ると思う。彼の科学随筆は、少し増せた中学生や高校生にも読めるものだ。随筆の種は身近な自然の中の不思議という物から始まり、平昜は文章の中に科学的に鋭い探求心が発露されている。それらが永く愛される理由であろう。自然現象の面白さを題材にする、このような一連の随筆が、寅彦以前に無かった訳ではないが、寅彦ほど本格的に発表し続けた人は他に居なかった。

思うに、これと似た物に「和算」の伝統である「算額」の存在があるのでしょう。算額は幾何の問題を解いて、それを大衆に知らせる役割をしたが、不思議な事に、江戸時代の日本の大衆は数学が好きだった。なぜ不思議かと云うと、現在の日本では数学は毛嫌いされる分野の代表格の様なものだからです。これは嘘ではないです、例えば、中・高・大の生徒に、数学は好きかと聞いてみたらいい。大好きだという者は100人に聴いても10人くらいでしょう。あとの9割は嫌いだというに違いない。その理由を聞くと、試験で好い点が取れなかったからだ、という答えが返った来る。たぶん数学や物理は、先生の教え方に大差が出る分野ではなかろうか?。先生の個性や教授法で理解に大きな差が出る。ここに名前を挙げないが、良い先生の弟子には決まって、良い先生が出ることが多い、寺田寅彦の弟子の場合もその例外ではない。

評伝に必ず載っているのが、夏目漱石との出会いである。この出会いは寅彦の生涯を決定したと想像します。熊本の第五高等学校時代に寅彦の英語の担任となった漱石は俳句をやってゐた。漱石が俳句を遣るようになったのは子規の影響からだが、子規と漱石は大学予備門以来の親友である。大学を卒業し東京高等師範の英語の先生として就職したが、校長や周りと合わずに幾らも勤務せず東京から脱出して、子規が療養している松山に行くのである。旧制松山中学の英語教師として就職した。「坊ちゃん」はこの時代を描いてゐるが、漱石は自分で給料は校長よりも上だったと書いているのが面白い。そうして確か一年後に、第五高等学校の方から英語の担当をしないか?と誘われて、そこに行くのである。五高には会津藩の生き残りである漢学の秋月先生とかパトリック・ラフかディオ・ハーン(小泉八雲)など、異能の先生が沢山ゐた。寅彦はこの五高で「師と生徒」として漱石に出会った。その出会いも授業であったのではなく、クラスメートの為に英語の試験の点を貰いに何人かと出掛けた中で出逢った。

それ以来、先生と生徒は師弟関係を越えて人生の親友となった。こういう関係は、誰しもが求めていても、中々得難い関係である。それは人間の基本的な欲求が共鳴し合う関係である。自然の神秘を根底から解明したい寺田と、人がこの世に生きる真の目的は何か?、人間関係のもたらすこの世の喜びと悲しみを追求した漱石。この様な基本的な人生観が二人を結び付けたのだろう。この二人はどちらも稀有の才能を持っていた。こういう関係は日本に例が無い訳ではないが、やはり稀な事だろう。異分野で才能が共鳴し合うという誠に豊かな付き合いがあった。この二人は自分の人生において本当に幸福であったか?、どうかは知らない。だが、漱石は家庭生活に於いて幸福ではなかったと私は思って居る。女房が良くなかった。いや、良くないという言い方は適切ではなくて主人と妻は肌合いが合わなかった。という言い方の方が正確だろう。たぶん女房にも言い分は有るのだと思います。相思相愛の夫婦は中々居ないと自分は想うが、どうなのだろう?。寅彦に付いては多分、相思相愛だったのだろう。だが妻は余りにも早く、この世を去った。寅彦の書いた「どんぐり」を子供の頃に読んだ事がある。自分は泣いて仕舞った。漱石と寅彦の二人は、順風満帆の人生ではなかったが、おおくの稀有の実りをもたらしたと思う。

寅彦の科学随筆の特徴はその鋭敏さである。書き溜めた随筆をある程度纏めて出版していて味わい深い。そして実に面白い事を書いている。少し気に成った随筆を挙げれば、「変な物音」、とか、「科学者と頭」とか、「鐘に血ぬる」とか、幾らでもあげられる。特に科学者と頭を少し書くと、科学者は、まあ一般的な基準では、もちろん頭が良くなくては科学者として立ち行かないのは当然の事だが、だが、最も肝心な所で、科学者は頭が悪くなくては、本当の科学者には成れないと謂う。寅彦が言おうとしている所は実に核心を突いている。本物の創造的な科学者は平均以上の高い理解力を供えている事は当然の事だが、物事の本質を探究するには、少し頭が悪くボーッとしている頭が必要だ、で無ければ新たな独創的な力は涌かないと言おうとしているのではなかろうか?。頭の回転がが良すぎると月並みな上滑りに成り易いことを指摘する。物事の裏には深い法則性の神慮というものが働いているという認識があるのだ。その法則性と云うか、大自然のもつ法則形成力の成り立ちや法則の目的性の時間軸など、それを瞬間に理解するには、人間の弱い理解力では立ち行かない。理解の為の発酵期間が必要だという事を言っているらしいのだ。思念の発酵期間がある、それは或る問いを自然のままに任せて置く事で、その発想が進むという現象である。人間の精神性の中には自動で進むものが在って、それに任せて置く事で新たな知見に立つことが出来る。

人間のこころは自我意識がずべ手ではない。自我意識というものは本来の深い意識レベルのごく表面の物に過ぎない。それは数学の分野でもあり哲学の分野でもある。そして心理学の分野でもあり得る。我々は日常意識のレベルで暮らしてゐるが、鋭い探求者とか本当の詩人とかは、日常の覚醒レベルで暮してはいない。詩人は放然とする性癖を持つ。それでなくては真の詩は作れない。永らく言葉を待つ事も在る。詰まる所、俳句の境地は自然描写だと子規も書いている。漱石は漢詩を好んだが、俳句もやった。寅彦はおもに漱石から俳句を学んだ。彼らの友人には高浜虚子もいる。事実、寅彦の「ドングリ」は、虚子の主宰する雑誌に掲載された。あれ確か、漱石の「吾輩は猫である」も、虚子の雑誌に掲載されたかな。とにかく虚子の主宰する雑誌は投稿するのに便利だったらしい。

寅彦は、自分のフィールドである、科学からの種を基に多くの作品を書いた。では彼は随筆だけを書いて居たかと云うと、そんなことは無く、立派な内容の英文の論文もたくさん書いている。寅彦全集にはその英文の論文集が六冊ほど揃っている。寅彦の真骨頂は、我々の身の回りに在る自然現象に注目して、それが物理学の最先端の問題と被ることである。キリンの縞模様の物理、乾いた田んぼのヒビ割れの論理、等々、身の回りの不思議は気が付きさえすれば沢山ある。

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古史古伝について

2024年09月10日 13時58分42秒 | 日本の歴史的遺産と真実

「古史古伝」と言われている文献資料は、現在の学界では信頼に足る正式な文書とは認められて居ない。それらの文書は、現在使用されている日本語の文字では無い文字で書かれている。一括りに言うと神代文字と称されている文字である。若しも、それが本物の古伝書ならば、日本での一応公式な古代史書である「古事記・日本書紀」などは、多くの訂正されるべき点がある。漢字以前の古代文字である「神代文字」は、ヲシテ文字を初めとして、その数が両手を超えるくらい数がある。似たような種類の文字も、全く異なった記号の如きものもある。文字の起源は言語の起源より遥かに新しい。そして話し言葉の起源は文字の起源にくらべて遥かに古い。声帯から発した音表言葉を如何に再現文字として同定するかに、古代人は思索苦慮した事であろう。文字はそれを記録する媒体が必要だ。例えば石や粘土、獣皮、そして後に紙が出来る。石や粘土に刻む文字は流れる様には書けない。獣皮でも日本の平仮名のような流れる筆跡は難しいはずだ。その様に古代の文字は植字印を並べたようなぶっきら棒になる。シュメールの楔形文字などは代表例だ。

コトバの起源は、かなり漠然としてゐて難しいが、文字の起源は、それに比べればまだ手立てが有りそうである。確かに言語は話し言葉から始まった。意思の疎通ができてゐれば、文字の必要性はそんなに重大ではない。だが大集団が集まり、何らかの決め事をして、それを残すとするならば文字の必要性が出て来る。記憶の良い人が居て過去の全てを記憶しているならば、その生き字引の様な人に頼る事も在ろう。だが、集団が大きくなると文字の必要性は高まるだろう。現在の発見された物的証拠である縄文土器の年代が、炭素減衰法で計測すると、紀元前一万七千年と謂う事であるから、土器を創る文化が文字を持たないとは言えない面もある。勿論、南アメリカの原住民には高い文化程度を持ちながらも文字を持たない部族も居ることは確認されている。

私は、父の世代の方である馬野周二先生のご著書、*人類文明の秘宝『日本』ー 副題に「世界破局救済の「使命」その根因を探る」を、読んで、日本人の本質と日本文明の特質に思い至った。この本は私の思考のフィールド(分野)を拡大して呉れた。私は宇宙論とか哲学とか数学や物理が好きで、そんな事にばかりのめり込んで来たが、日本文明の本質は、実に深いものが在る事に永いあいだ気が付かなかった。気が付いた以上は、日本人の魂の起源と精神の歴史について探求しないのは惜しい事だと確信した。さて、日本列島には、世界のどこにも無く古い文明を感じさせる。紀元前4世紀から紀元3世紀までの700年間は解き明かせない謎に満ちている。だが古史古伝の代表格でもある「ホツマツタヱ」に依れば、神武以前に約1000年ほどの前史がある。

神話に依れば紀元前1600年までは何とか絵を描けそうだが、では紀元前16500年前の縄文土器をどう解釈すれば好いのだろう。ホツマツタヱでさえ紀元前1500年くらい迄しか推測できない。縄文時代はおよそ35000年の過去があるのである。そしてこれ以前に12万年の旧石器時代が存在する。この時の流れを埋める何かが不可欠だ。我々は取り敢えず想像する他ない。12万年の旧石器時代には届かないが、取り敢えず30000年前から始まると言う縄文人の生活を分析し再現して見ることである。貝塚を調べると、多く貝類を食べ、木の実を食べ、栗を栽培し、赤い米を作っていた。縄文時代に陸稲は栽培されていた。

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ブラックホールと天文学

2024年09月07日 07時32分55秒 | 天文学と宇宙論

 宇宙は私たちの眼のまえに広がっている。フッと空を見上げれば、其処は宇宙そのものだ。地球に生息している我々は宇宙の一部である。天文学の永い探求の歴史の中では、ブラック・ホール、という言葉は比較的新しいネームです。インドやギリシャ時代の従来の天文学は人間の生活や生産活動を律する暦の制作のために始まったとされています。それは人間が生きる為の米や麦など、穀物などの生産活動に強く結び付いた指標となるものでした。

太陽の動きを正確に把握する為、古代ではストーン・サークルが創られ、後で天文台が建てられた。日本で言えば春夏秋冬を正確に把握し、コメの作付を主に多くの作物を植え付ける目安となった。暦を創るには天体の正確な観測が必要であり、太陽と星々の運動を把握しなければ為らない。これは口で言うが安く実行は難しです。

ガラスの屈折率に気が付いた時計屋がレンズ効果を発見し、それは天体の観測に、微生物の存在に、実に多くの決定的な影響を与えました。レンズの発見以前には、すべて観測者が自分の眼で星空を観測して居たのです。そして太陽は裸眼では見ることが出来ず困難を極めた。レンズの発見により、裸眼では観る事の出来ない、遥か遠方の星々や月の表面の観測が可能となった。インドの天文台もアステカ文明の天文台も、そして近代天文学の発祥の地点となった、ティコ・ブラーェのフュン島の天文台でも裸眼で星々の運動を調べていた。「むかしは眼の好い人が居たのだな!」、というユーモアでは語れない、本当に真剣な観測だったのです。

ティコ・ブラーェの正確な観測データは、神聖ローマ帝国の占星術師兼数学官、ヨハネス・ケプラーにより計算検討され、星の運動を三つの法則にまとめ上げた。だがケプラーは現象面で運動法則を捉えたが、星の運動の原因を知ることが出来なかった。それがハッキリするのは「引力」を原因とした力学を待たなければ為らない。更に、軌道計算をしてケプラーが驚いたのは、惑星の軌道が真円ではなく楕円だった事です。ケプラーは深く神学を信じていた為に、天体の運動は、完全性を備えた理想的な物であり、それを裏付ける真円であると信じていた。ところが軌道は楕円であり真円では無かったのです。ケプラーは、最初、自分が計算間違いをしたのだと思い込み、何度も何度も計算を試み、それが間違いではない事を認めざる得なかった。

近代的天文学の曙はこうして始まったのが、然しそれよりも2000年前のギリシャ時代に、サモス島出身の天文学者アリスタルコスは、月の大きさを比例的に算出しています。アリスタルコスは月食の時に、月を隠す弧が地球の円周であることを知って居た。月に映る弧を書き写し、その孤を延長すればそれは地球の円周に成る。もうお分かりだろう、それを比べれば地球とその衛星である月の大きさが出て来る。アリスタルコスの業績で、驚くべき事には地球から太陽までの距離まで議論しているのだ。さらにアレキサンドリア図書館長、エラトステネスは地球が球体であることを信じて、その大きさを出している。

人を雇いエジプト中部のシエネ付近からアレキサンドリアまで歩かせてその距離を求めた、それは夏至の正午シエネの深い井戸では太陽は底まで照らす、その同じ夏至の正午にアレキサンドリアでの仰ぎ角を求めた。その角度で360度を割ると商が出る。其の商をシエネからアレキサンドリアまでの距離に掛ければ、球体の一周の長さがでる。今で謂えば小学生の問題です。この様に簡単な計算から地球の円周が出る。この誤差は現在の値と比べて驚くほど小さい、2500年も前に、何でこんなに賢い人が居たのだろうと驚愕する。

彼らは幾何学の「三角法」今で謂う三角関数の熟達者だった。彼らは三角法を駆使することで驚くべき結論に達して居たのです。この人達は地動説を信じていて、太陽系の生成を空想していた事は有り得ることです。若しかすると銀河系宇宙をイメージとして持って居たかも知れません。だがこれらの業績は次に継承される事無く消え去りました。再発見したのはブルーノやコペルニクスでした。我々は宗教的狂信性に因って、どれだけ間違った宇宙像、天地像、に惑わされたか分からない。

さて、この記事の表題は「ブラックホールと天文学」です。先に述べたようにブラックホールというネーミングは比較的新しいことばです。このコトバは1070年代に、原爆開発に関連していたJohn・archbolt・ホィーラーが命名したことに成ってゐる。此れからはブラックホールをBHと訳します。BHは、当初、日本語で言うと「重力崩壊星」と云うオドロオドロしい名称でした。星々の核融合反応が終わりに近づき、核融合燃料が減る事で星を燃やし、維持する事が出来なくなり、その質量に因り潰れてしまい、急激な収縮が起きる。その潰れた質量は極端にまで収縮し、恐るべき質量となる。原子核のまわりを回る電子も周りを回ることが出来なくなり陽子の中に埋め込まれて陽子は中性子に変わってしまう星が、中性子星と呼ばれている巨大星の終りの姿です。この辺の本当のメカニズムは未だ解明されてはいない未知の領域です。

さらに、もっと大きな質量を持つ超巨大星は、もう極端にまで潰れて光も脱出できなくなるB・Hとなる。B・Hは、異常な特殊な天体だと思われ、単なる空想上の存在でしか無かったが、大気圏を越えた所に望遠鏡と言う天文装置を打ち上げ、依り遠方の精細鮮明な映像を得るに連れて、BHが空想の所産ではなく、現実の存在する現象であると認められてからは、天体物理学はその多くの部分がB・Hと関連する様に成って来た。B・Hの根源は質量が及ぼす重力の作用である為に、理論的な枠組みでは一般相対論を拠り所にせざるえなくなる。

Einstein以前は、空間と時間は別物で、それは互いに関係のないCategoryと思われていたが、1905年に出された特殊相対論は、時間と空間、そして質量は、互いに密接な関係を持ち、互いに独立的な概念ではない事になった。その成果は実に驚くべきもので、我々の宇宙観、世界観を一変させ。。特殊相対論のとても分かり易い解説のYouTubeがあるので、このブログでも取り上げたが、1915年に発表された一般相対論は、特殊相対論を下敷きにEinsteinが重力の本質を探究した成果である。

Einsteinはその中で、重力場の方程式を提出しているが、その解に関して時を経ることなく一か月の後にシュヴァルツシルトによって解かれた。これは球対称性という極めて正常な条件の下に解かれた初めての解である。残念ながらシュヴァルツシルトは、第一次大戦に参戦し其処で亡くなった。此れが最初の厳密解です、それ以来多くの有名な解が発見されました。オーストラリアの数学者ロイ・カーが発見したカーの解が有名です。しかし、私は葬り去られようとしている、裸の特異点を予言する富松彰と佐藤文隆に因るTS解になにか今の時点では理解できない大切な物が含まれている事を感じます。この厳密解が間違いでない限り、それは何かを示唆している。

B・H天文学は、まだ歴史の浅い分野です。将来どんなことが発見されるか分かりません。宇宙検閲官仮説を提唱したペンローズが間違ってゐる事は十分に考えられます。宇宙の存在はマダマダ謎なのです。それはそうです、そんなに簡単に自然現象の真の起源と歴史が解かる筈は無いからです。私の勘ですが、富松・佐藤の厳密解は、次のブラックホールの認識に大きなステップを齎すと信じます。B・Hの生成と消滅については、まだまだ未知の分野です。

B・H自体が生成を経て消滅に向かう過程が必ずある。巨大星が核燃料を燃やし尽くし、その巨大な質量を膨張力で支える事が出来なくなり、爆発的に急激に収縮しその反作用で周囲の物質を飛び散らせ、中心核にB・Hが生成されるというストーリーが現在の理論的な過程です。生成されたB・Hは強力な引力で周囲の星間物質を集め、それは星雲に成長する。やがて星雲も合体し因り巨大な星雲となり、その星雲も最終的には終わる。B・Hも消滅して消える。その過程で見えないとされた裸の特異点が出現する可能性も充分にあり得ると想像する。

「宇宙の本質を我々の意識は理解できるように作られているのだろうか?」

多くに意見が在るだろうが、私は人間の一般的な知能で理解できるようには作られて居ないと感じている。それは完成された宇宙での理解にとどまるのでは無いだろうか。ひもの理論はどこまで有効だろうか、それは単なる玩具に過ぎないのでは?。一概には言えないにしても、ひもの理論の歴史を調べて見なければ為らない。紐の理論の淵源は、衝突実験で観測される、余りの多い素粒子の数に多くの者は疑問を持った。それが謂わば始まりである。それはそうだ、素粒子という物がそんなに多い筈は無いのだ。叩き壊した破片が何十種類もあるとしたら、それは素とは言えない。素ならば叩き壊した破片は皆一様に同じでなければならない。素粒子構造の奥にある物は当面は把握できないのだから、ならば観測される物だけについて、合理的な構想を想像してみよう。そうした試みがS行列論になる。観測できぬものについてアレコレ言っても誰も信じはしないだろうから、出て来た観測量だけを用いて、素粒子相互の関係で辻褄の合う理論を構築する為に出て来た物が、ハイゼンベルクが提唱したS行列論となる。ところがこの試みは途中で放棄されることに成った。量子色力学がその解釈に力を持ち出した為だ。

ところでブラックホールは、当初、まったく特異な天体だと思われたが、段々に事情が解って来ると、それは特異なのではなく宇宙のシステムはBHを造るために存在して居るのでは無いか?という認識にまで広がった。現代の宇宙物理学はブラックホールが研究の主体となってゐる。それは観測に依って認識が広がった為である。現在では、あらゆる銀河系宇宙の中心にはブラックホールが存在して居ると想像されている。ゆえに島宇宙を構成しているのはブラックホールであると言う事に成った。研究の中心が、特異な天体と思われていたブラックホールに成った。星の生成と死はこの宇宙の中での一連の生成と終焉なのである。更に終焉は再び生成の種となる。将に宇宙は生々流転を繰り返しているのである。その中で、ブラックホールの持つ意味は、星の持つエネルギーの放出とその残骸の結果として認識されつつあり、最終的な宇宙像を我々はまだ知らない。湯川秀樹博士の箴言では「真理は常に少数派から始まる」と書かれている。

以上の様にブラックホールは特異な天体から、ごく普通の現象となった。それは星の生成と消滅に関する一連の解析が進み理解が広まった為だ。現在の主流である多数派の宇宙像は、この我々の宇宙は数百億年の昔、或る特定できない一点(極限の特異点)から、何らかの原因で膨張が始まり、現在も膨張を続けているとされる。尚且つ膨張の根拠は、宇宙背景輻射とエドウイン・ハッブルが発見した遠い天体から来る光の赤方偏移の解釈にあるだけで、遠い星雲を研究している人の中には赤方偏移が必ずしも空間の膨張と同義ではない事を語る者も居る。そして少数派の中には一様な膨張に疑いを持つ天文学者もいる。天文学は星の生成と死や太陽系の生成について大きな進歩を得たが、依然として宇宙の始まりと空間の拡大について明確な理論的基礎を持ち得てはいない。ゆえに完全な証明の上に立ってはいない。物理学は自然現象を相手にして居るだけに、数学の様な意味での公理の完全な証明という物とは区別される。それだけに天文学は新たな知見が秘められている興味深く面白い分野です。天体物理学は私たちの住むこの地表世界全般を包含します。

冬の澄み切った夜空に、東の空から登って来るオリオン座を、皆さんは見る事があると思います。オリオン座は晩秋から真冬の空を彩る星座です。とおい、とおい昔、オリオン座の輝く下で、2月~3月に掛けての入学試験の準備の為に夜遅くまで、ラジオの通信講座を聴きながら、受験勉強をした皆さんは多いと思います。ラジオでは名物講師が居られましたね、とても懐かしい。そして今現在、受験の為に遅くまで勉強をして居る若い人も多く居ると思います。オリオン座は蛍雪時代の苦しくも懐かしい時代と重なった星々です。あなたが勉強に疲れた深夜外に出て見ましょう。冬の大三角形とオリオン座は、寒気の中に、天空に輝いている筈です。若い時代は苦しい事も多いが、15歳~18歳までの青春時代は、人の一生の中で掛け替えのない,二度と繰り返す事の出来ない時代です。

目出度く志望に大学に合格した人、あるいは望む大學に落ちて仕舞った人もあるでしょう。それでも、それは一生の糧に成ると信じたい。遠い星を見上げてください。その星の光は、あなたの生まれる前に親の星を発した光です。星々は小さな人間のこころを拡大し豊かにします。我々は本当に、小さな小さな星の表面に張り付いて生きてゐるのです。嬉しい事も楽しい事も、苦しい事も辛い事も、すべては、皆な皆な星の下で生きてゐる命の時間です。人間の、星の時間は、星々の長さに比べてみれば、それは一瞬のことなのです。其の星々もいずれは自己の持つ物質の原子核反応を終え、強大な超新星となって砕け散るか赤色矮星となって星雲に吸収されることでしょう。そうするとあらゆる存在は終焉を迎えると同時に、新たな誕生の出発となる。宇宙も星も生命も、みな同じです。これら一連の物質の集積は引力の力です。この不思議な力は他の力と同様に宇宙に満ち満ちている。これを不思議と言わずして他に不思議は有るか?と思う。

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右脳と左脳

2024年08月19日 11時54分56秒 | 脳科学の進歩

 最も進んでいると思われている現代の自然科学でも、果たして自然現象を探求して見て、 何故に我々を含めた諸動物の脳が、左右に分かれて二つある事の意味は解けていない。元々、我々の体は、古代の遠いご先祖である魚類から構成様式を受け継いだものである。そして脳神経系と共に、多分「こころの構造」と言う物も、時間の降り積もった地層の様に、遠い記憶を本能として受け継いでいる。右脳と左脳の存在は、それこそ脊椎動物の起源にまで遡るだろう。遠い祖先から受け継いだ我々の体は、解剖学的所見に基づけば感覚器官は二つある。それは耳にしても眼にしても鼻を通じた肺にしても、生殖器の精巣も卵巣も、腎臓にしても二つある。勿論、心臓などは一つであるが。血流を送るポンプとしては一つで足りるのであろう。だが感覚器官に付いては不思議と左右に二つある。或る意味で体は対称的に出来ていると言って差し支えない。手も足も水中のヒレが進化した物だ。器官としては二つあるが、それは独立した別の存在では無く、互いに得た信号を補完し合う関係に成ってゐる。

その様にして生物は環境に合わせて、自らの形を変化させて来た。その変化は現在も進行中で、絶えず環境は変わるのであるから、地球に生きる生物は、そのままの形で終わりと言うことは有り得ない。生命はたえず取り囲む環境に合わせて形態変動しているのである。その変化の源と成るのは、地球上の惑星システムがもたらす生存環境であり、我々自身の生きてゐる社会形態である。その環境を創り出してゐる太陽系の惑星システムである。太陽系の回転と重力はその一部である地球の上でも例外ではない、惑星系の刻む時間と周期は、生命の発生と生理に多くの本質的な影響を与えて来た。言葉の真の意味で我々は星の子である。生物は細胞で出来ているが、細胞内の設計図である遺伝分子構造を揺るがすのは、熱による分子時計である。生命体の分子進化は、たえずこの熱による分子構造のゆらぎに起因している。この分野は熱力学と統計物理という古典的な道具が在るので、この道具を使い複雑な生命のシステムを根本から探求してみることが必要であろう。

道具が旧式ならば、新たに世界観に基づいた道具を創れば良い。それこそ必要な智慧である。我々は生物の形態に何となく不思議を感じる。その形には、何か意図的で必然的な理由がある。端的に言えば生物の形の変化を熱力学や統計力学と紐づける事が出来れば、それは形というものの本質に光を当てることに成るであろう。その分野は未だ未開だが形と機能に解明に至るには一番重要な焦点である。

人間の学問的認識は天文学から始まり、物理学へと変化しやがて化学を生み、そして生物学へと認識の方向性が起きている。化学は生物学への大きな貢献をしている。それは細胞だけでなく細胞中の遺伝子子分子構造を探求する道が開けた事でも在ろう。そして自然科学はいま垣根を越えて、全体が融合する時代に成って来たのである。私は、この先の人間の文明の方向は、将来は人間の意識の研究に移ると信じている、いわば精神の研究分野が行くべき方向である。この精神の研究は、今までの様な物理学を規範としたものでは不足して居るものが有る。それはこころの研究と物質の研究の融合が未だ為されていないからであり、方向性としては、今で謂う心とか魂とか、そういう形のない物の探求が不可欠な要素に成ろう。

まず、現在の自然科学の歴史の発端を振り返って見ると、それは天文学と占星術だった。しかも天文学と占星術は、別のものでは無くて一体の物であった。さらに人間が空を観測して星々を観測する事の意味は、恐らく「暦」と関連して居たことだろう。永い星空の観測の結果、古代人は太陽系の周期は決まっており、それは春夏秋冬を齎す事を理解して居た。人間が生活する上で「暦」は、不可欠の知識であった。若しも暦が無ければ、人間はどの様にして一年の仕事を割り振ることが出来るだろう。この様に一年が繰り返されることから、古代人は、人間の運命も星空の現象の中に現れていると信じたのであろう。それが占星術の発生である。占星術は人の生まれた月と日と時間を神経質に追及する。これは後で詳しく書いてみたい。

そして「暦」の制作には天文観測台と計算が必要である。歴史的には太陽暦と陰暦があるが、これも文化の違いによる歴史的な物だ。占星術が何時、どの様に始まったのかは、ギリシャ時代を越えてモット前だろうという説も在る。占星術が主に中東で始まり、それが西洋に運ばれたが、東洋には「易」が在る。シナの古典に「易経」がある。此れは周に時代に編纂された為に、易を周易とも呼ぶ。今に伝わる物はこの周易である。周は殷を滅ぼして成立した国であるが、その殷は夏を滅ぼして成立した国である。易に付いては、既に夏の時代にト朴は存在したとの伝説もある。日本の古代文書である、ホツマツタヱ(秀真伝)、三笠伝(ミカサフミ)、太占(フトマニ)、を調べると、太占は既に占いの原理を語っている。太占は16の掛けが在る。16×16=256の卦が存在し、周易の8×8=64卦に比べて4倍も卦が多い。卦が多いという事はそれだけ詳細を物語るという事だ。

角田忠信博士の起こされた「聴覚を通じての脳神経システム論」に因れば、我々の脳には年輪が在ると云う。恐らくは我々の一年の周期が、人間の生活を律している様に、この地球の全生命体も太陽系の回転から創り出される惑星時間の周期に対して、それに同調し他律性が自律性として働くのであろう。脳の年輪はキッカリ一年の周期で波長が変るという、角田先生の実験研究では、それは驚くほど正確な経過時間を現わしている。

人間の考える事は、東洋でも西洋でも大体似ている。人間の人生や国家の未来を予測するという試みを古代人は執拗に追及して来た。ト朴と呪術はどこかで関連している。未来は予想できると信じた為であろう。人の人生や運命が星の形に現れる関連性は自然科学的な見方では無い。だが古代に於いては関連性が在ると信じられた。天は神が司っている。それらの信念が占星術とト朴を生んだ。だが現代の自然科学はそれを否定する。この点は幾らかの疑義があるが、概ね人の運命は個人の意思と行いに因ると思われている。易も占星術も難しい。

もう一つ、取り挙げるとすれば、「言語」、「ことば」である。日本で育ち、全くの日本語の環境の中で生きて来た私にすれば、日本語は私の思考と表現と伝達を可能にして呉れる一番の手法であり、私自身が、私のこころが、この日本語によって創られている。思考の手段として、意識を収斂する手段として、日本語が在る。若しもこの言葉を失い、表現と思考の手段を喪失すれば、私は私ではなくなる。コトバは想像慮l句の表出手段なのだ。世界的に見た場合に日本語は全世界のどの言語とも違っている。この事は大きな意味を持っている。日本語とは人間の使うコトバの中でも最も古いコトバの様です。標記は漢字が入ったときそれを常用の手段としたが、縄文2万年の過去から、それなりの文明を築いてきたなかで、文字が無かったとは思えない。神社関係の中で、記号の様な文字が残されている。漢字以前の神代文字を称されているがその解読も進んでいる様です。それが確かな物かどうか?、時の支配者に都合の好い物が残され、又は改竄されるという事は、時として起こる事です。西暦で言うと紀元前660年が皇紀の始まりですが、日本の歴史はそんな浅いものでは無い。少なくとも縄文土器の前16500年以前にまで遡る事は事実が証明している。日本語の起源は、その付近まで遡れると感じる。

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仏教とは何か

2024年08月09日 11時16分33秒 | 日本文化の多様性

あらゆる宗教の起源は、自然現象の解釈から発している。

神と云う観念も恐れと云う観念も、各民族の生活環境から発生する。

依って神の観念も異なって来る。

原始仏教は何を探求して居たのか?

その哲理を一言二言で現すとすれば、

* この現世とは、何か? であり

* 我々は、そのなかで、如何に生きるべきか、の道の探求である

原始仏教のすべては、そこから派生したものだ 膨大な教典をふくめて、最初の志向がそうだ。

現世とは短い、食べ物、衛生、怪我、などで命が終わった。

日常の救済が、殆どが確立されていなかった古代に於いては人の一生は、今より短かった。

永い平和が続いた江戸時代の平均寿命は確定されていない。当時の幕府にしても藩政府にしても、家臣を別にして、全国の死亡統計を出してはいない。藩を見ても領民の死亡年齢は江戸中期まで記録されていない。もしもその記録を探るとすれば、膨大な寺院の過去帳に頼る外は無いだろう。幸いなことに、過去帳は寺の火災を省けば、大抵は見出される。立川昭二先生のご本「日本人の病歴」それによると、江戸時代の平均寿命は、男が、28‣7歳、女が、28・6歳となるという。これは0歳の平均余命で、この年齢の異常な低さは、乳幼児死亡率の高さにある。この時代の乳児と幼児の死亡率の異常な高さは、例えばその年の全死亡率の70%~75%を占めている。この0歳から5歳に掛けての死亡率は凄く多い。江戸時代の終りに日本を訪れた外人が見た記録では、「日本は子供の天国である」という。それは大人が、子どもの死亡率を知って居たからでもあろう。当時の諺では「5歳までは子供は神様の預かり物だ」という。それは子供がいつ死んでしまうか解らない程、死が多かった為であろう。古来、日本人は子供を、余り叱る事がなかった。子供は好きなようにさせて置くことが一般的でもあった。

日本では60歳を「還暦」と謂う、それは「暦が元に戻る事」であり、再び新しい歳が始まる事だが、其処まで生存できぬ人も居られる。還暦では赤いちゃんちゃんこを、子供達や孫たちが作ってくれて祝って呉れる。なんという嬉しいことだろう。だが、今の世の中では60歳では人の世の区切りとは見てくれない。少ない年金を出すのは65歳を過ぎてからだという。人には親から授かった、持って生まれた体という物がある。丈夫な人も居るが、丈夫でない人も居る。元気さも働いてきた仕事の種類にも因るだろう。誰もが丈夫なわけでもない。

そして70歳を「古希」と謂う。古希とは杜甫の漢詩からの「古来希なり」の事であり、日本の同世代のたぶん半分の人は、この古希を迎えられなかったに違いない。人々はこの呼び名を基に己の人生を計った。つまり終わりの用意、心掛けをしたのだろう。ここには永い時を経た先人の知恵があった。70歳をすぎれば、いつ最後が来るかを知らなくては為らない。永遠に明日があると思う者はおろかなのである。兼好法師は随筆集「徒然草」のなかで、そんなことを語っていたような気がする。それでも同じ事を繰り返す以外に、特別な事をする訳でもない。それが人生の実態でありまた要諦でも在ろう。

喜寿は77歳という、喜びの歳であろう。これだけ生きれば古代人には喜びであった。この歳くらいが自分で身を養う限界か。働くにも体の点で困難になる。むかしは体を酷使する仕事が多かった為に、この歳に成れば、相当にガタが来ている。助けてくれる者が無ければ、命は続くまい。人それぞれで、北斎は90歳でも絵を描いていた。

傘寿は80歳という。まあこの辺に至れば否が応でも人生の終りを想わざる得なくなる。この歳でも元気な人は元気である。

米寿は88歳である。現代ではこの歳が迎えられる人も多い。この歳に成ると圧倒的に女性がおおい。女は生物的には強く作られている。それが自然の摂理だ。

卒寿は90歳である。90歳とは世の中の多くを見て来たに相違ない。多くの智慧も在る事だろう。白寿は99歳である。この歳で矍鑠している方は、本当に素晴らしいことだ。

さて、大まかに人生の区切りを見て来た。人生が長く成って人間は変わったであろうか。人生が伸びただけ人々は幼稚に成ったとの見方もあるが、本当はどうなのか一概には言えないだろう。

さて、ゴータマ・ブッダの主導された仏教は、彼の大悟から始まり其の生涯は80年に及ぶとされている。釈尊は修行の過程で、それ以前の探求者の道から多くの物を受けている。仏陀が苦しい修行体験から得た物は、人生の真の道を得るのに、刻苦の修業が、何んの役にも立たなかった発見だったろう。勿論、人としての道に節制と克己は不可欠で、断食を為して死の淵まで行く経験も貴重だし、千日登峰も必要だろうが、では、それで人生の諸問題と命の存在の意味を問い、人の道の心底に出会うことが可能だろうか。仏陀の得た体験は華厳経に書かれているとされてゐる。仏陀ほどの人が自ら書いた論書を残さななかった。書いたのは側にいた謂わば修行者としての書記たちである。なぜ書かなかったのだろう。「書いた物にはいずれ誤解と改竄が生ずる」そう思って居たのだろうか。孔子もソクラテスもキリストも自分で書いた著作や日記は残さなかった。この人達が文字を書けなかったとは思えないから、何らかの理由が在るのだろう。

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思考と言語、又は、音楽とコトバ、詩とコトバ

2024年08月03日 08時12分08秒 | 心理哲学

 思考と言語の関係は、大昔から人々の関心を惹き、其れなりに探求されて来た実際の歴史がある。それは、自分の思考を明確にする為にも、言葉はある程度必要だが、考えを他人に伝えるには、言葉は不可欠だからです。此処のところは、自分の思考(内語)と他者への伝達は、内容と形式に於いて少し違いが在る。

また、音楽(音学)とコトバについても、感情を語る詩に於いても、重要でありながら、思考と言語の関係は未だに明確になってゐない。それが現状認識です。大昔からコトバが無ければ思考は出来ないと主張する人達が居た。そして言葉の本体は伝達形式に使う「音」であるから、「この音にすべてが詰まっている」と考える連中の事です。現在の日本語は表現の文字に多様な形態がある。象形文字としての漢字があるし、音標文字としてのカタカナ、また、音票の書き言葉としての平仮名がある。この多様な形態は重要である。日本語に於いてとても大切な機能を発揮する。

ところがアルファベットを使う、世界の多くの国々の言語では、表記には、音声記号しか無い訳であるから、彼らは言葉とは音が全てであるとする、確かに彼らに取り「音」が全てであるとする気持ちは判る。音声記号が最も進んだ形態だと信じている。そして「音」が、全てだとした西洋の近代言語学は、最終的には構造言語学に帰結した。勿論、構造言語学が無意味だと言って居る訳ではない。構造言語学派は、文字表現上の「音素」や「語尾変化」の形態を細かく分析し、造語には特有な構造があり、詳しく変化形態を分類する。だが、その努力を尊重するにしても、彼らはどこか、根源的な意味でボタンの掛け違いを冒している様な気がしてならない。彼らは、言葉が出てくる根源をどう考えているのだろうか。

音は伝達のための結果であって、始原ではない。ここが重要だ、言語の起源は音以前の内面に発するものだ。指標と意味はコトバの習得の過程で、判断力と意味とが分かち難く結び付いてい居る為に、構文構成の過程は解析困難なものとなっている。この部分と直接対峙しているのは、詩人と呼ばれる表現者たちです。彼らはたぶん、コトバが何処から出て来るのかに対して注意を払っている。言語哲学は、その辺を探求する分野でもある。

そして構造言語派から、出現して来たのが生成文法派です。人間のコトバには、人間共通の普遍性が在り、その普遍文法を探求するのだという。なるほど、その動機はわかります。世界中に多種多様なコトバがある以上、最も基本的な文法がある筈に相違ないと考えるのは、自然な判断力の帰結です。だが、普遍文法と謂うのならば、それは動物、或いは植物のコトバまで含まなければ成らないと思う。そして、それを言うなら、創語の機能は生命一般に亘って普遍でなかれば為らない。コトバを人間だけの機能として扱っていてはダメなのだ。日暮らしの鳴く声は、関東でも、沖縄でも、北海道でも、殆ど同じなのだから。コトバの普遍を言うのならば、多種多様な生命体のコトバにも普遍性を見出さなければならない。

私たちは外部世界からの刺激を受ける為に、目、耳、鼻、舌、身体感覚、の「五感を生れながらに持っている」、そして「五感以上の感覚がある」と謂う哲学や思想があるが、それでも、我々が感じることの出来る五感は、平凡人の私達でも、誰でも容易に納得できるもです。これは人間自身が創り出した能力では無い。大自然に因る設計であろうとしか思えない。外部世界の情報を感知する為に、生命体である自然が生み出したものだ。わたしは、自然はこころをもっているといつも感じている、調和の意思をもってゐるとしか思えない奇跡を起こすのだ。自然は何よりも偉大な物だ。それは、創り出す構造、形態、調和、に於いてすべては驚嘆に値する。

子供時代の昆虫少年だった頃の虫の形、そして庭の紅葉の種の形、こう言う物を、穴の開くほど、良く観察すれば、其処には何よりの神秘がある。

 

人類の言語として日本語はもっとも古く、且つ神秘的な物である。日々、日本語を話しながら、私は日本語を知らなかった、少なくとも角田忠信先生の学説を聴くまでは。

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相対論03

2024年07月28日 22時15分36秒 | 宇宙論

相対論03

ここでは質量とエネルギーの等価性を述べてゐる。双曲座標を提示してそこでの運動とエネルギーの相関を説明している。双曲座標でのNewton物理と相対論の示す座標を重ね合わせると相対論の意味が出現してくる。この結論から物質は静止して居てもそのエネルギーはゼロに成らず、ある一定の値を保持している。Lorentz変換を用いてこの結果を精査すると物質のもつエネルギーは光速度の二乗を掛けたenergyを常に持っているという事を示してゐる。この事はやがて結果的に核爆弾に結び付くのだが、この時はまだ、其処までは想像できる科学者は居なかったと思う。それが現実味を帯びだすのは、Franceの化学者アンリ・ベクレルに因る元素変換の事実が定式化されてからである。当時、メンデレーエフの示した周期律表の元素はラジウムくらい迄は発見されていたが、ウラン元素が核分裂を起こし依り軽い元素に変換される事の発見はもっと後の事である。元素の変換、融合と分裂は、宇宙では星の生成の中で変換が行われている事が解るのは、もっと後の事に成る。

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相対論02

2024年07月28日 22時14分45秒 | 宇宙論

相対論02

さて、此処では特殊相対論の主要な変換であるローレンツ変換について述べられる。オランダ・ライデンの数理物理学者、ヘントリック・ローレンツは、19世紀末から20世紀の初めにかけて活躍した当時の有名な科学者であった。マイケルソン干渉計の実験事実が正しいならば異常な事が起きることを察知したLorentzは、その合理的解釈としてLorentz変換を導き提出した。この変換は数学的に難しいものでは無いが、だが、その解釈は恐るべきことを示してゐる。Lorentzと同じころイギリスの科学者フィツツジェラルドに依ってもLorentz変換と同じ物が出されており、Franceのポアンカレも同様な考えを持っていたらしい。時期的には特殊相対論が出る胎動期であったのだろう。だが光の速度が空間の性質と密接に関係していることを正確に察知したのは、矢張りアインシュタインだけだったと小生は想う。常識的なGalilei変換から、どうして光の性質を持ってLorentz変換が生まれるのか。それこそが特殊相対論の魅力である。是は運動の世界観が変った変革期である。特殊相対論は19世紀の物理学から発生して来た結論であり、論文が出て119年ほど経っている。20世紀の初め近くに出された相対論は、現代物理学を代表する量子論とは異なる、量子論以前の古典物理の範疇に入る分野です。しかし未だにこの特殊相対論の意味を捉えていない人が沢山居られる。次にEinsteinが創り出したのは、特殊相対論の世界観を踏まえた、重力の理論である一般相対論である。これはNewtonの引力の理論の拡張である。一般相対論はベクトルともスカラーとも異なるテンソルを使う為に数学的には少し難しくなる。

ところで、天文学人類史の過去には、とんでもない天才が大勢いる。サモスのアリスタルコスは、地球と月の比から、月の大きさを殆ど正確に計算している。そして驚くべき事に、彼は地球から太陽までの距離を計算している。これは少し誤差があったにしても方法論は正しい。彼の使った方法は幾何学の三角法である。信じられないくらい三角関数が実の所驚くべき力を発揮する。アレキサンドリア図書館3代館長エラトステネスは、地球の大きさを三角法で計算した。その値は今から2500年も前とは信じられぬくらい正確です。そして1676年デンマークの天文学者オーレ・レイマーは光速度を木星の衛星イオの食を考察し計算している。他の天文学者が、光の速度が無限か有限かを議論して居た時である。光速度が有限でしかもある程度の精度を持っていた事は驚嘆に値する。光学望遠鏡しか無い時代の事だ。さらに神聖ローマ帝国の数学官兼占星術師ヨハネス・ケプラーは、天体運動の3法則を発見している。運動の3法則は星の観測運動から出されたが、星が何故動くのかは分からなかった。

これらの事実は、太陽系が太陽を中心に惑星が公転している事実を前提に解釈し直せば、エラトステネスが地球の大きさを決め、アリスタルコスが地球と月の大きさの比を出す事は自然である。更にはレイマーが光の速度を木星の衛星イオの食から算出し、ケプラーが太陽系の惑星運動法則を提出した。これらを組み合わせれば、現在と大体同じ太陽系像が把握される。自然科学は数学を基に構成されている。それには人間の虚構が入る余地はない。しかも、その道具としての力は最も基礎的で強力である。ただ、その道具を使うにしてもセンスが要る。そのセンスは想像力的知性と同じ物です。

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特殊相対論01

2024年07月28日 22時13分31秒 | 分子進化と集団遺伝学

特殊相対論01

野沢秀文先生の座標を使った、視覚的でとても分かり易い説明講義を掲載してみました。特殊相対論は1905年に、26歳のSwissのBernにある特許局の職員、A・Einsteinに依って発表されました。ですから、もう120年近く前に提出され24ページの短い論文です。特殊相対論は物理現象を考える際には、物事の基本に係わる理論です。此れを構成するのは、光速度はどの系から見ても同一という(マイケルソンの実験)定義。つまり相対原理です。光と関連させtた運動物体の原則から、光速度に於ける時間の進み具合、高速物体の縮小、そして質量は光の二乗を掛けたenergyを持つ、という等価原理などの思わぬ現象が提示されます。この説明で使う数学は、難しいものでは無く高校数学レベル内のものです。然し、そこに含まれる、「どのような加速系で観測しても光の速度は変わらない」との実験事実は、私たちの常識のパラダイムを超える事を要求します、特にそれが難しいと思います。特殊相対論が物理に及ぼした、驚くべき意味と意義はそこに在ります。是非、とても好い講義を楽しんで頂きたいと思います。

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