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思考機械と理論物理

2025年02月03日 23時44分34秒 | 数学と哲学

 最近機械に思考を代用させようと云う試みが流行の様ですが、それは昔から有りました。まず理論物理の目的というのは、多様な現象を構成している原理・原則を知る事です。そこから色々な法則が発見できますから、その中で最も基本的な原理を抽出して、それから現象を再構成すること、その一連の思索が理論物理と言ってゐる分野です。機械学習と言っているのは、その一部の機能を代理させるという分野です。機械は疲労もせず黙々と作業を進めますから、また速度が速いので、ルーチン化された部分は機械に作業させた方が良い。機械の使い方は思考の本質に係わる重要な分野です。機械にも自己展開、自己発展という思考ループをさせることが重要です。

人工知能の核心部は、それが判断力を持つかどうかにつきる。

判断力とは何か、分析力である。目的性の意思があるかどうかという事でもある。

分析力とは何か、情報の質を類別して関係性を抽出することだ。

生きてゐない機械というシステムが、以上のような機能を持つならば、人工知能は少年の知能を持つ。

只、機械的システムは電気で動いている。動力源は無限ではない。電気が絶たれればシステムは死ぬ

原子力電池の様なものならば比較的継続する。電源の将来はそうなる。

問題の本質はプログラムを遂行する機会に、その得た情報に付け加える想像力を持たせる事だ。

それが可能なら人工知能は、普通の人に代えることが出来る。生命の生体情報はまだまだ分かって居ない。思考の何たるかも解ってはいない。

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「詩とは何か、詩人とは何か」

2025年01月25日 18時38分55秒 | 数学と言語学、及び宇宙論と哲学

 感性と言葉のあいだに生息する生き物が「詩人」という種族である。彼らは感性を言葉に繋げるべく必死の努力をするのだが、それはいつも裏切られて悩むのだ。詩人とは因果な種族である、成りたくて成るのではなく、成りたくなくても成って仕舞うのが詩人であり、詩人に成りたい者でも、波長のない者はどんな努力をしても成ることは出来ない。詩人は天より与えられた災難であり言葉の大本を探った為の罰を与えられたのである。彼らは言葉が紡ぎ出る泉を見ている、だがその聖なる泉の水は、気の遠くなる深い深い深淵から湧出するものなのだ。

最近、わたしは古本屋で吉本隆明さんの「追悼私記」という本を買った。値段は200円である。題名の如く、知人への追悼文を集めた物である。古本屋でペラペラと見ていると知った名前が出て来た。一人は「今西錦司」であり、もう一人は「遠山啓」である。今西さんはすみわけ論でダーウィンの適者生存説に挑戦した、私が思う偉大な人間であるが、もう一人の遠山啓さんは、水道方式という教授法で一世を風靡したこれも偉大な数学者である。この両方の方は、日本の思想界や数学教育に大きな影響を与えた人物である。

永くわたしは吉本隆明という人がどんな人かを知らなかった。彼は初期には詩人であり、その後多大な著作と評論で名を成した人物である。そのくらいの認識でしかなかった。それにお名前の本当の読みは「たかあき」だが、一般には「りゅうめい」と呼ばれていた。名が知られその影響力が増すと漢読みに成るらしい。勿論、漢読みには元々成らない人物もいるが。まあそんな事はどうでも好い。この追悼私記には交流のあった多くの人物が取り上げられて居る。わたしは吉本さんの体験した時代が、丁度わたしの父の時代と重なってゐるので、父は左翼ではなかったが、吉本さんを左翼に染まった人物と考えていた。戦中戦後の時代を体験した人物は、占領軍にそんな一種の洗脳を受けて居たのかも知れない。戦後には所謂、進歩的知識人と称する人が居る。丸山真男や加藤周一と言った御仁である。共産主義者と自称はしないが中身は共産主義者であった。もっと言えば猶太の影響を深く受けた人である。

これまでの吉本さんの著作や対談集を拾い読みするに従って、わたしの認識は誤認であったと感じた。吉本さんは旧弊を打ち破ろうとする気持ちは強いが、決して猶太が主導するような教条的共産主義者ではなかった。敗戦後のこの頃は、左翼で無いと人間ではない遅れた人間と思わされれていた。だが、令和七年の現在、19世紀に始まる共産主義は猶太の世界支配の為に仕掛けられた道具である事が明らかに成ってゐる。戦後の間もないこの頃の吉本さんは、つまり深い洗脳に染まってゐたと言える。この追悼集には吉本さんの若い時代から現在までの、心が辿った自己の内面の歴史と仕事への展望が密かに書かれている気がした。とくに遠山先生への追悼文は他の人に比べて異常に長く、吉本さんの今在るまでの人生を語っているような気がする。

何も知らない私は、最初なぜ此処に遠山啓が登場するのかが解らなかった。遠山さんは数学者であり、また物理学にも親近性があった人である。ところが若い頃の吉本さんは、詩人であり膨大な本を、読み・考え・書いた、初期は先端左翼の評論家であり、総じては日本文化の深層を論じる思想家に変身した。そんな吉本さんが遠山先生と、どう重なるのか?。そこで思い出したのが、遠山教授は東京高等工業(現東京工業大学)の先生だった。吉本さんも米沢高等工業(現東京工業大学)の生徒で、高等工業が統一されて東工大になった。此処に接点があったのだ。そして私見だが、数学と詩の親近性は強いのだ、どちらも研究するには大掛かりな機械は必要が無い、謂わば、紙と鉛筆が有ればそれで済む。追悼文を読み進めるに従い、遠山啓さんが吉本さんの人生に深く影響を与えている事が解ってきた。詩人は世の流れに敏感なので、大抵は左翼全盛の時代には無意識にそれに染まる。

現在の日本は、一時の左翼全盛の時代が過ぎ去ると、共産主義ほど陳腐なものは無い事に気が付き始めた。彼らは、今まで左翼幻想に深く酔わされて、何も見えずフラフラと暴力を振るい、ソ連を崇め、不思議な事に、同じ穴の狢のアメリカを否定した。だが、ソ連を創って再び壊したのは、アメリカを支配している猶太金融資本機構であり、世界支配をそのProtocolで挙げている猶太超国家勢力である事など何も知らないに違いない。そして、江戸時代の封建制反対、資本主義反対、資本家反対、国家権力反対、と、何も知らず、何も分からず、動物の様に訓練され者たちが、新左翼と呼ばれ日共と呼ばれていた。そんな中に吉本さんも一時は住んで居たのである。だが吉本さんにも、Marx自体がイギリスを支配しているRothschild家と縁戚に在り、マルクス主義と称する世界攪乱の方法論が猶太連盟の要請で書かれた事を知って仕舞ったら、あまりに阿保らしくて今までの狂態が何であったか恥ずかしくて何も言えないだろう。

遠山啓教授への吉本さんの追悼文の中で、米軍の無差別爆撃で東京の下町は焼き尽くされ、大學は見るも無残な状態に在った時、学生有志が遠山教授に数学の講義を頼むのである。その講義は「量子論の数学的基礎」という内容だったらしい。階段教室には200名ほどの学生が詰めかけていたという。空きっ腹を抱えてそれでも学問への魅力を失わなかった真正の学生には、感激せざる得ない。本来の教育とはこんな条件の中でしか成立しないとするならば、豊かな中での本当の教育や講義とはいったい何なのだろう。

次に書いて有るのが、今西錦司先生である。この特異で偉大な思想家は現在で云う生態学の創始者のひとりであるが、今西の思想は単なる生態学を超える知恵を持つ。彼の思想と哲学は人間の社会を考える上でも非常に強く有効である。

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武家政権に附いて

2025年01月23日 22時15分09秒 | 日本の歴史的遺産と真実

 私は歴史家では無いので、膨大な古文書を読み解く力は無いが、日本が辿って来た歴史には関心があります。武家政権の成立と経緯に附いて私見を少し述べて見たい。漢字交じりの文字記録が残された時代は、それほど古い時代の事ではない。もしも神代文字によって記録された文書が辛うじて存在し、それを読み解くことが出来れば、現在の公定日本史は悉く改正される事であろう。今回はそんなに一万六千五百年前の古い縄文時代には言及しない。その意味の比較で謂えば、武士の時代はつい昨日の出来事です。今回は鎌倉幕府の時代からから江戸幕府の瓦解までを述べて見たい。一気に書けないので、何回かに分けて記述することにします。

武士政権の発祥は朝廷内の争いごとから起きました。各く朝廷内の派閥の配下である桓武平家と清和源氏が争い、平家が勝利し頭目である清盛が政権を立てた。他にも軍事貴族はあり、中原氏、藤原氏などの軍事貴族も多々あった。清盛が最初の軍事政権で、清盛は朝廷内の役職を一族で独占し、源氏他の武家や宮廷公家の反感を買っていたが、清盛が健在の内はさすがの不満も持って行きようがない。それは天皇家に関しても同じである。しばらくは清盛を筆頭とする平家の政治的天下が続いて行った。その間に様々の事件や紆余曲折があったが、清盛の薨去した後に、東国に流されていた源義朝の倅の頼朝が兵を挙げ、平家の支配に抗した。頼朝は一次は危うく敗残する危険があったが、義弟の義経などが戦さ働きし、何とか堪えて平家を壇ノ浦で滅亡せしめた。平家の公達郎党は捕縛され殺された者も多いが、下級官吏は逃げに逃げ、山奥に潜んで血を継承しそれは江戸時代まで続いたし、現代でも逃げに逃げた子孫が生活している。

やがて鎌倉に源氏の政権を立てた頼朝は東国を滅ぼし、奥州藤原氏はなんの咎もないにも拘わらず滅亡させられたのである。そして源氏の中での争い事が起き、頼朝は奥州藤原氏の下に逃げた義弟の義経を追い詰め殺す事に成る。そんな内紛事で呆気なくも鎌倉政権は足った三代で滅亡する。政権の主役は源氏政権の執事であった北条氏が執権として担う事に成る。将軍位は京都から親王を呼んで就いて貰ったがもちろん飾り物である。元来北条氏は平家の出であり、皮肉な事にはここに平家の血筋の平家政権が復活するのである。北条氏は3代執権北条泰時などが初期に「御成敗式目」などを制定し、法的合理性で平等な理念を持って政権を担った為に鎌倉政権は安定した。その記録は鎌倉幕府の公式日記録である「吾妻鑑」に記録されている。御成敗式目の51条は、聖徳太子の17条の憲法を消化継承した上で制定された。という訳で、17条の憲法の3倍の条を、御成敗式目は制定した。この成文法は太子の17条以来のもので、武家社会の法令に止まらず、遠くは江戸時代武家諸法度にまで強い影響を及ぼしてゐる。

因みに、この御成敗式目の文章は、江戸の寺子屋でも読み本習字書の教材として使われていたらしく、子供たちは知らない内に「法の精神」を学んでゐたことに成る。鎌倉時代の本当の危機は、元軍と朝鮮軍の十数万が侵略して来た「元寇」であった。この危機に「北条時宗」は、十九歳ながら果敢に対策を講じ立派に日本国を救った。若しも武家政権ではなく、公家の政治が継続して居たら日本国は元軍に占領されて居たかも知れない。そうすると日本人は奴隷化され、日本国はそこで消滅したであろう。だがこの北条の政権も次第に、朝廷の画策から政権の土台が切り崩されて行く、後鳥羽院の陰謀が鎌倉政権を危うくさせた。後鳥羽院は密かに鎌倉幕府を葬り朝廷政治の復活を狙って居たのである。鎌倉の北条氏もそれを知って居り、それに先制攻撃をして後鳥羽院を隠岐に流した。鎌倉の政権は源氏の滅亡のあと朝廷から将軍を招聘し、親王が名目上は政権の首班であったが、実質の権力は北条氏が執権を担い武家政治で治めていた。

この当時は文化的な幾つかのことが起きている。まず新興仏教の発生である。日本に定着した仏教の歴史は、最初に「奈良仏教」と称されるものが在り、それは端的に言うと外来の仏教を漢訳化した物であった。学問としては非常に高尚で確かにインド由来の論理学や数学など優れた物が多い。瑜伽唯識宗の(瑜伽師地論など)を始めとした南都八宗がある。主に奈良県には今も其の宗派は寺として存在している。ただ奈良仏教が日本の民衆にどれだけ根附いたかはすこし怪しい。学問としては非常に優れているが、それを消化できる層は僅かに文字が読めて書ける層のインテリ層でしかない。多くの底辺の民衆には、その学問と教義は血肉としては中々定着しなかったに違いない。次の段階は遣唐使などに依る「シナ仏教」の招聘である。唐に留学した人の中には「最澄」や「空海」などが居る、彼らは唐の隆盛に在った大寺を訪れ、「仏典・経典・仏具」を仕入れ灌頂を受けて帰って来た。そして彼らは独自に宗派を起こし、最澄は「比叡山」に、空海は「高野山」に、その道場を建てた。それが平安仏教と謂われている仏教である。この日本人に依る日本仏教の開創は、その後の日本への仏教の定着の基礎となった。鎌倉仏教の創始者は殆どが比叡山や高野山に学んでゐる。

奈良仏教を父とすれば、この平安仏教は日本仏教の母である。この母は、やがて日本仏教の根に成る「鎌倉仏教」を生むのである。鎌倉新興宗派の創始者は、皆そろって比叡山で学んだ。その中から、浄土宗の法然坊源空、浄土真宗の親鸞、時宗の一遍、日蓮宗の日蓮、など等、多彩な人物が其処から巣立った。そして各地に自分の仏教解釈による宗派を建てた。それが現在あるNipponの民衆宗教である。また禅もその当時に入り、栄西の臨済宗、また後には明に留学した道元により曹洞宗が建てられ鎌倉仏教は形成された。この鎌倉仏教は、ようやく仏教が日本の文化に根付いたものであり、仏教は日本人の血肉と化した。逆に言えば、それ以前の仏教は底辺の一般民衆にまでは救いの手を差し伸べなかったのかも知れない。然し、そう言っては間違いかも知れない。なぜなら弘法大師空海は、庶民の為に日本最初の学校である「綜芸種智院」を創立している。民衆の教育と技術向上を願って創られた綜芸種智院であるが、空海の没後、経済的支援を受けられずに廃校となってゐる。現代までこの綜芸種智院が継続して居たならば、世界最古の民衆の為の大學となったであろう。誠に残念である。

鎌倉の政権は15代まで続いたが、それは内部的に問題が生じた為ではなく、朝廷の倒幕運動が戦乱を引き起こした。後鳥羽院がその最初である、次には後醍醐天皇の倒幕運動がある。これは或る意味で成功し鎌倉幕府は瓦解した。源氏の縁戚に在る足利氏、新田氏、などが最初は鎌倉方に入っていたが、後に朝廷側に寝返り鎌倉を攻めた為に幕府は崩壊した。そうすると後醍醐天皇の親政(建武の新政)が始まる。ところが後醍醐天皇は政治を、宮廷中心の公家中心の政権に戻した為に問題が生じ、足利高氏(後に尊氏となる)は、後醍醐に背き自分の幕府を建てることに成る、此処で問題が起きた、北朝と南朝の対立である。この対立は根深く続きようやく60年後に南北を統一した天皇家が出現する。こんな調子だから、南朝と北朝は各地でゲリラ戦を展開し、中々平和な政治に定着しなかった。南北朝はその後も歴史の根深い怨念となり、それが現れるのは明治維新の時である。平氏から始まる武家政権の発生も鎌倉政権の崩壊も、元はと言えば朝廷の画策が原因である。ここで南北朝の原因と展開を書いている暇はないので、この程度に止める。足利将軍も尊氏のあと、三代将軍足利義満は天皇の地位を窺った。逸話では義満は自分が天皇即位する直前に毒殺されたという。下手人は世阿弥であるという説も在る。

室町の政権はすでに尊氏以来不安定であった。第一最初は任せていた弟の直義を観応の擾乱で葬り去り、足利尊氏ではなく弟の足利直義が政権を運営して居たら、恐らく大乱は起きなかったであろう。ところで皆さんは美術教科書に載っている国宝の「伝源頼朝像」という人物画をご存じの事と想いますが、今まで神護寺が所蔵している頼朝像と思われていたが、諸鑑定の結果、あれは足利直義の像であろうと成りました。あの像から思うに直義は利発で謹厳な人物である事を想わせます。ですが足利政権はつねに北条氏ほど謹厳ではなく、尊氏自体が好い加減の丼ぶり勘定であった為に、多くの不祥事が起きている。仮に直義が幕府を統制して居たら、室町の政権はもっと違って居たであろう。こんな幕府で永く持つ筈が無い。義政に至っては政治統制などする筈も出来る実力も無く、自分の趣味の書院造や庭の造営、物見遊山に大金を掛け、更には女色に耽るだけであり、これでは何れ大乱が起きるだろう。そうして実際に起きた大乱が「応仁の乱」である。

こんな状態の時に東国人はどうして居たのだろうか?。鎌倉時代に日本を攻めた元朝は、国力を消耗衰退させモンゴル人は漢人の反乱で滅亡し新たに明朝が成立する。室町の政権はシナ大陸が動乱の時代に成立した。だが足利の室町政権は、北条の様な理念に欠き、まるで諸国の守護に統制が効かない世の中を創り出した。力ある者が勝手に政権をあしらったのでは幕府の権威が損なわれる。それはやがて各地の地頭や国人が、自分の思うがままに土地の奪い合いを試みるように成る。それは戦国の予兆である。第一に足利政権が、諸国を統制できず朝廷も何もできない時代が到来し世は戦国時代に入る。応仁の大乱はそうして起きた。

やがて幕府が機能しない中で、各地の守護は自分の領地を拡大する暴挙に出る。戦国時代とは、守護大名が武力を用いて土地を奪い合う動乱の世界である。武力と機略を持つ者が天下を統率する時代となる。様々の戦が繰り広げられる。また戦国の世に特徴的なのは鉄砲が出現した事である。いま迄飛び道具と言えば弓を措いて他に無かった。だがこの鉄砲は弓の百倍の力を発揮した。鉄砲伝来はよく言われるように種子島にポルトガル人が難破してこの機会に伝えられたというが、すでに大阪は堺の港には鉄砲が伝わっていたという説も在る。鉄砲には黒色火薬が必要で其れには硝石が不可欠だった。黒色火薬という物は一番古い火薬の一種で、火薬自体は鉄砲が伝わる時代以前に発見されていた。それは北宋の知識人沈括の著書「夢渓筆談」の中にも書かれている。硝石と硫黄の混合物は火を発する事が錬金術や不老不死の霊薬を探求する過程で解っていた。そこに炭を混ぜる、この割合はまだ理解されてはいなかったが、その最も効果的な割合で黒色火薬だ出来る。鉄砲の鉛玉は火薬が爆発的に燃える事で鉛玉は鉄の筒の中で飛び出す。それが鉄砲の原理である。すでに元寇の時に元軍は火薬を硬い球体に入れて手榴弾のような使い方をしている。これを大型にすればロケット砲のような物も創れる。

この戦国時代は約100年ほど続いた。見方に依ればその年月は長くなったり短くなったりする。守護の治める国の中でも争いは熾烈を極め、守護代が守護を放逐したり全くの平民が国を奪ったりする時代が続いた。天下に号令する群雄は、比較的京にちかい勢力を持つ者が有利であった。矢張り濃尾平野付近の者が有利に違いない。九州、東北では、遠すぎるし、日本海側では降雪の為に十二分には動けない。という訳で挙げられるのは、武田氏、織田氏、今川氏、北条氏、などであろう。その中でも織田氏の信長は、策略と用兵で優れていたと思われる。これはという者を部下として雇い入れ、それを扱使い、付近の大名を敗北させて行った。信長の戦はカレコレ百数十回、勿論、負け戦もあるが総じて目的を果たした。部下には或る意味合理的で冷徹で、働きによって優遇したり時によっては追放した。織田家由来の武将も多く居るが、外からも有能な者は登用した。我々が知ってゐる信長の武将には、木下藤吉郎、明智光秀、そして織田家由来の武将は多く居る。信長だけではなく天下を狙う守護大名には、武田家、上杉家、北条家、土岐家、今川家、などなど、多くは現在の県でいうと、岐阜、愛知、静岡、神奈川、新潟、福井、長野、など中部の守護大名が多い、九州、中国、四国、などの守護大名は、京都からは遠くて、地の利が無かった。関東、東北も、同様です。この範囲の守護の潰し合いで、大体の勢力が決まった。武田家は其の候補だったが、信玄が亡くなり天下に号令を掛ける号令を掛ける事は出来なかった。

大体に於いて、戦国の趨勢が決まりかけていた時に驚くべき事が起きた。反乱が起きることは戦国の常だが、決まりかけていた天下の趨勢を覆す異常事態が実際に起きた。明智光秀に拠る本能寺の変である。これは日本の歴史の中でも大化の改新、壬申の乱、源平合戦、などと共に史上の大事件だろう。恐らく一番驚いたのは当の信長であろう。「なんでやねんこりゃ!」と言ったかも知れない。三河の方言コトバはとても面白い。田舎者の信長だから、三河の方言丸出しで怒ったであろう。「是非あらず」などと、かしこまった言い方などしていない筈だ。私は三河方言を知らないので、どんな感じの言い方かは知らないが、多分面白い言い方だろう。三河の人がこの駄文を読んで呉れて教えて頂けると幸いです。

そう言う訳で「本能寺の変」は、戦国史上、稀に見る奇異な大事件だった。天下取りに王手を掛けた瞬間に、もろくも部下の裏切りに会い野望は潰えたのだ。だが信長のこれまでの生き様を見れば、部下に裏切られる可能性は常に在ったのであろう。荒木村重さん(荒木さんの息子には有名な日本画の)も赤松さん(赤松さんは茶の名器を沢山持っていた)も信長に窮死させられたのだから、「これでは部下は、いつ自分も同じ運命に遭遇するか分かったもんではない」。と、口には出さないが心中に秘めて居たであろう。信長は自分の支配は万全だと思ってゐたかどうかは知らないが、ヒョッとすると、この癇癪もちで戦の結果次第で信賞必罰のこの男は、部下に反旗を翻される可能性を常に抱えていたのだろう。明智光秀という人物は興味が有る人も多いだろう。明智光秀は土岐氏に仕えた重臣のひとりで、信長とは比較に成らないほどの教養人で、京都の朝廷や公家との交渉で信長は光秀を抜きにすることは出来ないほど、重要な男だったとされている。その男が謀反に走ったのである。肖像画を見ても、信長の眉間に立皺をつくった神経質で癇癪もちの顔とはまるで違う、おだやかで知的な顔である。この男が信長を葬った原因はなにか?に附いて、多くの推理や説がある。

その中で一番腑に落ちるのは、光秀が信長に命令された「家康を謀殺するという企画である」。本能寺の変の当時、家康は大阪は堺に遊びに来ていた。遊びとは表向きの理由で本当は堺で作られる鉄砲の仕入れである。今で言えば超音速ミサイルの仕入れである。そして信長は、同盟者の家康に、「良い茶器が揃ったから京都の本能寺に遊びに来てくださいね。」と手紙を送った居る。此れにイソイソと家康が申し出の通り本能寺に出掛けて居たら、江戸幕府は存在しなかった。信長はもう自分の天下は決定した。「一番邪魔な者は家康である」。おお戦をしないで家康を葬る絶好の機会である。と、考えて光秀に本能寺に泊まってゐる家康を狙えと命令したのだろうか?。だが、光秀に裏切られ信長は滅ぼされた。光秀は家康と通じて居たのだろうか?。この辺は江戸幕府の指南役に天海とい得体の知れない人物がいて、これを光秀では無いか?との説がある。まあこれは余談である。

信長を秀吉に替えて見たらどうだろう?。この事態で秀吉ならば本能寺という裏切りが発生したか?という設定である。晩年の耄碌した秀吉ではなく、判断力の優れていた当時の秀吉ならば裏切りは発生しなかったのではなかろうか?。飽く迄も仮定の事であり解らないがこの二人の統治方法はまるで違うと思う。秀吉は信長の草履取りから取り上げられた下下の者で、傍目にはそれは苦労の連続であった。また様々の挫折も経験している。その中で人心掌握のコツを心得ている知恵者だ。目的を達する為には自ら馬鹿に成ることも心得ているしたたかな男である。秀吉の全国統治の見取り図はいったいどんなだったのか?、腹心の部下に諸国を与えて大阪で統治する方法だったか?。それを維持する為には、もしかすると後の家康のような方法を取ったかも知れない。つまり参勤交代である。奥方を大阪に於いて置き、国主を数年ごとに諸国と大阪を往復させる。

アイデアマンの秀吉だから、次々と方策を繰りだした事であろう。だが、なにせ秀吉は歳を取って居り、自分の政権が10年を越えなかった。若しもあと15年の統治期間があれば、豊臣政権のあと徳川政権が生まれたかどうか分からない。とすると江戸時代は来なかったことに成る。秀吉の時代は西洋列強の植民地侵略に勢いが出て来た時代である。うっかりすると日本もイエズス会に拠り籠絡され侵略に晒されたかもしれない。当時の日本は外国の実情を知らなかったし、危機感も薄かったであろうから危なかった。だが宣教師を追放し国体を守るために秀吉は大いに活躍した。秀吉の政策は実の弟の秀長が大きな影響を与えていたが、豊臣秀長はやはり足利直義の様に周りからは大いに評価信頼されていた。秀長がもっと長生きしたならば豊臣政権は違った色彩を持ったかもしれない。晩年の秀吉は豊臣政権の将来に不安を懐いた居たのであろう。家康に自分の政権が持続する事を頼んでいるが、内心は家康が天下を取るであろうことを知ってゐたのではなかろうか。

関ヶ原の戦は、秀吉子飼いの五奉行のひとり、秀吉に体型も似ている石田三成が豊臣恩顧の大名を束ねて徳川家康に挑戦した。それは五大老筆頭の家康が上杉景勝に謀反有りとし、これを討つ為と称して、豊臣配下の諸将をまとめ、上杉討伐の兵を起こして東進している最中に三成の挙兵を知る。家康は自分が大阪を出て上杉討伐に行けば三成は必ず大阪で挙兵するだろう事は既に計算済みであった。上杉討伐はつまり三成の挙兵を誘った見せ掛けなのである。それで急ぐことなく、ワザとユックリと進軍した。丁度、下野の國小山に差し掛かった時に、三成を探っていた忍びが三成の挙兵を知らせて来た。そこで有名な「小山評定」が行われた。家康は大部隊を率いていたが、それらはすべて家康に忠誠を誓う者達ではなく、秀吉恩顧の大名も大勢居た訳で、この時点で家康と三成のどっちに附くか?が、将来の自分の生死的存在に係わる大決断であったろう。

戦国の世にもヒトとヒトとの好悪の人間関係が利害を超えて敵味方の決断を左右するのは、将に現代と同じで単なる利害関係だけではなく、仲が良い悪いの関係(能力や気質と価値観、信頼感同じ傾向にある)が、大きな決断の要因になってゐる。猪突猛進の猛将福島正則は、秀吉に深い恩義があり自らも太閤に忠誠を誓う身であるが、石田三成と犬猿の仲であり、三成憎さの為に家康方に附いた、福島が徳川方に附いたとなると、秀吉恩顧の大名も時の流れと観念して家康方に附いた。こうして家康の思惑通りに天下取りの大事は進行した。関ヶ原の戦いは、主戦場の関ヶ原だが、それだけではなく各地でも戦われた。秀忠が足止めを食らった上田城の戦いもあり他にもあった。

家康軍を大将とする東軍はゆっくりと西に進み関ヶ原を前にして、総大将は近くの山や丘陵に陣を構えて睨み合っている。関ヶ原は霧が良く出る場所である。慶長五年九月十五日、(現太陽暦では十月二十一日である)。もう十月も末の時期であり北関東の山手では紅葉の盛りを迎えようという頃であり稲刈り作業ももたけなわである。こんな時に天下を別ける戦いが始まった。七時三十分過ぎに西軍80000人、東軍74000人の軍勢が朝霧の中で小競り合いから戦闘に衝突した。薄霧に覆われた戦場では、盛んに鉄砲の音がして、騎馬戦、弓も長刀の白兵戦んも行われた。昼過ぎには大勢は決着して西軍の逃走が始まった。

弱体であった東軍の勝ちを決めたのは、秀吉の正妻高台院「ねね」の甥、小早川秀秋の裏切りであったという。秀秋の裏切りは事前に話はついて居たが、小早川の決断は遅かったので東軍から鉄砲の催促を受けたらしい。話は付いているとは言え、この決断は20歳の青年には難しかったろう。高台院に可愛がられて育ち、肖像画を見ると殺伐な気風は無い、柔弱な青年の様に見える(肖像画を参照)、むしろ、この戦場から逃げ出したい思いがあったのではないか。中々戦いに参加しない為に徳川に疑われ、関ヶ原の跡に秀秋は一年を経ずして21歳で死亡してゐる。暗殺か自殺かは知らない。一進一退でホトホト疲れ果てた西軍軍勢の横腹に無傷の体力をもった軍勢が山を駆け下りて行った。この突然の攻撃で西軍側は浮足立ち相当数の兵が倒れた。小早川軍のこの攻撃で、戦闘に参加せず様子を見ていた西軍の軍勢も敗走になった。薩摩藩の島津義弘は辛くも戦場を脱出した。戦後処理は石田三成、小西行長、安国寺恵瓊などが斬首となり他にも処刑者が多く出た。

だいぶ端折ったが、此処でようやく徳川家康に到達した。徳川幕府は260年間続いた長期の政権であった。其の為に今の我々の生活様式に極めて多くの影響を与えている。それでこの260年間を、一期~五期に分けて述べて見たい。そうすると一期が約50年間という事に成る。五期に分けると、五世代の期間が江戸時代である。この期間が短いか長いか?、文化の面では変化が出ても文明のレベルでは少し短い。当時の人間の平均寿命は50歳~60歳である。勿論80歳以上と言う長生きの人も居り、飽く迄も平均である。江戸時代は乳幼児の死亡率が高い為に、平均寿命が下がる傾向があるが、一旦成人した者は70歳位までは生きたと思われる。

* 第一期

鎌倉攻めのあと、家康は秀吉から関東に領地を変えてはどうかね?と言われ、不満を顔に出さずに、家康はそうですかと承知した。此処で深謀遠慮の家康は東国に強力は自分の領地を築こうとしたのだろう。そして自分の城を江戸城付近に建てた。江戸の地は大河ー坂東太郎の利根川が江戸湾に注ぎこむ大きな湿地帯であった。それは室町時代に扇谷上杉家の家宰であった太田道灌が江戸に城を築いて以来の築城である。武勇学識兼備の武士であった太田道灌は、武士の中でも古今に名高い学者であった。然し敵の讒言謀略に会い、主人だった扇谷上杉の上杉定正の指示で裸で風呂に入ってゐる所を、風呂場で切り殺され暗殺された。極めて信頼できる有能な家臣を葬るという事は、上杉定正という武士はまったくの迷妄の愚人である。それで道灌を失った扇谷上杉定正は滅亡することに成る。

有能な部下と云うと、道灌の事件とは全く異なるが、外国のフランスでは、宗派の自由を謳ったアンリ四世の家老で、懐刀の数学者、フランソワ・ヴィエトを思い起こす、ヴィエトの死後、自分を支える家老を失ったアンリ四世は、敵対勢力に暗殺されるのである。家康の築城はもちろん道灌の城跡を造り直すという事で始まった。更に家康の政権計画は多岐に亘っている。まず、法令を決め「武家諸法度」の制定を目指して研究会議が持たれた。直ぐには施行できなかったが、深謀遠慮の色々の研究が為された。それから各地の大名をどう統制するかが大事だった。取り潰す大名の策定が秘密に為された。家康の時代には豊臣方の大名が味方に附いて呉れた為に勝てたため、彼らを赤ら様に取り潰す事は出来なかったが、二代秀忠の時代には、遠慮なく外様・譜代はおろか、親藩の大名にも容赦がなかった。家康が最も気にしたのは、大阪に残っている豊臣方の秀頼と淀君であった。これが残っている限り、徳川の政権は安泰ではないと解っていた。此れを何とか潰さなければ、枕を高くして眠れない。俺の眼の黒い内に、何とかしなければならぬと画策を練っていた。ドンな言い掛かりでも好い、口実を作ることだ。

全国の武力を統制すると同時に、江戸を如何いう町にしなけれは成らないかが検討された。一大城下町を創り上げる事に勢力が注がれた。「江戸」自体は一度も大きな町に成った事は無いのだが、これを幕府を設置できる大きな町として機能させなければならない。江戸幕府は全国を直接統治できないので、戦国大名に領地を安堵し、幕藩体制をひいた。藩は今で言う県である。この県は幾つかの郡に分れその中に村がある。江戸幕府の統制構造はこの様に成ってゐる。幕閣→藩政→村政、の構造である。経済構造は米が一種の貨幣であり食料でもある。土地から上がる米に拠って経済が回る。もちろん貨幣も存在した。関東では「金が」関西では「銀が」流通経済の貨幣であった。だが庶民の生活では「金」も「銀」も普通は使わない、もっと小さい単位である「銭」である。小判を使うのは高額の買い物や大きな商取引である。江戸の初期はすべて米で回ってゐた。日本人には米は単なる穀物ではなく貨幣であり神でもある。それは江戸時代からではなく、もっと古い時代から、ヒョットすると縄文期から続くものか?。何れにしても米経済が武家政治の根幹をなす発動機である。

江戸の町づくりの為には農民の他にも、特技を持った職人が必要で、農具鍛冶屋、大工、土建屋、漁師、陶工、刀鍛冶、布屋、染物屋、それこそ多くの職人が必要であり、それを諸国から招いた。江戸城を造る職人としては土建屋が最初に必要だった。江戸の地は大方が湿地帯で夏には蚊が湧きマラリアの患者まで出ている。人口構成から言うと、江戸の初期には圧倒的に男の方が多かったのは、町としてまだ整備されておらず、若い土建業の男が必要とされ、地方から働きに出て来た若い男が多かった為です。男女比は20対1くらいの割合ですから、所帯を持つ事は中々大変だった。女は大変持てたでしょう。それが段々に50:50くらいに成って行くのは、町が整備され生活の機能が回り始めてからです。家康は自分の政権を出来るだけ長くしたいと考えていた筈である。其の為には多くの懸案があったはずだ。

如何したら統制を完全なものにできるか?、それを先ず考えた、戦国いらい殺伐とした戦国大名の習性をもっと文化的なものに変える必要があった。それで武士階級に学問を奨励する際、何にしょうか?と思い悩んだ。主君と家来の倫理的な紐帯を重視するには「新儒教である」南宋の思想家朱熹が「儒教」を、焼き直した「朱子学」が好かろうという判断が働いた。それで家康は、名高い大家「藤原惺窩」に、徳川体制の基本学問を構築する仕事を依頼するが、惺窩は、私はもだいぶ年を取り過ぎているので、私の弟子である林羅山を推薦しましょうと言った。だが惺窩は名族の藤原の出自である為に、其の誇りから徳川などの家来には成りたくないと云う気持ちがあったのだという説も在るようです。それで徳川体制の朱子学は「林羅山」が指導することに成った。いま神田川の北側に孔子を祭った湯島聖堂という堂籠がある。

当面それは、仏教にするか?儒教にするか?道教にするか?、修験道にするか?であろう。間違っても、耶蘇教とか猶太教、回教、などにはしなかった。その中から新儒教である朱子学が選ばれた。これを選定したのは誰であろうか、天海であろうか?、それはわからない。家康自体は鎌倉の政治を評価してゐて、御成敗式目は武家諸法度を造る際の下敷きにしている。家康は高い知能を持って居て、鎌倉幕府の政務記録である「吾妻鑑」に深い関心があった。幼少の頃に今川で幾らか学問をしたことは有ったであろうが、戦国の世で学問をする機会も時間も無かったであろうから、「おせん泣かすな馬肥やせ」と的確な手紙を認めるのが精いっぱいで、もちろん「吾妻鑑の原文」など読める筈が無い。お抱えの高僧に読んでもらったゐたのだろう。安定した政権を運営するにはどうするか?という目的で、家康は総合的に幕府統治の問題を類別して、自分でも考え、部下に研究させていただろう。

そろそろ自分の生い先が短い、豊臣を潰すには何か手が無いか?と探ってゐた。特に大阪城で秀頼に面会したとき、秀頼があまりに立派過ぎて家康はこれは危ないと危機感を募らせた。これを潰して置かないと徳川の政権は倒れると踏んだだろう。この時秀頼が魯鈍ぎみの青年だったら、家康の危機感は起きただろうか?これも分からない。豊臣を一大名として存続させて居たかも知れない。様々の策謀でいずれ大阪城をめぐる夏の陣と冬の陣で豊臣は滅びこれで安心したのか家康は数年を待たずして没する。

二代秀忠が政権を担うと、先にも書いたが親父の時代に、親父の補佐官に虐められた仕返しをする。会うと「まだ生きてゐるのか?」とかの嫌味を言う。謂われた方は辛いだろう。そして取り潰しの大名が多くなる、それは外様はもちろんのことであるが、譜代や親藩までが対象に成る。取り潰された大名家では家来は失業してしまう。そして浪人として江戸に入り込み、治安を乱し幕政の不安材料となる。後の天一坊事件はその一つでもある。余りに取り潰しが続くと浪人が多く発生する。そして市井で真面目に暮らしてゐる浪人にまで、浪人狩りの弾圧は広まり経済的にも面目上も困る浪人が多く出て来る。就職先が見つかれば好いが、その様な運のいい人ばかりでもない。幕府はその様な要因から、何ら咎の無い大名の意図的な取り潰しを避けるように成る。戦国の殺伐とした時代は段々に変化をして行く。

三代家光の時代に成ると鎖国が国策となる。余談であるが家光は男色が激しく、此の侭では子供が出来ないと、乳母の春日局(斎藤福)は、心配して何とか手ほどきをしている。家光が将軍に成れたのは、乳母の福が家康に交渉して呉れたおかげであり、福にはこころから感謝はしていたであろう。父母は弟の方を将軍にと考えていたから。耶蘇教の影響で「島原の乱」という手酷い反撃を食らった幕府は、耶蘇教の禁止令と共に耶蘇教の流入を阻止する為に鎖国政策を取った。鎖国の主眼は、「日本人の海外渡航の禁止」と「海外に居る日本人の入国の禁止」である。この事が、どう云う結果をもたらしたかに附いて考えるべきだろう。耶蘇教の宣教師はもちろんの事で入国は禁止される。然し海外に日本人が商売でも渡航できないとしたら、これは益より不益が多い。日本人はこれにより「海外での足場」を失った。山田長政を始めとした優秀な日本人が海外で勢力を築くことが不可能に成った。その間、白人たちの東インド会社は東南アジアを植民地にした。シナでは東南アジアへの移民が多く華僑となって現地の経済を支配してゐる。海外からの情報は小さな窓である長崎のみと成って仕舞う。反面、日本国内では国内の籠らざる得ず、日本独自の文化を形成する時間的余裕ができた。だがそれは眠って居たのである。

この十七世紀の初頭から、西洋の科学技術が萌芽し始める。そしてペリー准将が江戸湾に現れて開港を迫った時には、その科学技術の差は歴然として仕舞った。眠っていた時代から、大砲を以て叩き起こされたのが嘉永六年である。徳川政権の土台基礎が一応確立すると、その維持の為に統制の方法とか民生の手段が問題となる。徳川幕府の職制は、政府として老中を置き其れが政府部門、若年寄、大目付、目付、朝廷の監視として京都所司代、などが警備部門、年貢税制部門は勘定奉行ほか、代官、手代、手附、民生部門に捜査裁判部門として南・北奉行所、凶悪捜査部門として火付け盗賊改め方、そして江戸の管理者として名主、番所、などを置き、江戸の取締は各番所が自治的に行った。そう言う訳で100万人の都市であるにも係わらず、南北奉行所の、与力・同心は南北で120名くらいの陣容だった。(正確な人数は調べてください)、また幕末には赤城山で国定忠治の捕縛の為に戦った関東取締出役という広域捜査の組織もあったようです。

第二期

一期が、家康・秀忠・家光、と続き、二期は、その後の綱吉を主とする時代に成る。犬公方綱吉は知能が高く部下に朱子学の講義を行ったりしている、また代官の制度を見直し様々な良い改革をしたが、総じて不評なのは例の「生類憐みの令」で、すこぶる評判が悪い。多くは誤解からであろうが、莫大なお金を掛け、中野で10万匹の野犬を飼育していたらしい。(ハッキリした記録があります)、また飛んできた蚊を叩いた為に処刑されたなどと言う事件があったらしい。(これは眉唾であろう)、人より犬の方が大切なのか!という事で町人の間でも曲解が発生している。面と向かって幕府の批判は出来ない、それで活躍するのが川柳である。排風柳多留にでもたぶん綱吉への当て擦り川柳が載っているのではないでしょうか。誰か興味ある方は調べて見てください。

新しい将軍が就くと指導力が弱くなる。並みいる重臣が指導権を争い将軍は只の飾り物になる。老臣はその方が好いと考えている。幕政も謂わばルーチン化して、マンネリ化の傾向が出て来る。5代将軍の綱吉は、それなりの指導力で幕政を指揮したが、その中でも代官の制度を新たにした事は善政である。綱吉までの幕領代官は、たぶん室町期以来の、その地の有力地頭が継続就任して農民から多大な不正収奪をしていたことが明るみに成り、綱吉は新たに下級幕臣から代官を任命する事をした。此処で任命された代官は有能で公正な人物が多かった。代官は勘定奉行の配下であり、1734以降は関東軍代の支配下にあった。綱吉のお側衆から側用人に成った柳沢吉保は、綱吉の男妾でありだいぶ出世をした人物である。大老職は常設ではなく、なにか事かがあった時に、普通は老中の中から将軍により任命されるのだが、吉保は老中ではないのに、宝永三年一月十一日(1706年)~宝永六年(1709年)六月三日まで、いきなり大老に任命されている。綱吉の治世は結構長く、1680・8・23~1709・1‣10、で30年近い。綱吉の死去に伴い大老職を退いたのは、柳沢美濃守吉保はその権勢を失ったのでしょう。その後は前に踏襲された治世と成る

第三期

15代続いた徳川将軍のなかで中興の将軍として名のあるのは、八代将軍の徳川吉宗です。本家の将軍断絶した場合、御三家の内、水戸藩を省いた、尾張徳川家と紀州徳川家で将軍職を出す事に成ってゐる。六代将軍、徳川家宣は在職期間3年で51歳で亡くなり、七代目の将軍、徳川家継は在職期間3年で8歳で亡くなる。家継の8歳で亡くなるのは将軍の務めは無理で、政務は老中が行ってゐたろう。とすると八代将軍職が問題となる。この場合は尾張か紀州かで裏で駆け引きがあった。そして大奥も抱き込んだ吉宗が勝ったという事に成る。吉宗の在職期間は29年の長期政権でで68歳で亡くなる。政権で一番短いのが徳川慶喜で足った一年である。次に短いのが家康で2年。まあ家康は院政を曳いて居たので死ぬまで実質は将軍だった。この江戸幕府中期の吉宗は、色々な改革をして名将軍を言われている。江戸も中期に成ると流通が拡充されて多くの華美な商品も出現して貨幣経済が盛んになり、米経済はその欠陥が出て来て各藩は参勤の費用なども事欠くように成る。参勤は法令で藩の石高に応じて供の者を参加させる。小藩はその出費に窮するのである。かと言って、参勤を止める訳にも行かず、切米で暮らす下級武士は窮乏する。然もコメの値段は作柄に依っても変化する。多くの藩は自藩の年貢を江戸まで運び、蔵前の名がある隅田川沿いの蔵屋敷に保管して、それを相場屋に売って貰っていた。その金で藩の屋敷の経済を回してゐた。コメが安いと年貢の収益が減り生活に窮する。コメが高いと庶民の生活が苦しく社会不安を招く、コメ相場の安定をさせる為に色々と苦労した。国内では大岡越前などを使い幕政を裏から管理させた。また外国の本に輸入許可を与えたのも吉宗である。

彼の治世は1716年~1745年である。この時期にとにかく外国、特に西欧への偵察使節を出してゐたら、幕末の危機を逃れたかも知れない。科学と技術の差が確実に格差を告げつつあった時期である。それを言えば江戸幕府が開かれた時期、特に鎖国を始めた時期に運悪く、外国では科学革命が始まる時期であった。キリスト教の恐怖からズーッと鎖国し眠っていた間に、トンデモナイ格差が拡がって仕舞ってゐた。日本人に能力がない訳ではない。それどころか世界に冠たる頭脳の國だ。ただ江戸幕府の施策が戸を閉ざすという事なので、発展したのはソロバンと和算くらいな物だ。もちろん大きな船を作ることは禁止された。鉄砲も武器も研究は禁止され国内自体が幕府によって武装解除された状態だった。外を知らないという事は恐ろしい時代錯誤を生む。徳川の政権というよりも武家政権の根幹は、自分の家が大切で他はどうなっても好いという視野狭窄なのであろう。國が占領されて仕舞えば、どこの家柄が如何の効のと言うこと等通用しない、そんな物はぜんぶ奴隷化される。江戸幕府は、そこの本質が解らないまったくの視野狭窄であった。実際、薩長を動かしてゐたのは外国の勢力であったのだ。

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相沢忠洋ー「岩宿の発見」

2025年01月16日 18時18分08秒 | 日本文明

 昨年の三月にようやく私は望みを叶えた。それまで行こう行こうと思いつつ、ズーッと果たせなかった長年の想いが実現した。相沢忠洋氏の発見した岩宿遺跡つまり「旧石器時代の遺跡」を訪れたのである。私は旧石器時代の発見は、ホメーロスの叙事詩を読みトロイアの遺跡を発見した、シュリーマンの業績に等しいか或いはそれ以上であると思う。トロイアは紀元前800年だが、岩宿の遺跡は、紀元前3万8千年前の時代である。相沢忠洋氏は市井の考古学者である。最初アマチュアの研究家として始まり、最終的には石器発掘の専門家として活躍された偉大な考古学者だった。著書「岩宿の発見」は、彼の苦難の人生を語っている。故郷の鎌倉に生まれ育った相沢さんは、なにか能楽師の職域と関係があるのか、お父上は笛の演奏を職業としていたらしい。成長期は逆境の日々を歩いて来た相沢さんは、群馬県に移住してナットウを売りその日の糧を得ていた。相沢忠洋記念館には、彼が納豆を売り歩いた自転車が展示されて居た。構造パイプの太い、僕が子供の頃に見た闇屋が使う頑丈な自転車だ。

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大自然学ー2025・1・11

2025年01月12日 19時33分47秒 | 分子進化と集団遺伝学

 この地球上の命はすべてつながっており、存在する個体の一つ一つは、生命という巨樹の枝に生える無数の葉のひとつである。例えば一人の人間の命の中にも膨大な数の微生物が共生をして居り、世界は命というシステムでつながっている。生態学という学問が重要である。それは数々の多くの個別的な命がつまりは全体的な生命体として繋がっている事を主張する。地球という惑星システムも個別に存在は出来ない。それは太陽という神とも称する動力源のお陰で存在できるのだ。生態学はこの地球惑星システムを知らずに探求することは出来ない。地球に存在する人間という物が、大自然のサイクルを変えることは出来ない。神にもひとしい大森林を切ること等は人間の自殺行為に等しい。だが機械の導入に依って、その行為が可能となった。それが人間の将来を暗くしている。

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風姿花伝ー世阿弥元清

2025年01月12日 06時48分50秒 | 日本文明と文化

 能演目は随分前か関心があったが、実際に演舞を見たことは無い、近くに能楽堂が無かったこともある。それで生の舞いを見たかったが果たせなかかった。ただ元清が著した演目と奥義を書いた書がこの風姿花伝である。時は室町時代、観阿弥・世阿弥の親子がどんな理由で猿楽や能楽を始めたのか、もちろん世阿弥以前にも白拍子など、この手の演目があった。ただ、風姿花伝の様に、猿楽・能楽を一つの芸の基本哲学として世阿弥以前には書かれた本は無かった。この薄い本を読んでみると、世阿弥元清は一種の霊媒の資質を備えていた様に思えてならない。実際、能楽のそこに出て来るのは普通の人間もあるが、大抵は幽霊か生霊と称する物だ。幽霊という物が何なのかをよく知らないが、肉体を持たない精神と言ってよいのだろうか、

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光とはなにか。

2025年01月07日 21時12分32秒 | 天文学と宇宙論

 光りは私たちの生活と常に共にあるので、「光とはなにか」、と問われても、あまり驚くことはない。寧ろ、陳腐な問いと思われかねない。だが本当は我々は光に附いて何も知らないに等しい。光は波動である、然り、光は粒子である、然り、波動であると同時に粒子でもある。光の実体はなんなのだろう。光の速度は最も速いとされる。光の粒子は質量がごく少ない。なぜ光は存在するのか?、光は電磁波である。電磁とは電気と磁気、電子の誘電率と磁気の透磁率が、交互に互いを誘発させその連続が電磁波であり、光は電磁波のある段階の波動である。ヒトの眼に見える光とは、或る範囲の周波数で後の周波数はヒトの眼には見えない。この世界には様々な周波数の電磁波が溢れているのだ。物事も異なる周波数の下では見え方がまるで違うのだ。

更に光は、我々の心に強い影響を及ぼす、心理的な物であは有るが、その影響はとても大きい。それは我々というよりも地球生命全般であろう。光の無い世界は暗黒の闇である。それが宇宙ではごく当たり前の常態だ、光りは有意な現象と言えるのだろう。人もも光り依って覚醒し、光りによって世界を見ることが出来るのだから。智慧は見ることを通じて光の中から現れる。闇の世界には生まれ乍らの方でない限り中々耐えられないであろう。勿論光以外にも世界を把握する力を持つ者もゐるが。光りは反射を通して世界を見ることが可能だ。そう言うことから宗教的感情を励起させ、信仰がうまれた。光りを崇拝する多くの宗教がある。古代イランのゾロアスター教、通称、拝火教だ。仏教にもその側面があり、密教は火を崇拝する。火は神聖であると共に智慧の象徴なのだ。

我々の感覚器官である眼は、ひかりに起因して現れた。我々の眼は、太陽のひかりの中の或る周波数に反応する様につくられた感覚器である。むかし、古代インドに興った原始仏教の中に「唯識」という学派があった。唯識派はそのコトバの如く「識の本質」を大系付けることを目指した学派であった。識とはいわゆる感覚器により得られる「認識情報」のことであるが、それだけに留まらない自我意識を超える潜在意識を想定した。それで唯識派は、人間の感覚器の分析を始めた。先ずは正常にうまれた人間ならば持ちえる感覚器、眼、耳、舌、鼻、皮膚感覚(触覚)、そしてそれをお統一して現れる自覚的意識、に分けた。更に、生れながらに持ちえた末那識という潜在意識をいれ、更には、最も深い存在の意識である阿頼耶識を最終精神の究極とした。そして此の阿頼耶識には個人的な意識は残されていない。この一つの葉が経験したすべての記憶の蔵は、その死と共に消え去るとした。個人的な記憶が存在するのは末那識までであるだろうとした。勿論それが正しいものかどうかの結論は出ていない。飽く迄も、その論を作った物の見解に過ぎない。

原始仏教のコノ様な論は、人間の認識力の概容とその限界を問うことの必要性から生まれたと思う。「知るとは何か」、「知れる限界は何処までか、それは何故か」という意味をこの問いは指示している。実に深く豊かな奥行きがある問い掛けだ。例えば、それはこの様な根源的な問いが為される、将来の数学は、人間の数学を超えるものであろう。人間の数学はまだ知力の展開の上では幼児期に在る。現在の数学とはまったく別な数学が存在して何ら不思議ではない。もっと根源的な数学の事を言っている。いま僕がこの様な事を書き記しても、たぶん解ってくれる人は限られているのではなかろうか。哲学とは根源を考察する分野であるので、それは数学も物理も天文も化学も生物の遺伝学もすべてをふくむものだ。

光りが自覚的意識を生み出し、更には物事の現象を広く感知しその原理を探る意識が生まれる事は智慧が生まれる事に等しい。依って光りは智慧を生んだという俗説もあながち間違いではない。

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江戸時代の教育ー日本人はどう学んできたか。

2024年12月31日 08時46分27秒 | 日本文明と文化

 2万年前の縄文時代はどうか分からぬが、生れた子供の教育という物が、遠い古代に於いても無かった訳ではないだろう。子供を育てる過程で社会的動物である人間は、社会の掟(規範)という物を学ぶはずである。それを教育と呼んだところで仕来たりとか規範と呼んだところで、根は同じ物である。現在の日本人の規範の半ば以上は、江戸時代の規範と仕来たりからの影響を強く受けている。日本文明と振り被れば、遠く二万年の縄文期に行き着く、大自然と共にその懐に抱かれて暮らした自然と一体になった時間である。その文明から得られるもので最大の物は自然神道の考え方である。それは永い紆余曲折の経過が有った筈だが依然として日本人の心の最も深い部分を形成している。古代のは多くの国が有った。それを束ねる目的から争う事が起きて、一応大君の世の中に成った。それは見方に差があるが、秀真伝などが語る所では紀元前1600年辺りが始まりであるという。神武帝よりも千年以上前のことである。その辺りに統一日本の枠組みが出来たと、まあ考えても好いだろう。

紀元前1600年代と言っても、たいして古いわけでは無い、20000年前の縄文期から数えればつい昨日のことである。其れ程、日本人の歴史は永い。実を云えば二万年では済まない。というのは長野県の妙高野尻湖ではNaumannゾウを狩っていた人々が居た。Naumann象はおよそ35000年前に絶滅したと言われている。それを狩りしていた人々が居たとすれば、4万年前には原日本人が長野県の野尻湖のほとりで暮らしてゐた。またそれどころか、島根県では12万年前の磨製石器が出ている。こうなると原日本人の起源は、もう捉え所が無くなる。遺伝子解析に於いても日本人はモンゴロイドとしては極めて古い人種に属する。当然の事だが日本語の起源も其れと同様にきわめて古い。

前置きが長くなり過ぎたが、主題は江戸時代の文化と教育である。直近の日本文化は室町期に発するというのは解る気がする。と謂うのは、書院造、石庭、茶道、大和絵などの絵画、猿楽、能、を始めとした多くの現在も継続している芸道の多くが、この時代に発している。足利義政が多くの芸道を進めたのは功績だが、然し乍ら応仁の乱の遠因をを醸成し、やがては戦国時代に突入する統制の無い時代をつくったのも義政の将軍時代に発する。戦国が終わり家康の江戸幕府が開府すると、殺伐として世の中はようやく安定し、人々は文化を楽しむ余裕が見え始めた。江戸期は様々の飢饉などの悲惨な事態も多く起きたが、それでも何とか文化を高める努力が為された。やがて人々は教育の必要性を感じ、様々な教育の試行がなされた。江戸期は95%が庶民であり、武士は5%しか居なかった。庶民と言っても百姓だけではなく、商人も大工も工人も役割の違いだけで庶民の部類に入れる事が出来る。

当時江戸に住む町人層は、商売を家業にする以上は、「読み書きソロバン」は必須の習得科目であった。それは主に寺子屋という所で行われた。寺子屋という今で言う一種の学校は、江戸時代以前も存在して居たが、江戸が幕府の本拠地になり、そこに住む人々は文字が読める事、文字を書けること、計算が出来る事、が必要であった。寺子屋といってもすべてお寺で授業をする訳ではない。40人位の生徒が入る部屋が有ればそれで十分なのである。どこの寺子屋でも教える事は「読み・書き・ソロバン」が主で、一つだけでも教えるところが有ったらしい。寺子屋の教師も特別な資格が必要ではなかった。

ただ、15~16歳位までの生徒に読み書きソロバンを教える事が出来れば、それで十分だった。地方にも村には一つか二つの寺子屋が有った。だが江戸には寺子屋の数が多く、名前の付いた寺子屋も多く在った。江戸末期には日本全国で寺子屋は一万校ほどあったと謂う。それに各藩には藩校が有ったから、相当な数の教育機関が存在した。和算研究家、佐藤健一先生のご著書を引用すると、江戸に関しては、寺子屋の教師の身分は、士族ー41・9%、平民ー52・4%、神官・僧侶ー5・7%、という割合であったそうだ。また、女性教師も多く、江戸の寺子屋の教師の39・4%は、女の先生だった。私は此処にこそ、日本文明の本質、惹いては、日本文化の母系的な核心的部分が有ると感じる。男は外に出て働き、女が賢く家を守ると言う縄文以来の基本線がある。

ここで二つの例を挙げて見たい。一つは、江戸末期の安政二年(1855年)に神田で開業した「東雲堂」という寺子屋では「松原セイ」という女性が教えている。寺子屋の修業年限は9年であった。生徒の数は男32名、女46名、合計78名で、同地区の寺子屋の教師一人が教える平均生徒数は81・5人だという。これは大変だ、躾から読み書きソロバン迄、成長過程に即して教え育てる事が要る。女が賢い國は必ず発展する。それが日本だった。男よりも女の方の賢さの方が国家と言う様な大集団に取っては大切なのだろう。

もう一つ例として、文化十年(1813年)甲州山梨郡勝沼村に寺子屋を開いた、「小池ミサゴ」を取り上げる。文化年間と言えば、我が家の繰込み位牌にある、一番古い6代前の位牌(平吉)の生まれが文化三年だったから、その時代のころなのだなあ~と思った次第です。ミサゴは寛政九年(1797年)三月十六日、甲州八代郡、市川大門村に依田清造の長女として産まれた、父は娘を可愛がり諸芸を学ばせたが、賢く頭の良いミサゴは、人並み以上の成績であったという。寺子屋を開いたのは17歳の時であり、翌年は藩主の内室の侍女として祐筆までこなしたという。文政四年(1821年)勝沼村の薬種商小池忠右衛門と結婚し、再び寺子屋を開いた。寺子屋では寺子からの謝礼で経営する。然し、幕末の大凶作は寺子屋の経営にも影響を及ぼし、生徒が減少し寺子屋の廃業も多く見受けられたという。ミサゴの寺子屋が明治まで継続し得たのは、嫁ぎ先が薬種屋という商売をやってゐた為に、寺子の謝礼だけで運営せずに済んだせいらしい事が挙げられる。全国で一万以上の寺子屋があった。これは世界史的に見れば驚異的である。また、この様に教える先生が居たという事は素晴らしい事であり、更には女の先生が40%以上あった。これ又凄い事で、教えられるだけの素養を身に付けた女性が居られたこと。例えば暮しは貧しくても、持ち切れぬほどの高い志と教養があった為だろう想像します。

* 30年以上も前に、寺子屋に掲げられた諺を知った。そこにはこんな諺が掲げられていたようだ。

1ー 三つの心(こころ)

2ー 六つの躾(しつけ)

3ー 九つ言葉(ことば)

4ー 十二で文(ふみ)

5ー 十五で理(ことわり)

* ー 『ひとの末は、それで決まる』。

この様な諺が掲げられていたらしい。これは人間がこの世に生まれて学ぶべき基本ですね。

少し、私の考えを書いてみます。

*「三つの心」とは、ー 人が人として成長する段階の、最も大切な時期である。子供に愛情を注ぎ、美しいものを見せることが肝要です。優しく接し、教えだ諭す。三つ子の魂なんとやらで、人間の人格の土台を作る時期です。美しいものに感動する感受性を育てる時期です。

*「六つの躾」とは、ー 生活の作法と物事の基本である、善悪を教え諭す時期。世間を渡る上で、基本となる躾が身に付く様に教え諭す事が肝要です。

*「九つ言葉」とは、ー 正しい言葉使いを教える。言葉は心の鏡である。相手に対する思いやりのある言葉使いが出来るように指導する。言葉の乱れはこころの乱れに通じる。常に正しい言葉使いが身に付く様に、愛情を持って導くこと。

*「十二で文」とは、ー 美しい文字が書ける様に、また教科書(往来物ー昔のお手紙の事です)が過不足なく読めるように指導する。多くの古典を読ませて、考えや物事を表現する力を付けさせる。友達と文をやり取りし、豊かな情操を養成すること。

*「十五で理」とは、ー 寺子屋では六つ位からソロバンを教えて来たが、そのソロバンに加えて、算法(数学)を指導する。将来、どんな職業に就こうとも、ソロバンと算法(数学)は、身を立てる手立てと成る。シッカリと習得させ、数理的な思考法を身に付けさせる事。

* 「ひとの末はそれで決まる」とは、ー こころの豊かさと物事の表現力と数理的な思考法が出来るように、寺子屋では先生が愛情を持って指導した。掲げられた諺が身に付けば、この子の将来を良い方向に決定するだろう。

これが当時の寺子屋に掲げられていた諺(教育目標)であったらしい。いま考えても実に素晴らしい識見である。江戸時代の人々は決して愚人ではなかった。人間の内的成長の段階を永い経験から深く知ってゐたと思えます。

それに江戸時代は、子供だけではなく大人も大いに学んだ。例えば「心学」である。心学とは石田梅岩が始めた、人倫の普遍倫理である。梅岩の心学は「石門心学」と呼ばれ、江戸中期以降には、武士、農民、商人、等によって分け隔てなく学ばれた修養の学です。梅岩の出自は農民だったが、若い頃に江戸に出て商家の丁稚となり、そこで其れなりの苦労を重ね人間間の諸事を体得した。その時代の経験が心学の土台に成った。梅岩の説く心学は、人が世の中に生れ、成長し、世間に出て身を処する場合の身に付けなければならぬ倫理が整然と説かれる。彼は云わば優れた人間学の教師でもあった。

江戸期の寺子屋の教育は、日本人に「読み・書き・ソロバン」という技術を指導し、一人前の人間に育てる基礎であった。国民識字率90%は、世界で最も高かった国である。明治になって学制が布かれて、尋常小学校、尋常高等小学校、旧制中学、高等専門学校、高等中学、帝国大學、と変遷したが、それらが順調に進み得たのは、江戸時代の寺子屋の貢献が大きく、その様な土台があった為です。

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咸臨丸航海長「小野友五郎」

2024年12月28日 12時35分59秒 | 明治・大正・昭和、戦前の日本

 私は小学校のころにそろばんを習い、その関係で日本古来の数学である和算に関心が有った。算盤は手動式の計算機でこれは現代の電子計算機を除けは、世界で最も発達した計算機である。しかもこの手動式計算機は電気も要らず、どんな山奥にも持って行ける。珠算一級の方のその速度は物凄いものです。さらに、珠算は頭の働きを活発にして、何桁もの暗算を一瞬のうちに算出し容易にさせる。珠算の超一級の人は、頭の中に算盤を思い浮かべて、それを弾くことで頭の中で計算機が作動すると云う。和算の起源を勘案すると、奈良時代に「九章算術」という書物が隋より渡来している事がある。東洋の自然科学はシナの科学に端を発しているが、それは未だ科学とは呼べない代物であり、古代支那科学の分析と解説は、藪内清先生や吉田光邦先生の様な方の研究が素晴らしい。なぜ古来の数学である和算に興味を抱いたかに附いては、江戸時代に算学は驚くべき速度で急速に発展し、なんと庶民の間にも大流行があったことなど、また各地の神社に奉納され算額を見る機会が有った為です。

江戸時代は徳川の世で、身分や作法、年貢などの掟は有ったが年貢さえ支払えば、他には身に詰まることは無かった。ただ農業経営が主であったので収穫は気候に左右される事が多く、大冷害の年は大変な事態になり、飢えに晒されて悲惨にも村が消滅するような事さえ発生した。これは冷害に備えて一年を遣り過す備蓄が無かった為でもあろう。全国300藩の中には、予め冷害を予想して備蓄米を米蔵に備えて、餓死を防ぐ策を取った藩もある。だが或る程度の余裕が無ければ取れない施策だが、領民の飢え死には、藩の名誉としては大恥の筈であろう。冷害に強い品種改良も江戸時代を通じて行われ、また肥料の関係も農民はよく知ってゐたが、「肥料公社」があるわけでは無く、肥料は百姓が工夫して自分たちで揃える必要があった。木の葉を集めて堆肥とするなど、現代では肥料の三要素として窒素・リン酸・カリウム、が必要な事は子供でも知ってゐるし、茎中の窒素を固定する技術さえあるが、当時は経験から試行錯誤を繰り返した。そして歴史に名を残す大飢饉だけではなく、不作の小飢饉は常に存在した。

天体物理学の観測から言えば、太陽活動は江戸時代を通じて低調で、中期からは小氷河期の時期に当たる。大飢饉と小飢饉が平均すると30年ごとに発生した。敏感な者は今年が飢饉かどうかを手近に有る兆候から、ある程度予想できたという。長期的な予想は無理でも経験がものを言った。飢饉の実相は太陽の光が弱い、曇天が多い、干ばつ、洪水、台風、と様々であるが、稲の品種改良が格段に進んだ訳でもなく、飢饉は常に直ぐそこに在ったと考える。過去の飢饉の記録を見ると、誰もが知って居る記録に出くわす、それは鴨長明の方丈記の記述にある「養和の飢饉」である。方丈記を読むと養和元年(1181年)に起きた飢饉は全国規模で、その年は春先から雨が降らず、旱魃が続き作物は実らなかった。源平の鍔迫り合いが続いた時代である。飢えた人々は都へ行けば何とかなるだろうとの希望から京に集まったが、そこでも食べ物は無かった。餓死者は特に東北は酷い惨状だったらしい。京都に流れ込んだ人々は結局は飢えて死に、臭き臭いが満ち満ちて、洛中には四万二千三百人の死骸が洛中に在ったと長明は書いている。日本国では日米戦争のあと、天候不順による作柄と収穫量の減少は存在したが、この様に大量の人が飢えて死ぬ事は無かった。

此処で江戸時代の飢饉の実情を詳しく調べれば、享保・天明・天保、3大飢饉だけではなく、その他にも多くの小飢饉があったのだ。先ず、元和五年(1619)、寛永十九年二十年(1642、1643)、延宝三年(1674~1675)、延宝八年(1680)、天和期(1682~1683)元禄期(1691~1695)、享保の大飢饉(1732)宝暦期(1753~1757)、天明の大飢饉(1782・1787)、天保の大飢饉(1833・1839)、飢饉で亡くなった人々は数百万人近い。天明の大飢饉では東北地方で40万人が亡くなったと当時の旅行家である菅江真澄が日記に残している。江戸時代だけでなく、飢饉は身近に在ったのだ。

小野友五郎は、私の在所から東に益子を経て、仏の山を越えればもう笠間のお稲荷さんです。車で行けば道の混み具合もあるが凡そ40分で行ける。友五郎の時代は笠間藩牧野氏の支配する八万石の小藩であった。友五郎はその笠間藩の一代限りの下士で、永続的な武士としての籍は無かった小守家に三男として生れた。父が亡くなれば兄がその後を継ぐのであるが、それは雇われることが保証されたものでは無くて。継続伺いを申し願いそれが代々許可されて来たと言うだけに過ぎない。友五郎は三男であったので家を継ぐ希望は無かった。それでどこかの家の養子に入る事で身を処する以外に道は無かった。友五郎の性質は温厚で熱心な性質であったのだろう。二十俵三人扶ちで生活はカスカスであり、元より贅沢をする等という事は有り得ない最低の武士であった。友五郎が15歳の時、笠間藩の算家である甲斐駒蔵に弟子入りした。15歳にもなって初めて学問をするのは、だいぶ遅過ぎる様に感じられるが、小守家では藩校に出す余裕も無かったのだろう。藩校に通わせるには、それなりの身だしなみも居るだろうし、学用品も掛かる。それで本来ならば7歳位には塾なりに出すべきが、貧乏でそれが出来なかったのだろうと想像する。

それで甲斐駒蔵の家に教えを受けに行く訳だが、入門してから友五郎は、一日とて休むことなく3里の道を通ったらしい。師匠の駒蔵は町場の賑やかな所が好きで、たまには酒を飲んだり芝居が掛るとまた足を向ける。そう云う性格だから、出歩くことが多くてなかなか家に居ない。そうすると友五郎は駒蔵が帰るまで家で待って居るわけだ。それが度々重なる。それでも友五郎は師匠が帰るまで待って居るので、流石の駒蔵もこの若い弟子の為に出歩くことを幾らか控えたらしい。3里と謂えば12キロメートルである。もちろん江戸時代の事であるから徒歩である。12キロを一時間で歩ける訳がないから、幾ら早く歩いても時速6キロメートル、2時間は掛かる。そして帰りも2時間で、何とも和算の勉強に往復4時間を費やしている。そして、それは通学時間に過ぎない、駒蔵に教えを受ける時間が2時間として、帰りも2時間、駒蔵が遊びに出て居なければ、家で待って居る。友五郎は、家の用事か、病気にでも為らない限り、雨の日も、風の日も、雪の日も、夏の盛りの暑い日も、駒蔵の家に教えを受けに出掛けたのである。15歳の食べ盛りの年頃では腹も減る事だろう。如何して居たのか?。この熱心さが、2年位で師匠の駒蔵の学力を追い抜く。学問の出発は晩かったが元々地頭は良かったのだろう。やがて、彼は藩の勘定方に採用され、藩の勘定所の下働きを熱心に遂行する。やがてそれが認められて笠間藩の江戸藩邸勘定役に抜擢される。

江戸に着任した友五郎は藩の扶持米の管理に仕事に精を出したが、勤務以外に暇を見つけては、精力的に数学の研究に邁進する。その頃に江戸は神田橋に在る長谷川寛の「算学道場」に入門した。当時の長谷川道場は全国から数学好きが集まった有名な道場であった。そこでは世の中の武士や町人百姓などの身分は一切考慮されなかった。ただ、そこで基準に成るのは数学の実力一本だった。だから全国から数学好きが集まった。中には農家の次男坊なども居て月謝が払えないので、天秤棒を担いで魚屋をやったり、大工の下働きをやったりして、何がしかの金を得てそれを月謝に宛てていた。長谷川寛は実に物の解った指導者で、入門して困窮してゐる者は道場の寮の賄や掃除などをさせて僅かだが給料を支払い塾生の生活を助けた。その頃、友五郎は長谷川道場に入門すると同時に、伊豆の江川英龍(太郎左衛門)の所に出掛けて西洋式の反射炉で鉄を作る技術とか蘭学などを学んでいた。英龍も友五郎が見どころの或る青年であるので可愛がった。

時は幕末である、嘉永五年にPerryが江戸湾に現れて強引に外交開国を迫った、そんな時代である。もう家柄がどうしたとか謂って居られない時代であった。実力のある人材が求められる危機の時代でもあった。時の老中筆頭、阿部正弘は、家柄を越えて真に実力ある賢人を抜擢した。いま迄は家柄が役職を独占していたきらいがあった。安倍老中はこの様な危機に時代に遭遇しストレスの為か若くして亡くなった。その後を継いだのがあの井伊掃部守直弼である。老中筆頭はやがて大老となる。何人かの目付は井伊直弼の大老就任に反対したが、それはごり押しで通って仕舞い、歴史は安政の大獄を演出する事に成る。

 
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哲学の東北

2024年12月05日 20時29分04秒 | 日本文化の多様性

 哲学の東北とは或る本の題名である、中沢新一か?。僕には東北はなにか鈍臭くて、それでいて強靭な深い何かがあると感じる。外面に捉われない自立の強さと詩情の豊かさがある。自分は東北に対して常にそう感じて来た。僕の生まれは北関東だが、それは或る意味では南東北である。僕は関東人であるが、こころの中では東北人である。雪に閉じ込められて耐え、春を待つ希求のひたむきな強さがある。東北には闇と光の計り難い何かがある。それは二万年を越す縄文の地霊かも知れないし、大自然のふところに暮らした、永い永い歳月の記憶が積み重なった霊的地層である。東北人は日本人の原型なのである。彼らは、一見寡黙であるが思考の中では饒舌で、時流に流されない根源的なものを求める。斎藤茂吉、棟方志功、宮沢賢治、寺山修司、思い付く名前をすこし並べて見たが、なにかここに共通項は見いだせないか?。

芸術家の大抵は一途で個性的だが、上に挙げた彼らは、非常に不器用で骨の太い主張と存在感がある。鈍臭いにも関わらす豊かな味がある、然し全くスマートではないのだ。野暮ったくて、それゆえ信頼できる。なぜなのだろうと長い間感じて来たが、これと言った説明が付かなかった。その内、もしかするとこれは人種が違うのでは無いか?とまで思った。何か東北と云うと縄文人である。それから沖縄も縄文人、日本文明は異質な物の混合か。哲学も文学も圧倒的に東北が強い。ナウマンゾウを取ってゐた人々が居る、ゾウが滅んだのが35000年前と云う、ならばその当時この列島には人が住んで居たはず。過去の歴史は中々推察し難いのである。文字記録がないのは当然の事だろうが、人々は話すばかりで話を文字で再現できないのだ。人間の文化は、火を取り扱うこと、土器を発明したこと、文字を発明したこと、で、文化の進歩度が格段に進んだ。人間の住むには温度が決定的な役割をする。当時の人々は狩りばかりしていたのでもない。栗を栽培したり柿やイチジクも作ったであろう。陸稲が縄文期には在った。

空想を逞しくすると、仮に日本人の起源が東南アジアに太古存在したというスンダランドに在ったとすると、今から5万年前以上以前、スンダランドが水没する前に、その住人は、JavaからAustraliaに出てNew ZealandからPolynesiaに広がりPolynesiaは現在は島々であるが超古代には、そこはある程度の大陸を形成していた。水没を機会に彼らは北上し日本列島と目指して船を進めた。彼らは日本列島が在るとは考えもしなかったがそこに流れ着いた。もちろんPolynesiaからと同じく、黒潮に舟をこぎ出しPhilippinesからTaiwanを経て、沖縄諸島をへて九州に来た者も居れば東京湾、鹿島灘に入った者も居たであろう。関東地方は海が深く進入し大きな内海を形成していた。そこは魚介類が豊富で、気温の温かかった当時は照葉樹林の大森林が形成されていたであろうから、将に楽園だったのだ。いつの事であったか新聞に鬼怒川中流域でクジラの化石を調査している県立博物館の記事が出ていたことがある。

*何人かの男たちが干上がった川の中でタマ石を掘り返している

通り掛りの者 ー 何をして居るんだね?

博物館の職員 ー クジラの骨を発掘しています。

通り掛りの者 - ここは川だぞ。

博物館の職員 ー ハイ、今は川です、しかし1500万年前、この場所は内海でた。それは中々信じられない事ですが、現実で確かです。我々の生存時間のスケールでは、地球の変化は実感出来ませんが、陸地は移動し隆起と沈下を繰り返しています。

当時の海の深さはどのくらいあったのか?が、思われるが、関東平野には太平洋の海が深く入り込んで、栃木、茨城、群馬、埼玉に跨る内海を形成していた事は、海岸線に沿って貝塚遺跡が何千と点在していることを考えれば、この海は豊かで穏やかな海だった事が窺がわれる。千葉の外側を、暖かい黒潮が還流して居いて、非常に住み易い所であっただろうと想像する。縄文期の水深がどの位あったのかは不明だが、一千万年前にこの鬼怒川の中流を10mのクジラが泳いでいるとすれば、少なくとも30mの水深はあったのでは。関東地方の等高線を考慮して見ると、その大まかな形状が推察される。此れだと北関東の平地はだいたい水没する。山地に降った雨を集めて鬼怒川も塩水の内海にそそいで居た可能性が大である。山地には落葉広葉樹林と針葉樹の森が大森林を形成していた。二万年に及ぶ縄文期がそこに展開された。これは一種の奇跡である、大自然の恵みの中で自然と共に生きて来た古い人類である縄文人、この世界はまだ明確に明らかにされてはいない。縄文期が17000年続いた、それ以前に12万年もの旧石器時代があった。12万年前の磨製石器が出土しているのだ。この石斧やガラスのナイフなどを使い、採取と漁労により生活を支えて居たのだろう。

氷河期は最近の物も含めて何度もあった。近々の例を挙げれば、ギュンツ氷期(80万年前)、ミンデル氷期(38万年前)、リス氷期(15万年前)、ウルム氷期(1万5000年前)、そうして我々は次の氷期を迎えることに成る。そして人間に取って肝心なのは、この氷河期がどうして到来するかという事です。永い地質年代を俯瞰すると、氷河期は珍しくなく、寧ろ間氷期に比べて氷河期の方が永いことが解かるのです。人間の文明はこの間氷期の間に発達したものです。温暖な気候に下に植物が繁茂し、それに支えられた動物が増え、動物の一種である人間も増えた。次の氷期が来ると、たぶん私の予想でしかないが、我々の「神である植物は」減少し、本物の食料減少に見舞われる。現在80億人の人口は1000分の1に成るかも知れない。それは地球全人口が800万人に成る事です。500分の1とすると1600万です。必然的にそう成らざる得ない。

地球の歴史を遡れば、或る時太陽が弱くなり何度も氷河期は訪れた。寒冷化の原因は太陽活動の弱まりと地球自体の原因、火山活動の活発化大気中への光を遮る埃灰。宇宙線の増大により雲の発生で太陽光が地表に届かぬ寒冷化、太陽系の歳差運動による周期的なサイクル。色々と原因らしきものが挙げられたが、これが原因という物は一つでは無いであろう。円の中に正多角形が内接する、そしてあらゆる形が円に含まれることで、形はすべて円の中に在る。特に円に内接する精妙な形は、円内の存在する正多角形である。五つの正多角形に数学者としてのヨハネスケプラーは宇宙の構造を見た。彼の考えた惑星の軌道は、この多角形とその運動がもたらすものだった。そうすると正多角形が宇宙の軌道を構造を作っていることに成ります。ケプラーはたぶんそう考えた。(宇宙が非の打ち所がない程完璧ならば数学的整合性が宇宙を形作っていると)。だが多角形は無限の存在する。我々は正二角形さえ描くことが可能だ。

だがKeplerが考えた宇宙的定理性と調和は、物理的存在様式とは同値ではない。数学の理念と現実の宇宙は同じではないということです。実際に宇宙を形成しているのは原則としてはエネルギーが最小のかたちで形成される。これは普遍的な原則です。この宇宙もその様な形を維持している。氷河期も大規模な運動の歪から起きる。それは未だに解明はされていないが、定期的の起こる事を思えば原因は確かに在る。未だに太陽系の形成とその運動は隅から隅まで解明されたわけでは無い。若しもその経過を詳細に調べて見れば、地球内部の原因、太陽系と太陽活動の原因、太陽系を覆う外部銀河系宇宙の原因、と、に分けられるでしょう。我々を含めた生命という存在は、この地球という惑星が生み出したものです。我々は大自然のほんの小さな一部です。

一人の人間の寿命は、カゲロウやセミにくらべれば長いものです。本川先生の本に「ゾウの時間とネズミの時間」というご著書があります。そこで謂われているのは大きな動物ほど長命で小さな動物ほど短命というご指摘です。だが短命と長命が一概に比較できる物では有りません。長命だから得で、短命だから損であるとは言い切れないのです。生物の寿命はその生物の心臓の鼓動数が決めているという御指摘もあります。確かにゾウの鼓動はゆっくりで、ネズミの鼓動ははやい、その鼓動が一億回を打った時が一つの命の寿命だと仰ってゐる。わたしは調べた事が無いですがわかる気がします。そしてもっと言うならば、動物のゾウは子供を産むのに二年に一頭です。ネズミはネズミ算式と言う様に、短期間にたくさんの子供を産む。産まれて来た命がこの世で生物的に為さなければ成らない事は、つぎの世代を産む事と、自分が飢え死にしない様に自分の体を維持する事です。これが地球上の生物の基本的な仕事です。生命はその様に設計されているのです。ですから最適状態を模索するように作られている。大自然は無駄を省きます、最小作用の原理があらゆる所に働いてゐる。大自然の配慮ははるかに人智を超えて居ます。生命の設計は何か大きな数学の原則を再現し大自然はそれを顕現して居ます。

「植物は動物に取って神の如き存在です」。動物はすべて、植物によって命を支えられて居るのです。皆さんは、モミジの種子を見た事が在るでしょうか。モミジの種子は種に二枚の羽根が生えています。その羽根を詳細に見て調べた事が在りますか?。その羽根は実に芸術的に設計されたものです。あれほどの美しい構造を見たことが在りません。何かに気が付く筈です、そうですハエの羽根にもそっくりです。これは驚くほど似ている、私も詳細にルーペで観察し、ハエの羽根とモミジの羽根には、自然上の何らかの知られていない共通性が存在すると思いました。わたしが生物のかたちに興味を持ったのは、小学生の頃でした。なぜこんな形をしているのだろう?、わたしは昆虫少年でしたので、セミやカマキリ、蝶や甲虫類に常に関心を抱いて居ました。自然には何らかの深い配慮が潜んでいると感じていました。世の中は段々に、そんな疑問に答えを用意できる段階にまで進みました。1980年代に「自己組織性」という言葉が学問にも現れて来たのです。その言葉になんら違和感は有りませんでした、なぜならば自分が自然観察から得た結論が、その自己自身で自分を形図くる本能的な能力にある事を知っいたからです。これを数学的に解明する事が必要だと感じていました。生物のかたちは遺伝情報(DNAの塩基構造)のなかに潜んでいる。ですからその塩基構造を記号情報として形の形成と結びつけなければ為りません。それは未だ解明されていない分野です。数学と情報理論、暗号理論、確率論、非線形力学、分子構造数学、非可逆過程論、熱力学、統計物理学、量子力学、相対論、流体力学、成長過程分析、波動工学、等々、理論物理学の全領域と数学の全領域を知って居る必要があります。不思議なのはなぜ、自然はDNA構造の様な見事な情報の蔵を創り上げたかです。

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見えない五つめの次元に付ゐて。

2024年11月25日 17時27分16秒 | 天文学と宇宙論

 我々の存在する世界は三次元+時間の四次元で構成されているとされている。物の存在は、一応、縦・横・高さ・の三つのベクトル+時間で、空間内の変化の挙動表現が可能だ。ユークリッド幾何学の描く物のかたちは、X・Y・Z・軸で表現可能である。一応そういう事に成ってゐる。我々の眼のもたらす映像は、この三次元の中で生成されたものであるので、当然と言えば当然の事であるが、我々の眼も脳も多次元を感知する様には出来て居ない。ところが物理学の冒険的最先端では現象の説明にもう一つの次元を要求する場合がある。

我々の世界の物事の構成には基本的な4つの力が働いているとされているが、その内の二つは我々の感知しない力である。もう二つは身近に感じる現象を司る力である。感知しない二つの力とは原子核を構成する陽子と中性子などを構成する。陽子は三つの構成子から成りその構成子間を結び付ける力で強い力と呼ばれている引力(此処で仮に力を引力と呼ぶ)である。強い力とは陽子を破壊してもその構成子に分離できないからで、相当、強烈な力で結び付けられている。次に原子崩壊を司る弱い力と呼ばれている引力がある。この力は重い重量の原子が電子と中性微子を放出して一段軽い原子に変異する時に関係する引力である。この二つの引力は我々の目に見えない段階での引力である。次の二つの力は電磁気力と万有引力である。

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日本科学史ー吉田光邦

2024年11月20日 21時13分23秒 | 日本の古典

 吉田光邦氏の「日本科学史」を読む、吉田さんは凄い思想家で、何冊もの秀でた本を書かれてゐてこの本も優れた著作である。初版は1957年で小生が小学校一年の時である。吉田さんの著作で一番初めに読んだものは「江戸の科学者」という著作である。何時の頃かは定かでは無い。和算の人物が紹介されてゐて大変に面白い。また此処には江戸時代の特筆すべき思想家が記述されており、森銑三先生の「オランダ正月」と共に愛読した著作である。この日本科学史が提起している問題の一つに、前書きで、吉田さんの先生でChina古代科学研究の泰斗である藪内清博士が書かれている様に、「日本文化の中から自然科学はなぜ生まれなかったか?」という問題に答えようとした物であろう。全般にアジアでは、日本を含めて数学的分析的な自然科学は生れなかった。

古代Chinaに、科学の萌芽が無かった訳ではないが、最終的には定量的な科学はうまれていない。Chinaの三大発明品とされている「羅針盤」(指南車)は、誰が最初に発明し、それが何処だかは本当の事は解らない。あとは「紙」と「火薬」である。紙は文字の有る文化でなければ当面必要とはしないが、有った方が便利には違いない。紙は集権国家には必要欠くべからざるものでしょう。紙で思われるのは、paperのその語源ともなったエジプト文明の「パピルス」です。彼らは、ナイル湖畔に群生するアシを集めてその繊維から紙を作った。植物の繊維が無い所では獣皮を使ったのでしょう。Chinaで紙が出来た時期は時代は特定できないが、記述の在る記録によれば、この紙を一般的に普及させた「蔡侖」という人物について吉田氏は別の著作、吉田光邦評論集Ⅰ(芸術の解析)で書かれている。

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フランス革命と精神現象学

2024年11月18日 07時37分34秒 | 世界の近・現代史

 フランス革命について、その名称を知ったのはいつの頃だろう。村の小学校の小さな図書室には多くに日本の偉人伝が確か並んでいた。湯川秀樹、北里柴三郎、志賀潔、野口英世、牧野富太郎、伊能忠敬、二宮尊徳、その中に外国人の偉人も並んでいてトロイアの発掘で有名な考古学、ハインリッヒ・シュリーマン、キュリー夫人、バスコダ・ガマ、ロビンソン・クルーソー、そして、その中に子供向けのフランス革命の本なども在った。小学生の頃、私の小学生時代は昆虫少年で、色々な虫を集めることが趣味でもあった。セミやカマキリ、カナブンなどの甲虫類は解るが、地面を歩く虫は名前を知らない。それで図書室にあった昆虫図鑑を見る為に授業が引けると木造の図書室に入った。校舎は現在から150年前に建てられた懐かしい木造一階の校舎で、今なら文化財に指定されて然るべきものだろう。ここでのタイトルはフランス革命および精神現象学であるから、遠い記憶を思い起こして書いてみる。

小学五年の子供にはまだフランス革命の本質は到底解らなかった。後年トックビルのフランス革命について、マチエやとか何冊かの本を読んだが、其処にはトックビルの様な批判もあったが、大方は賛辞しか書かれて居ない。この事件はアメリカ独立革命と関連して居りそれにはFreemasonの暗躍が深く関係している事をしった。そして自由平等博愛が、矛盾する聴こえの好い絵に描いた餅であり、裏で画策していた連中の血に塗られた破壊の遂行である事が段々に解り、今までの知らん重要な側面を知った。それは澤田昭夫先生のご著書も大いに関係している。この本は現在封印され多くの人々が読めない様に成っている。

精神現象学は、curl・Friedrich・Hegelの理論的著作ですが、その前に神学校の時代に構想を練った宗教書を書いている。精神現象学は非常に読み辛く、最初の頃の宗教書が明晰で明解なのに比べて、後で書かれているこの本がなぜこんなにも晦渋なのか不思議に思った。翻訳が拙いに違いないと予想したが、これはどうも相でもないらしい。熟達した独逸語の友人に聴いてみたが、「僕にも分らないがこの本は人に理解してもらう意図が無いのかもね、遠大な目標を掲げたが途中で尻切れトンボに終わっているし、大体この本は完成して居ない」。「あのね、本を書くからには他人に理解してもらう事が目標の一つでしょう」。Hegelのこの本に対する意図は何だったか?先ず、それが問題だ。精神現象学は、人間精神の進歩を段階を追って描こうとした目的があった。いわゆる人間精神の進化とでも言うべき主旨なんだと思うのだ。まあ大それた企画だな。最初、精神から始まり意識、

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「玄語」ー黒い言葉の宇宙

2024年11月13日 15時03分07秒 | 日本の古典

 「玄語」は、江戸中期の豊後の人三浦梅園の主著である。彼は其の解説本とも言われる「贅語」を書いている。ところで山人がこの本のお目に掛かった最初は、父の蔵書を探検していた高一の夏の頃で、「玄語」とは何だ?この書物には一体何が掛かれているのだろうと手に取ると、文章は漢文であり何やら円を二重に三重に描いた中に三角や四角が鏤められた図形が出て来る。幾何学の本か?、私の学力では文章の漢文自体は殆ど読めない。この本は天文学の著書なのかな?とも考えた。その時はそれで終わった。自分の力では読めないものを読もうとしても、これは骨が折れると感じた。高1だから学力に弱いところがある。数1の教科書は当時の阪大の教授であった功刀金次郎博士の監修だ。式と計算、因数分解、分数式、無理式の計算、二次方程式、高次方程式、三角関数、指数関数、対数函数、と基本的な事が多々ある。いま57年前の教科書を読み返すとレベルは非常に高い。数Ⅰは250ページくらいの教科書だが、功刀先生には、失礼な表現だが実に良く書けている。続く数ⅡB、数Ⅲも、中々良い教科書だ。これを完全に理解し応用を練習すれば高校数学は90点は取れそうだ。梅園の著作がこの数学を使って理解できるかもしれないと思った。しかしそれにしても難解だ。第一に漢文が読み下せないのだ。端から文が読めなければ、梅園の思考の過程跡と結論が推察できない。

山田慶児氏は三浦梅園の自然哲学「玄語」の中で、梅園の思索の跡を詳細に追っている。永い時間を掛けて培われた梅園のこの論文集を解明するのは、なかなか容易な事ではない。特に漢文の敷居の高さが顕著である。しかし漠然と感じるには、この異常なる思索者の道具立てが五行説であったり干支の構造であったりしているのは、どう見ても道具立てが古いと感じるし、易や五行、陰陽、などの二分説には何か的外れの感もある。易経や五行説、陰陽、干支、など、シナの文化的著作の影響を受けた当時の日本では、どう見ても道具立ては此れしか無かったのでしょう。和算と天文学が合体して居たら、梅園の自然哲学はもっと明確で分かり易いものに変って居たと思われる。

山田慶児先生の名著の序文を拝見すると、先生のある意味での嘆きが解る。一言で云うと、この日本史上も最も偉大な哲学者であろう、「三浦梅園は未来の現代科学の世界に対しては、余りにも早く、古代の天気思想に対しては、余りにも遅く、生れて来た思想家であった。」陰陽・五行の思想はもう古代の遺物に成りつつある時代に、梅園は、その道具を使って自然哲学を詳述しょうと努力した。その努力が殆ど価値を持たないとしたら。人生を枯渇した何とも恐るべき事であろう。梅園の努力は過去の遺品を道具を使い、その気の哲学で物理現象を探求し、且つ説明を為そうとしていた訳であるから。二元論はそれでも西欧にヒントを与えた、0と1の二進法である。梅園は現代の自然科学の萌芽が出始めた時代の直前で亡くなった。彼の知力をもってすれば、生涯の疑問も解き得たか。

ここで「玄語」の大筋を見る。言語は宇宙の現象を説明する為の方法を志向する。その指導原理は、天と地、上と下、陰と陽、などの二分法である。それに要素としても五行説など元素の導入である。この二分法と五行説を絡めて現象を分類する。だがこの様な二分法と五行説、更にそこに干支を加味して果たして自然現象の根源を説明することが出来るのだろうか?。不思議と謂えば不思議な理屈である。これは謂わば占いに過ぎない。近代の自然科学は数学を基礎とする。ところが此処には数学らしきものは見られない。シナの文化的伝統がこの様な分類学で自然現象を説明しょうとする方法論だ。ここには自然科学の基礎である数学の方法論を使われていないという事は思えば不思議な事である。シナ人はどうやって納得するのかは奇妙な事である。玄語はシナの伝統的な哲学である例えば朱子学からは有効な方法論は出て来ない。

三浦梅園は秀でた自然哲学者であった。彼の方法が上手く行かなかった根本の原因は古代東洋の哲学である、陰陽、五行、易、などの説で自然現象を説明しょうとした事である。梅園の時代においては、それは仕方のない事であったと私は思う。我々が少しでも自然現象を説明できるのは、我々が古代ギリシャの始まり、16~17世紀の西欧の錬金術師に始まり、分析的科学に始まる土台に立ってゐるからに過ぎない。だが、梅園の時代はそれがまだ完成されては居なかった。更には当時は鎖国の状態であり、ギリシャ時代の科学も、錬金術に始まる物質の科学を、少しも知らなかった時代であったから。

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寺田寅彦について。

2024年09月21日 10時06分09秒 | 明治・大正・昭和、戦前の日本

 文人的科学者として有名な寺田寅彦は、江戸幕府が瓦解して西洋文明(主に独仏英)を受け入れ、そしていち早く西洋文明の粋であった科学力と技術力に追い付く事を目的にした、明治の中期に現れた物理学者であった。今でも彼の随筆は多くの人々に読まれており文庫本の再販は常に為されている。とても人気の高い科学者である。寺田寅彦の人生と、その科学の考え方を書いた評伝は、小生の見るところ10冊以上は有ると思う。彼の科学随筆は、少し増せた中学生や高校生にも読めるものだ。随筆の種は身近な自然の中の不思議という物から始まり、平昜は文章の中に科学的に鋭い探求心が発露されている。それらが永く愛される理由であろう。自然現象の面白さを題材にする、このような一連の随筆が、寅彦以前に無かった訳ではないが、寅彦ほど本格的に発表し続けた人は他に居なかった。

思うに、これと似た物に「和算」の伝統である「算額」の存在があるのでしょう。算額は幾何の問題を解いて、それを大衆に知らせる役割をしたが、不思議な事に、江戸時代の日本の大衆は数学が好きだった。なぜ不思議かと云うと、現在の日本では数学は毛嫌いされる分野の代表格の様なものだからです。これは嘘ではないです、例えば、中・高・大の生徒に、数学は好きかと聞いてみたらいい。大好きだという者は100人に聴いても10人くらいでしょう。あとの9割は嫌いだというに違いない。その理由を聞くと、試験で好い点が取れなかったからだ、という答えが返った来る。たぶん数学や物理は、先生の教え方に大差が出る分野ではなかろうか?。先生の個性や教授法で理解に大きな差が出る。ここに名前を挙げないが、良い先生の弟子には決まって、良い先生が出ることが多い、寺田寅彦の弟子の場合もその例外ではない。

評伝に必ず載っているのが、夏目漱石との出会いである。この出会いは寅彦の生涯を決定したと想像します。熊本の第五高等学校時代に寅彦の英語の担任となった漱石は俳句をやってゐた。漱石が俳句を遣るようになったのは子規の影響からだが、子規と漱石は大学予備門以来の親友である。大学を卒業し東京高等師範の英語の先生として就職したが、校長や周りと合わずに幾らも勤務せず東京から脱出して、子規が療養している松山に行くのである。旧制松山中学の英語教師として就職した。「坊ちゃん」はこの時代を描いてゐるが、漱石は自分で給料は校長よりも上だったと書いているのが面白い。そうして確か一年後に、第五高等学校の方から英語の担当をしないか?と誘われて、そこに行くのである。五高には会津藩の生き残りである漢学の秋月先生とかパトリック・ラフかディオ・ハーン(小泉八雲)など、異能の先生が沢山ゐた。寅彦はこの五高で「師と生徒」として漱石に出会った。その出会いも授業であったのではなく、クラスメートの為に英語の試験の点を貰いに何人かと出掛けた中で出逢った。

それ以来、先生と生徒は師弟関係を越えて人生の親友となった。こういう関係は、誰しもが求めていても、中々得難い関係である。それは人間の基本的な欲求が共鳴し合う関係である。自然の神秘を根底から解明したい寺田と、人がこの世に生きる真の目的は何か?、人間関係のもたらすこの世の喜びと悲しみを追求した漱石。この様な基本的な人生観が二人を結び付けたのだろう。この二人はどちらも稀有の才能を持っていた。こういう関係は日本に例が無い訳ではないが、やはり稀な事だろう。異分野で才能が共鳴し合うという誠に豊かな付き合いがあった。この二人は自分の人生において本当に幸福であったか?、どうかは知らない。だが、漱石は家庭生活に於いて幸福ではなかったと私は思って居る。女房が良くなかった。いや、良くないという言い方は適切ではなくて主人と妻は肌合いが合わなかった。という言い方の方が正確だろう。たぶん女房にも言い分は有るのだと思います。相思相愛の夫婦は中々居ないと自分は想うが、どうなのだろう?。寅彦に付いては多分、相思相愛だったのだろう。だが妻は余りにも早く、この世を去った。寅彦の書いた「どんぐり」を子供の頃に読んだ事がある。自分は泣いて仕舞った。漱石と寅彦の二人は、順風満帆の人生ではなかったが、おおくの稀有の実りをもたらしたと思う。

寅彦の科学随筆の特徴はその鋭敏さである。書き溜めた随筆をある程度纏めて出版していて味わい深い。そして実に面白い事を書いている。少し気に成った随筆を挙げれば、「変な物音」、とか、「科学者と頭」とか、「鐘に血ぬる」とか、幾らでもあげられる。特に科学者と頭を少し書くと、科学者は、まあ一般的な基準では、もちろん頭が良くなくては科学者として立ち行かないのは当然の事だが、だが、最も肝心な所で、科学者は頭が悪くなくては、本当の科学者には成れないと謂う。寅彦が言おうとしている所は実に核心を突いている。本物の創造的な科学者は平均以上の高い理解力を供えている事は当然の事だが、物事の本質を探究するには、少し頭が悪くボーッとしている頭が必要だ、で無ければ新たな独創的な力は涌かないと言おうとしているのではなかろうか?。頭の回転がが良すぎると月並みな上滑りに成り易いことを指摘する。物事の裏には深い法則性の神慮というものが働いているという認識があるのだ。その法則性と云うか、大自然のもつ法則形成力の成り立ちや法則の目的性の時間軸など、それを瞬間に理解するには、人間の弱い理解力では立ち行かない。理解の為の発酵期間が必要だという事を言っているらしいのだ。思念の発酵期間がある、それは或る問いを自然のままに任せて置く事で、その発想が進むという現象である。人間の精神性の中には自動で進むものが在って、それに任せて置く事で新たな知見に立つことが出来る。

人間のこころは自我意識がずべ手ではない。自我意識というものは本来の深い意識レベルのごく表面の物に過ぎない。それは数学の分野でもあり哲学の分野でもある。そして心理学の分野でもあり得る。我々は日常意識のレベルで暮らしてゐるが、鋭い探求者とか本当の詩人とかは、日常の覚醒レベルで暮してはいない。詩人は放然とする性癖を持つ。それでなくては真の詩は作れない。永らく言葉を待つ事も在る。詰まる所、俳句の境地は自然描写だと子規も書いている。漱石は漢詩を好んだが、俳句もやった。寅彦はおもに漱石から俳句を学んだ。彼らの友人には高浜虚子もいる。事実、寅彦の「ドングリ」は、虚子の主宰する雑誌に掲載された。あれ確か、漱石の「吾輩は猫である」も、虚子の雑誌に掲載されたかな。とにかく虚子の主宰する雑誌は投稿するのに便利だったらしい。

寅彦は、自分のフィールドである、科学からの種を基に多くの作品を書いた。では彼は随筆だけを書いて居たかと云うと、そんなことは無く、立派な内容の英文の論文もたくさん書いている。寅彦全集にはその英文の論文集が六冊ほど揃っている。寅彦の真骨頂は、我々の身の回りに在る自然現象に注目して、それが物理学の最先端の問題と被ることである。キリンの縞模様の物理、乾いた田んぼのヒビ割れの論理、等々、身の回りの不思議は気が付きさえすれば沢山ある。

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