今回はプロセスレコードについて書いていこうと思います。
実は、私自身、学生時代プロセスレコードを書いたことがあったのですが、全く意味が分からなかった記憶しかありません。
先輩からは「プチナース丸写しでよい」とまで言われていたのがプロセスレコード。
実際、指導していた先生方もプロセスレコードのこと分かっていないのではないか?とさえ思います。
簡単に説明していきます。
プロセスレコードは、一言でいうと
「意図的に行ったコミュニケーションが失敗原因を追究して、今度はうまくいくように作戦を立てる反省会の議事録」
です。
どういうことでしょうか?
例えば、気分転換活動不足を挙げたいと思い、患者の趣味や好きなことを情報収集しにいったとします。
「趣味や好きなことって何かありますか?」「自宅では空いた時間や休みの時は何をされていますか?」
と質問したが、「特にないかな」とあっさり切り返されてしまった。
というシチュエーションです。
これは学生がよくやる会話の失敗例ですね。
「じゃぁ、どうすれば効果的に情報収集できるのか?」
ということになります。
言い換えましょう。
「どうすれば、相手がこちらに気を許し、こちらが知りたい情報を素直に話してくれるようになるのか?」
を考えるのです。
それがプロセスレコードの「自己評価」に書きます。
そもそも、コミュニケーションの目的は、「相手を知ること」にあります。
ではなぜ、「相手を知る必要があるのか?」ということになりますね。
看護実習であれば「必要な情報をとるため」です。
しかし、もっと根源的な意味合いで考えると
「情報のない存在が、自分にとって危険か安全か?無害か有害か?」
という「防衛本能」「安全確認」の意味あいがあるのだと思います。
動物、人間は死なないために、安全を守るために、言語的・非コミュニケーションを通し、相手が何を思っているのか?自分にとって敵なのか味方なのか?を知る必要があります。
味方なら協力して、敵なら近づいてはいけませんから。
そのあたりがコミュニケーションの本質的な目的ではないかと思います。
その方法について詳しく見ていきましょう。
コミュニケーションの中身は二つに大別されます。
「事実のやりとり」
「感情のやりとり」
二つとも情報をやりとりしているのですが、事実ばかりでは相手の感情は理解できません。
ですから、コミュニケーションではまず「感情のやり取り」が優先されるのです。
喜怒哀楽の情報を収集するのです。
その相手がどんな時喜怒哀楽を感じるのか?そして「その喜怒哀楽の反応点が近い人=考え方・価値観が近い人」
と認識します。
「考え方、価値観が近い人」=自分にとって安全な人、信用してもいい人になっていくのです。
つまり、信用してもいいかな?と思ってもらっていない段階から、相手が個人情報をべらべら喋るか?という話になります。
初対面の人に「貯金いくらありますか?」
と質問されて、素直に答える人はいません。
つまり「この人になら、心のうち、胸の内を少しばかり話しても安全かな?」と思われるための準備が必要なのです。
それがコミュニケーション技術になります。
そして手っ取り早いのが「相手の価値観を尊重し続ける」という話法を用います。
つまり共感的態度+適切な自己開示です。
「適切な自己開示」とは、相手の価値観に共感を示しながら、自分のエピソードを交え、相手との「共通点を増やし、ポジティブな言語化をしていく作業」のことです。
つまり、「仲間意識」を相手に埋め込んでいく作業です。
褒め過ぎても怪しまれる、共感しすぎても胡散臭い。
そういった言動を薄めて、相手に飲ませていく作業が必要になってきます。
ちなみに「共感的態度」とは何か?
「笑顔」と「適切な相槌」です。
相槌とは何か?「へぇー、ほー」だけではありません。
私は相手が取り調べを受けていると感じないような質問の仕方も「相槌」に含まれると思います。
何ら警戒なく、何ら疑いなく相手の質問に答えてしまうような誘導こそ、「相槌」だといえるでしょう。
「気持ちよくなって、自分から話し始めてしまう状態」を演出するのです。
日本人は趣味や嗜好がない人、または人に話せるような趣味がない人ばかりです。
(看護師とやりがい搾取)
日本人は趣味や教養がありません。
日々、仕事や日常に忙しく追われているほうが幸せに感じている人が多い、それはなぜでしょうか?
それは「人生の目的がわからず、流されて生きてきた人ばかりだから」です。
つまり「主体的に生きていないから」なのです。(主体的に生きるとはどういうことか?知りたい方はこちらをどうぞ)
「お上の意見に従順に生きろ」と学校教育されているからでしょうか?
つまり「やりがい搾取」されてきた人ばかりなので、「趣味=仕事・家事育児」かアイドル追っかけくらいしかないのです。
それこそ、典型的日本人は、「趣味が仕事だった人、趣味が家事育児だった人」ばかりです。
ですから、大半の日本人の趣味や余暇の過ごし方とは
「自分が密かに楽しみにしていること=日本人の趣味」
つまり「フェチズム」にあたると考えて間違いありません。
ですから、趣味=フェチズムとなると、ちょっとやそっと質問されたくらいで答えるはずがないのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(フェティシズム(英語: fetishism)
人類学・宗教学では呪物崇拝、経済学では物神崇拝と訳される。また、心理学では性的倒錯の一つのあり方で、物品や生き物、人体の一部などに性的に引き寄せられ、性的魅惑を感じるものを言う。極端な場合は、性的倒錯や変態性欲の範疇に入る。
現代の日本でフェティシズムという場合、上記のうち心理学的な意味における「性的フェティシズム」を指すことが多い。本来、精神医学ではかなり深いこだわりを指すものであるが、省略形・俗語でフェチとも言い、単なる性的嗜好程度の意味で使われている。
フェティシズムを向ける対象をフェティッシュ(fetish)、フェティシズムの志向を持つ人をフェティシスト(fetishist)という。フェティシズムの原義
当初は人類学、宗教学の用語として使われ、後に心理学などの分野でも使われるようになった言葉である。
フェティシズムという言葉を使い始めたのはフランスの思想家ド・ブロス(Charles de Brosses)だといわれる。ド・ブロスは1760年に『フェティッシュ諸神の崇拝』(Du culte des dieux fetiches)を著した。ここで扱われているのはアフリカの住民の間で宗教的な崇拝の対象になっていた護符(フェティソ:Fetico)であった。これは呪物崇拝と呼ばれる。
心理学者のアルフレッド・ビネーが1887年の論文で肌着、靴など(本来、性的な対象でないもの)に性的魅力を感じることをフェティシズムと呼ぶよう提唱した。次いでクラフト=エビングが『性的精神病理』第4版(1889年)の中でフェティシズム概念を採用した。この著書はフェティシズム、同性愛、サディズム、マゾヒズムを主に論じたもので、世紀末によく読まれた本である。フロイトも性の逸脱現象としてこの用語を用いた。フロイトは足や髪、衣服などを性の対象とするフェティシズムは幼児期の体験に基づくものと考えた(『性の理論に関する三つの論文』1905年)。
このほか、カール・マルクスもド・ブロスを読み、ノートを取っていた。『経済学・哲学草稿』(1844年頃執筆、死後の1932年公刊)で資本主義経済批判を展開し、経済を円滑にする手段として生まれた貨幣自体が神の如く扱われ、人間関係を倒錯させていると述べた。また『資本論』第1巻(1867年)の「商品の物神的性格とその秘密」という章で、「商品」の持つフェティシズム(物神崇拝)を論じた。マルクスのフェティシズム論(物神崇拝論)は20世紀になって注目されるようになった。様々なフェティシズム・パラフィリア
立項済みの項目については「Category:フェティシズム」を参照
おおまかに言って、物に対する執着はフェティシズム、状態に対する執着はパラフィリアと分類できる。
女性の足・脚に対する偏愛
作家・谷崎潤一郎が初期の『刺青』から晩年の『瘋癲老人日記』まで、女性の足にこだわりを見せたことは有名。『瘋癲老人日記』(1961年)は、若い嫁の足に踏みつけられることを夢想し、死んでゆく男性を描いている。フェチを描いた先駆的小説である(足に対する偏愛は「谷崎趣味」と呼ばれることもあった)。
生活の洋風化にともない女性のハイヒールやストッキング姿などに執着するフェティシズムが、日本で一般にも認知されるようになった。欧米では早くからハイヒール・ピンヒールに対するフェティシズムがあったことが1946年から1954年まで発行された『Bizarre』というフェティッシュマガジンに見て取れる。
女性の身体の局所部分に対する類似の偏愛として、手指やうなじ・鎖骨(デコルテ)などに対する執着を見せる男性も少なくない。他、様々な局所部分に対する偏愛・執着を指す表現が定義できる。但し、上述のような俗語的な意味合いとの混同に注意を要する。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
「趣味??特にないな」
とは「君に話せるような趣味はないし、もし本当に話したら引くかもよ?」
と考えているのです。
ですから看護実習での情報収集、コミュニケーションは失敗するのです。
そういった内容が分析され自己評価されていたらプロセスレコードは「良く書けている」という評価になります。
つまり、「感情交流がない段階(相手が油断していない段階)で、いきなり相手の懐に飛び込んで行ってしまった結果、返り討ちにあった=拒否された」ということなのです。
つまりコミュニケーションがうまい人というのは、「相手を油断させる技術が高い人」なのです。
それが「笑顔」や「話題」「表情」なのかもしれません。
それは個々人が育ってきた環境や知識、経験によって違います。
言葉遣いも大切かもしれません。
フレンドリーなため口が好きな人かもしれません。
節度ある礼儀正しい敬語が好きな人かもしれません。
いずれにせよ、コミュニケーションの中で、それらの答えを見つけていくのが早い人、相手の変化に気づく人がコミュニケーションがうまい人なのでしょう。
「そのような視点が自分のコミュニケーションには欠けていた」と振り返ってあれば良いのです。
つまり、「技術としてのコミュニケーション」を向上させるための、「分析」や「判断」を文章化していくのです。
完璧なコミュニケーションをとれる人はいません。
原価1000円の教材を100万円で売る営業があります。
どのように売っているのでしょうか?
営業とはとどのつまり、コミュニケーション力ではありません。
全て、コミュニケーション内容はマニュアル作成されており、完璧なハウツーとなっています。
それを「確立算」のもと淡々と実践していくのです。
インターホン越しに会話して「こういった反応をする人は買ってくれない」
と見切るポイントまで存在するのです。
しかし、そこから粘って展開できる人もいます。
しかし、見込みがない人には粘ることはせず、次の家に訪問していって、「確立を上げる作業を優先する」のが営業なのです。
看護技術におけるコミュニケーションとは「自分を安全な存在であると相手に思い込ませる営業の技術」に近いところがあります。
相手が信用して安全だと思い込んでしまったら、原価1000円の壺を100万円で買ってくれるのです。
プロセスレコードは、そういった失敗を振り返り、打率を上げる方法を分析する作業です。
そして、この分析過程を書けばよいのです。
ですから、「結論、何がまずくて失敗したのか?」「だからどうするのか?」を書いてから、会話内容を復元してくほうがプロセスレコードは、書きやすい。
つまり、何事も結論から考えて、戻っていくように書くことで、首尾一貫した内容の記録になっていくのです。
これがプロセスレコードの書き方の極意と言えるのではないでしょうか?
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