皆さん、こんにちは。
精神科医療とRAPT理論です。
今回は、当ブログでも何度も出てきている、相馬事件について現段階で判明している部分をまとめていきたいと思います。
精神看護学の講義でも「さらっと」学ぶ相馬事件。
その事件には、フリーメーソンの後藤新平が関わっていたり、文豪、志賀直哉の祖先や、小学校の校庭に飾ってあった銅像の二宮尊徳が関わっています。
単に、内務省が精神障害者を私宅監置(座敷牢での監禁)していいよという話ではないのです。
この事件をRAPT理論を通してみてみると、あら不思議!
縦も横も理路整然と「相馬事件の真相が解明できてしまう」のです。
まずは、この相馬事件はどこから来ているのか?からお話します。
そは、江戸幕府が明治政府に政権を明け渡した、「大政奉還」後に起きた、「戊辰戦争」まで遡ります。
皆さんは「戊辰戦争」をご存知でしょうか?
1867年に、260年間続いた江戸幕府は明治政府へと政権交代します。
しかし、これに納得しない人たちがいました。
旧江戸幕府側の勢力の下っ端の人たちです。
江戸幕府は出雲族と呼ばれる人たちによって運営されていました。
そこに、秦氏(ロスチャイルド家)が島津家と毛利家勢力の大和族の天皇を擁立し、明治政府として政権奪還しました。
実はこの天皇をトップとした国造りをしようとしていたのが、吉田松陰で、その吉田松陰の教えを受けた人物が中心となって「李家一族の勢力を拡大した」ことを明治維新と呼ぶのです。
その明治維新において、江戸幕府は明治政府に江戸城を明け渡しましたが、その後幕府軍と政府軍の間で戦争は続きます。
戊辰戦争とは大政奉還翌年の1868年から3年間に渡って繰り広げられました。
明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)が戦った日本の内戦のことで、名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来します。
奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)は、戊辰戦争中の1868年(慶応4年/明治元年)5月6日に成立した同盟で、陸奥国(奥州)・出羽国(羽州)および越後国(越州)の諸藩が、有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみや たかひとしんのう)の弟の北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさ しんのう)を盟主とした、反維新政府的攻守同盟のことです。
この奥羽列藩同盟は北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさ しんのう)を盟主としその下に
◆仙台藩主・伊達慶邦(だてよしくに)
◆米沢藩主・上杉斉憲(うえすぎなりのり)
がついて、朝廷が建てられていました。
そしてその連盟の中に、相馬中村藩があったのです。
1868年4月から始まった東北戦線ですが、8月に相馬誠胤が降伏をし、政府側に寝返って、なんと仙台藩(伊達家)と戦っています。
ここまでは、精神病者監護法と何ら関わりがないように思えますが、相馬事件のあった「相馬中村藩」は戊辰戦争によって、政府軍に乗っ取られ、内部の人間も政府側に寝返った形となります。
その中村藩を奪い返したい勢力が、そのタイミングを虎視眈々と狙っていたのです。
それが、この相馬事件の黒幕の「後藤新平」でした。
後藤新平はの略歴を「web歴史街道」よりみていきましょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(web歴史街道)https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/5023
後藤新平は、伊達家一門である留守家の家士・後藤左伝治の長男として、陸奥国胆沢郡(いさわぐん)塩釜村(現在の奥州市水沢区)に生まれました。江戸後期の蘭学者・高野長英は大叔父にあたります。
8歳の頃から漢学を学び、慶応3年(1867)には留守家の奥小姓となりました。しかし、ほどなく明治維新。薩摩藩出身の胆沢県大参事(いさわけんだいさんじ)の安場保和(やすばやすかず)に認められ、1歳年下の斎藤実(さいとうまこと、後の海軍大将、首相)とともに、書生となります。
18歳の時、安場の勧めもあって福島洋学校から須賀川医学校(現:公立岩瀬病院付属学校)に転校、成績優秀で卒業すると、21歳の時に愛知県で医術開業免状を取得しました。その後、名古屋公立医学校や公立病院に勤務し、医者として歩み始めます。
明治15年(1882)に岐阜で遊説中の板垣退助が暴漢に刺された折、応急手当てをしたのが26歳の新平でした。新平に接した板垣は手際のよさに驚き、「彼を政治家にできないのが残念だ」と語ったといいます。
翌明治16年(1883)、それまでの実績が認められて、新平は内務省衛生局照査係副長に任命されました。以後は医者ではなく官僚として、病院・衛生に関わる行政に携わることになります。
明治23年(1890)には在官のまま、自費でドイツに留学しました。明治25年(1892)に帰国すると、内務省衛生局長に任じられます。時に新平、36歳。
ところが翌年、相馬事件(旧中村藩主・相馬誠胤〈ともたね〉の死を旧藩士の錦織剛清〈にしごりたけきよ〉が家族による毒殺と疑い、相馬家側から誣告罪で訴えられた事件)で新平が錦織を支持したため、新平も連座して入獄する羽目になりました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
伊達家出身の後藤新平は、薩摩藩出身の安場に認められ、医師の道を進みます。
そして、医者としての実績が認められ、内務省衛生局で病院、衛生について仕事をし始めます。
そこで、中村藩の藩主「相馬誠胤が精神病院に入院していること」を知ります。
「精神病院に入院している相馬誠胤に委任状を書かせれば、戊辰戦争で政府軍(薩摩長州)に奪われた相馬中村藩を奪還することができるかもしれない」と考え、「錦織剛清」を使って「相馬事件」を焚き付けます。
実際に、相馬事件において、錦織剛清は相馬誠胤に「相馬家の財産を錦織に委任するという内容の委任状」を書かせているのです。
これも、後藤新平の入れ知恵でしょう。
相馬中村藩を乗っ取ろうと錦織剛清が1892年10月に「神も仏もなき闇の世の中」という本を出版し、風向きが後藤新平に追い風となりますが、相馬誠胤が病死したのを、相馬中村藩による毒殺と錦織が訴え、裁判で争ったが敗訴。
誣告罪で錦織剛清は禁錮4年の実刑判決、後藤新平は無罪放免となっています。
結局、後藤新平は相馬中村藩を秦氏(島津家、毛利家)から奪い取ることはできませんでした。
その争いを受け、1900年に「精神病者監護法」が成立します。
これは、精神病と医師から診断された人は警察に届ければ、自宅で私宅監置しても良いという内容の法律です。
これを「政府の精神障害者に対する扱いが低い」という味方が通説ですが、事はそんなに単純ではありません。
後藤新平が衛生局で働いていた時、精神病院に入院していた患者である相馬誠胤の個人情報を勝手に持ちだして悪用した事に対し「内務省衛生局、何やってんだよ!」と突っ込まれるのが嫌で、精神病院入院患者の届け出を警察と保健所に分散させて内務省衛生局が管理するという、「個人情報取り扱いの責任分散」をしただけの可能性が高いのです。
後藤新平といえば、NHKを作った人物であり、初代東京市長を務め、台湾総督府長官、満州鉄道初代総裁と華々しい経歴があります。
しかし、この相馬事件は唯一の汚点で、その失敗を隠すために「錦織剛清が勝手にやった」という事にして錦織に失敗をなすりつけているようにしか見えません。
ざっと相馬事件のあらすじをお話しました。
ここからはその根拠となる内容についてお話してきたいと思います。
まずは、相馬事件を戊辰戦争の流れでまとめたサイトの内容からみていきましょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(原文はこちら→■相馬家の東京移住)
① 明治4(1871)年8月3日、誠胤の東京移住の沙汰が到来。
6日、住み慣れた故郷、中村を発って東京へと向かった。鎌倉時代末期から五百四十年余り、この地を一所懸命の地として守り、戦い、生活した相馬家はついに奥州を離れることとなる。
各郷に散った旧臣たちも陣屋に詰めて、東京へ向かう旧主誠胤一行を見送ったという。
② 明治5(1872)年3月、中村縣は守山縣、泉縣、棚倉縣などとともに廃されて平縣に合併され、旧中村藩は完全に姿を消すこととなる。その後、平縣は磐前縣に改められ、明治9(1876)年、福島縣・若松縣と合併されて福島縣となる。
③ 東京に移り住んだ相馬家は、財政危機を打開するため、二宮尊徳の直弟子であり、尊徳の子・二宮弥太郎尊行(にのみややたろうたかゆき)に従って日光神領復興(にっこうしんりょうふっこう)に従事した経験を持つ元藩中老・志賀直道(中村縣権大参事)を抜擢した。
志賀直道は明治5(1872)年の中村縣統合にともなう権大参事(ごんだいさんじ)免職にともない、相馬家の依頼を受けて相馬家家令に就任。
家政立て直しのため尽力することとなった。
志賀もこの期待によく応え、二宮報徳仕法の精神を家政建て直しに応用し、経費の節減と定められた事柄を厳格に守らせる体制を作り上げ、財政を立て直すことに成功。
さらに相馬家の財政基盤の安定を図って、知己の古河市兵衛と共同で足尾銅山経営に乗り出し、大きな資産を相馬家にもたらした。
④ 明治8(1875)年1月、誠胤は慶應義塾に入塾するが、翌明治9(1876)年ごろから体調が悪化する。わずか13歳にして家督を継ぎ、16歳で戊辰戦争の戦乱に巻き込まれて心ならずも「賊」に加担し、謝罪謹慎に追い込まれるなど、幕末から明治にいたる激動を体験し、心身ともに休まることなくストレスが重なったことが急病の原因かもしれない。
⑤ 誠胤は北条氏恭(ほうじょううじゆき)ら宗族・親族の要請により、華族部局長の許可のもと、屋敷内の一室に「私宅監置(自宅内保護)」されることとなった。
しかし、相馬家は志賀直道の家政立直しによって相当な資産華族となっており、当主の自宅内保護が資産をめぐる疑惑となって騒動が大きくなってしまう。
⑦ 明治11(1878)年、錦織剛清という「相馬誠胤旧臣」を称する人物が、家令・志賀直道らが誠胤の弟・相馬順胤(そうまありたね)を擁して相馬家乗っ取りを画策していると訴え、裁判沙汰にまで発展する。
相馬家をはじめ、佐竹家、織田家、土屋家など親族華族は志賀直道らを支持していたが、錦織は岡田五郎、相馬靱負(ゆきえ)ら一部の旧御一家、さらに世論をも巻き込んで、行動が次第にエスカレートし、同姓の錦織家を通じて公家華族にまで手を回して誠胤を相馬邸から奪い取ろうと画策した。
さらに錦織剛清は内務省衛生局の後藤新平をも説得して、医学的見地からも誠胤開放が妥当であるとの証言を得る。
このように相馬家側と錦織側の訴訟合戦が繰り広げられることとなり、華族、警視庁、裁判所までをも巻き込んだ大事件になってしまった。
⑧ このような中、明治17(1884)年3月21日、誠胤の妻・京子(戸田氏)が三十二歳という若さで亡くなってしまう。京子も病がちだったようで、騒動の最中の凶報であった
■相馬誠胤、子爵叙爵(じょしゃく)その後
⑨ 7月7日には「華族令」の発布があり、華族へは公・侯・伯・子・男の五爵を授けることとなり、7月8日、相馬家は万石以上の旧大名家であるため、当主の誠胤に「子爵」が下されることとなった。
⑩ こうした中、誠胤の弟・相馬順胤(ありたね)は、錦織の起こしたこの一連の騒動につき、旧臣総代五十人を中村から東京の相馬邸に呼んで意見を求めた。
ここで旧藩士総代は旧藩総意として家令職の免職(志賀直道の罷免)を求める意見書を出した。
これは家令(志賀直道)が免職すれば錦織が批判する対象がなくなるという対症療法であるが、執拗な錦織の行動にうんざりしていたと思われる順胤(ありたね)はこの意見を容れる。
⑪ そんな矢先の明治20(1887)年1月31日夜、錦織は誠胤を開放するためと称し、入院先の巣鴨病院(文京区本駒込)へ押し込み、睡眠中の誠胤を拉致して衛生局長・後藤新平宅に赴き、診察を依頼した。
後藤新平は錦織に協力的であり、錦織は誠胤の病気はそれほど重いものではないという診断書を手に入れる。
⑫ さらに錦織は誠胤に「錦織を相馬家の総代理人とする委任状」を作成させ、相馬家政(まつりごと)を取り仕切ろうと画策した。
一方、後藤新平も錦織・誠胤を警視総監・三島通庸(みしまみちつね)に会わせることで、誠胤の病状が邸内保護に値しないことを認めさせようと、三島が出張中の熱海まで馬車を工面して向わせたが、すでに三島は東京に戻っており、その計画は崩れた。
⑬ ただ錦織はあきらめず、今度は伊藤博文首相へ直訴するため京都へ向った。
しかし2月6日、静岡の旅館に滞在していたところを警察に発見され、錦織は逮捕され、誠胤は無事に保護された。
誠胤保護の報告を受けた相馬家からは、志賀直道、石川栄昌が身柄受取に向かい、2月10日、誠胤は巣鴨病院へ帰院。
2月19日、誠胤は同院を退院して相馬屋敷に戻った。
⑭ 3月2日、相馬家では、主だった旧藩士七名が出席の会議が行われ、相馬家の家事は親族委員で行うことが決定する。
この席に誠胤から「総代理人の委任状」を受けた錦織が呼ばれていないのは、相馬家はじめ宗族・親族がこれを正当なものと認めていなかったためだろう。
⑮ そして相馬家の後見人として正二位・浅野長勲(あさの ながこと)侯爵が選ばれる。
3月9日、誠胤は医科大学第一病院(東京大学医学部)に入院して診察を受け、自宅療養が適当との診断を受け、継続入院することなく相馬邸で療養することとなる。
⑯ 明治22(1889)年初頭には、誠胤の病状はすっかり回復し、かつての健康体を取り戻した。
8月5日には、妾の繁(めかけのしげ)との間に嫡男・相馬秀胤を儲ける。
さらに8月12日には、妹と相馬胤紹(たねつぐ)との間に女の子が誕生。
8月14日には、弟・順胤(ありたね)に嫡男・相馬孟胤(たけたね)が誕生するなど、相馬家には慶事が続いた。
⑰ 明治23(1890)年、家令に旧御一家・泉田胤正(たねまさ)を任命して相馬家政は元の通りに運営されるはずであったが、ここにふたたび錦織剛清が介入する。
錦織はかつて誠胤から受けた「総代理人」としての権利を主張し、総代理人として相馬家の財産を差し押さえる訴訟を起こし、ふたたび相馬家と錦織の訴訟合戦となる。
錦織の異常なまでの誠胤崇拝の理由はわからないが、錦織剛清は志賀直道らが誠胤を監禁して虐待しているという一部の報告を盲信していたためかもしれない。
⑱ このような訴訟合戦の中で、明治25(1892)年2月22日、誠胤は四十一歳の若さで急死する。
錦織はこの誠胤の急死が不自然であり、家令らによる毒殺であるとして三度騒ぎを起こす。
これに対して相馬家は錦織を誣告罪で逆告訴し、これを発端として華族、政府高官、財閥らを巻き込む大騒動に発展した。
最終的には誠胤の毒殺は科学的見地からも否定されたうえ、錦織が裁判担当判事を買収していたことも判明し、錦織の有罪が決定。
重禁固四年、罰金四十円の判決を受け、騒動も終わりを迎えた。
誠胤のあとは異母弟の相馬順胤(ありたね)が相馬子爵家を継承し、誠胤の嫡子・秀胤(ひでたね)は、親族の織田信敏の婿養子となって織田信恒(のぶつね)と改め、政治家、実業家として多方面に活躍している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
実は、このサイトを読むまで、「錦織剛清」は元相馬藩の士族だと思っていました。
しかし、錦織は、相馬藩とは関係ない人物であり、後藤新平が、錦織を使って精神病となってしまった相馬誠胤に目をつけて、相馬藩を乗っ取ろうとしていたと考える事ができます。
後藤新平の手記には「内務省衛生局長となって間もなく、元相馬藩の家臣錦織が「旧藩主相馬誠胤を精神病者にしたて財産をのっとろうとしている者があるのでこらしめたい、そのため費用もかかるので借金の保証人になって下さい」と新平のもとへ訪ねてきました。』
とあり、いかにも後藤新平が善意の第三者を装ってますが、実際は、後藤新平がチンピラの錦織剛清を使って、お家騒動を起こして、相馬家を、跡継ぎである相馬順胤(ありたね)と志賀直道から奪い取ろうと画策していたと考えられます。
現に、相馬誠胤は、東京に来てから、精神病院を転々としています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・42. 相馬事件:スクリバの鑑定書 改訂版・江戸東京医史学散歩より
相馬誠胤が小石川区巣鴨駕町(すがもかごまち)の東京府癲狂院(巣鴨病院)を抜け出したあと連れ戻されて医科大学第一医院(東大・本郷)に入院したのは、明治20年(1887)3月10日から4月19日のことでしたが、
向ヶ丘(本郷彌生町(やよい)にあった東京府癲狂院(中井常次郎院長)に入院していました。
また、東京府本郷区田町(現・文京区西片町)にあった加藤瘋癲(ふうてん)病院に入院していたこともありました。相馬誠胤は、本郷界隈にあった精神病院を転々としたことになります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
「相馬中村藩の殿様が、精神病院を転々としているぞ」という情報を後藤新平が手に入れたとしたら?
そんな偶然があるでしょうか?
あるんですね。
当時、後藤新平は東京で内務省衛生局長までやっています。
内務省とは今でいう、厚労省のようなもので、保健所管轄もありますから、当然、精神病患者の把握もしています。
後藤新平は明治19年には、衛生局勤務を命じられているのです。
そこで、自分の生まれ故郷の殿様が精神病院に出入りしていると分かれば
「殿様である相馬誠胤はまともな判断ができないから、錦織と組んで、自分たちが、成年後見人になってしまえば、実質、相馬中村藩を手に入れることができるぞ」
と閃いたのでしょう。
実際、『⑫ さらに錦織は誠胤に「錦織を相馬家の総代理人とする委任状」を作成させ、相馬家の政を取り仕切ろうと画策した。』という事をやっています。
正常な判断能力がない、殿様の成年後見人になって、相馬藩を乗っ取ろうとしていたのです。
では、なぜ後藤新平は相馬中村藩をのっとろうとしていたのか?というと、戊辰戦争で相馬中村藩は政府軍に敗戦し、薩摩(島津家)と長州(毛利家)が入城し降伏が決定、中村藩が解体されてしまっているからです。
後藤新平は高野長英を祖先に持つ、岩手県水沢藩出身、伊達家ゆかりの家柄であるため、明治政府側の薩摩長州に権力を取られてしまった相馬中村藩を奪い返したいという気持ちがあったのだと考えると、相馬中村藩の殿様が東京で精神病院に出たり入ったりしていると耳にしたら、「上手く利用して委任状を書かせて乗っ取ってやろう」と考えるはずです。
その乗っ取り工作に使われたのが、錦織剛清であったのです。
岩手県奥州市水沢(旧・水沢市)では、三偉人(高野長英、後藤新平、斎藤実)がおり、高野長英と後藤新平は親戚です。
そして、高野長英も後藤新平も、徳川方つまり明治政府側でなく徳川幕府側の人間でした。
伊達家は徳川の家臣ですから、明治政府によって奪われた相馬中村藩を奪い返したいと考えるのは当たり前の感情です。
後藤新平は、当時から成年後見人制度を思いつき、錦織剛清を介して、相馬中村藩の乗っ取りを画策していたのですから大した悪人です。
そして、この後藤新平は後には台湾にて阿片でぼろ儲けして東京市長までやっています。
もちろん彼はフリーメーソンのメンバーで、同性愛、児童虐待なんでもありの、ボーイスカウト日本連盟の初代会長もやっています。
実は、戊辰戦争の続きが、相馬事件においてなされていたという話です。
そして、この相馬事件を受けて、内務省(警察、保健所)に届け出すれば精神病患者を私宅監置(自宅療養)してよいという「精神病者監護法」が1900年(明治33年)に成立します。
これはどういうことか?というと上級国民は精神病が出やすいため、安易に精神病院に入院させると、その情報が出回って、「第2の相馬事件が起こりかねない」と危惧し、「私宅監置しても良い」という制度を作ったのかもしれません。
また、冒頭でお話したように、これを「政府の精神障害者に対する扱いが低い」という味方が通説ですが、事はそんなに単純ではありません。
後藤新平が衛生局で働いていた時、精神病院に入院していた患者である相馬誠胤の個人情報を勝手に持ちだして悪用した事に対し「内務省衛生局、何やってんだよ!」と突っ込まれるのが嫌で、精神病院入院患者の届け出を警察と保健所に分散させて内務省衛生局が管理するという、「個人情報取り扱いの責任分散」をしただけの可能性が高いのです。
金持ちや権力者が精神病になると、その権力を目的に、見ず知らずの人物が「後見人を名乗り出てくる」かもしれないということですね。
有名になると「親戚と名乗る人が増える」のと同じです。
今回は相馬事件の真相についてお話しました。
次回もよろしくお願いします
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