心のハンドル操作方法 幸せに生きるための教習所

旧精神科医療は思想警察なのか?

「ゲームがクソなのでなく、私たち大人の価値観がクソ」なのです。「元ホモ劇団所属の慶応義塾大学の教授が「ゲームはクソ」と自身の子を叱責したとツイートした」

2018年06月29日 | 子育て論

私たち大人は完璧でしょうか?

偉そうにこどもに講釈を垂れて、完全に教育できるでしょうか?

私たちの心には「無知、高慢、不遜、怒り、嫉妬、憂鬱、強欲、情欲」といったものが渦巻いています。

そして、外見だけ大人になり、立派な社会人を装っていても、中身はこどもとそれほど変わりないのが実情です。

むしろ、子供よりも汚れて、ずるがしこくなってしまっているかもしれません。

「完璧じゃなくていい」ではいけません。

大人は「完璧な心の持ち主になれるよう死ぬまでもがき、努力する必要があるのではないか?」

今回は記事を書いていてそう思いました。

そして、そんな私たち大人がどうやって子供たちに未来を託していけばよいのでしょうか?


子育てに関して、大人、親はわが子に害悪のあるものは与えたくありません。

しかし、わが子は世の中に出ていけば、害のあるものや悪なるものに染まってしまうものです。

私たち大人、親がどのようにすればわが子を害のあるもの、悪なるものから守ることができるのか?と考えたことはありますか?

今回の記事は「大学教授」という世の中では「エリート」なイメージのある職業(あくまでイメージですが)の人がプライベートをtwitterでつぶやくことによって物議を醸したというニュース記事から考えさせられました。

まずはニュース記事を見ていきましょう。

・・・・・・・・・・(「ゲームはクソ!ミュージカルが最高!」と叱責… 慶大教授、観劇に興味を示さない子の趣味を否定し炎上 2018年6月28日 12時34分 BIGLOBEニュース)

Twitterのスクリーンショット(現在は削除されている)

慶應義塾大学経済学部の坂井豊貴教授が「ゲームはクソ!ミュージカルが最高!」などと自身の子を叱責し泣かれたとTwitterに投稿し、批判の声が殺到している。炎上状態となり坂井教授は投稿を削除した。

毎日「マリオカート」などのゲームで遊び、観劇に興味を示さない子に腹が立ったという坂井教授は、「ゲームはクソ! ミュージカルが最高!」と叫んだとTwitterに投稿。すると、子どもは泣きながら「ゲームがだいすきなのにー」「にんてんどうに失礼だー」と反論してきたという。この反応に坂井教授は、「ゲームをけなしたら泣く人間がいるのか。それが私の子どもなのか。わからない」と綴った。翌日には、興味を持たせるために「CATS」のチケットを取ったことを報告。「これで面白がらなかったらゆるさない」と語気を強めていた。

坂井教授の投稿には、自身の趣味を強要し子の価値観を否定しているとして批判や疑問の声が殺到。また、娯楽や芸術に優劣を付けている、クリエイターに敬意を示す子を褒めるべきなど、多くの意見が寄せられている。

「自分の趣味に子供が関心を示さないとブチ切れる親、恐怖でしかない」

「興味を示さない物を強要するのも、子どもの好きな物を否定するのもどっちもダメ」

「ゲームもよいけどミュージカルはもっとよいぞ、と教えるべきでは?」

「演劇はそんな押し付けて観るもんじゃねぇんだよ」

「ミュージカルというあなたの好きなものを押し付け続けたら、きっと子供は観劇を嫌いになる」

「娯楽や芸術のジャンルそのものに優劣などありません」

「あなたの発言は職業差別につながる偏見を含んでいるようにも受け取れます」

「夢中になれる好きなものがあることは幸いなこと」

「人生をかけてゲームを作っている人々に失礼だという見識を持てる、素晴らしいお子さんじゃないですか。素直に謝って、むしろ褒めるべきでは?」

「子供の価値観を認めず、ご自分の価値観を押し付けようとする貴方の方が反省すべきかと思います」

一方では「大人でも完璧じゃないから、理不尽に子供を怒鳴り付けてしまうこともある」と一定の理解を示す声も寄せられている。なお、「ゲームにも様々なジャンルがありますし、まずは歩み寄って一緒にゲームをやってみては如何でしょうか」との提案に坂井教授は、「子どもとは毎日マリオカートやっているのです」と返答している。

・・・・・・・・・・(転載ここまで)

有名人ともなると子育ても大変ですね。

そして、安易にtweetすることでこのように世論から袋叩きにあいます。

このような反応を見ると、現代社会は情報にあふれているため「押し付けられる時代」から「選択する時代」に変わったと時代の変化を感じます。

「慶應義塾大学経済学部の坂井豊貴教授」という人物をいていきましょう。

・・・・・・・・・・(坂井 豊貴(さかい とよたか、1975年 - )

日本の経済学者。専門は社会的選択理論、マーケットデザイン、メカニズムデザイン。慶應義塾大学経済学部教授。アメリカロチェスター大学 Ph.D.(経済学)2005年。

広島県生まれ。広島城北高等学校時代は、広島王将会に在籍。

同会の後輩に山崎隆之がいた[1]。

同校を卒業し、1998年早稲田大学商学部卒業、2000年神戸大学経済学修士課程修了、2005年ロチェスター大学経済学博士課程修了(Ph.D)。横浜市立大学経営科学系、横浜国立大学経済学部、慶應義塾大学経済学部の准教授を経て、2014年より教授。

2015年義塾賞。

学生時代は劇団スタジオライフの団員として活動していたこともある。

・・・・・・・・・・(転載ここまで)

現在43歳で大学教授をされているそうですが、教授いは4年前の2014年つまり30代で大学教授になっているような人物です。

慶応大学の関連HP坂井豊貴で確認しましたが、なんだかよくわからない経済学をやっている方です。

経済学自体が嘘でインチキな学問ですから、胡散臭くてインチキ臭いのは仕方ありませんね。

学生時代は劇団スタジオライフに所属していたとありますが、この劇団スタジオライフを調べると、男性劇団員40名から構成される「男性版宝塚」と呼ばれるような変わった劇団で、「同性愛」の演目をらやたらとやっていました。

・・・・・・・・(劇団スタジオライフ(Studio Life)

日本の劇団。1985年に故河内喜一朗と倉田淳により結成。東京都中野区を本拠地としている。

1988年より男優のみで構成されている。脚本・演出の倉田淳のみが女性。少女漫画や耽美的な小説を原作としたもの、海外の翻訳劇などを中心に上演されている。

概要
1996年の「トーマの心臓」(原作:萩尾望都)をはじめて舞台化。「ヴェニスに死す」(原作:トーマス・マン)、「死の泉」(原作:皆川博子)、等の文芸耽美作品を舞台化。劇団創立20周年を迎えた2005年には、直木賞作家 東野圭吾の代表作「白夜行」をテレビドラマに先駆けて2部構成で初舞台化。

その他、イギリスのフリンジ(小劇場)および、アメリカのオフ・ブロードウェイなどの最新且つ秀逸な戯曲を翻訳上演する<The Other Life>の公演活動、更にロンドン、ニューヨークでのワークショップ開催、東京の中野に在る小劇場「ウエストエンドスタジオ」の運営等も行っている。また、2005年の12月 - 1月には日本でニューヨーク・アクターズスタジオ正会員であるロベルタ・ウォーラックによる日本人俳優の為の「Acting Workshop」を開催した。

2006年には劇団初のシェイクスピア作品の舞台化し、新境地を切り開いた。

2014年6月8日、代表で所属俳優の河内喜一朗が大腸がんのため逝去。享年64歳[1]。現在は、所属俳優の藤原啓児が代表を引き継ぐ。

特徴
現在は男優約40人によって構成されている。
劇団を表現するときに頻繁に用いられるキーワードは「耽美(たんび)」。
当初は女優も在籍する劇団だったが、徐々に減っていき、1988年上演「WHITE」の本番直前に女優が駆け落ちしてしまったことが切っかけで男優を女役に起用。それが意外な評判を呼んだことにより現在の劇団のスタイルに至った。(座長・河内喜一朗談)
劇団の特性上、「男版宝塚」などと評される事もあるが、宝塚とは異なり、基本的に男役と女役は固定されていない。
女性役を演じるときは、服装や髪型など見た目・立ち居振る舞いなどは、女性的に整えられるが、声は男性のまま演じられる。コメディでは、仕草も男性的な場合がある。
ほぼ全ての公演で、主要人物数名から10名がチーム分けされたダブルキャスト、もしくはトリプルキャストで上演されている。一方のチームが主要人物を演じている間、もう一方のチームはサポート役(敵役や脇役)にまわる。
舞台上演の別に、影絵劇団としても、北は北海道から南は九州まで全国の小学校を中心に公演を行っており、舞台上演の主役級の役者等も影絵演者として出演する事もある。[2]

・・・・・・・・・・(転載ここまで)

この劇団の代表作が「LILIES」です。

同性愛をテーマにしている作品です。

・・・・・・・・(2013/12/30 11:42 “LILIES” —多くの女性たちに支持される演劇集団Studio Lifeの代表作)

by 吉田晴香(よしだ・はるか)/ 青山BBラボ

演出家は女性、俳優は全員男性という劇団スタジオライフがミシェル・マルク・ブシャール脚本による代表作、“LILIES”を2013年11月20日から12月8日まで、東京・新宿のシアターサンモールにおいて、Sebastiani、Marcellien、Erigone のトリプル・キャストで上演しました。

『アグロスパシア』が新たにスタートしたインターン生チーム「青山BBラボ」のメンバー、吉田晴香が日本版上演台本・演出、倉田淳(Studio Life)による舞台のゲネプロ(2013年11月20日)を取材させて頂きました。


 1952年のカナダ郊外の刑務所。そこに服役中の囚人シモンがかつての友人であるビロドー司教に、囚人たちが演じる芝居を見せる。その芝居は40年前の2人と友人ヴァリエ、3人の悲劇についての物語だった。大人になった二人…そして、ビロドーにこの芝居を見せるシモンの目的とは…

 劇中劇として展開されるこの作品のストーリーは2002年の初演時、多くの反響を呼んだ。上演4度目となる今回は、今までとの変化を意図しての上演だった。まず乗峯雅寛氏が舞台美術を一新させ、主要キャストに本作初参加の俳優を多数起用した。乗峯氏は2002年から文学座に所属。数々の舞台美術を担当し、2011年には第18回読売演劇大賞優秀スタッフ賞、第38回伊藤熹朔賞新人賞を受賞している。

 劇場内に入るとすぐに、舞台中央にある傾斜のついた板が目に飛び込んで来た。舞台の奥行きを強調するこの板の存在と距離感が、老ビロドーと老シモンの現在、そして、劇中劇を演じる若き日のシモンとビロドーとの違いを際立たせることになる。舞台の高さいっぱいに伸びる鉄格子も印象的で、鉄や石畳を用いた、シンプル、かつ、重々しい雰囲気のセット・デザインは乗峯氏が2013年に舞台美術を手がけた『ジャンヌ』の世界観をどこか思い出させるものだった。

 この日シモンを演じたのは、前回も同役を演じた仲原裕之さん。「4年前にやり残したことがたくさんある」と製作発表時に語っていたが、社会の常識と自分自身の中の愛との間で揺れるシモンを見事に演じきった。そして今回、本作初参加となったヴァリエ役の松村さんをグイっと男らしく引っ張る、そんな一面も垣間見えた。

 ヴァリエ役の松村泰一郎さんは少々緊張しているのが客席でも感じられるほど、しかし、ひたむきにヴァリエを演じていることが伝わってきた。ただひたすらシモンを愛し続ける、まっすぐなヴァリエにはぴったりの配役。
 上演中ただ一人、舞台上に出ずっぱりのビロドー司教を演じる船戸慎士さんは、囚人たちが演じる40年前の、若き日の自分たちの姿を、怒りとも悲しみともとれる表情を浮かべながら見つめ続ける難しい役だが、強い存在感が感じられた。


 「人はやさしさを与える。そして人は残酷を返される」

 神に仕えるビロドー司教は、40年前の自分の罪を演劇によって暴かれる。しかも、それを演じるのは刑務所の囚人たちである。こんなにも残酷な裁きの方法が他にあるだろうか?

 シモンとヴァリエ、そしてビロドーも、互いを愛していただけなのだ。そしてシモンの父ティモシーも、ヴァリエの母ティリー伯爵夫人も、ただ自分の息子を愛していただけだった。しかし彼らの愛は、自分の立場、階級社会における地位、そして同性愛を赦さない敬虔なカトリック信者が多かったその時代の社会常識に打ち勝つことができなかった。それ故に悲劇の連鎖が起きてしまう。

 この作品を理解するためには、日本人にとってはあまり馴染みのない、カナダ・フランス語圏、ケベック地方の荘園制度(富裕層がフランス本国から自国の使用人を農奴として連れてきた。それゆえに白人どうしでありながら極端な貧富の差があった)の歴史や当時の文化をある程度知っている必要はあるが、本作品が伝えようとしているメッセージは「人は優しさを与える。そして人は残酷を返される」で、現代を生きる私たちも、愛することで何かを失うことがあり、真っすぐに生きていくことは、思いのほか難しいということなのではないだろうか。

 舞台となっているカナダのケベック州では、2003年に同性婚が認められた。もし、この3人が現代に生きていたならば、愛することで傷つき、自ら死を求めなくてすんだかもしれない。登場人物の誰かに共感し、誰もが自分の経験を振り返りながら、人を愛することの苦しさと美しさを再確認できる作品であることに間違いはないだろう。

 本作品が多くの女性たちに支持されていることは、日本において、女性たちが思ったように活躍できていない・・・ということを示唆しているのか? そんなことも考えさせられるスタジオライフの公演であった。

・・・・・・・・・・(転載ここまで)

この評論家の言いたいことが一体何か私には伝わってきませんでした。

「舞台となっているカナダのケベック州では、2003年に同性婚が認められた。もし、この3人が現代に生きていたならば、愛することで傷つき、自ら死を求めなくてすんだかもしれない。登場人物の誰かに共感し、誰もが自分の経験を振り返りながら、人を愛することの苦しさと美しさを再確認できる作品であることに間違いはないだろう。」

とあります。

同性愛に対する批判をしていたのか?と感じました。

他の方のスタジオライフ作品に目を通しても一体何が素晴らしいのか芸術なのかわかりませんでした。

ここで、このスタジオライフが「耽美=同性愛」を重視している劇団であるということが分かりました。

他のレビュアーも見ていきましょう。

・・・・・・・・・・(スタジオライフ『LILIES』閑人手帖)

 現代のケベックは世界でも有数の無神論者の国で、社会風俗もリベラルだが、1960年代以前のケベックは、保守的なカトリック教会が社会のモラルを支配し、教育もカトリック教会の監督のもとにあった。しかも舞台となったのは、ケベック州のなかでもモントリオールやケベックという大都市から遠く離れたロベルバールという小さな町の学校である。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Roberval_(Qu%C3%A9bec)

 中央から隔絶された閉塞的な田舎町の息苦しさ、パリへの強烈な憧れも、配置された登場人物たちを通して語られる。

 古典的装いの実に美しく、清廉な愛のドラマだった。男優だけでキャストを構成し、記号的な表現を選択することで、戯曲の魅力をしっかりと伝える密度の高い芝居を構築していた。演出は脚本に寄り添って、その魅力を素直に引き出している。音楽の選曲と使い方、役者の演技等、オーソドックスでベタベタなのだけれど、その演出は戯曲の内容に寄り添ったもので無理がない。こうした定型的な演出がむしろ効果的なときもある。そういう舞台だった。役者の技量はかなりばらつきがあるけれど、戯曲のよさはしっかり引き出されていた。同性愛にほとんど関心を持たない私にも説得力のある強い愛の物語となっていた。修辞的な美しい台詞と劇的な山場が豊かなこの芝居は、男優のみで演じるほうがその潜在的魅力を引き出すことができる。張り詰めた緊張感と甘美な叙情の絶妙の交替に心揺さぶられた。

 

 ちなみに作品タイトルとなっている『LILIES』だが、これは「ゆりの花」の複数形であり、そこから「純潔な人, 純白なもの」という意味でも用いられる。これはもちろん、劇中の若い男たちの隠喩になっているわけだが、英語題の「lily」には俗語で 「 めめしい男、ホモ」の意味でも用いられている。オリジナルの戯曲はフランス語で書かれていて、その原題は« Les Feluettes »となっている。« feluette »は、作者のミシェル=マルク・ブシャールの国、カナダのケベック州の方言で「やせこけた(人)、ひょろひょろした(人)」を意味すると『ロワイヤル仏和辞典』にあった。しかしこの意味では作品の内容とぴったり会わないし、英語題名の『Lilies』とも対応しない。ちょうど来日していたケベック人の演出家に訪ねると、« feluette »はケベック・フランス語の俗語で「同性愛者」を意味する侮蔑語だとのことだ。なので『LILIES』の意味も俗語としての「ホモ」の意味で取るのが、作者の意図するところだということになる。

・・・・・・・・・・(転載ここまで)

やはり、劇団スタジオライフは耽美主義=同性愛を描いたおかしな劇団であることがわかります。

他のレビュアーの記事も見ていきましょう。

このレビュアーは「ドラキュラ」というホラーで同性愛を描いたことについて書いています。

・・・・・・・・・(梁塵日記 劇団スタジオライフ「DRACULA~The Point of No Return~」)

耽美派劇団らしく「禁断の愛」という視点でドラキュラを描いたのが新鮮。ドラキュラを同性愛の視点から描いた映画にロマン・ポランスキーの「吸血鬼の舞踏会」などがあるが、演劇ではどうだったか。

 死んでも生き返る、血による病の連鎖…ドラキュラ物語というのは、ゾンビものの原型でもあり、映画「ロッキー・ホラー・ショー」の原型だということもよくわかる。神と悪魔、エロスとタナトスの相克。
 
 正攻法のブロードウエイミュージカル「ドラキュラ」よりも「愛の至上性」をよく描いているのではないか。

 永遠の生命を得ながら、永遠の愛を求めることができず悶え苦しむドラキュラの哀しみ。ジョナサンという同性への愛の変容。しかし、それこそが永遠に手に入れることができない禁断の愛。
 
 ゴシックホラーのような導入部からくいくい引き込まれ、2時間5分、どっぷりとホラーサスペンスの世界にひたった。

・・・・・・・・・・(転載ここまで)

どこまでも同性愛をテーマにした劇団、それが劇団スタジオライフなのでしょうか?

 

この劇団で演出家をしているのが「倉田淳」という女性です。

・・・・・・(倉田 淳(くらた じゅん)

<倉田淳>

日本の脚本家、演出家である。東京都出身で、男優集団劇団Studio Lifeの唯一の女性として、脚本、演出を手掛ける。

1976年に演劇集団「円」研究所の第一期生として入所。卒業後は研究所の講師として在籍し、又、芥川比呂志に師事し、80年まで演出助手を務めた。講師時代の教え子には演劇集団「円」出身の大物俳優もいた。[1]。

東京生まれ。1985年に河内喜一朗とともに劇団Studio Lifeを結成し、ほとんどの作品の脚本と演出を手掛ける。英国の演劇事情にも通じており、1991年より、ロンドン、ニューヨークで日本人俳優のためのアクターズ・スタジオ正会員講師によるワークショップを企画・開催している。

・・・・・・・・・・(転載ここまで)

彼女は劇団「円」を卒業して、スタジオライフを設立したわけですが、劇団「円」で師事したのが「芥川 比呂志」なる人物です。

勘の鋭い読者の方ならピンとくるかもしれませんが、芥川の姓名から、芥川龍之介の親戚だとわかりました。

しかも、芥川龍之介の長男です。

・・・・・・・・・(芥川 比呂志(あくたがわ ひろし、1920年3月30日 - 1981年10月28日)

芥川 比呂志
日本の俳優、演出家。東京府東京市滝野川区(現東京都北区)田端出身。作家・芥川龍之介の長男。母は海軍少佐の塚本善五郎の娘・文。妻は、龍之介の次姉・ヒサの長女で、従姉にあたる芥川瑠璃子。


来歴・人物
名の由来は龍之介の親友・菊池寛(表記同じで筆名ではカン、本名ではヒロシと読む)の名の読みを万葉仮名に当てたもの。3人兄弟で、次弟・多加志は第二次世界大戦中、22歳でビルマにて戦死、末弟・也寸志は作曲家。ちなみに、多加志は小穴隆一の「隆」から、也寸志は恒藤恭の「恭」から取られている。

1926年、東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)に入学。同級に宮澤喜一がいた。1932年、同附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に入学。在学中からシングや岸田國士の戯曲を読み、15歳のとき『お察しください(A Comedy)』と題する戯曲を、附属中学の校友会誌「桐陰会雑誌」に発表。学芸会では『ヴェニスの商人』や武者小路実篤の芝居を演じる。

宮澤喜一元首相>

1937年、慶應義塾大学予科に入学。1939年、同予科から文学部仏文科に進学。女優・長岡輝子や劇作家・加藤道夫たちと新演劇研究会を結成し、学生演劇活動を始める。その傍ら、鈴木亨主宰の詩誌『山の樹』の同人となり、畔柳茂夫や沖廣一郎という筆名で詩や翻訳を発表。このころ、堀田善衛、中村眞一郎、白井浩司、福永武彦、加藤周一、白井健三郎、小山正孝たちと知り合う。当時、東急東横線の通学電車の車内で、女優姉妹のジョーン・フォンテーンとオリヴィア・デ・ハヴィランド(当時東京に住んでいた)にたびたび乗り合わせたという。演劇活動の傍ら、佐佐木茂索の配慮により、嘱託として短期間文藝春秋社に勤務。

太平洋戦争勃発のため慶應義塾大学を繰上卒業し、甲種幹部候補生として群馬県の前橋陸軍予備士官学校(赤城隊)に入校。卒業後の陸軍少尉時代には、帝国陸軍有数の本土防空戦闘機部隊として有名な東京調布の飛行第244戦隊の整備隊本部附として勤務し、敗戦時は陸軍中尉として滋賀県神崎郡御園村の神崎部隊三谷隊にいた。

1945年、神奈川県藤沢市鵠沼の母の実家別荘に疎開していた家族の許に復員した。直前に三女の芥川耿子が誕生していた。鵠沼では林達夫らと交流し、1946年夏、林の主宰する市民向け教養講座「鵠沼夏期自由大学」で、加藤夫妻と共にチェーホフの「熊」を上演している。鵠沼には1949年まで滞在して上目黒に戻った。

1947年、女優長岡輝子、加藤とその妻で女優の加藤治子らと共に「麦の会」を結成。1949年に「麦の会」は文学座に合流し、以来文学座の中心俳優として、または加藤道夫作『なよたけ』などの演出家として大成する。特に1955年の『ハムレット』の主演は、今なお伝説として演劇史に語り継がれているほどの絶賛を博す。貴公子ハムレットの異名を持った。

舞台の他、ラジオドラマ・ナレーション・映画・テレビなどにも数多く出演。1963年、仲谷昇、小池朝雄、岸田今日子、神山繁、高木均らと共に文学座を脱退し、かつて『ハムレット』の演出を手掛けた福田恆存を理事長とする財団法人「現代演劇協会」を設立、協会附属の「劇団雲」でリーダーとして活動する。1966年にはNHK大河ドラマ『源義経』で源頼朝を演じた。俳優業の傍ら、演出家としての才能も発揮し、1974年、『スカパンの悪だくみ』の演出で芸術選奨文部大臣賞、泉鏡花の戯曲『海神別荘』の演出で文化庁芸術祭優秀賞を受賞。

やがて盟友であった福田と劇団の運営方針を巡って対立。1975年には仲谷、岸田、神山、中村伸郎らと雲を離脱し「演劇集団 円」を創立して代表に就任した。しかし、若い頃からの持病である肺結核が悪化していて入退院を繰り返し、期待された「円」での仕事は、1978年の鏡花の『夜叉ヶ池』演出のみに留まった。

1981年、療養中だった目黒区内の自宅にて死去。享年61。

その他
日本最大規模の劇団「劇団四季」の名づけ親である。

・・・・・・・・・・(転載ここまで)

同級生に「宮澤喜一元首相がいる」という芥川家とは一体何なのでしょうか?

「作家・芥川龍之介の長男。母は海軍少佐の塚本善五郎の娘・文。妻は、龍之介の次姉・ヒサの長女で、従姉にあたる芥川瑠璃子。」とありますが、ただならぬ人物が出てきました。

父・芥川龍之介の妻の「芥川文」は塚本家の出身です。

・・・・・・・・(芥川文)

来歴・人物
東京府生まれ。海軍少佐・塚本善五郎の娘。1904年5月15日、旅順港近海で戦艦「初瀬」に第一艦隊第一戦隊先任参謀として乗艦していた父が「初瀬」沈没時に戦死[1]。葬儀に参加した東郷平八郎連合艦隊司令長官は文を抱き上げ、秋山真之参謀はピアノを練習するよう薦めた[1]。一家の大黒柱を失った母は、実家である山本家に寄寓する。このとき、母の末弟・山本喜誉司の東京府立第三中学校以来の親友・芥川龍之介と知り合う。芥川が彼女へ送った恋文は有名。

・・・・・・・・・・(転載ここまで)

「葬儀に参加した東郷平八郎連合艦隊司令長官は文を抱き上げ、秋山真之参謀はピアノを練習するよう薦めた[1]。一家の大黒柱を失った母は、実家である山本家に寄寓する。このとき、母の末弟・山本喜誉司の東京府立第三中学校以来の親友・芥川龍之介と知り合う。芥川が彼女へ送った恋文は有名。」

とあります。

芥川文(当時塚本文)は父の塚本善五郎がなくなり、母方の山本家に入ります。

そこで「山本喜誉司の東京府立第三中学校以来の親友・芥川龍之介と知り合う」ことになるそうです。

芥川龍之介は「山本喜誉司」と親友だったそうですが、山本喜誉司とはどういう人物なのでしょうか?皆さんご存知でしょうか?

これがとてつもない大物でした。

・・・・・・・・(山本喜誉司とサンパウロ日本館 ー 知られざる芥川龍之介との関係 深沢 正雪 / 2014年10月29日)

〝サンパウロのセントラルバーク〟と呼ばれるイビラプエラ公園にある「日本館」は、8月29日に60周年式典を行い、日本から茶道裏千家の千玄室第十五代家元らを迎えて、しめやかに祝った。この建物は桂離宮を模して設計され、柱や瓦はもちろん玉砂利にいたるまで日本から持ってきた〝純和風〟建築としても、世界的に珍しいものだ。

 日本文化の持つ「普遍性」を形にした日本館

山本喜誉司(『山本喜誉司賞の歩み』同記念誌編集委員会、2009年)

これを実現したのは、サンパウロ州カンピーナス市に現存する「東山農場」支配人の山本喜誉司(1892―1963、東京)だ。山本は戦後、サンパウロ市が主催した市誕生400年祭(1954年)の日本人協力委員会代表を務め、その委員会を発展的に解消して作った日系社会の中心機関・サンパウロ日本文化協会創立(1955年、現ブラジル日本文化福祉協会)を通して、終戦直後から「勝ち負け抗争」により二分していた日系社会の統合をなしとげた人物として、日系社会では一般的に知られている。

そんな山本の二男カルロス坦さん(たん、88、北京生まれ)を2012年6月末、自宅に訪ね、東京時代の芥川龍之介との関係などを聞いた。

日本館を設計した堀口捨己は山本と同じ東大。山本は1917年に農学部卒、堀口は1920年に工学部卒で学部違いの後輩だ。堀口は欧州の新建築様式に強い影響を受け、「日本人建築家」として、どうそれと相対していくかを模索する中で、数寄屋造りを〃日本建築の精華〃と考えるようになった。

だから日本館は同様式の代表である桂離宮を模し、堀口の代表作の一つと言われる。彼は単に伝統回帰をしたのではなく、現代にも通用する「普遍性」を求めた。

《ヨーロッパが20世紀にようやく気づいた非相称性重視の美学を、日本は何百年も前に数寄屋造りとして実現している、つまり先んじていると見た》(INAXレポート186号4頁)。まさに日系社会が日本文化の中に普遍性を見出し、ブラジルに植え付けようとする営為そのものだ。

 

東大卒、満州経てブラジルへ

山本は東大農学部を卒業後、三菱に入社し、小岩井農場で牧畜を学び、東山農事社が中国などで展開していた農場を経営するために、家族を北京において赴任した。北米から棉実を輸入して主に綿花改良や栽培に従事し、計7年間も住んだ。

4人の子供のうち長女・瑶子のみ日本生まれで、次の息子2人(幹、坦)は北京生まれ、最後の三男・準がブラジル生まれという現在からみても実に国際的な家族だ。

1926年10月、山本は東山農場購入のために単身ブラジルに渡り、翌年には家族を呼び寄せた。岩崎家による東山農事株式会社(本社=東京)が東山農場の経営母体だ。岩崎久彌社長(創業者・岩崎弥太郎の長男)は、山本喜誉司に全幅の信頼を置いていた。

坦さんは「岩崎久彌は日本移民のことをとても気にしていて、ブラジルの農業はサトウキビとコーヒーだけで、いずれ国際相場の暴落で痛い目を見る。だから父にお金儲けのためではない、作物の種類を増やすような実験農場をつくって農業技術を広めてくれ」と依頼したと聞いている。

アルコール度が高くて安いピンガ(サトウキビの蒸留酒)を飲みすぎて、身体を壊す日本移民が多いことを山本は憂い、ブラジル初の日本酒『東麒麟』醸造に踏み切ったとも言われる。

坦さんは「父は最初、農場経営のために一時滞在のつもりで来た」という。山本はブラジル人のポルトガル語教師をつけてすぐにペラペラになり、当地有数の研究機関だったカンピーナス農事研究所の学者や幹部と親交を深め、ここが気に入った。でも、山本に永住を決意させる決定打となったのは、渡伯4年目の1930年3月に長女・謡子が当地で腸チブスにより亡くなったことだった。

(東山農場に作られたテニス場で撮影。1935年ごろ。山本喜誉司(中央後ろ)と3人の息子たち(前列中央が坦)=山本家所蔵)

 

日本移民因縁のヴァルガス大統領

ゼッツリオ・ヴァルガスが1930年に革命を起こして政権を握り、共和国憲法を停止した。コーヒー産業中心に新興勢力だったサンパウロ州は、リオのヴァルガス大統領に対し1932年に「憲法を護れ」を旗印にして護憲革命を起こし、3カ月間で連邦軍に敗退した。その最後の決戦場の一つになったのが東山農場だった。

ヴァルガス大統領は1937年からは独裁政権となって国粋政策を推し進め、1945年末まで権力の座にいた。ブラジル独自の国民音楽としてサンバを振興し、サッカーを国技として育てるなどの国民アイデンティティを育んだ。産業界においても製鉄事業を創始し、ペトロブラス(石油公社)などの重要機関を創立、近代的な労働法整備などをして「国家としての骨格を作った」といわれる重要な人物だ。

大戦中に米国の強引な外交政策に巻き込まれに、欧州戦線にブラジル遠征軍を出兵させ、国内の枢軸国移民を迫害したことでも知られる。その一貫で東山農場をはじめとする大手日本企業や移民が経営する大農場は資産凍結された。そんなヴァルガスだが大戦終了後は軍部に退陣を迫られ、追い出された。

戦争を挟んだ期間の迫害が日本移民に強い精神的ストレスを与え、「日本が負けるはずがない」という強迫観念を植え付けた。終戦の時、敗戦を受け入れるかどうかという時、「負けるはずがない」と考えた移民の大半は「勝ち組」となり、受け入れた「負け組」と対立して殺し合いにまで発展し、ブラジル社会に最悪の印象を与えていた。

双方が一緒に取り組める何かを見つけるしか、日系社会融和の道はないと山本は考えた。当初は祖国救援の「ララ物資」を送る運動がそうなるかと思われたが、勝ち組の反発を買って融和まで行かなかった。坦さんは「勝ち負け双方が手を組んで取り組める何かをと父は考え、聖市400年祭の準備を始めた」と振り返る。

さらに「イタリア移民やドイツ移民、英国や米国などがイビラプエラ公園にパビリオンを作ったが、常設館は日本だけ。父は『日系社会を統合するには時間がかかる。後世に残る立派なものを作らなければ、勝ち負け抗争で広がった悪いイメージを払拭することは出来ない』と考えました」と解説する。

<2011年1月のルセフ大統領就任式に訪れた麻生太郎日伯国会議員連盟会長(現副総理)が、日本館の庭にある池の鯉に餌をやっている様子

(写真=ニッケイ新聞)>

不屈のヴァルガスは1950年の大統領選挙で民主的に再選された。日本館は1954年5月に上棟式、8月31日に竣工した。その竣工一週間前の8月24日、大戦中に日本移民を苦しめた因縁のヴァルガス大統領は政敵からの圧迫に耐えきれず自殺を遂げていた。

日本館建設翌年の12月、同協力委員会を発展的に解消して日系社会の中心機関たるサンパウロ日本文化協会を創立し、1958年の移民50周年で三笠宮殿下ご夫妻の来伯を実現するなどして日系社会の統合に苦心した。さらに寿命を削るように文協ビル建設に邁進した。

 

同性愛にも譬えられそうな熱烈な芥川との親交

実は文豪・芥川龍之介の妻は、山本の姉の娘であると同時に、本人同士も東京府立三中時代からの竹馬の友だった。約80通もの交換書簡がある。坦さんによれば、生前に「私の死後この書簡類は焼却するように」と家族に言いわたしていたという。

 

1954年に大宅壮一が聖市の山本邸をわざわざ訪れて「書簡を見せてほしい」とお願いした時も断っていた。坦さんは「父はいつも芥川と手紙をやり取りしていたが、母は芥川のことを『頭が切れすぎる人だ』と怖がっていた」と思い出す。

月刊『望星』(東海教育研究所、2007年8月号)の《特集―芥川龍之介の「手紙」》には驚くべき内容が書かれている。山本と芥川は一高時代、同性愛にも譬えられそうな熱烈な親交があったというのだ

同33頁には芥川が送った書簡中には、「僕は君によりて生き候君と共にするを得べくんば死も亦甘かるべしと存候」との、若き文豪ならではの赤裸々な青春の言葉が紹介されている。

また同特集には、53年から3年間ほど滞伯して山本喜誉司の仕事を手伝った経験のある、日本在住の挿絵画家・長尾みのるのインタビュー記事も掲載され、山本から直接に聞いた興味深い逸話が明らかにされている。

山本は芥川の執筆活動にもアドバイスをしていたというのだ。

《芥川が自分の作品は金にならない、だから自分が死んだあとは遺族がかわいそうだと言っていたというんです。で、どうしたらいいのかというので一緒になって作戦を考えたと言っていた。(中略)山本さんは、ヨーロッパ文学の例などを分析してみると、後世に残る作品には一定の条件みたいなものがあるから、そういう方程式を導き出して、その通りにやればいいんだと言って一緒に考えた、そして芥川は実際にそれをやったというんですね》(同特集25頁)。

 

山本が1963年に亡くなった時に、なぜか手紙は焼かれず、日本の研究者の問い合わせを受けた遺族が全書簡を送ったことから、その親密な関係が明らかになった。

山本喜誉司の論文「ウガンダ蜂はかく語りき」(東大博士号)の中の、自分が描いた挿絵を懐かしそうに指さす坦さん。ドイツの哲学者ニーチェの代表的著作「ツァラトゥストラはかく語りき」を意識した論文タイトル自体が、農学だけでない素養の深さをうかがわせる。

 

もし芥川がブラジルに来ていたら?

『山本喜誉司評伝』(サンパウロ人文科学研究所、1981年、18頁)には、《山本には芥川をブラジルに呼んで、広々とした自然、清浄な大気、そして激しい熱帯の太陽の下で、衰弱した芥川の肉体と精神を甦らせるが、初めからの夢であった》とある。精神的に病みやすい芥川の性格を知悉していた山本らしい思いだが、残念なことに実現されなかった。

山本には「芥川にブラジルを題材に何かを書いてほしかった」という気持ちがあったのではないか。芥川は1927年7月、36歳の若さで服毒自殺した。年表をよく見てみると、山本が渡伯した翌年だ。もし芥川をブラジルに呼ぶことに成功していたら自殺しなかったかもしれない。そして1930年の護憲革命終盤の東山農場を舞台にした傑作を書いていたかもしれない。

1930年に移民船で渡伯した経験を描いた小説『蒼氓』(石川達三)が、奇しくも1935年の第1回芥川賞に輝いた。移民をテーマにした小説が、自分の名を冠した賞に輝いたことを、最も喜んだのは天国の芥川だったかもしれない。

一日4箱の愛煙家だった山本は肺ガンで1963年7月31日に亡くなった。山本は文協会長であると同時に、当時、茶道裏千家のブラジル支部長でもあった。同年4月から病床に伏していた山本は、死の十日ほど前、副支部長の蜂谷専一を呼び出した。病床に伏しているはずの山本は、なぜか着物に着替えて正座をして待っており、《後を君が引きうけてくれれば安心して逝ける》(『山本喜誉司評伝』人文研、81年、62頁)と言ったという。死に際をわきまえた人物だった。

「もう身近な存在としての父を語れるのは僕だけです。今回語ったことの多くは家族しか知らなかった」。最後に坦さんはそう付け加え、会話を締めくくった。

山本が実現に骨を折り、堀口が日本館に込めた志に共鳴した中島工務店(本社・岐阜)の中島紀于代表取締役は、日本移民80年祭(1988年)以来、90周年、昨年の105周年と節目の年ごとに、自腹で宮大工を連れてきて補修を行っている。

・・・・・・・・・・(転載ここまで)

「月刊『望星』(東海教育研究所、2007年8月号)の《特集―芥川龍之介の「手紙」》には驚くべき内容が書かれている。山本と芥川は一高時代、同性愛にも譬えられそうな熱烈な親交があったというのだ。」とあるように、彼らは本当に同性愛者だったのかもしれませんね。

そしてその芥川比呂志の父親・芥川龍之介は塚本文という奥さんがいながら、親友の山本喜誉司と同性愛のような関係だった。

芥川比呂志に師事した倉田淳が同性愛作品ばかり演出している。

そして、今なお、倉田が脚本・演出している「劇団スタジオライフ」の代表作「LILIES」がホモ作品であるという事実が分かってきましたね。

となると、今回twitter炎上した、「坂井 豊貴(さかい とよたか」慶応大学教授もこれらの「ホモ人脈」で現在の地位まで上り詰めたのではないかと疑いたくもなります。

「慶應義塾大学経済学部の坂井豊貴教授が「ゲームはクソ!ミュージカルが最高!」などと自身の子を叱責し泣かれたとTwitterに投稿し、批判の声が殺到している。炎上状態となり坂井教授は投稿を削除した。」

ホモ劇団に所属しており、ミュージカルをこどもに崇高なものだと押し付ける。

「同性愛、ホモ行為・ミュージカルをゲームよりも崇高なものだ」とでも訴えているのか?と良識を疑いたくなります。

どっちもどっちではないでしょうか?

「僕はホモ劇団でミュージカルをやって、この地位まで辿り着くことができたんだ。

だから、ゲーマーなんぞではこの世で偉くなることはできん。ミュージカル(ホモ劇団)こそ崇高な芸術なんだよ」

とでも開き直っているのかもしれませんね。

このブログの賢明な読者の皆様なら

「なぜ、世の中の権力者階級が「少年愛」や「同性愛」をこぞって推奨するのか?」

という明確な理由はご存知のことだと思います。

また余談ですが、「芥川龍之介」を調べると、彼が日本の文学作品を代表する人物であってはならないような人物像が浮かび上がってきましたので〆に転載することとします。

・・・・・・・・・・・・(芥川龍之介)

(1919年(大正8年)長崎滞在中の写真。左から2番目が芥川龍之介、一番左は菊池寛。)

東京帝大在学中の1914年(大正3年)2月に一高同期の菊池寛、久米正雄らと共に同人誌『新思潮』(第3次)を刊行。まず「柳川隆之助」(隆之介と書かれている当時の書籍も存在する)の筆名でアナトール・フランスの「バルタザアル」、イエーツの「春の心臓」の和訳を寄稿した後、10月に『新思潮』が廃刊に至るまでに同誌上に処女小説「老年」を発表。作家活動の始まりとなった。

この頃、青山女学院英文科卒の吉田弥生という女性と親しくなり、結婚を考えるが、芥川家の猛反対で断念する。

1915年(大正4年)10月、代表作の1つとなる「羅生門」を「芥川龍之介」名で『帝国文学』に発表、級友松岡譲の紹介で夏目漱石門下に入る。

1916年(大正5年)には第4次『新思潮』(メンバーは菊池、久米のほか松岡譲、成瀬正一ら五人)を発刊したが、その創刊号に掲載した「鼻」が漱石に絶賛される。

この年に東京帝国大学文科大学英文学科を20人中2番の成績で卒業。卒論は「ウィリアム・モリス研究」。同年12月、海軍機関学校英語教官を長く勤めた浅野和三郎が新宗教「大本(当時は皇道大本)」に入信するため辞職する[1]。

<浅野和三郎>

新宗教「大本(当時は皇道大本)」出口王仁三郎>

そこで畔柳芥舟や市河三喜ら英文学者が浅野の後任に芥川を推薦(内田百間によれば夏目漱石の口添えがあったとも)、芥川は海軍機関学校の嘱託教官(担当は英語)として教鞭を執った[2][* 2]。

そのかたわら創作に励み、翌年5月には初の短編集『羅生門』を刊行する。その後も短編作品を次々に発表し、11月には早くも第二短編集『煙草と悪魔』を発刊している。

1918年(大正7年)の秋、懇意にしていた小島政二郎(『三田文学』同人)の斡旋で慶應義塾大学文学部への就職の話があり、履歴書まで出したが、実現をみなかった[3]。1919年(大正8年)3月、海軍機関学校の教職を辞して大阪毎日新聞社に入社(新聞への寄稿が仕事で出社の義務はない)、創作に専念する[4]。ちなみに師の漱石も1907年(明治40年)、同じように朝日新聞社に入社している。

1919年(大正8年)3月12日、友人の山本喜誉司の姉の娘、塚本文(父塚本善五郎は日露戦争において戦艦「初瀬」沈没時に戦死[5])と結婚。1921年(大正10年)2月、横須賀海軍大学校を退職し、菊池寛とともに大阪毎日の客外社員となり、鎌倉から東京府北豊島郡滝野川町に戻る。同年5月には菊池と共に長崎旅行を行い、友人の日本画家近藤浩一路から永見徳太郎を紹介されている。

・・・・・・・・・・(転載ここまで)

カルト宗教「生長の家」の親団体の「大本教」に入信したのが当時の海軍教官の浅野和三郎。

その後釜を芥川龍之介が教鞭をとったというわけです。

そして、長男の名前を菊池寛の「ひろし」からとる、ネーミングセンス。

「芥川龍之介 同性愛」で検索すると、太宰治や菊池寛とのホモ疑惑が出てきますし、彼の作品にも同性愛が多分に描かれています。

本当にいい加減にしてもらいたいと思いますし、文学作品として同性愛者という異常性愛者が描いた作品を読まされる学生の気持ちにもなってほしいものですね。

現在の権力中枢は、東大が真っ先に出てきそうですが、実は慶応大学がかなり深いところに差し込んでいます。

それは、慶応大学創始者の福沢諭吉がイルミナティの一員で悪魔崇拝者であり、悪魔が喜ぶ同性愛や少年愛だからかもしれませんね。

庶民が権力に近づいたり、権力を欲すると、「能力なんかなくても」こうやってホモ行為や変態、異常性愛をさせられるのですから、日本いえ世界、この世というのはずいぶんおかしな常識が罷り通ってしまっているのだと思いませんか?

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