私たち人間は、他の動物たちと違って、脳がどんどん発達していき、一人でどんどん様々なことができるようになります。
しかし、脳が発達した分、文明が高度化され、役割が分業されることで、複雑な人間関係という「社会」の中で生活していくことになります。
利便な環境で生活している私たちは、この世で次第にお金や権力、安定を求め始め、マスコミが報道する、「怠惰な生活」「楽して悠々自適に生きること、欲望を満たし続けること=贅沢な生活」という価値観に染まっていきます。
それは、親の何気ない一言から始まる時もあれば、友人や学校の先生が発する言葉などによる影響の蓄積によるものです。
「はぁ、やっぱり俳優さんはかっこええは。それに比べ、うちの旦那は。。。あんたはこんなおっさんと結婚したらあかんよ。
貧乏カネなし暇なしで苦労ばっか。」
こんな冗談を母親が子供に聴かせていたとしたら、子供は真に受けてしまいます。
母親が認める人、母親の幸せとは、「外見の素敵な異性と結婚して、経済的に不自由なく生活することだ」と認識するかもしれません。
そうすると、子供の認知、考え方、モノの捉え方が変わってきます。
①外見をかまっている
②金持ちもしくは、金持ちになる素因がある
という表面的、物質的な基準で相手を選ぶようになるのです。
「おー、広瀬すずは本当に可愛くなったな」
父親がこんな事を子供の前でぽろっと話すものなら、子供は「あーいうタイプの女性と結婚すればいいんだな」と無意識に認知します。
すると、子供は親を喜ばせるために、女性を外見だけで選んでしまう=性的な視点で異性を選ぶ男性も同じでしょう。
しかし、俳優や女優も「マスコミによって作られた存在」であって一皮剥けば、私たち庶民と何も変わりません。
以下画像を見てみましょう。
(俳優の堀北真希)
(元AKB48の篠田麻里子、まるでGLAYのTERUです)
(元フジテレビお天気お姉さん皆藤愛子)
(生田斗真凄いですね。変わってないの風間君だけ)
(ゴールデンボンバー鬼龍院翔、ギャル曾根ですね。)
整形手術、メイク、派手なヘアスタイル、どれだけ金、時間を外見を装うことにつぎ込んでいるのでしょうか?
ショービジネスにおいて、視聴者を騙す、詐欺メイクはごく当たり前に行われています。
過剰なメイク、自分を大きく見せようとする、外見で得しようとすることは行き過ぎれば、「裏表」で生きることになり、誤魔化しながら人生を歩むことになります。
だからといって、場にそぐわないような身なりで生活したり、外見に全く構わないのも失礼にあたります。
ある程度、人間は外面を装う必要がありますが、どうしても外面重視で、まるで仮想大会のようになってしまっているのが、現在の日本の現状かもしれません。
それはなぜでしょうか?
「内面が変わらない、成長しないから外面を取り繕うしかないから」
ではないでしょうか?
心を、脳を成長させる方法を知らないから、外面だけを取り繕うくらいしかやることがない。
だから私たちは、不老不死や美魔女などといったものを殊更特集したり、外面の衰えを極度に恐れ、アンチエイジングに大金をはたくのではないでしょうか?
私たちが普段何気なく「価値がある」と思っているものは、実は手に入れてしまえば「まぁこんなもんか?」とその価値や手に入れた時の喜び、興奮は日々薄れていきます。
だからコレクターと呼ばれるような人がいて、次から次へと似たようなものを買い足していくのかもしれません。
贅沢も同じようなものです。
人間が喜びを感じる時に2つのシチュエーションがあります。
「これは美味しいものを食べた!」という時の、感動です。
これは美味しい商品を食べた喜びは「一人で感じている喜び」に過ぎません。
しかし、「これを、〇〇さんに食べさせてあげたい!」
と考えると、心がウキウキしませんか?
美味しいものと出会った時の喜びと、「それを教えてあげたい」というウキウキ感とで相乗効果となるのです。
買い物好きの主婦が、チラシを探して「一円でも安いお店を探すこと」が楽しみになることがあります。
そして、それをご近所の主婦仲間にSNSで教えたり、拡散したりします。
「少しでもお値打ちに良いものを買えた!」という喜びを共有したいのです。
さらに言えば、感情を共有したいのです。
喜びも、苦しみも、悲しみも、楽しみも、、、、感情を共有できる人がいれば、人間はどれだけ幸せを感じる事ができるでしょうか?
しかし、実際のところ、ラーメン好き、ラーメンマニアが10人集まっても、「この店が、この味が一番だ!」と満場一致することはありません。
「俺は淡麗系がいい」神奈川中村屋
「おれはセメント系濃厚とんこつがいい 大岩亭
「俺は動物+魚介のWスープがいい」(麵屋武蔵新宿)
「私は煮干しドロ系がいい」(中華そばいずる)
「私はネオクラシックがいい」(ちゃるめ)
「私は激辛な北極がいい」蒙古タンメン中本
「私は汁なしがいい」くじら食堂
「私はつけ麺がいい」とみ田
「私は二郎がいい」ラーメン二郎神田神保町
まだまだ分かれます。
これだけ価値観が多様化しており、人間はそれぞれ好みが分かれます。
ラーメンマニアが求めるものは、美味しいラーメンであり、そのラーメンにより脳内で幸福物質が放出され、喜び、快感に満たされるからです。
実際は、それがラーメンでなくてもいいかもしれない、他に自分を興奮させてくれるものであるなら。
ラーメンマニアはラーメンによって、興奮し快楽を得ているに過ぎません。
しかし、どうしてこれだけ好みがわかれるのか?
というと人それぞれ個性があるのも去ることながら、
「変化なく同じ物では、喜びが長続きしないから」
ではないでしょうか?
つまり、相手が成長(変化)していかないともしくは、相手についていけるだけ自分が変化・成長していかないと
対象を理解できなくなってしまい「飽きてくる」のではないでしょうか?
あれだけ好きだったお店のラーメンを久しぶりに食べたら、「あれ?こんなんだったか?」と感じることがあります。
お店の味は変わっていませんが、人間は日々変化し成長しているから、五感の変化やそれを感じる心理的な変化も影響されてしまうのです。
つまり、「古い事に固執していることはつまらないし幸せではない」のです。
売れ続けているゲームも同じようなことがいえます。
システムを刷新してしまい、既存のユーザーを無視した斬新なシステムを導入します。
現に、カプコンやスクエアエニックスなど生き残ってきたメーカーは、ユーザーに新たな提案、刺激を提供し続けています。
カプコンストリートファイターⅡ(1991年)
カプコンストリートファイター5(2016年)
スクエアエニックス FFⅢ(1990年)
スクエアエニックスFF15(2016年)
「楽して生活したい」「一生遊んで暮らせるお金を稼いで、早く仕事をリタイヤして悠々自適に生活したい」
そんな事を考えている人がいつの時代もいます。
それは、「人生に変化を求めない事が幸せだ」と言っているようなものです。
毎日、毎食、ラーメン二郎を食べているようなものです。
(ガッツリと、たまに食べるから美味しいのでは?)
人間の脳は感作によって鈍感になっていきます。
つまり、刺激になれてくると、脳の反応センサーが鈍ってくるのです。
「人間としてどこまで登り詰めていきたいか?」
そう考えた時、「食べ物や異性、地位や権力、財力を手に入れる」という目標では、あまりにも目標が低すぎるのです。
なぜか?それらを手に入れた人たちは威張っていますが、実際は幸せそうにしていないからです。
そう考えた時、私たちいつも幸せにしてくれるものは一体何でしょうか?
それは、私たち人間が創造された、生まれてきた目的を知ることから始まります。
「誰が作ったのか?」
「どういう目的で作ったのか?」
「だから、どう生きればいいのか?」
その秘密、奥義について書かれているのは聖書にしかなく、神が遣わした人を通して語られる悟りの中にしかありません。
有名な医者や弁護士も、東大出た人も、大学教授や、大金持ちも、政治家も、
「私たち人間が何処から生まれ、何処へ向かっていくのか?」
という事については、全く答えることができません。
彼らが知っているのは、
どうしたら体の病気の苦しみを取り除くことができるか?(医師)
どうしたらテストで良い点数がとれるか?(東大生)
どうしたら他人を働かせて大金を稼げるか?(大金持ち)
どうしたら国民を欺いて、税金を独り占めできるか?(政治家)
くらいの事しか知りません。
私たちは一体何と繋がれば幸せになれるのでしょうか?
何を求め続ければ幸せな生き方ができるでしょうか?
「このスィーツ美味しい!幸せ~」
よりも
「このスィーツ、美味しい!〇〇ちゃんに教えてあげたい!」
の方が10倍幸せな気持ちになれませんか?
つまり私たちは「愛する対象を求めて生きているのではないか?」
そう感じます。
「本当は愛したい。
でも、本当の愛し方を知らないから相手が喜んでくれるかわからない」
これが本音だと思います。
何を愛するか?誰を愛するか?によって幸せのたどり着ける高さが変わってくるとするなら、
愛する対象をもう一度探し直すことが大切だと思います。
私たちは既に、神様(創造主)に愛されています。
RAPT有料記事402(2019年9月2日)この世がどんなに変動し、この世の価値観がどんなに変わったとしても、主を信じて愛する人は時代に取り残されることなく、むしろ時代の中心となって活躍し、その存在価値をどんどん高めていくだろう。
RAPT有料記事291(2018年7月7日)神様の世界では誰が最も愛するかという競争をするから、競争が激しくなればなるほど平和が作り出される。
空気や水、太陽は誰が作り、恵みを与えてくださっているのでしょうか?
人に良心を与えてくださるのは誰でしょうか?
魔が差した時、止めて下さるのは誰でしょうか?
大変な時、思いもよらない閃きを与えてくださるのは偶然でしょうか?
肉体的な下半身の愛でなく、脳による理性的な上半身の愛でしか、最終的に人間は満たされないと思います。
「最愛の人」はすぐ近くにいると思います。
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