ネットでのプロファイリングが進んでいますね。
本来、結婚とは祝福されるべきなのですが、皇室費という税金で意味もなく、贅沢三昧されている方のために、日々市県民税や所得税、はたまた消費税を支払わされ続けるのは嫌なものです。
戦中は侵略戦争をおっぱじめ、世界中にの富を収奪しようとしているも、戦後は戦犯として追及はされず、、、軍隊、陸軍の責任となってしまった、世界で最も責任を取らない管理職の天皇家。
そして、国家元首から象徴に変わるも結局税金投入し、自分たちの資産は温存し続けるのですから困った輩です。
やはり天皇家、皇族は百害あって一利なしの存在であり、単なる税金の無駄遣いでああることから、1日でも早く滅びてもらうことが日本のためではないでしょうか?
では今回の婚約について、プロファイリングされている方の記事を以下紹介いたします。
・・・・・・・・・・・(2018-06-28 【高円宮絢子さま婚約】6月27日の守谷慧さん情報)
解説は「Nスタ」と ↓こちらからいくつか抜粋
高円宮絢子さま婚約へ=会社員守谷さんと、10月挙式-宮内庁:時事ドットコム
母の遺志継ぎNPO活動=守谷さん、カンボジアへも-絢子さま婚約:時事ドットコム
絢子さま 「笑いの絶えない家庭を」 子供がお好き、保育士資格も - 産経ニュース
慧さんのご両親
慧さんの父、治さんは元経済産業省の官僚。現在は、日伯エタノール社長。
母、季美枝さんは2015年死去。NPO法人「国境なき子どもたち」専務理事。
慧さんは長男として1986年3月24日誕生。
慧さんの父がイギリスにいたころ(慧さんがまだ小さい頃)から、すでに久子さまと慧さんの父・治さんはお知り合いであったそうです。
その縁で、守谷さんの母親の季美枝さんが専務理事を務めていたNPO法人「国境なき子どもたち」の関連行事にも毎年訪れるようになり、季美枝さんとも親しくされていたという。
季美枝さんが亡くなられた後、昨年11月、慧さんが「国境なき子どもたち」の理事に就任することを聞かされた久子さまが、同じく福祉を学んでいる絢子さまに国際的な福祉活動に興味を持たれるきっかけになればと慧さんを紹介されたとのことです。
慧さんの経歴
平成元年9月から4年7月まで、フランス・パリの幼稚園
→港区立白金小学校
→私立高輪中学校・高校
→平成17年4月慶應義塾大学文学部入学。
大学時代には、イギリスのオックスフォード大学に短期留学。
平成21年3月、慶應義塾大学卒業、翌4月から大手海運会社「日本郵船」に勤務しています。
父と祖母と同居
勤務先から帰宅し、待ち構えた報道関係者に会釈する守谷慧さん=26日夜、東京都港区
慧さんは、父・治さん、祖母・和子さんと同居している。
絢子さまのプロフィール
絢子さまは、1990年生まれの27歳。
福祉総合学部で子ども福祉を専攻。
大学時代はサッカー部のマネージャー。
その後、社会福祉や教育を学ぶために同大大学院へ進学。
カナダのカモーソン・カレッジとブリティッシュ・コロンビア大に計約2年間留学し、保育士の資格も取得された。
昨年6月からは同大福祉総合学部で研究員として勤務されている。
現在は、同大学の研究員を務めている。
皇族としては日加協会の名誉総裁、日本海洋少年団連盟の名誉総裁として活動。
慧さんの母・季美枝さんの活動をぴったり受け継げる絢子さま
写真・図版
画像:https://www.asahi.com/articles/ASL6W2H3RL6WUTIL002.html
慧さんは、母季美枝(きみえ)さんが亡くなるまでカンボジアで若い女性らの自立支援や職業訓練などに励んでおられたことから、母の死から半年後、「母が働いていた地へ」とカンボジアを訪れ、若い女性らが絹製品を作る様子などを見学。
17年3月から同法人の会員になり、今年3月、理事に就任した。
絢子さまが今まで学んでこられた、福祉や保育の資格がすべて役立てらえるご結婚となりました。
6月26日、宮内庁からの正式な発表の際に全ての予定が決まっていた。
「絢子さまと慧さんの婚約発表」
天皇、皇后両陛下には既に婚約の意向を報告されている。
絢子さまは7月2日午後、守谷さんと共に宮内庁で記者会見する予定と発表された。
納采の儀は8月12日に高円宮邸で、とも発表された。
結婚式は10月29日に明治神宮で行われる、とも発表された。
経歴も写真もすべてが報道向けに整えられていた。
眞子さまと小室圭さんの場合
宮内庁が知らない間に、スクープ報道。
宮内庁の正式発表の前に翌日の早朝、小室さんが単独会見してしまう。
週刊誌の報道がなければ、詳しい家族関係や経歴が出なかった。
経歴が辻褄が合わなかった。
最初に予定された婚約内定会見が7月8日。
九州の豪雨被害のため延期。
9月3日に、婚約内定会見が行われる。(この日午前中に天皇陛下の裁可があったのだが、テレビはこの日に初めて両陛下が小室さんに会ったと伝えた)
納采の儀や、結婚式の日程は、婚約内定会見(9/3)からさらに数ヶ月後の11月に発表。
やはり何かおかしかったですね。
眞子さま、小室さんの結婚延期の理由が消えてしまった
絢子さんと慧さんの結婚は今年の10月29日。
眞子さまと小室さんの結婚予定日だった日は11月4日。
宮内庁はお代替わりで忙しいための延期だったはずなのに、これが建前だということがわかってしまいましたね。
・・・・・・・・・・(転載ここまで)
このブログの読者の皆様ならこれだけネタがそろっている者同士の結婚がいかに茶番に満ちた政略結婚だとおわかりになると思います。
今回改めて見ていきたいのは、
・「国境なき医師団と国境なき子供たち」の創設者が同一人物であるということ
国境なき医師団がフリーメイソン団体である理由は、「エボラ出血熱騒ぎという偽装をして、ダイヤモンド採掘に加担していたということ」
・この婚約者、「守屋慧」が「国境なき子供たち」の理事であり母親も同団体の理事であるということ。
・そして、父親の治さんは元経済産業省の官僚。現在は、日伯エタノール社長社長であり、同社はエネルギー事業において「ブラジルと日本の架け橋的な存在」であり、ブラジルの開発は三菱グループの岩崎家がやっており、ブラジルの資源を活用して天皇家に利益を生み出していた企業でるということが分かりました。
ではまず、国境なき医師団と国境なき子供たちを創設したドミニクレギュエから見ていきましょう。
<国境なき子どもたち 戸田公明市長(右)に報告するKnK会長寺田朗子(中央)とKnK事務局長ドミニク・レギュイエ(左)>
ドミニクレギュイエの人柄について書かれている記事を紹介いたします。
・・・・・・・・(MSF日本設立25周年:初代会長・現会長特別対談「応援してくださる皆さんの気持ちをフィールドに届けたい」2017年10月31日掲載)
<初代会長・渡辺昌俊(左)と現会長・加藤寛幸>
この四半世紀、世界はルワンダの大虐殺、ボスニア紛争、エボラ出血熱流行など、幾多の人道危機に見舞われました。日本でも阪神淡路大震災や東日本大震災など、未曽有の大災害により多くの命が失われました。こうした中、国境なき医師団(MSF)、MSF日本が果たしてきた役割とは。そして、将来に向けた課題とは。MSF日本の初代会長を務めた渡辺昌俊氏(日本パスツール財団代表理事・常務理事)と、2003年からMSFに参加し、現会長を務める加藤寛幸医師が、MSF日本の来し方とこれからを語ります。
特集 MSF日本設立25周年
「絶対、日本で成し遂げるんだ」
——おふたりがMSFに関わられたきっかけは?
渡辺:1992年にドミニク・レギュイエ(初代MSF日本事務局長)という男がアタッシュケースひとつで日本にやってきて、MSFの日本事務所を作ると言ったとき、その社会的意義に賛同し、在日フランス商工会議所が支援を決定しました。当時私は仏系銀行の東京支店長をしており同会議所の役員も兼務していた縁でプロジェクトに招かれ、ドミニクに請われて会長になったのです。
私は60年代からフランスとその植民地であったベトナムで銀行員をしていました。ベトナム戦争中も約5年間現地に滞在し、そのひどい状況を目の当たりにしました。この体験が人道援助やMSFに関わろうと思った原点なのかもしれません。また私自身が体験した太平洋戦争の記憶とも無関係ではないと思います。
加藤:私は同じ1992年に医学部を卒業したのですが、研修先の病院に向かう日に、空港のロビーにあったテレビでMSFのことを知りました。詳しくは覚えていませんが、栄養失調の子どもと医療スタッフが映っていて、私が医師として目指す道はこれだと確信しました。その衝撃は今でも私の原点になっています。
——MSF日本設立当時の様子はいかがでしたか?
渡辺:設立当時のメンバーには「絶対日本で成し遂げるんだ」という強い意志がありました。当時、欧州の本部から1000万円の資金もらったら、それを1500万円にするにはどうすればよいか、またそれを2000万円にするにはという具合に、皆でどうすれば活動資金が集まるのか知恵を絞って考えました。MSFをなんとか日本で根付かせるために皆が一生懸命。そして欧州の本部が種まきの投資を惜しまなかったことは大事だったのだと思います。
加藤:研修医1年目の時に、当時まだ高田馬場にあったMSFのオフィスに初めて行きました。ドミニクにワインをご馳走になったことを覚えています(笑)。MSFに参加したくて、それ以来、オフィスには足しげく通いました。しかし当時は日本のNGOというよりはフランスの組織の出張所という雰囲気で、まだまだ日本に根付いた組織という印象はありませんでした。
渡辺:事務所の設立から3年くらいがたつと、皆の努力により、資金が集まるようになってきました。しかし、欧州の本部に主導権を握られた状態に次第に不満が出てきましたね。日本からの貢献は、資金集めだけじゃないはずだという気運が出てきました。
——日本事務所に次第に自主性が生まれてきた時期だったのですね。
渡辺:1999年、MSF日本は特定非営利活動法人(NPO法人)になりました。組織の運営や、資金の管理など、法人格が与えられたことでやりやすくなりました。私が会長職を創設メンバーの1人だった寺田朗子さんにバトンタッチしたのもこの年です。
そして1999年のノーベル平和賞受賞はMSFにとって大きな転機となりましたね。MSF日本もNPO法人になって大変成長した年だったと思います。私自身は2000年に65歳で銀行を定年退職し、それを機にMSFも離れました。
加藤:90年代後半、私はMSFへ応募するも何度も不合格を突きつけられており、援助活動したい気持ちが先走るばかりでうまくいかず葛藤していました。ノーベル平和賞受賞のときもMSFの一員になれていない自分が歯がゆかったですね。私がMSFで活動することを決意してから、実際に参加するまでには、実は10年ほどかかっています。医師になってから5年目に受けた面接では「語学力の不足」が理由で不合格となり、2度目は「臨床の力不足」という理由で不合格になりました。それぞれ、足りない部分を補うべく、オーストラリアの病院で修業したり、タイで熱帯医学を学んだりして2003年、ようやくMSFの医師として登録されました。
その年初めての派遣地であるスーダンに行くのですが、私が悶々としていた10年間に多くの人がMSFに参加していたので、私はMSF日本がフィールドに送り出した100番目の派遣となりました。また私はMSFが海外派遣スタッフに対して行う研修プログラム「Welcome Days」の1期生でした。当時はMSF日本が資金調達だけではなく、人材面でもMSFの活動に貢献していくという方向に舵を切ったまさに最初の年でした。
3.11から見えてきた課題と挑戦
——2011年、東日本大震災が発生。MSF日本が主導する初の活動を開始しましたが、当時どのようにお感じになりましたか?
渡辺:当時、日本の報道は諸外国では信用されず、フランスやドイツの見る目は大変厳しいものがあったと記憶しています。フランスはチャーター機でフランス人の日本からの出国を援助していましたけど、それにもかかわらずMSFがチームを日本に派遣したのはすごいと思いました。MSFを知っていた身としては、MSFが現地入りしたことが嬉しかったです。
加藤:私は希望して、東北に赴くMSFチームの一員となりました。日本の災害派遣医療チームや赤十字にならび、MSFが最初に現地入りした現場もあり、これまでの経験を日本で活かせることができました。ヘリコプターはなく、貸し切りタクシーで移動して、相手にされないこともありましたが、小さなチームが足で情報を集めてあの状況で活動し、それが機能したことが嬉しかったですね。なにより支援してくれた日本の皆さんの役に立てて、少しでも恩返しができたことが何より嬉しかったですね。
——国内で大震災などが起こると、日本は意識もお金も大きく動きます。一方、日本が平常時の世界の人道危機に対する関心はそう高くありません。
渡辺:私は日本とフランスの例しか知りませんが、フランス革命以来の伝統もあって、フランスはフィランソロピー(※)の意識がはるかに進んでいて、日本はまだまだ始まったばかりだと思います。MSFの仕事をしているということを親族や知人に言うと寄付を始めてくれる。「あいつがやっているなら」というのが日本の寄付社会で、それは人と人との信頼関係で生まれます。しかし、ニュースや資料を読んだだけではなかなか広がらない。「誰がやっているか」に依存している部分が大きいですね。
企業や個人による社会貢献活動や寄付行為または博愛の精神
加藤:フランスでは家計簿のなかに社会貢献の支出項目があり、暮らしを切り詰めて、寄付をする文化があると聞いたことがあるのですが、そうなのでしょうか。
渡辺:はい。貧富に関係なく、人を助けたい、自分よりもっと苦しんでいる人を助けたいというフィランソロピーの意識が高いですね。最近は日本人の意識もどんどん変わってきているとは思いますが……。アメリカにはふるさと納税のような税控除の仕組みがあって、寄付の習慣も根付いているように思えます。日本でふるさと納税が普及した背景は……なんて言うと身も蓋も無いですが、意識の差は大きいと思います。
——社会制度の違いも影響しているのでしょうか?
加藤:社会の枠組みというのは重要ですね。社会貢献活動の支援という意味では日本の政治の取り組みは十分とは言えないかもしれません。しかし市民のほうも政治にそういったことを求めていかなければいけないとも思います。
渡辺:「企業の社会的責任(CSR)」という言葉があります。しかし日本では純粋な貢献ではなく何か見返りを求めるという期待が常にあるような気がします。そういう意識の面ではまだ遅れているのかもしれません。企業は利益を出しているなら、相応の社会貢献をすべきという考えはあると思いますし、CSR活動は基本的には損得勘定でやるものではないですね。
"民間"に支えられた力
——国際社会でMSFの役割はどうあるべきでしょうか?
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加藤:MSFの活動規模は右肩上がりで拡大しています。一方で、国連の予算は削られ、それらが担っていた活動や分野が手付かずになってきています。MSFもいつまでも緊急医療だけに専念してはいられない状況です。
渡辺:エボラ出血熱やジカ熱といった感染症の流行はひとつの国で対処できる問題ではありません。グローバルヘルスとして国際的に取り組まなければならない。その中で民間の役割の重要度は増しています。
・・・・・・・・・・(転載ここまで)
・95%が寄付⇒同情、感情に訴えて、出資させて活動している
・「渡辺:例えば、アフリカはフランスから見れば庭のような近い場所にあり」⇒第2次大戦後もなお、アフリカはフランスの領土である、つまり地下資源、人的資源はフランス(イルミナティ)のものだという視点が分かります。
日本人はお人よしなのでしょうか?
自分たちが奴隷のように毎日働いて得た賃金を、「国際貢献・人道支援を皆さんに変わって代行いたします」という詐欺師集団に寄付したり、ボランティア活動と称して無料で奉仕しているのですから。
このように書くと、私自身が血「も涙もない守銭奴」と皆さんには映るかもしれません。
しかし、日本人は自分たちが企業に奴隷のように使われており、自分の身の回りで精神病にかかったり、ストレスが原因で内科疾患にかかったりして、入退院を余儀なくされている同僚には目もむけず、「国際貢献・人道支援」という美麗字句につられて、「なんかいいことしたい」という見栄や一時的な感情に乗せられて、募金や寄付をしてしまっています。
どれだけ、盲目で愚かな国民性なのでしょうか?
「自己中心になれ」というわけではありません。
「自分自身が救われてもいないのに、他人を救うことができるのか?」
感情的になって慈善事業=偽善事業に対して出資する「ボランティア代行業者が本当に慈善事業なのか?」をよく判断してもらいたいものです。
<募金詐欺、義援金詐欺の例>
GACKTに向けられた疑惑 震災義援金の横領疑惑 黒い交際暴力団
フィリピン人募金詐欺|被害に遭わないための見分け方と断り方
ターミナル駅に「大震災募金」の詐欺集団が続々出現している
サンドウィッチマンも義援金!芸能人が寄付を公表すべき理由とは
上記記事に
「渡辺:設立当時のメンバーには「絶対日本で成し遂げるんだ」という強い意志がありました。当時、欧州の本部から1000万円の資金もらったら、それを1500万円にするにはどうすればよいか、またそれを2000万円にするにはという具合に、皆でどうすれば活動資金が集まるのか知恵を絞って考えました。MSFをなんとか日本で根付かせるために皆が一生懸命。そして欧州の本部が種まきの投資を惜しまなかったことは大事だったのだと思います。」
という発言があります。これが彼らの本性です。結局「大儀名分を掲げておいても金を増やすこと」しか考えていません。
彼らは芸能人のような有名で社会的地位のある人に「募金をさせ」国民に募金を促します。
そして、芸能人が募金したお金は迂回して芸能人の懐にもどり、「募金」「売名行為」ができるわけですから、募金詐欺広告塔として使われている芸能人から文句は出ませんよね?
そうやって、彼らは大企業、芸能人や有名スポーツ選手から「売名行為」を餌に寄付を募り、「無からお金を作る」まさに銀行業と同じ手口を使って、平気で人をだまし、「お金を集めるテクニックや知恵を持っている、知っている集団」だと言えます。
こんな悪どいことを庶民が思いつくでしょうか?
仮に思いついたとしても、平然と偽善を実行することができるでしょうか?
ですから、彼らは人間の姿形をしていても、中身は「悪魔・サタン」なのではないかと言われるのです。
「渡辺:1999年、MSF日本は特定非営利活動法人(NPO法人)になりました。組織の運営や、資金の管理など、法人格が与えられたことでやりやすくなりました。私が会長職を創設メンバーの1人だった寺田朗子さんにバトンタッチしたのもこの年です。」
ここで「寺田朗子」なる人物が出てきますね。
これまた、普通の主婦を装っていますが、とんでもない人物です。
その経歴を見ていきましょう。
・・・・・・・・・・(「国境なき子どもたち」会長寺田朗子さん“8万人の子の母として” 記事投稿日:2018/01/20 06:00 最終更新日:2018/01/20 06:00)
<「とても意義ある活動」右:高円宮妃久子さま左:「国境なき子どもたち」寺田朗子会長>
「国境なき子どもたち」は、国際的な医療・人道援助を目的とした非政府組織「国境なき医師団」の日本支部から派生し、独立した認定NPO法人。’97年の発足以来、この20年で15の国と地域で、延べ8万人以上の子どもたちに生活の場や教育の機会を与え、職業訓練を行うなどして、その自立を助けている。
特徴的なのは、支援の手が最も届きにくい15歳以上の青少年を主な対象としていること。人身売買の被害に遭ったり、自然災害、紛争などで親を亡くし、路上生活を余儀なくされた子どもたちに手を差し伸べている。
寺田朗子さん(71)は、’92年の「国境なき医師団日本」の開局当初からのボランティアスタッフで、’98年から7年間、「国境なき医師団日本」の会長を務め、’09年、認定NPO法人「国境なき子どもたち」の会長に就任。現在も会長として活動を続けている。
まさに両組織の生みの親ともいえるのだが、その口癖は、「私は何もしてないの」。うふふとほほ笑みながら、寺田さんはこう言った。
「だって、本当にそういう感じですよ。それこそ普通の主婦だったんですから、私」(寺田さん)
謙虚で率直な人柄は多くの大人たちを、そして、子どもたちをも魅了する。
’46年5月16日、東京・渋谷で生まれた寺田さん。幼稚園から高校まで、女子校の名門・雙葉学園で学んだ。その後、フランス語の教師になろうと、東京外国語大学フランス語学科へ。超難関だった留学のための奨学金制度「サンケイスカラシップ」に合格し、大学3年の秋から1年間、フランスのグルノーブル大学へ留学を果たす。留学の年に開催されたグルノーブル冬季五輪の開会式で、コーラスグループの一員としてフランス国歌を歌い、日本選手団の通訳を務めた。
充実した留学生活を送り、’68年夏、帰国。帰国の翌年、大手メーカーに勤めていた5歳上の保信さん(現・寺田倉庫会長)と結婚する。学生結婚だった。大学に籍を置いたまま、24歳で長男、26歳で次男を出産。28歳で大学を卒業し、同じ年の秋に長女を出産。
子育てが一段落すると、寺田さんは同窓会の手伝いを始めた。最初は雙葉の、やがては外語大の同窓会も手伝うことになり、しだいに人脈が広がり、それが新たな出会いを運んでくることになった。
「フランス語のできる人、いないかな。今度、フランスに本部があるNGOの人間が日本に支部を開設しに来るんだけど、手伝わないか?」
外語大の先輩から、そう声をかけられたのは’92年12月。寺田さんは46歳になっていた。「会うだけ、会ってみてよ」と言われ、先輩が経営する会社に出向くと、大柄なフランス人男性が待っていた。「国境なき医師団」の日本支部開設のため、パリから派遣された、40歳を超えたばかりのドミニク・レギュイエさん(65)だった。彼女はボランティアスタッフ第1号になった。
それから5年、ドミニクさんを事務局長に、数人のスタッフで活動を続けていた「国境なき医師団日本」は、’97年、法人格取得の準備を開始。翌年、初代会長の辞任に伴い、会長に推された寺田さんは軽い気持ちで引き受けた。
「実務はドミニクやスタッフがやってくれますし。1~2年で交代してもらおうなんて、思っていたんです」(寺田さん)
ところが、会長就任直後の’99年、「国境なき医師団」は28年間の人道援助活動が評価され、ノーベル平和賞を受賞し、事態は一変する。寺田さんは、日本支部の代表として、12月10日、ノルウェー・オスロで催された授賞式に、多くの国の代表とともに出席することに。
「あの授賞式で、すべてが変わっちゃいましたね。取材や講演依頼が山ときて」(寺田さん)
寺田さんの講演は、年間50回を超え、イギリスやフランスにも招かれた。
「忙しかったし、しんどかった。でも、こんな思いができるのも、神様からのプレゼントかなと。普通の主婦だった私が、こんなご褒美をもらっていいのかしらって。だって、私は何もしていないんだもの」(寺田さん)
そんな彼女を25年、見つめてきた盟友・ドミニクさんはこう話す。
「寺田さんは、切手貼りや電話番といったベーシックな作業でも、皇族の方々への連絡といったレベルの作業であっても、同じように快く引き受け、なし遂げてくれる。その柔軟性は素晴らしい才能です。彼女は、エネルギッシュで、どんなことにも熱意を注ぎ込む。専業主婦とノーベル賞授賞式は、とても遠いものに思われるかもしれませんが、彼女のような姿勢があれば、どんなことでも可能なのです」(ドミニクさん)
「国境なき医師団」の「子どもレポーター」(現在は、「国境なき子どもたち」の「友情のレポーター」)は’95年から始まっている。
当初は日本の子どもを「国境なき医師団」の活動拠点に派遣し、現地の医療支援をレポートしてもらう活動だった。しかし、その後も現地の子どもたちとの交流が続くなかで、さまざまな状況や現実が見えてきて、教育支援など活動は多岐に渡っていく。
こうして「国境なき医師団」の日本の青少年向けプロジェクトは「国境なき子どもたち」というNPO法人に成長。寺田さんは会長に就任する。
「両方の活動を通して、私は数えきれないくらい宝物のような出会いをもらったんです」(寺田さん)
現在、「国境なき子どもたち」は日本、カンボジア、フィリピン、バングラデシュ、ヨルダン、パレスチナ、パキスタンの7カ国でその活動を続けている。寺田さんは、専業主婦時代から何も変わっていないのかもしれない。目の前の子どもたちの成長を、見逃すことなく、見つめていきたいと願うだけだ。
・・・・・・・・・・(転載ここまで)
「だって、本当にそういう感じですよ。それこそ普通の主婦だったんですから、私」(寺田さん)
よくもここまで見え透いた嘘がつけますね!
「・東京・渋谷で生まれた寺田さん。
・幼稚園から高校まで、女子校の名門・雙葉学園で学んだ。
・その後、フランス語の教師になろうと、東京外国語大学フランス語学科へ。
・超難関だった留学のための奨学金制度「サンケイスカラシップ」に合格し、大学3年の秋から1年間、フランスのグルノーブル大学へ留学を果たす。
・留学の年に開催されたグルノーブル冬季五輪の開会式で、コーラスグループの一員としてフランス国歌を歌い、日本選手団の通訳を務めた。
・充実した留学生活を送り、’68年夏、帰国。
帰国の翌年、大手メーカーに勤めていた5歳上の保信さん(現・寺田倉庫会長)と結婚する。学生結婚だった。
・大学に籍を置いたまま、24歳で長男、26歳で次男を出産。28歳で大学を卒業し、同じ年の秋に長女を出産。
・子育てが一段落すると、寺田さんは同窓会の手伝いを始めた。
・最初は雙葉の、やがては外語大の同窓会も手伝うことになり、しだいに人脈が広がり、それが新たな出会いを運んでくることになった。」
これのどこが「普通の主婦」なのでしょうか?
雙葉学園は、皇族御用達の金持ちしか通えない学校です。
天皇皇后両陛下 お忍びで小学校の同窓会にご出席 NEWSポストセブン
皇后や皇太子妃が出身の雙葉学園の同窓会長をする普通の主婦がいるのでしょうか?(笑)
雙葉高等学校出身の有名人 | 有名人ナビ 出身高校編
そしてなぜかテレビに出ている芸能人のこの人も雙葉出身です。
<いとうあさこ>
いとうあさこの大物ぶりを転載いたします。「寺田倉庫」のHPより。
・・・・・・・・・(「寺田倉庫」 に関するテレビ情報 2013年5月26日放送 19:00 - 19:57 TBS さんまのスーパーからくりTV ウキウキ芸能人の通う名店)
明石家さんまらが「ちりとり鍋 大島」へ来店。
この店は電波少年で猿岩石に続き人気となった元芸人・ドロンズの大島直也が経営していた。
いとうあさこのイチ押しはちりとり鍋で、追加トッピングの牛タンを入れて食べた。さらに、ご飯と絡めた焼き雑炊を食べた。
ちりとり鍋 大島のオススメメニューを紹介。「ツラミのスジ煮込み」はいとうあさこのおすすめで、フランス料理にも使われる肉を2日間かけて煮込んだメニュー。また、味噌味焼きそばやサムギョプサルなどのメニューがあり、秘伝の味噌だれは家庭でも作れる万能調味料だった。
大島直也の妻・夏葉子さんは三菱財閥の岩崎弥太郎氏の末裔だった。
さらに、母親のひいおじいさんは日本銀行の初代総裁・吉原重利など華麗なる一族の元に生まれていて、いとうあさこと同じ雙葉学園に通っていた。さらに、夏葉子さんはフィギュアスケートのインターハイで全国4位になった実力を持ち、2人は中目黒の大樽で出会い、奥さんの方からプロポーズした。
<日本銀行の初代総裁・吉原重利>
URL: http://www.terrada.co.jp/
・・・・・・・・・・(転載ここまで)
どこまでいっても天皇家と親せきが近くに行くと、繁栄するのが日本という国なのだと思い知らされますね。
逆に言うと、実力がなくてお天皇家に近づくことが成功への最短経路とまで言えそうです。(悪魔崇拝させられるので嫌ですけどね)
そしてその普通の主婦が1992年にフランス医師と偶然一緒に仕事を始め、1999年に「ノーベル平和賞」を受賞します。
「フランス語のできる人、いないかな。今度、フランスに本部があるNGOの人間が日本に支部を開設しに来るんだけど、手伝わないか?」
外語大の先輩から、そう声をかけられたのは’92年12月。寺田さんは46歳になっていた。「会うだけ、会ってみてよ」と言われ、先輩が経営する会社に出向くと、大柄なフランス人男性が待っていた。「国境なき医師団」の日本支部開設のため、パリから派遣された、40歳を超えたばかりのドミニク・レギュイエさん(65)だった。彼女はボランティアスタッフ第1号になった。
それから5年、ドミニクさんを事務局長に、数人のスタッフで活動を続けていた「国境なき医師団日本」は、’97年、法人格取得の準備を開始。翌年、初代会長の辞任に伴い、会長に推された寺田さんは軽い気持ちで引き受けた。
「実務はドミニクやスタッフがやってくれますし。1~2年で交代してもらおうなんて、思っていたんです」(寺田さん)
ところが、会長就任直後の’99年、「国境なき医師団」は28年間の人道援助活動が評価され、ノーベル平和賞を受賞し、事態は一変する。寺田さんは、日本支部の代表として、12月10日、ノルウェー・オスロで催された授賞式に、多くの国の代表とともに出席することに。
「あの授賞式で、すべてが変わっちゃいましたね。取材や講演依頼が山ときて」(寺田さん)」
皇族ゆかりのある寺田朗子とフランスのフリーメイソンがグルになったのでしょうか?
そして、エボラ出血熱騒ぎなどの詐欺行為を「人道支援」と称して国際的に敢行したのかもしれません。
その根拠は以下リンクを参照してください。
◎ 「エボラ熱騒ぎはロスチャイルドのダイヤモンド利権のため」
◎ 「エボラ熱を広めた犯人は麻生太郎」
ここで、「寺田朗子」の結婚相手「寺田保信」が、なぜか「寺田倉庫」という大企業になります。
沿革は不明ですが、所在地は天王洲アイル、そして、息子の寺田航平はこれまた「慶応大学出身」です。
・・・・・・・・・・・(寺田倉庫(てらだそうこ、英語: Warehouse TERRADA)
<寺田倉庫本社>
東京都臨海部の天王洲アイル(東京都品川区)に本社を置く倉庫業者。基幹事業の保存保管事業では、ワイン、アート、映像フィルムなど、各商材に適した温湿度管理による保管と、倉庫会社の枠を超えた新規事業を展開している。
<天王洲アイル夜景>
概要
1950年10月に創業。美術品、映像・音楽媒体メディア、ワインなどのデリケートな品の保存保管を基幹事業としている。また、BtoC事業としてwebと写真を活用した新たな収納サービス「minikura」を積極的に展開しており、さらに「MINIKURA」のプラットフォームを使ったアート作品のレンタル事業や、月額課金制の衣料品レンタルなどwebを使った新事業を展開するベンチャー企業との資本・業務提携にも着手している。
一方で、寺田倉庫の本拠地となる天王洲アイル地区の活性化に注力しており、新規事業を数多く展開。天王洲の倉庫街からの文化発信に注力し、本社内にイベントホール、音楽スタジオ、茶室などを開設し同品川区の施設にギャラリーを誘致している。また、ASIAN ART AWARD supported by TERRADAの開催や海外のアートイベントの招致など、天王洲アイルの地域活性化を目的とした文化・芸術の支援育成に取り組んでいる。
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ワインやらアートやら、良く分かりませんが輸入代行といったところでしょうか?
フランスとかかわりがあるワードが出てきます。
そして、実際フランスとかかわりが深い企業です。
・寺田倉庫、パリの老舗ワイン商 ルグラン社と業務提携
・フランスのアート&デザイン系雑誌「TLmag」にてPIGMENTが紹介されました
フランスと切っても切れない関係みていですね。
この寺田倉庫は天王洲アイルにあります。
天王洲アイルとは一体何を意味するのでしょうか?
実は天王洲とは三菱が埋め立てた開発地域であり、牛頭天王が降臨した場所として知られていました。
・・・・・・・・・(天王洲アイル)
歴史
「お台場」も参照
1751年(宝暦元年)海中から牛頭天王の面が引き上げられる。これを由来に「天王洲」と呼ばれるようになる。
1853年(嘉永6年)黒船来航に脅威を感じた江戸幕府が急遽品川沖に台場の築造を決定する。天王洲は第四台場を築造する予定地であったが、資金不足のため未完成に終わる[5][6]。この未完成の第四台場を「崩れ台場」とも呼ぶ[7]。
1873年(大正元年)第四台場は緒明(おあき)菊次郎に払い下げられ[8]造船所となる[9]。この頃の台場を「緒明台場」とも呼ぶ[7]。
1925年(大正14年)から埋立が始まり[9]、1939年(昭和14年)に完成[8]。第四台場は埋もれ品川と陸続きとなり[9]、埋立地は工場や倉庫の用地として利用が始まる[10]。
1986年10月:東品川二丁目(天王洲アイル)の開発計画を策定する。このころはまだ雑多な倉庫街であった。
1992年6月:三菱商事、第一ホテル(現・阪急阪神ホテルズ)、宇部興産による再開発事業、“シーフォート・スクウェア”のオープンに伴い東京モノレールの天王洲アイル駅が営業開始。1990年代には高層オフィスビルが次々と建った。
周辺の施設
■アートスポット
PIGMENT
建築倉庫ミュージアム
TERRADA ART COMPLEX
Architecture Model Workshop
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牛頭天王とは
「【牛頭天王】京都の「祇園祭」はもともと牛頭神バアルに幼子を生贄として捧げる悪魔崇拝儀式でした。」
バアルとは聖書に出てくる、悪魔のことです。
中東のサタン(悪魔)が神様となって、はるばる日本にわたってきて、牛頭天王となり、スサノオノミコトと呼ばれています。
そして、この牛頭天王を祝うのが京都の祇園祭です。
天皇家に近づくと、こういった悪魔と知らずに崇めることになります。
・1992年6月:三菱商事、第一ホテル(現・阪急阪神ホテルズ)、宇部興産による再開発事業、“シーフォート・スクウェア”のオープンに伴い東京モノレールの天王洲アイル駅が営業開始。1990年代には高層オフィスビルが次々と建った。
そして、1950年に寺田倉庫が創業しました。
そして、1968年に寺田朗子は帰国し翌年に学生結婚をしています。
寺田倉庫の沿革を見てみると
沿革
1950年(昭和25年)10月 会社創立
1975年(昭和50年)美術品・貴重品保管事業を開始
1983年(昭和58年)メディア保管事業を開始
1991年(平成3年)関東運輸局認定トランクルーム第1号を受ける
1994年(平成6年)ワインセラーを開業
2006年(平成18年)水上ラウンジ「waterline」を開業
2012年(平成24年)個人が低価格で利用できる収納サービス「minikura」を開始
あります。
1950年創業ですが、「1975年(昭和50年)美術品・貴重品保管事業を開始」「1983年(昭和58年)メディア保管事業を開始」「1991年(平成3年)関東運輸局認定トランクルーム第1号を受ける」など目覚ましく事業展開していきます。
そして、1992年に寺田朗子とドミニク・レギュイエは仲良しになり、寺田倉庫も「1994年(平成6年)ワインセラーを開業」を始めています。
そして、日本でもワインブームがこのころからメディアを中心に発生します。
・・・・・・・・・・(わかりやすいワイン講座 第七次ワインブームにおける日本ワインブーム 2015年06月26日)
ここ数年、拡大を続ける日本のワイン市場。その歴史を紐解くと1970年代以降、いくつかのワインブームがありました。
1972年頃 第一次ブーム・・・外国産ワインの輸入自由化による、本格テーブルワインブーム
1978年頃 第二次ブーム・・・「サントリーレゼルブ」などの1,000円ワインブーム
1981年頃 第三次ブーム・・・低価格一升瓶ワインなどの地ワインブーム
1987~90年頃 第四次ブーム・・・バブル期のボジョレー・ヌーヴォー、高級ワインブーム
1994年頃 第五次ブーム・・・「デリカ・メゾン」などの500円低価格ワインブーム
1997~98年頃 第六次ブーム・・・ポリフェノール効果による赤ワインブーム
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ここまで脱線したように思いますのでいったん戻ります。
この寺田倉庫の現在の社長が慶応大学⇒三菱グループ⇒現寺田倉庫社長の「寺田航平」です。
・・・・・・・(寺田 航平(てらだ こうへい、1970年10月25日 - )
日本の実業家。ビットアイル・エクイニクス株式会社の創業者で代表取締役社長兼CEO。日本データセンター協会(JDCC) 理事、第18期EOジャパン会長等も務める。
経歴
1993年 慶應義塾大学法学部法律学科を卒業し、三菱商事に入社。
1999年 三菱商事を退社し、寺田倉庫に入社。取締役に就任。
・・・・・・・・・・(転載ここまで)
そして、「国境なき子供たち」の役員名簿です。
・・・・・・・・(「国境なき子供たち理事会」)
会長 寺田 朗子 (てらだ さえこ)
専務理事 ドミニク・レギュイエ (KnK創設者)
会計役 栗林 まどか
理事 アグネス・ギャラルド・クイトリアーノ 常田 高志 ローラン・デュボワ 金 珠理
大竹 綾子 清水 匡 玉村 翔吾 君島 梨央 松浦 ちはる 守谷 慧
監事 水野 太洋子
・・・・・・・・・・(転載ここまで)
守屋慧の父は戦前、三菱グループがブラジルを開発したエネルギー事業をしちる「日伯エタノール」の社長守屋治。
そして、三菱グループが再開発した天王洲アイルに本社を構える「寺田倉庫」の元社長夫人寺田朗子が会長を務める「国境なき子供たち」で理事をしている守屋慧。
そして、高円宮妃と寺田朗子は仲良く写真を撮っており、三菱つながりで、高円宮絢子さまと三菱財閥、浅野財閥系で働く守屋慧が婚約し、日伯エタノールが皇族系企業となるわけです。
天皇家の手先の三菱がさらにブラジルでの経済活動を促進するためでしょうか?
いずれにせよ、このように姻族同士が権力を維持するために結婚をしているのです。
イルミナティにとって、結婚とは何なのでしょうか?
金や権力維持のための儀式だとすれば、彼らは本当に愛を知らない、哀れな存在だと思いませんか?
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